六段目

  その日わたしは、人生で初めて無断早退をした。かなり大きな衝撃を受けたわたしの心は、午後の授業を受けることを拒んだのだ。その心に従うことにした。


 それほどまでにダメージを受けるくらい淳斗のことを好いていた自分に改めて気付き、吐き気がした。この吐き気は、騙され踊らされていたピエロに対してか。騙し続けたペテン師に対してか。


 教室に戻った時、杏子に「帰るから、うまく言っておいて」と一方的に伝えて出たことをうっすらと覚えている。我ながら、無茶苦茶なお願いをしたものだ。


 どうせ明日は終業式だし、授業は問題ないだろう。特に進みもせず、夏休みの宿題について説明する程度。

 特に成績が悪いわけでもないし、一日無断欠席した程度じゃそこまで落ちないだろう。あくまで身勝手な想像だが。


 いつの間に電車に乗って、いつの間に降りたのだろう。気が付くと、家の近くの公園まで来ていた。


 足を止め、小さな公園を眺める。滑り台と、いくつかのベンチしか無いその公園は、小学校の近くに新しく出来た大きな児童公園のせいか、近頃はあまり人が来ず閑散としている。


 公園内の一番隅っこにあるベンチを見つめる。そのベンチは、淳斗と二人でよく話をしたベンチだ。


 デートの帰りは、いつも家まで送ってくれる淳斗。わたしの家から一番近くて、人もあまり来ないこの公園が、二人の時間をちょうど良く作ってくれていた。

 その時間が、わたしは好きだった。別れを惜しんでいたのは、わたしだけのようだったけれど。


 家庭環境についての悩みもよく聞いてくれたし、黙って頷いてくれるだけで嬉しかった。ちゃんと聞いていなかっただけだと知った今、澄んだ思い出が、泥を溶かしただけの雨水へと変わっていく。


 その時、私はやっと涙を流した。


 せめて自分の中の綺麗な思い出は、綺麗なままであってほしかった。それが出来ない自分と、そうなってしまったことが悔しかった。


 キラキラと光っていたガラス球は、内側から灰色にくすんでいく。それは、割れてしまうよりも酷いもので、いっそのこと割れて無くしてしまったほうが、楽な気がした。


 涙で化粧がとれたのか、マスカラが目に入ってきてズキズキ痛い。滲み出る涙は、私の頬に真っ黒の筋を作っているに違いない。


 気持ちの悪い吐き気のような感情が、わたしをぐちゃぐちゃと食い尽くそうとしている。わたしの心を食べきって、わたしを支配しようとしている。


 すべてを掌握されたわたしが見たものはすべて腐り果て、醜いものへと変わっていくのではないだろうか。


 もちろんそんなことは無く、木で出来たベンチは綺麗な木目を保ったままだし、小さな滑り台は、ペンキが少し剥げてはいるが崩れて無くなるようなこともない。


 天気だって雲ひとつ無い快晴だし、お昼前の公園は誰も利用者がいなくて、穏やかな時間が流れている。


 醜く変わっていくのは、頬の黒い筋が徐々に濃くなっていくわたしの顔と、一部の人間関係だけだ。


 きっとこの黒い筋は、わたしの胸から溢れ出るどろりと腐敗した感情なのだろう。

 だからこんなにも顔が重くて、視線が地面に縫い付けられたように俯いてしまっているに違いない。


 鈍る体の感覚を何とか保ちつつ、わたしの中が完全に真っ黒になる直前になんとか玄関前に辿り着いた。力の入らない腕を無理やり持ち上げてゆっくりと鍵を開け、のっそりと玄関へと入る。


 電気がついていなく真っ暗だが、何年も住んでいる家だから目隠しをしていても洗面所まで行ける。

そもそも、玄関から一番近い扉の先が洗面所だ。この重たく黒いものを、先に洗い流すことにしよう。


 蛇口をひねると、ちょろちょろと力なく水が流れてきた。手の平を合わせて水を溜める。ゆっくりと溜まっていく水を見つめている間は、不思議と頭の中が空っぽになった。


 その水を勢い良く顔にかける。透明な冷たい水が、自分を薄めてくれているような気がする。薄まった存在分自分の密度が小さくなり、軽くなる。黒くなった水が流れていくのは、見ていて気持ちがいい。


 そう簡単にマスカラは落ちてくれないようで、鏡に映った顔にはまだ黒筋が残っている。かけてあったタオルで軽く顔を拭くと、鏡の下に置いてある化粧落としでしっかりと顔を拭った。


 ファンデーションなんかの他の化粧類も綺麗に落ちて、わたしの顔が呼吸を取り戻す。先程より、心もさっぱりした気がする。

 ふっという短い息を吐く。悲しい気持ちに変わりはないけれど、楽にはなった。


 そうだ。お父さんが帰ってきたら、少し話を聞いてもらおう。


 こんな酷い奴がいたんだ。わたしの気持ちを弄んだんだ。言い返して怒鳴りたかったけど、出来なかった。だから明日学校中に言いふらしてやるんだ。

 薄まった自分を再び濃くするかのように、どんどん言いたいことが内側から溢れ出てきた。


 お父さんは、どんな反応してくれるだろう。同じ様に悲しんでくれるかな。女の子じゃないから、違う気がする。きっと、すごく怒ってくれるのだろうな。獲物を見つけた熊みたいな迫力で飛び出して行きそうなくらい。


 それで、少ししたらしゅんと寂しくなるに違いない。私に彼氏が居ることなんて、一度も話したことないから。「もうそんな年頃か」なんて言って、おじいちゃんみたいな目をするのだろう。「彼氏ぐらいで、そんな顔しないでよ」なんて言って、笑うところまで容易に想像できる。


 そのために、今日はうんと美味しい夕飯をつくろう。さっぱり忘れることは出来なくても、話をして同じ様に感情を揺らしてくれる人が近くにいることはいいことだ。


 ポケットに入れていた携帯の電源を入れる。まだお昼を少し過ぎたあたりで、夕飯の買い出しに行くには少し早い。洗面所を出て、リビングの電気をぱちりとつける。


 少し、掃除でもしようかな。部屋が綺麗になるともっとすっきりするかもしれない。とりあえず、朝使った食器類を片付けよう。そう思い立ち、わたしが洗い物に手を触れた時だ。


――ゴトン。


 重たい何かが、落下する音がした。

 突然の物音にあわてて手元を確認したけれど、わたしの手は、お父さんの青いマグカップをしっかりと握りしめている。ということは、音をたてたのはわたしじゃない。


 突然の人無き気配は、キッチンではなく廊下の方から聞こえた。

 緊張で肩が上がる。先ほどまで明るかったリビングが、急に仄暗く映った。


 周囲を見渡したけれど、何も落ちていないし、これといって部屋の中に変化はみられない。強いて言うなら、時計の針が動いているくらいのものだ。

 見慣れているはずの単調な動きでさえ、無機質さが際立ってかえって自己主張を感じる。


 わたしが入ってきた時、玄関の鍵はかかっていた。お父さんはこの時間、仕事に行っているはずだし、わたしとお父さん意外でこの家の鍵を持っているとしたら、お母さんぐらいのものだろうか。


 希望的な考えが一瞬頭をよぎった。しかしすぐに、それはないだろうと自分を落ち着かせた。


 お母さんがここに帰ってくることは無いはずだ。律儀な性格のお母さんが、私に連絡無く帰ってくるはずがない。


 だいたい、こういった期待はもうしないと決めたではないか。そろそろ現実と見つめ合って受け入れる。泣くのは、やめにしよう。そう高校に上がるときに自分と約束したはずだ。


 私は自分に言い聞かせ、水が溢れてきそうな目尻に力を入れて堪えた。


 それじゃあいったい、何の音だろうか。

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