三十段目

 閉じていたアルミホイルを開ける。鮭から出る出汁の匂いが、寝起きのわたしでも食欲が刺激された。鮭の身が程よくほぐれて、少し焦げたマヨネーズが味のアクセントになっている。


 お父さんの健康を気にして塩を少なくしたけれど、返って鮭の甘味がましたように感じる。


 お父さんは、焦げたマヨネーズの付いたメークインが好きだ。いつも、最後まで残してから食べる。


 お父さんも、もう若いとは言いがたい。少しお腹は出てきているし、枕カバーは頻繁に洗わないと少し酸っぱい臭いがする時がある。


 わたしが死んだ後も、きちんと健康に気を使ってくれるだろうか。やけ酒なんかに走らず、新しい生活を満喫してくれなければ困る。


 もちろん、そのことも遺書に書くつもりなのだが、書いたところでわかってくれるだろうか。


 お父さんは、わたしが死んだらどれくらい泣くのだろう。お母さんが出て行った時は、笑いこそしなかったけれど、あまり変化があるようには見えなかった。


 そういえば、お母さんが出て行った初日に、お父さんが夕飯として買ってきたお弁当が不味くて、料理を覚えようと思ったんだっけ。


 料理を始めたときは嬉しそうにしてくれたけど、迷惑に思っていなかっただろうか。


 最初は何度も失敗して、食費をいくらか無駄にしたこともあった。それでも笑って「日ごとに美味くなってるな」って言ってくれていた。


 ちゃんと「美味い」と言ってくれるようになったのは、いつからだろう。そんなことも、わたしは覚えていないのか。


 一人でご飯を食べていると、どんどん気持ちが沈んでいく。死ぬまでの数少ない晩餐が、こんなにも暗いものは嫌だ。一人で食べるにしても、せめて気持ちよく食べたい。


 ふと、つけていたテレビが目に入る。わたしの部屋の小さなテレビに、売れっ子の中堅芸人がロケをしていて、美味しそうにビールを飲んでいた。


 そうだ、わたしも飲んでみよう。大人は、暗い気分の時はお酒に酔うものらしい。あと数日の命なのだから、それくらい許されてもいいだろう。


 急いでキッチンに戻ると、缶ビールを二本冷蔵庫から取り出した。バレないように、冷蔵庫の横に置いてある段ボール箱から新しいビールを二本冷やしておく。ここの数までは、お父さんも数えていないだろう。


 自分の部屋に戻ると、早速ビールのプルトップを上げた。カシュッという小気味いい音と共に、炭酸が抜けていく。


 お父さんが顔を真っ赤にして帰ってきた時と、同じ臭いが鼻までとどいてくる。とてもいい臭いだとはとても思えないが、これも経験というやつなのだろう。


 意を決して、缶の中身を口に含んだ。


 普段飲むジュースよりもきつい炭酸と共に、ピリッとした辛さが来た。その後、苦味が舌の上にじんわりと広がっていく。


 鼻を抜ける空気にも苦味が含まれていて、少し熱く感じる。味わうこと無く、慌てて飲み込んだ。


 大人たちは、こんなものを喜んで飲んでいるのか。それとも、歳をとって味覚が変わるのだろうか。


 どんな味覚の変わり方をすれば、これを美味しいと感じることができるのか、理解ができない。


 けれどなぜか、ビールを飲んでいるという行為は気持ちがよかった。未成年でありながら飲酒をしているということが、楽しいのだろうか。


 マヨネーズのついたメークインを口に頬張り、後を追うようにビールを飲む。決して美味しいとは言えない。けれどなぜか、その行動に優越感を感じた。


「白ご飯とは合わないな」


 それに気づくと、急いでお茶碗を空にしてしまい、残ったおかずでちびちびとビールを飲んだ。


 これが、大人の楽しみというやつなのか。身体が熱を帯びていくのがよく分かる。冷えたビールで熱を冷やして、鮭で苦味を拭い去る。


 人参の甘味を余計に強く感じて、普段はたいして面白いと思わないテレビ番組も、どこか笑えてしまう。成人した大人たちは、こんな楽しいことを子供に隠していたのか。


 一人で飲んでいてもこんなにも気分が高揚するのだ。大人数だったら、もっと楽しいに違いないだろう。


 いつしかビールの苦味もわすれて、二本目の缶を開けていた。一本目をいつ飲み干したのか、あまり覚えていない。


 野菜もすべて食べきってしまった後、ビールを一気に煽った。四分の一程残っていたものを一気に飲むと、少しのフラつきと共に倦怠感がどっと押し寄せてくる。


 お椀に残っていた味噌汁を飲むと、いくらか落ち着いた。ふうと息を吐いて、ベッドにもたれかかる。


 なるほど、いまならお父さんがだらしなく寝ているのも理解ができる。このまま眠ってしまえたら、どれだけ幸せだろうか。


 帰ってきたお父さんは、今のわたしを見てびっくりするだろう。そして、何があったのかと詮索するに違いない。


 自分が親で、娘が突然そんなことをしていたら、説教をした後に訳を聞くだろう。それだけは、なんとしても避けなければいけない。


 時計を見ると、針はもうすぐ八時半に触れそうだった。お父さんが帰るのはいつも九時ごろ。あまり猶予は無さそうだ。


 気怠さを感じる身体に喝を入れ、空の缶を袋に入れる。外で捨てないと怪しまれるだろう。


 窓も開けておいて、部屋の換気をしよう。お酒の臭いはこれで逃げていくはずだ。


 冷たい夜風が顔にまとわりつく。湿気は少し不快だが、部屋の冷房よりも酔が冷めそうだ。


 スウェットのズボンを緩いデニムに履き替え、ごみを捨てるついでに夜道を歩くことにした。携帯と財布、家の鍵をきちんと確認する。


 空気中の湿度、冷えた夜風と手を繋いで、わたしは夜の散歩に出かけた。

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