三十三段目
わたしが死んだら、身体は燃やされて灰になって、残った骨はお墓の下に置かれることになると思う。それじゃあ、わたしのこの心はどこへ行くのだろう。
脳が無くなったら、考える力もなくなって、今こうしていろいろ悩んでいるわたしの人格そのものが無くなるのだろうか。
それとも、真夏のバラエティ番組で見る心霊映像のように、ふらふらと彷徨っていて、たまたま写真に写ったりするのだろうか。
できれば前者が良い。すべてが無になってしまうのは確かに怖いけれど、わたし一人で居るのは寂しい。
お父さんが人生を終えるのに、あと二十年以上はかかるだろう。杏子や、他の友達の場合ならばもっと長い時間。
そんなにも長い期間、目の前にいるのに会話できない。それどころか、存在に気付いてもらうことも出来ないだなんて、わたしには絶対に耐えられない。
呼吸の役にも立たないわたしは、空気にすら劣る。
「秋介はどうなの。あると思う」
「僕は、どうだろう……」
顎に手をあててうつむき、眉間に皺を寄せる。その姿は、なんだか演技くさい。
「僕の個人的な考えだけれど、ある無いに関わらず、天国や地獄には行けない気がする」
演技くさい姿勢から、顔をあげた秋介。なるほど、考える姿をしていながら、とうの昔に答えなんて出ていたのだろう。大根役者め。
声音はそれなりに真剣味を帯びているので、続きを待ってみることにする。
「特別悪いことはしていないけれど、正直に生きたか問われると、胸を張ってイエスとは答えられないからね」
「そんなの、だいたいの人がそうじゃない」
「自殺しようという時点でダメだと思う。そんなやつは、どちらに行く資格もない」
秋介のセリフに、どきりとする。わかってはいたことだけれど、言葉として突きつけられると、やはり心に堪えるものがあった。
太い針で、何度も背中を刺されるような感覚。致命傷にはならない程度に、けれど確実に痛みは感じる。防ごうにも、手が背中まで届かない。
地獄へ行けるのなら、行きたい。触れられるほどの至近距離に居るのに触れられず、気付いてもらえない事のほうが、どんな拷問より何倍も痛い。
「選択の余地があるなら、僕は地獄にさえ行かずに、ここに留まることを選ぶよ」
「どうして。そんな辛いこと、わたしには耐えられない」
喉の奥の方から、弱々しい声が出る。
「地獄なら地獄、天国なら天国。結果消滅ならそれでもいいから、ここに残るのだけはやめよう。そんな辛くて寂しいこと、絶対耐えられない」
弱い声のまま、考えていたことを吐き出す。口から出た言葉は、頭の中へ映像として流れ込んでくる。その映像は涙へと変わって、わたしの眼に留まった。
「杏子も、お父さんも、わたしとの接点無しでどんどん歳を取っていく。それを見続けるわたしは、ずっと変わらない高校生。身体が無くなって成長しないから、いつまでもずっと高校生」
言葉にするほど映像は鮮明になっていくのに、わたしの喉は音を出すのを止めず、わたしの口と舌は、言葉を形作るのをやめない。
高校の卒業式に、わたしはいない。大学の入学式に、わたしはいない。成人式にも、わたしはいない。
杏子の結婚式に、わたしはいない。お父さんの還暦のお祝いをする時、わたしはいない。
これからの想い出すべてにわたしの姿はなく、新しい想い出を作って、年老いていくたくさんの友人や家族を、変わらない姿で見続けるわたし。
わたしが死んだら、お父さんは泣くだろう。お母さんも居ない今、だれがその肩を支えるのだろうか。
杏子が部活で活躍した時、杏子の話を誰が聞くのだろう。その全ての役割は、わたしではない他の誰かだ。
死ぬことを決意した時から、そんなことは分かっていた。考えないようにしていただけだ。
ボロボロと、涙が溢れる。辛く、寂しく、怖い。声を上げずに泣いていても、アスファルトに落ちる涙のひと粒ずつが、そう言っていた。吸い込まれない涙が、涙腺を通ってできる臆病なわたしの実像に思えた。
「僕らは、人を殺す。自分を殺すんだから、殺人となにも変わらない。もしかしたら、もっと質の悪いものかもしれない」
わたしの横で、落ち着いたトーンで秋介が話す。涙を流し続けたまま、わたしは耳を傾けた。
「人殺しは、ただ命を絶つだけじゃない。被害者を産んでくれた両親や、これまで関わってきた人たち、これから関わったかもしれない人たちも否定する行為だ。今だけじゃなく、今までもこれからも、すべてを潰すことだ。紗英は、自分にそれを犯そうとしている」
秋介の言葉が痛い。転んだ時よりも、お母さんに叱られて叩かれた時よりも痛い。わかっていることだけれど、聞きたくない。
「どんな理由であれ、決して善の行動じゃない。永遠の寂しい思いは、甘えに対する報いだ」
「どうして、そんなひどいこと言うの」
秋介もわたしと同じなのに。食われた獣はわたし達だというのに。秋介は、報いまで受けないといけないと言う。そんなの、わたし達に救いがなさすぎる。
「地獄なんて甘い考えで、こっちに来ちゃダメだ」
涙でぐちゃぐちゃの顔を上げる。秋介の瞳はやはり濁っていて、その濁りは、昨日見たわたしの瞳よりも濃く見えた。
「そうか、そうだよね。秋介の言うとおりだ……」
深呼吸をして、心を落ち着ける。わたしの考えが甘かった。秋介は、そう教えてくれた。のだろう。
わたしの死は、誰の為だ。わたしの為か。半分はそうだろう。けれど、もう半分は違ったはずだ。
最初に決めたことを思い出す。お父さんの荷物になるのは嫌だ。もっと、自分の幸せを追求していい人だ。
身軽になって、やりたいことをして、新しいことを見つけて、新しい人も見つけて欲しい。お父さんだって、そう思っているに違いない。悲しいけれど、それが現実だ。
わたしの自殺は、わたしの勝手だ。そのせいで寂しくなる人も、悔しい思いをしてくれる人もいるだろう。自惚れでも感傷でもない。これまで関わってくれた人たちへの、信頼と誠意に基づいた真実だ。
わたしの勝手で多くの人を悲しませるのに、わたしが甘えてどうする。それこそ、強欲だ。わたしは、食う側だ。自己満足で腹を満たす、意地の汚い人間だ。
「ごめん秋介。わたしが間違ってた」
両の手の平で、目元を拭う。化粧が少し眼に入って痛いけれど、その痛みで自分を自覚できる。
「もう怖がらない。死ぬのは寂しいかもしれないけれど、お父さんの邪魔はもっと嫌」
決意を、もう一度固めよう。軽々しく考えすぎていた。一緒に死んでくれる秋介にだって失礼だ。秋介の死も、冒涜することになる。
「それが、紗英の答えなんだね」
秋介は、いつもの穏やかな声に戻った。つかみどころのない、ふうわりとした雲のうような声に。
目を閉じる。心の中で、親友の杏子と、産んでくれたお父さんとお母さんにごめんなさいをした。
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