三十八段目
もう一度深呼吸をして、秋介の方を見た。今度は、作り笑いじゃない。秋介以外でする人を見たことのない、変な笑顔をしていた。
「お父さんには、本当に感謝してる。お母さんが出て行った後も、変わらずにわたしに接してくれて。きっと、わたしでは想像のつかないような苦労だってあったと思うんだ。でも、お父さんはそんなところ、一瞬も見せなかった。優しくて、温かいお父さん。ちょっとズレてるところがあって、頼りない時もあるけれど、芯はとても強くて、わたしのためにいろんな我慢をしてくれてる。
本当はわかってるんだ。わたしが頼りないんじゃなくて、わたしに、本気で心配かけまいとしてくれてること。そこが、ズレてるんだけどさ」
ぽとり、ぽとりと、お父さんとの想い出を引き出して落とす。
お父さんが休みの日、小学生のわたしは友達と遊ぶ約束をせずに、お父さんと二人で遊んだ。家で二人きりのゲーム大会をすることが多かった。普段ゲームをしないお父さんに操作の仕方を教えるところから、もうすでに楽しかった。
対戦ゲームを一緒にすると、最初は気持ちよく勝てるのだけれど、基本的に器用なお父さんに、すぐ勝てなくなってしまう。負けが込んでお母さんに泣きつくと、「もう一度遊ぼう」っていつも優しく誘ってくれた。
ある年の夏休み、家族三人で日帰り旅行をした時だ。普段ならそろそろ寝るような時間の帰り道で、車のガソリンが少なくなっていることに気付いた。夜と自分の境目がわからなくなる暗い田舎道を走っていて、ガソリンスタンドはなかなか表れない。
少し前に見た悪夢を思い出すほど不安になっているわたし。少し焦っているような様子のお母さん。けれど、お父さんだけは「大丈夫だ。心配するな」と頼もしく言ってくれていた。
突然車を路肩に止めて何をするのかと思えば、お父さんは車を降りてしまった。慌てて後を追うわたしとお母さん。
するとお父さんは「凄いな。街頭がないから、星が空いっぱいに見えるぞ」なんて言って、夏休みの小学生みたいに笑っていた。
お母さんは呆れたため息を吐いていたけれど、その時の空は、確かに星が沢山輝いていた。夜の暗い部分よりも、星の銀や赤の方が多いような気がするほど。
お父さんは、誰かの幸せを本当に願うことのできる人だ。幸せのために、自分を抑えられる人だ。その証拠に、お母さんが出て行った後も、お父さんがお母さんの悪口を言うことはほとんど無い。
自分の幸せを掴まないお父さん。じゃあ、お父さんの幸せはどこにあるんだろう。
今はきっと、わたしの幸せのために、沢山我慢をしてくれているはずだ。じゃあ、わたしが居なければ、我慢することなく自分の幸せを求められるんじゃないだろうか。
だからわたしは、旅立とうと思う。
「それが、紗英の考えかい」
秋介の質問に、わたしは頷く。指先で本の端を弄びながらも、ちゃんと聞いてくれてくれた秋介。これで、わかってくれるだろう。
「やっぱり、紗英は死ぬべきじゃないね。寂しいだけだ」
変わった笑顔の秋介は、夏に似合わないほど乾いた声でそう言った。
「わたしが、大好きな家族のために死ぬっていうことの、何が気に食わないの」
なるべく冷静でいようと思っているのに、どうも上手くいかない。秋介の前だと、特にそうだ。フライパンで少量のお湯を沸かしている気分になる。
「秋介が言ったんでしょう。死ぬことの理由として、「死そのものに意味がある時」だって」
「そうだね。僕のこの話を真に受けてる時点で、紗英は正常に物事を考えられていないんだよ。そして、紗英のその考えも、正常じゃない」
「なんでよ。お母さんは、自分の幸せを求めて出て行ったのよ。じゃあ、お父さんだって幸せになる資格があるはずよ。そのお父さんの幸せのために私が死ぬことの、何がおかしいっていうの」
どんどん、わたしの声から湯気が立ち上る。仕方がない。わたしは自分の信念を持って、それを伝えようとしているのだ。それを正常じゃないなんて言う方が間違っている。
「秋介に何がわかるの。わたしの想い出や、気持ちがわかるっていうの。好きな人の幸せを願って、何が悪いの」
口を挟まずに、秋介はずっと聞いている。まるで、何を言われたところで反論できるとでも言いたげだ。その飄々とした態度が、気に食わない。
「わたしが死ねば、お父さんは幸せになれるの。家庭を持つ前に完全にリセットとはいかなくとも、なにも持っていない状態から再スタートできるのよ。わたしなんて荷物、無いほうが良いに決まってる」
屋上だっていうことを忘れて、わたしはほとんど叫んでいた。もし人に見つかったら、それこそいいタイミングだ。そのまま走って飛び降りてやる。
「紗英のお父さんの幸せは、本当に紗英の居ないところにあるのかい」
やっと秋介が口を開いた。会話ができる。わたしにも、反論の余地ができる。
「お母さんは、わたしを捨てて幸せになったから、お父さんにもその資格があるの」
「お母さんは、本当に幸せになるために紗英やお父さんを捨てたのかい」
「絶対そうに決まってる。お母さんのことは、お父さんの次にわたしがよく知ってるんだから」
そのはずだ。お母さんは、軽快な口調で出て行ったのだから、幸せを掴みに行ったに違いない。わたしやお父さんよりも、好きなものを取りにいった。もしくは、掴んだのだ。
「それは、紗英の願望だろう。捨てられるくらいなら、せめてここに居るより幸せになって欲しいだなんて、とんだお人好しだね」
「だってお母さんは、わたしの顔なんてろくに見ないでさっさと出ていった」
「紗英の顔を見たら、決心が鈍るからかもしれないよ」
そんなはずない。これと決めたら、絶対に曲がらないお母さんだ。自分の決めたことを、娘の顔だけで変えられるはずがない。
「そもそも、紗英のお母さんは、なんで出て行ったのかな」
「それは……知らないけれど…………」
「本当に、幸せになるために出て行ったのかな」
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