二十五段目
「あー。さすがに食べ過ぎた」
杏子はお腹をさすりながら、ほとんど入っていないグラスを傾ける。氷の転がるカラリという音が、食事の終わりを告げた。
「ごめん。少しだけまってね、お腹パツパツで動けない」
「うん、いいよ。飲み物入れてきてあげる」
「お、ありがとう。じゃあメロンソーダで」
満腹時に飲むものではない。というツッコミはなんとか抑えて、わたしは席を立った。
自分のグラスに水を一口分入れて、その場で飲む。
短いため息を付いたら、かなり落ち着いた。突然やって来た感情の乱れは、台風のように一息でわたしを荒らして、来た時のように突然去っていった。
情緒不安定すぎる。と自己嫌悪。
一度大きく深呼吸をした後、メロンソーダと烏龍茶をそれぞれ注いで席へ戻ると、杏子はまだお腹をさすっていた。
「流石に、食べ過ぎたんじゃないの」
「これくらいは余裕だね」
そう言い切らないうちに、小さなゲップを一つ吐いた。
思わず出てしまったのだろう。慌てて口元を押さえ、周囲を確認した。
騒がしいファミレス内では、杏子の小さな音なんて誰にも聞こえない。安心した様子で、渡したメロンソーダを一口飲んだ。
炭酸だから出てしまうのではないかと思うけれど、好きなものは仕方ないかと、伝えずにおいた。
「それじゃ、そろそろ行きますか」
「そうだね」
しばらく話をして、わたしたちは席を立った。
レジで店員に頼んで、会計は別にしてもらう。
自分の会計を済ませ、杏子よりも先に店を出る。効きすぎていた冷房から開放され、わたしの身体が本来の熱を取り戻していく。
身体全体に熱が行き渡るのを感じながら伸びをしていた時だ。わたしの眼に、見慣れた姿が眼に入った。
それは、わたしの記憶から抹消したい姿でもあった。
わたし達がいたファミレスから、携帯ショップを挟んだ先に小さめの本屋がある。
そこから出てきたのは、濃紺のセーラー服に、同じ色のスカートを履いた女の子。そしてその隣には、淳斗がいた。
楽しげに話しながら出てくる二人。女の子の制服は、少し先にある府立磯鵜高校のものだ。
男子の中でも背の高い淳斗と同じくらいの身長で、すらりと足が長く、ファッションモデルのような出で立ちをしている。
肩より少し下まで伸ばした黒髪をそのままストレートに流す姿は、どこか清楚な印象を受けた。
ああ、似合う二人っていうのはこういうことを言うのか。わたしの中で、望んでもいない勝負が勝手に始まり、勝手に敗北宣言をしていた。
佐藤さんが見た子とは、別の女の子ということだろうか。いやでも、まだ彼女だと決まったわけではない。親戚だという可能性もある。
しかし、ほとんどわたしの願望で形成された仮説は、決定的な証拠とともに打ち砕かれた。
目の前の二人が、その場でキスを交わしたのだ。子供がする、唇が触れるだけのキスを、淳斗の方から一瞬だが確実にしたのだ。
唇の離れた後、彼女は照れくさそうに淳斗の肩を軽く叩いた。
その場の雰囲気から、これはいつもの光景であり、二人が一日二日の関係ではなく、慣れ親しんだ関係だということがよくわかった。
それをわたしの頭が理解した瞬間、淳斗の真実を知った時の映像が、わたしの中で強制的に蘇ってくる。
ニヤついた醜悪な笑い。ボロボロと剥がれ落ちていく仮面。仮面と一緒に崩れていく理想。
ゆっくり、じんわりと傷ついていくわたしの内側。記憶に焼き付いていく音。
気持ちが悪い。吐き気だけがずっと胸にいて、吐瀉物は上から抑えこまれているようだ。
恐怖心と共に、寒気が押し寄せてくる。わたしは思わず、自分の腕を手の平で擦る。
風邪をひいた時のような内側から冷える寒さは、いくら摩擦熱で腕が温まっても、温まった端からまた冷えていった。
あの子もいつか、綺麗な顔が剥がれていく瞬間を見るのだろうか。
綺麗な顔の内側にある汚い顔を見て、絶望する日が来るのだろうか。
二人はまだ、仲の良さそうに本屋の前で話している。
何を話しているのかは聞こえないが、淳斗の顔はわたしの好きだった顔で、女子生徒はその顔に向けて覚えのある笑顔を向けていた。
覚えがあるのは、わたしもあんな顔を同じところに向けていたからだろう。あの笑顔が、いつか崩れる日が来る。
わたしの時のように、どこかから本性が露見して、悪びれることもなくただ人を馬鹿にする眼を向けるのだ。
そして、捨て台詞のような悪意だけを残して去っていく。
あの子も、同じ様に怖い思いをするのかもしれない。そう思うと、不意に昨日の杏子の言葉が蘇ってきた。
「紗英なら、後ろから蹴りあげても不思議じゃないよね。その方が、紗英らしい」
らしいという言葉は、あまり好きじゃない。なんだか、わたし自身を決めつけられたような気になるから。
わたし「らしい」であって、わたしではない。そんなことを、漠然とだが考える時がある。といっても、特別咎めようとも思わない程度のことだ。
今日だけは、杏子の中にある「わたしらしい」わたしに、乗っかってやろう。
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