二十四段目
気持ちが悪い。まだ何も食べていないのに、胸焼けをしているような気分だ。
しかし、食べないと杏子に要らぬ心配をかけてしまう。わたしは、銀色のスプーンを手に取り、一口分のオムライスをすくった。そこで、手が止まる。
スプーンが重い。いや、違う。自分の腕が重いのだ。筋肉が、力を入れるのを拒否している。
おそらく、気のせいだろう。怪我したわけでもないのに、自分の筋肉が突然コントロール出来なくなるものか。わたしは、自分に小さく喝を入れ、口まで押し上げた。
不味い。いつも食べているオムライスなのに、まったく美味しいと感じない。見た目はいつもと同じなのに、小さな鉛の集まりを食べているようにさえ感じる。
「ちょっと、紗英聞いてるの」
「うん、ごめん。ぼーっとしてた」
杏子の話が耳に入ってこない。お腹が空いていないのだろうか。お腹に手を当てて、一度落ち着いてみる。空腹感は自分の中にあった。空腹感があるというのもおかしな話か。
やはり、気持ちの問題だろう。わたしの心が、杏子の「新たなあたし」という言葉に反応しているのだ。
停滞を選んだわたしに、新しいものは必要ない。そう言いたいのだろう。
それでも、なんとかゆっくりと手を動かす。杏子にはまだ、わたしの選択を気付かれるわけにはいかない。いつも通りにしておかないと。
肩、肘、手首。意識しながら腕を動かし、ゆっくりでもオムライスを半分まで食べきる。けれどそこで、杏子がわたしの異変に気づいた。
「どうしたの、なんか動きがぎこちないけど。気分でも悪くなった」
「うん、少しだけ。なんか変な感じ」
努めて笑顔を返す。気付かれたのなら、仕方がない。風邪を装おう。
「なんかちょっと怠いんだよね。風邪かな」
「夏休み初日から可哀想に。急に暑くなってきたけどさ」
心配そうな顔で、杏子はわたしを見た。その間も、杏子の食べる手は止まらない。
杏子が食べる姿を見てもなんとも思わない。やはりこれは、個人的な問題。そりゃそうか。必要ないのは、わたしだけだ。
「季節の変わり目も、過ぎたと思ってたんだけどな」
「それ食べきれるの。あたしが食べようか」
「風邪、うつるかもしれないよ。それに、あれだけ食べた後でしょう。まだ食べるの」
「その程度でうつるほど、弱い身体してないよ。誰かと違ってね」
言いながら、杏子は力こぶを作って見せた。薄い夏服の腕が少しだけ盛り上がる。
よし、なんとか風邪ということで収まりそうだ。
杏子は、もうすでに自分のお皿をすべて綺麗にしてしまった。いつもゆっくり食べるようい言っているのだが、どうも難しいらしい。
「あたし運動少女だから身体は強いし。それに、これくらい食べないと、すぐガス欠になっちゃうでしょ」
わたしのお皿を引き寄せると、跳ねるように軽い動きでスプーンを口に運んでいく。とても、さっきまでハンバーグセットを食べていたとは思えない。
「ねえ、杏子。もしも、わたしが死んじゃったらどうする」
突如口から出た自分の言葉。わたしは慌てて口を抑える。
聞くつもりはなかったし、そもそもこんなことを話題に出すつもりもなかったのに。わたしの中に、まだそんな弱い部分がいたか。
迂闊に聞いて、後で杏子に変な傷跡を残すわけにはいかない。「あの時気づいていればよかった」なんて、杏子なら絶対責任を感じるはずだ。
なにを思ってそんなことを口走った。食事をとるのが気持ち悪くなるくらい、決意を固めたのではないのか。
ちょっとセンチメンタルな気分の女の子が夜中にツイートするような軽い「死にたい」じゃないだろう。
止めてほしかったのか。マシュマロを溶かしたココアのような甘い言葉で。気付いて欲しいなんて、まだ思っているのか。
自分が恥ずかしくなる。鍵のかかるノートに書いた傷心じゃない。わたしが死ぬのは、覚悟を持つ決定事項だ。
甘ったれるな。甘えるな。今の状況を気取るな。今の状況を気取られるな。
「なんとなく思ったの。身体弱ってると、そんなこと不意に思っちゃうじゃない」
軽い感じに話を修正したつもりだが、うまく誤魔化せただろうか。杏子の次に発する言葉に注意して、視線が嫌でも口元へ向く。
「そんなに具合悪いの。じゃあ急いで食べちゃうから、夕方病院行きなさい。大丈夫、風邪で死んだりしないわ」
もしもお姉ちゃんがいたら、こんな感じだったのかな。そう思わせる優しい笑顔で、杏子はわたしを安心させてくれた。
「うん、ありがとう。ゆっくりでいいからね」
なんとか、ごまかせた。杏子の雰囲気も、特別変わったことはない。
わたしは、安堵の溜息をついた。しんどいから息を吐いたと勘違いしたのか、裕美の手の動きが少し早くなる。
「いや、本当に大丈夫だからゆっくり食べて。ごめんね」
「いいよ、むしろオムライスありがとう」
いつもの杏子だ。食べるのが好きで、そのわりに小さくて、でも心はわたしよりも大きくて大人な。わたしの知っているいつもの杏子だ。よかった。
ほんとうに、よかった。
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