十二段目
次の階段を登り切れば屋上で、そこから先に私の人生は続いていない。
つまらない哀愁を、頭の先から時計回りに身体を一巡りさせる。たいして、感慨深くもなかった。
わたしの歩く先に道がない。ただ、それだけのことだ。
日本の年間自殺者数は約三万人だというのを、以前テレビで見たことがある。
一年でそんなにも自殺者が出るのだから、女子高生が一人増えたところで、大きな変化は無いだろう。地方新聞に、掲載されるかもしれない程度のことだ。
「うわっ」
考えに耽っていたからか、階段を踏み外してしまった。咄嗟にすぐ横の手すりを掴む。
何も思っていないつもりでも、無意識的なところで躊躇してしまっているのだろうか。
しかし、どれだけ無意識が抵抗しようとも、意識下のわたしはもう決心してしまったのだ。いまさらやめになどしない。諦めろ、私の良心。
先ほどよりも日が落ちている。橙と青の混じりきったところが過ぎ、濃紺がやってくる。それは、夜による昼の制圧のようだ。
上からやってくる濃紺の夜が、覆いかぶさるように橙の昼を押し潰して、空を制圧していく。
わたしの中の怯えた心は、もうとっくに制圧しきってしまった。そう自分に言い聞かせるように、残りの階段を駆け上がった。
少し上がった息を整えながら、死へ向かう最後の扉の前に立つ。緑色の金網扉だ。
この扉を潜れば屋上へ出られるのだが、扉には南京錠がしてあり、上には有刺鉄線が張られている。
錆も少なく、比較的新しいように見える有刺鉄線は、おそらく飛び降り事件の後につけられたものだろう。
しかし、そんなものわたしには関係ない。これから死のうというのだ。有刺鉄線などに怯んでいられようか。
わたしは、手のひらにもう治らない小さな傷を作りながら、金網扉を登りこえた。
わたしの葬式では、何人の人が泣いてくれるだろうか。お通夜やお葬式ってどれくらいの費用がかかるのだろう。
などと、どうでもいいことを考えていた。今後掛かったかもしれない養育費よりは、確実に安いとは思うのだが。
なるべく負担は小さいほうがいいから、身内だけでやってほしい。これも、遺書に書いておこう。
金網扉を越えると、視界が急に開ける。それと同時に、わたしの顔を激しくなでるように、風が通り過ぎた。
温かさも冷たさも感じない、灰色のコンクリートの床。おおきな給水塔。給水塔が作る影。
人間が作ったもので形成された空間にも関わらず、ここでは人間らしさというものをまるで感じない。
街を歩いていたら、デザイン性、利便性に優れたものがその利便性を求める人間よりも多く、わたし達はその利便性に溺れている。
ここにはそれがない。全く着崩さず、個性のない高校の制服がかえって浮いてしまうほどだ。
強いて利便性を挙げるならば、水はけが良くなるように少し斜めに作られた足元ぐらいのものだろう。
ここには、何もないかのよう。
人間が作ったものの頂上で、人間を全く感じない。だからこそ、ここはこんなにも清々しい。
理性を持ちながらも、野性を隠し切れない生き物である人間。雨曝しの野性よりも、醜く汚い。
それらを感じないから、ここはとても清らかな空気で満たされているのだろう。
転落防止の柵もなく、ここよりも背の高い建物は近くにない。風がいつもの何倍もわたしと戯れてくれる。
見上げた空は、視界いっぱいに広がってもまだ足りない。
ちらほら星が顔を出してくれているけれど、もう少し遅い時間になったらどうなるのだろう。
わたしの日常の中には、モノがあふれすぎている。息継ぎしようにも、どこもいっぱい。
あれも欲しいこれも欲しいと更に水位は上がって、おしまいには、心地良いとはなんだったのかを忘れてしまう。そんな考えが、自然と湧いた。
ここにはなにもない。水面を抜け、広がる呼吸にほっとする。
リセットしてくれる場所。死ぬために来た、全部捨てに来たわたしだからこそ余計そう感じるのだろうか。
ゆっくりと首をまわす。今まで自分にまとわりついてきたものを払い落しているような気がした。
ちょうど自分の首を右に傾けた時だ。おかしなものが眼に入った。
心臓が早鐘を打つ。回した首を下に向け、一度大きく深呼吸。映り込んだ違和感を、落ち着いてもう一度視界に映した。
いや、わたしがここに居るのだから、なにもおかしいことは無い。空っぽになったわたしは、動揺をすんなりと受け入れた。
男の子が、笑顔で立っている。目が合い、わたしの存在に気がつくと、手を振ってきた。
ここは、愛想よくするべきだろうか。捨てた社交性を拾い集める。わたしの足元に落ちた幾つかの荷物の中から、慎重に。
水まんじゅうみたいに、柔らかそうな大きく丸い目。笑顔だからか、丸は少し曲がっている。
中の瞳も黒餡子のようにまっ黒で、小さな鼻がその下に座っている。
パーツのひとつひとつはとても日本人的なのに、どこか異国を感じさせる。ああ、眉と髪の色が明るいからだ。
背が低いためか威圧感はなく、むしろ人懐っこさを感じる。
なんとか笑顔を返したが、そういう場合ではないだろう。落ち着て、他人用の仮面は外さないままに、わたしよ、頭を回せ。
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