十九段目

 寝巻の準備をして、ぬるめのお湯を湯船に溜める。溜めている間に頭と身体を洗い終えて、ゆっくりと肩までお湯につかる。


 いままで緊張していた身体が弛緩して、揺れるお湯のようにどんどん柔らかくなってゆく。気が抜けた身体から、余分な力が空気となって排出されていく感覚。


 空気はお湯に溶けて、湯気とともに排気口から外へと流れ出ていった。


 お風呂は好きだ。考え事をするのにも、逆に何も考えないようにするのにも適した場所だから。


 揉み解された頭は、固かった記憶の引き出しが緩くなり、より確かなものが多く引き出せるようになる。


 今日という一日を確認することで、明日はもっとできるわたしになれる。そんなきにんさせてくれた。もっとも、明日のわたしは存在する予定ではなかったのだけれど。


 揉み解された身体は、お湯の持つ少しの浮力に身を任せると、どんどん力を失ってゆく。お湯と一体になる感覚。


 体温が同じになったとき、わたしは湯船に浮かぶお湯の一部となり、なにも考えなくてよくなる。


 今日という一日は、とても内容の濃い日だった。なにせ、わたしの残りの寿命が決まった日なのだから。


 大好きだった人に裏切られて、お父さんと喧嘩して、お父さんの優しさに触れて、死のうと思って。


 マンションの屋上で、変わった苦笑いと変な笑い声の男の子と出会って、寿命を少し延ばすことにして。


 自らの命を突発的に断つ人はいても、この日に死のうと決める人は、かなり珍しいのではないだろうか。自殺した人の話を聞いたわけではないから、わたしの個人的な想像だけれど。


 そもそも、話を聞くこと自体が不可能だ。死人に口なしというやつだ。


 そうか、わたしは、口なしになるのか。何も話さない。それどころか、何も発しない『モノ』になるのか。それは、いい考え方な気がする。


 死んだところで、わたしがこの世のすべてから、無くなるわけではない。


 誰かの記憶には残るし、学校なんかの記録にだって残るだろう。消失ではなく、変化。


 わたしはこれから『人間』から『モノ』になるのだ。


 それに気づくと、遺書の重要性が、わたしの中でぐっと増してくる。わたしの最後の言葉なのだから、言い残しの無いようにしなければいけない。


 わたし自身のこと、友達のこと、家族のこと。


 友達のことは、特に杏子について。いっぱい謝ることがある。


 あの時、消しゴム無くしちゃってごめん。雑誌に紅茶こぼしてごめん。


 もうお弁当一緒に食べられなくてごめん。買い物に付き合えなくてごめん。愚痴も聞いてあげられなくてごめん。


 これからもっと一緒に、楽しいことがあったのにごめん。それから、ありがとう。


 お父さんには、たくさんのありがとうにしよう。去年の誕生日、忙しいのにアイスのケーキちゃんと買ってきてくれてありがとう。


 わたしの嫌いなグリンピース、いつも少し食べてくれてありがとう。仕事で疲れているのに、家事を一緒にしてくれてありがとう。


 離婚してからも、今までと変わらないお父さんで居てくれてありがとう。


 杏子とお父さんについて考えていると、遺書のページはどんどん頭の中で増えていった。とても、これをすべて書ききることはできない。


 いくつか抜粋して、ぎゅっとまとめて伝えないと。それでも、枚数は多いだろう。


 二人のこと以外でも、どんどんと言葉は浮かんでくる。


 怒りや不安、悲しいこと。そして、それよりもたくさんの感謝すべきこと。一つ一つ細かく、かつ鮮明に浮かんでくる。


 湯船に、波紋が一つ浮かんだ。それに続いてもう一つ。さらに一つ。一定のペースで、波紋は湯船に浮かぶ。


 濡れた髪かと思ったけれど、どうやら波紋を作っているのはわたしの涙のようだ。


 舌を出すと、少ししょっぱい。お父さんのチャーハンが濃かったからか、いつもより塩味が濃い気がする。


 一つ思いつくたびに一粒、わたしの涙のしずくは湯面に落ち、いくつかの輪をつくった。どうして、泣いているのだろう。


 これは、わたしが口なしになるのが悲しいのではなく、わたしと話すことのできなくなった人たちを思って、泣いているのだろう。


 自意識過剰ではなく、悲しんでくれるという絶対の自信があった。けれど、わたしの意思は変わらない。


 人は、順応する生き物だ。わたしの居ない日常に慣れる日が、必ず来る。


 わたしの声が聞けなくなっても、悲しんでくれる人との間には、たくさんの思い出がある。わたしを忘れるわけではないのだ。


 それさえあれば、きっと大丈夫だろう。というのは、少し自分勝手すぎるだろうか。


 一度、頭の働きを停止することにする。ゆっくりと目を閉じて、一切の思考を放棄した。


 ゆらりとのぼる湯気が、わたしの顔に触れる。揺れるお湯からの、抵抗や浮力。溶け出していく疲労。三十八度に設定された熱量。


 それらとわたしの境界線が、わたしという存在を示していた。


 眠りに落ちるのに似た感覚は、心地が良い。今日の疲れが全部取りきれるまで、わたしはずっとそうしていた。


 許されるなら、いつまでもそうしていたかった。

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