三十九段目
秋介は、明らかな作り笑いでわたしの方を見た。浮かべた笑顔が、あまりにも自然だった。
「どういう意味よ」
「夫婦間でそりが合わないことが離婚の原因だったとして、じゃあ離婚した先に幸せがあるかと言われると、そうとは限らないね」
別れる直前のお母さんは、「ラブラブだ」って言わなくなっていた。いつからかはわからないけれど、中学一年生が終わる頃には、もう聞けていない気がする。
「目の前の不幸を退けることが、幸福に繋がるとは限らないね」
変わった笑顔を崩し、真面目な表情になる秋介。それが余計に、わたしを焦らせた。
「それでも、お父さんにはわたしなんて荷物、無いほうがいいに決まってる」
「そんな事無いよって、誰かに言って欲しいだけだろう」
「違う! わたしは、本当にそう思ってる」
お父さんは、わたしを無くして自分だけの幸せを求めるべきだ。身軽になって、早く自由になるべきだ。
「どうして、残された二人で幸せになろうって思わないの」
「それじゃあ、わたしの為にお父さんは我慢するから」
「親の心子知らずとは、よく言ったものだね」
ふう、と短いため息を吐くと、秋介は少し考えるように目を閉じた。長い上下のまつげが一つに合わさる。流れる風に、秋介の髪が揺れた。
「こうして僕のところに来てくれるってことはさ、紗英は少なくとも、僕のことを嫌っていないって考えていいかな」
「いいよ。仲の良い友達だって思ってる。人と仲良くなるのに、日数なんて関係ないとも思ってるよ」
「うん、ありがとう」
わたしの方を見て、真面目な顔で言う秋介。西洋人形みたいに、整った綺麗さを持つ顔は、表情が読みにくい分、無言の圧力が強い。何も言わなくても、秋介の気配がわたしを侵食してくるような気がした。
「じゃあもし、友達の僕が、紗英に死んで欲しくないって言ったら、どうする」
「申し訳ないけど、それは無理な相談。そもそも、秋介じゃ説得力ないよ」
間髪入れず秋介に切り返すと、人形を崩して変わった苦笑いを見せた。癖のある笑顔だけれど、秋介らしさが見えてどこか安心できる。
「それでもやっぱり、紗英に死なれたら困るな」
「たとえ誰が悲しんでも、どんなに泣いてくれても、変わらない」
たとえそれが、お父さんであったとしても。
「紗英が生きることで、お父さんが幸せになるとしてもかい」
「わたしが居ないほうが、お父さんは幸せになれる」
「やっぱり、親の心子知らずってやつだねえ」
間延びした笑い方に、わたしの苛立ちは煽られた。秋介の変わった笑顔も、普段なら気にならないのに、妙にカチンときた。
「なによさっきから。じゃあ、秋介はどうなのさ。あんただって、死んだら親が悲しむんじゃないの」
ニコニコとしている秋介が、笑顔のままぴたりと停止する。その一瞬後、甘い綿菓子に苦いお湯をかけたように、ゆっくりと表情が消えていった。
「紗英に、一つ謝らなければいけないことがあるんだ」
表情が溶けていく中、秋介は静かな声で言った。真夏にもかかわらず、わたしの背筋は寒気を覚える。
「僕は、紗英と一緒に死ぬことはできない」
「どうして。約束したじゃない、待っててあげるって。「紗英が死なないから」なんて、しらけることは言わないでよ」
「そうじゃないよ。でも、どうしても無理なんだ」
溶けかけていた綿菓子が完全に無くなって、水のような、掴みどころのない苦味だけが残った。
「秋介はもう、すでに死んでいるから」
理解するのに、一秒以上かかった。秋介は、もう死んでいる。
「はあ?」
突然何を言っているのだろうか。「すでに死んでいる」なんて、今から死のうとしている人間に言う冗談だろうか。仏教式のお葬式にダイヤの指輪をしてくるくらい、チョイスとしては最悪だ。
「じゃあ、あんたは誰なのよ」
疑問が素直に口から出る。苛立ちがどんどんと煮えたぎってきて、わたしの声の種類は、苛立のみになっていた。
「僕は秋介だよ。紗英が知ってる、紗英の友人の秋介で間違いない」
「でも、秋介はもう死んでいるって」
「そうだね。世間一般で言うところの、幽霊ってやつになるんじゃあないかな。数年前に、僕はこの場所で自殺した」
「今は、そんな冗談を聴く気分じゃないんだけど」
「冗談じゃないさ」
苦味にもう一度甘味を戻して、秋介はいつもの苦笑いを見せた。
そんなこと、いきなり言われても頭が追いつかない。今まで霊感なんて感じたことはないし、今はまだお昼すぎで明るい時間だ。さらに言うなら、秋介にはちゃんと足が二本付いている。
「ちょとごめん」
そう言って、秋介の肩に手を伸ばす。わたしの指先は、秋介の肩にちょこんと触れた。そのままの流れで、秋介の肩を撫でてみる。骨の感触、シャツの繊維が手の中で流れるような触り心地。きちんと体温も感じられる。
少し強めに掴んでみる。秋介の肩には、あまり厚みがない。コンビニに売っている安いアップルデニッシュのように、どこか頼りない。男の子らしくないという点を除けば、特に違和感のない普通の男子高校生だ。
「怖くないの」
変わった笑いをしながら、秋介は尋ねてくる。
「びっくりはしたけど、怖くはないかな。というか、秋介に脅威を感じることが難しいわ」
べたべたと秋介の肩や腕を触ってみたけれど、やはり特別に違和感はない。感触としてわたしの頭と声も、少し冷えてきた。
初めて会った日、秋介の言っていた言葉を思い出す。「僕は、今死ねない」
それはそうだろう。今じゃなくて、秋介が死んだのは以前なのだから。
「信じてくれるの。僕が幽霊だって」
「だって、そんな嘘つく理由が無いでしょう。今その冗談を選ぶほど、秋介にデリカシーが無いとも思わないし。強いて言うなら、わたしにだけ見えているのかっていうことが気になるわ」
「マンションの廊下と、この屋上にしか行けないから一概には言えないけれど、住んでる人や来客の人と、こうして会話したことはないよ」
なるほど。だから秋介は、わたしが来た時、居て欲しいと思ったら必ずここに居るのか。秋介は、ここに居るしかないのだから。
「幽霊って、足あるんだね」
「そうだね、それは僕も思った」
一瞬、和やかな空気が表れかけたが、ふと思いとどまる。
すでに自殺した人間に、どうして「寂しいだけ」などと言われないといけないのだろうか。「死ぬべきじゃない」なんて、大きなお世話だ。
「すでに自殺した秋介になら、なおさら死ぬべきじゃないなんて言われたくないわ」
「違うよ。すでに死んだ僕だからこそ、止められるんだ。自殺なんて、するものじゃない」
「うるさいな。そこまで言うなら、秋介はどうして自殺したのさ」
そう聞いたとたん、秋介は目を閉じた。秋介の雰囲気はたるんだ糸のように、力なく心細い。その細い糸から、今にも崩れてしまいそうなくらい弱々しい、いつもの変な笑顔が姿を見せた。
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