二十二段目
朝、制服に着替えてリビングへ行くと、お父さんはもう起きてきてテレビを見ていた。
仕事をしていた時同様にスーツ姿で、昨日の喧嘩は夢なのではないかとさえ疑った。
喧嘩どころか、昨日一日の出来事が全て夢。今日はまだ昨日で、授業を受けて「明日で一学期終わり」って話をして。
杏子と夏休みの楽しみを出し合って。淳汰とデートの約束をして。ハンバーグを作って、副菜にピーマンを入れて。
夜は遅くまで杏子と電話をして。ちょっとだけ夏休みの宿題を進めて寝る。本当の昨日は、これからだといいのに。
そんなこと、ありはしない。昨日は昨日で、今日は今日。
「お父さん、これから再就職するからな。紗英は何も心配しなくていいぞ」
「ああ、うんそうだね。ありがとう」
朝からのマイナス思考で、中途半端な返事しかできなかった。お父さんは昨日の事を忘れるために明るく話しかけてくれたのに、申し訳なくなる。
けれど、もうすぐだ。もうすぐお父さんを自由にしてあげられる。「心配しなくてもいい」と言われる程、わたしの決意は強固になっていく。
「今日は昔の同僚に呼ばれてて少し遅くなるから、夕飯は先に食べててくれ」
「わかった」
一度素っ気なくしてしまったわたしは、それを打ち砕くだけの勇気を持ち合わせていなかった。やっぱりわたしは、どこまでも子供だ。
テレビを見ながらコーヒーを飲むお父さん。お父さんは、いつも朝ごはんはコーヒーだけ。そのお父さんの前に、ふりかけを掛けただけの白ご飯と、インスタントの味噌汁を運んできて座る。
お母さんが居る時は、三人でトーストを食べていた。朝起きるのが早いお母さんが、三人分の食パンを焼いてくれていた。
目が覚めてリビングへ行くと、毎朝香ばしいトーストの匂いがしていて、わたしにとってそれが朝の匂いだった。
幾つかのジャムやバターがテーブルに出されていて、夏はよく冷えた牛乳が、冬は蜂蜜の入ったホットミルクが用意されていた。
ジャムはすべて、お母さんの手作りだった。砂糖を極力減らした、なのにお母さんらしい甘さの広がる、いい匂いのジャム。
席についた人から順番に食べて、自分の食器は自分で洗う。それが朝のルールだった。
お母さんが出て行って、お母さんの朝ごはん係という席を誰も取らなかった。
各々用意するようになり、朝はいろいろと用意するのが面倒くさいわたしはふりかけご飯に。もっと面倒くさがりのお父さんは、コーヒーを飲むだけになった。
わたしは元々、朝はご飯が良かったのだ。
「それじゃあ、行ってきます」
小さな声で言い、お父さんの返事を待たずに家を出た。なるべく、お父さんとの接触は避けたかった。
お父さんには、わたしがいなくなった後の日常に、なるべく速く順応して欲しい。
そのためには、今から少しずつ慣れておいた方がいい。そうに決まっているから。
体育館での退屈な終業式も終わり、無事通知票も受け取り終わる。教室内は早くも、夏休みの浮かれた雰囲気で満たされ始めていた。
夏休み中はどこで遊ぶか、夏休みの間に髪を何色に染めるのか。通知票を親に見せたら絶対怒られると不安がっている人もいる。
何人かの運動部の子は、早くも体操着や練習着に着替えていた。きっと、夏の大会なんかがあるのだろう。帰宅部のわたしには、縁遠い話だ。
「ねえ紗英、帰りにファミレス寄ってお昼食べていこうよ」
部活の仲間と話していた杏子が、教室に戻ってきた。昨日の練習の後副部長に任命された杏子は、面倒などと愚痴をこぼしながらも顔の端は誇らしげにニヤついていた。
「今日の部活は休みですか副部長」
ふざけて呼ぶと、杏子は背中をくすぐられたように笑った。
「やめてよ、その呼び方。紗英に呼ばれると鳥肌立つわ」
自分の両肩を抱いて震える真似をしてみても、口角はにやにやとしている。
「じゃなくて、顧問が新しいスタメンとか体制を考えるから、今日は休みなんだってさ。あたしと新部長には、明日また連絡するって」
「そっか。じゃあご飯行こう」
通知票と数枚のプリントしか入っていないペラペラの鞄を持ち、杏子と足早に教室を出て行く。
時々後輩に挨拶をされる杏子「さようなら杏子先輩!」だったのが「さようなら副部長!」に変わっていて、手を挙げて応える杏子は、その都度口角がにやりとあがった。
どうも、杏子のことが気になる。なにかが、喉よりももう少し深いところに引っかかる。
この感覚は、何なのだろう。普段のわたしらしく、何度もにやにやする杏子をいじっているのだけれど、その度に身体のどこかがぞわりと揺れた。
劣等感に似ているけれど、それとは少し違う気がする。
杏子に劣等感なんて抱くはずがない。どちらが優れているではなく、わたしはわたしで、杏子は杏子だからだ。
杏子に出来て、わたしに出来ないことがたくさんある。
運動は、杏子の方が圧倒的に得意だ。その代わり、勉強はわたしの方ができている自信がある。
容姿に関しては、好みの差こそあれそこまで違いはないだろう。たぶん。
わたしは杏子を認めていて、杏子もわたしを認めてくれている。そういう実感を、お互いに持っているから一緒にいられる。
じゃあ、これはいったいなんだろう。
目的地につくまでの間、杏子の話に適当に相槌を打ちながらわたしはその違和感の正体をずっと探っていた。
けれど、とうとう見つけ出す事はできず、目的地についてしまった。このままでは、せっかくのお昼御飯も喉を素直に通ってくれそうにない。
身体のどこかにくっついている疑問符の正体をさぐりながら、ファミレスのドアを潜った。
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