第10話 暗中策謀戦

 冬の夜、すんだ空気に映る綺麗な月が僅かに世界を照らす。日の入りの早い時期出るため夜の帳が降りるのも早い。そして日の出も遅く、これより夜が長い時を支配する。人々は僅かな月明りと手にした火だけが視界を確保してくれるだけで、それ以外は全てが闇に覆われている。

 日暮れとほぼ時を同じくして、緑沢城内には動きがあった。

「じゃあ、そろそろ行きましょうか」

 緑沢城内の屋敷の一室。そこには灰原昇太郎をはじめ、緑沢晴時に胡粉勝光と烏羽信龍という今回の灰原緑沢連合軍の指揮官達が一堂に会していた。もちろん、そこには琴乃と花菜の姿もある。

「昇太郎・・・お主も行くのか?」

 頭だけが取り柄の昇太郎まで行く必要はないのではないか。脆弱で貧弱で軟弱という最弱の男が戦場に出る。琴乃は大きな不安を隠しきれず、心配そうな表情が昇太郎に向けられている。

「僕が行かないといけないこともあるから、ね」

 昇太郎が自らの考えを確実に現実のものとするためには自ら動かなければならない。その決断を今回の総司令官として下したと言われれば琴乃もこれ以上、余計な口を挟むことははばかられる。

「無事に帰って来るであろうな」

「うん、ちゃんと帰ってくるから」

 不安そうな様子の琴乃を昇太郎は安心させるように笑顔で言うのだが、昇太郎の身体能力を考えれば彼女は全く安心できない。なぜなら昇太郎の弱々しい肉体では、不測の事態が起こった時に自らの力で逃げ帰ってくるという戦場では当たり前のこともできない。母親が外出する子供の安全を心配してしまうかのように、琴乃は昇太郎の出立に不安を感じてしまう。

「あ、そうだ。緑沢さん。あれ、たくさんあるみたいなのでちょっと・・・と、いうか結構な量ですけど拝借してもいいですか?」

 琴乃との会話を切り上げた昇太郎の視線の先にあるのは仏壇。緑沢家に連なる歴代の血縁者の位牌が並べられている。その仏壇の何を借りたいのか緑沢晴時にはすぐにはわからなかったが、昇太郎が貸して欲しいというものはすべて必要なものであるという理解と彼に全てを託すため用意できるものはすべて用意するという意思がある。

「好きなだけ持っていかれるがよかろう」

「ありがとうございます」

 昇太郎は緑沢晴時に礼を述べると、もう一度頭の中で今回の作戦を一から順を追って整理する。必要なものが全て揃っているか、不足はないか、頭の中で最終確認となる仮想演習を行う。

「・・・よし、では行動開始です。当初の予定通り僕と緑沢さんと烏羽さんはこれから青森軍のところへ向かいます。胡粉さんと琴乃さんと花菜さんはこの城の守りをお願いしますね」

「承知いたしました。しかし、守りというのは・・・」

「赤嶺軍が攻め寄せてくる可能性を否定できません。その時は作戦通りに行動してください。おそらく敵は力攻めをしてこないはずです」

「敵が力攻めをしてきた時は?」

「その時は通常の籠城戦になります。そうならないように作戦は立てましたが、全く起こり得ないことではないということだけ頭の片隅に置いておいてください」

「承知!」

 籠城戦になった場合に城側の兵の指揮を執るのは胡粉勝光。作戦にも納得がいっているようで、不測の事態に対する備えも万全ならば問題ないと力強く了解の返答を返す。

 出撃部隊と籠城部隊。その両軍の指揮官が作戦に納得している。できることは全て終わらせ、時間の中でできる考え得る全ての準備を済ませた。後は行動に移すのみ。

 そんな中で一つだけ不安があるとすれば、相手がどう出てくるか、それだけだ。

(・・・できることは全てやったはず。もう、これ以上悩んでもしかたない)

 深緋久英という男の前評判は耳にしている。実際に会っていないのでどういう人間かはわからない。見たこともない相手と戦う、それも前評判の高い策士の男と、だ。不安を感じないはずがない。

 しかしこちらもできることは全てやった。これ以上は望めないし、これ以下では物足りない。その限界に達したのだから、もう悩むだけ無駄だ。下手に不安そうな顔をしているのが知られてしまえば、その不安が周囲に伝染病のように広がっていく可能性もある。命令を下すものは常に涼しい顔をしておかなければならない。

 その指揮を執る重圧、相手がどこまで読んでいるのかわからない不安。それを全て覆い隠すように、昇太郎はなるべくリラックスした表情を心がけていた。




 日が落ちて視界が暗闇に覆われる。見えるのはかがり火がたかれている周囲のみ。それ以外の場所は漆黒の闇。光など差し込まない暗闇の世界が広がっている。

「警備は怠るなよ」

「はっ! 巡回の数を増やし、夜襲には万全の体制を整えております」

 青森軍千五百。その総勢を預かる浅葱繁信に失敗は許されない。

 ただでさえ食糧難の青森家だ。これで兵士まで失ってしまえば、青森家の存続は不可能となる。近隣諸国から攻め入られ、全てを奪い取られてしまう。それだけは許されない。

「深緋久英からの情報では灰原昇太郎は短期決戦を狙っている。短期決戦となれば奇襲作戦は外せない。特に夜、敵の夜襲は絶対に成功させてはならない。いいな」

「はっ!」

 本陣で指揮を執る浅葱繁信。本陣とその周辺はかがり火で明るく照らされている。その周囲にもかがり火はあるのだが、それでも多少視界が確保できる程度。どうしても死角というものが生まれてしまう。

 ましてやここは緑沢領。地形に関してはどうしても敵の方が詳しい。地の利を持つ敵が短期決戦で夜襲を仕掛けてくる可能性が高く、その情報が浅葱繁信の不安をかき立てる。

「布陣に問題は無いな?」

「はい。ご指示通りに布陣しております」

 本陣は五百の兵で山の中腹部に、そこから下った麓に千の兵を布陣している。山の中腹部は平地よりも視線が高く広く見渡しやすい。麓は機動力を生かしやすい。多い方の兵力を麓に置き、高い位置に本陣を置く。これで麓に敵が押し寄せてきても本陣は救援に動きやすく、急に軍を動かさなければならないときも麓の千は機敏に動くことができる。

 しかしその長所は夜間になることで一つ、奪われる。それは本陣が山の中腹部にあることで持っている視野の広さ。暗闇が暗幕のように視界を奪ってしまっている夜間は、本陣が山の中腹部にある長所の一つが無くなってしまう。よってそれを補うためにいつも以上にかがり火をたき、夜襲に備えて万全の体制を取っていた。

「見えない敵というものは、実に恐ろしいものだな」

 今までは青森家当主の青森広敬が全軍の指揮を執っていた。難しい戦局も力業や不屈の忍耐力で潜り抜けてきた歴戦の猛将。浅葱繁信はいわばその補助が主な役割。しかし今回は補助ではなく青森軍の総大将。感じている重圧は今までの比ではない。

 さらに今回は策略に秀でた灰原昇太郎と深緋久英。この二人が正面から激突する、いわば知略策略策謀を用いた戦いだ。目で見えないだけでなく、考えても及ばない。夜は視界がなくなる。それはまさに真っ暗闇の中、どこで何をしているかわからない敵と戦っているかのようで、しかも相手はこちらのことが見えているかもしれないのだ。

 その恐怖は今まで感じたことがなく、その不安だけで気が遠くなりそうだ。だからこそその不安と恐怖から身を守るために、今まで以上に夜襲に対して厳戒態勢を敷いている。どんな小さな動きでも見逃さないように、巡回する人間と回数を増やしている。今できるのはそれだけしかない。そしてそれを完璧にやってもなお、恐ろしかった。

「申し上げます!」

 浅葱繁信が自身の心中で恐怖と戦っている時だった。伝令の声が本陣に響き渡る。

「何事だ?」

「麓にて灰原軍を発見!」

「何! 数は?」

 見えなかった敵の姿がちらりと見えた。それが大きな安心と安堵を感じさせてくれる。それが不安と恐怖を心の隅へと追いやった。

「数はわかりませぬが、どうやら灰原軍は麓の部隊の背後へと回り込むつもりかと」

 正面に緑沢の城がある。麓の部隊は当然城から出てくる敵に対応するために陣を張って隊列を組んでいる。その背後に回り込まれれば、敵は少数でも簡単に瓦解してしまう。その前に灰原軍の動きがわかったのは幸いだ。

「麓の部隊は臨戦態勢を取りつつ、見つけた灰原軍の方へ向きを変えろ。逆にこちらから夜襲を仕掛けられるように、いつでも出られるようにしておけ。それとこちらからも偵察する。人を出せ」

「はっ!」

 伝令が勢いよく本陣から麓へと駆け下りていく。山の中腹部から麓を見下ろしても、味方の人のかがり火しか見えない。真っ暗闇の世界を前に地図を思い浮かべ、手に入った情報にて最新の状況に更新した。

「灰原軍は麓の部隊に背後から夜襲、か。やられれば青森軍はひとたまりも無いが、その隙は与えないぞ」

 新たな情報を得たことで少し気を強く持てるようになった。ひとまず灰原軍の夜襲には対応できる。どれだけの数が動いているのかはわからないが、一方的にやられるという状況は回避できた。逆にこの状況を利用してこちらから仕掛ける。そうすれば勝利を得ることもできる。その事実に身体の奥底がカッと熱くなった気がした。

「これが総大将の戦い、か」

 新たな情報が手に入った瞬間、今まで積み上げていた全てを捨ててでも方針を変える。それが勝敗を分ける。その局面を直に肌で感じた。そして今はその局面で目の前に勝利が見える。次の情報を得た瞬間、攻撃命令を出すことにもためらいはない。

 今、浅葱繁信は人生で最も自信に満ち溢れているかもしれない。

「さぁ、早く次の、新たな一報を持って来い」

 戦いに身を置き、勝敗の瀬戸際にいる。一つ間違えれば自らの命さえ危うい戦場。それなのに浅葱繁信の心は熱く燃え上がっていた。




 日が暮れた夜。緑沢の城から灰原軍が出たという報せが届く。その時、すでに赤峰軍はいつでも行動することができるよう準備は万端であった。

「では千の兵は灰原軍を強襲せよ」

「はっ!」

 千の兵を動かして灰原軍を叩く。しかしこちらが動いていることを知られて動きを変えられるのはまずい。数は灰原軍の方が多い。こちらの動きを察知した上で先に赤峰軍を攻撃対象にされれば、数で勝る相手を倒すことは難しい。数だけではなく、先手と後手の関係もある。あくまで青森軍が参戦せざるを得ない距離で灰原軍に攻めかからなければならない。

「では我らも動くぞ」

「は? 我らも・・・ですか?」

「そうだ。灰原軍がどう動いているのかを探る必要がある。城へ迫るぞ」

「城攻めでございますか?」

 部下の一人の発言に無意識のうちにため息が漏れる。頭の回らない者を相手にするのは疲れる。

「たわけが。城内に残っている兵がどれだけかを探るのだ。さらにその兵がどのような事態になっても城から出られぬように釘を刺す意味もある」

「おぉっ!」

 一瞬、声が湧く。動いた灰原軍が少数だった場合、城からの援軍もあり得る。そうなれば別働隊は多数を相手に戦わされることになる。夜明けを前に勝敗が決まってしまうこともある。

 さらに灰原軍がほとんど城に残っていない場合、手元に残った五百の兵をどう動かせば一番効率が良いかもその場で考える。城攻めが可能なのか、ただ釘を刺すだけで引いた方が賢明なのか、強襲部隊と合流しに動いた方が良いのか。それらを判断する材料を深緋久英は求めているのだった。

「出るぞ。本気で攻める必要は無い。城の近くまで迫り、相手の攻撃が届かぬギリギリで引くのだ」

 まずは城に残った兵力のおおよそを見るのが第一。その後のことはその情報を得てからだ。そしてその第一の情報を得るために大きな損害を出していては意味がない。最小の被害で、いや被害はゼロで最大の利益を得る。これに勝る戦術は無い。

「城へ迫る! わしに続け!」

 深緋久英の号令が赤峰軍本陣に響き渡った。

 真夜中の山林をかき分け、赤峰軍総大将深緋久英率いる部隊が緑沢の城へと動き出した。




 城の守りを言い渡された胡粉勝光の元に一報が飛び込んでくる。赤峰軍が城に迫っているという一報。それは先に予想されていたことだが、実際にその一報を耳にすると腹の奥底が重苦しくなる。想像以上の重圧を一瞬で背負ったかのようだ。

「ぜ、全軍落ち着け! じ、事前に言っていたとおりに、対応せよ!」

 言葉がやや詰まる。灰原昇太郎の想定の範囲内とはいえ、事前にどう対応するかを詰めていたとはいえ、自分の失態一つで戦局が大きく変わってしまう可能性もあるのだ。頼みの綱の灰原昇太郎は今、この城の中にいない。緑沢家の城でありながら、全責任は灰原家の胡粉勝光にあるのだ。

「落ち着かぬか。昇太郎を信じていれば良い」

 敵が攻めてきているというのに、一切恐怖を感じていない灰原琴乃。彼女は昔から肝が据わっていたと聞いたが、さすがにここまで気丈ではなかったはずだ。そんな彼女の心の支えであり一番の自信、それは間違いなく灰原昇太郎。周辺諸国が恐れおののく知将。全幅の信頼を置く男の指示を微塵も疑ってはいない。その堂々とした様子を見せつけられると、浮き足立っている自分が情けなく思えてくる。

「すみません」

 胡粉勝光は大きく深呼吸を一つ。そして意を決した。

「城壁、櫓を受け持つ者は灯りで照らせ! 城内の者は攻撃の準備に取りかかれ!」

 胡粉勝光の命令で人が動く。城壁や櫓が持ち場の者達。彼らは一斉に正方形の箱を手に持った。そして中に火を灯し、赤峰軍がいる方向へと向ける。すると光の線が夜の闇を貫く。

 正方形の箱は内面が鏡になっている。これにより周囲をまんべんなく照らすはずの灯りが、鏡により一方向に集中する。その光が雨のように、赤峰軍が潜む闇に光の穴を空けていく。それが人の数だけ行われる。夜の闇は今この瞬間、息を潜める最大の暗幕の役目を失った。

「敵がいるのは見える・・・が、数までは数えられぬか」

 しかし敵の姿がはっきりと見えるわけではない。夜の闇に力強い光が差すだけだ。敵の全容がつかめるわけでもなければ、詳細を見ることも叶わない。

 暗闇を懐中電灯で照らしても見える範囲は限定的だ。それが遠距離となればより一層見える範囲は狭まる。

 しかしこれでいいのだ。懐中電灯やスポットライトが普及した現代なら、相手側も目視で状況を把握するのが難しいほどの光量しかないのがわかる。しかしスポットライトという発想がなく、たいまつを持って歩くのが常識の場合、この光の線は脅威になる。どこまで見られているのか、赤峰軍には皆目見当がつかない。

 さらに光源を直接目で見た場合、その向こう側は明暗の差でより強く黒が際立つ。これにより城壁や櫓からの灯りが緑沢城内の様子を隠すことにも繋がる。敵側に見られていると思わせ、こちら側を少しでも多く見えないようにする。昇太郎は光だけでこれだけのことを成した。

「準備できたぞ」

 琴乃の声を聞いて胡粉勝光が振り返る。そこには打ち付けられた二本の杭と結ばれた木材、その杭の間に細長い木の板の片方が浮くようにちょうど真ん中くらいで立てかけられている。

 昇太郎は城の中から城の外を攻撃するために攻城兵器を作りたかった。しかしそんな時間も予算も技術も無い。そのため超官位的投石機として、シーソーを作った。設置場所と板の角度を工夫すれば、簡単に投石機の役割を果たしてくれる。

「うむ、敵はそこだ。容赦なく放り込んでやろう」

 しかし投擲するのは石ではない。投石機のように大きな石を飛ばすほどの力を発揮することはできない。木の板の耐久度や、投擲するための重りを考えれば重量物は無理。よって人が飛び乗って飛ばせる小さなものに限定。それでいて相手を追い払うのに効果があるもの、それは火だ。

 シーソーの片側に小さな陶器の入れ物が置かれる。その中には油が入っており、油紙で申し訳程度に蓋がされている。その陶器の外側に油をしみこませた縄を巻いて火をつけたら即席火炎瓶の準備は完了。反対側に人が勢いよく飛び乗ることで、即席火炎瓶は宙を舞って迫り来る敵の行く手を阻む。

 燃え上がる炎はより一層赤峰軍を見やすくする。夜の闇に紛れての行動のはずが、一挙手一投足が丸見えになってしまうのだ。そうなれば弓矢で狙い撃ちをすることも容易となる。その状況を作ることで赤峰軍は攻めるのを止めて引き下がる、というのが昇太郎の考えだった。

(さぁ・・・どうなる?)

 弓を撃つ部隊も準備している。暗闇の中で照らされることを恐れずに攻めてくる可能性もゼロではない。赤峰軍の動きを見る胡粉勝光の拳が無意識のうちに強く握られる。

「赤峰軍、後退! 赤峰軍が下がっていきます!」

 報告を聞いて安堵、そして自分の目で見ても間違いが無いことを確認してもうさらに安心。無意識のうちに強く握られていた拳は力が抜け、また無意識のうちに大きなため息を漏らしていた。

「赤峰軍は後退したが敵は深緋久英だ。一度引いたからと言って油断するなよ」

「はっ!」

 部下を一度引き締め、警戒態勢は継続される。

 ふと、胡粉勝光は赤峰軍を撤退させたものに目を向ける。灰原昇太郎の指示で作り上げられた灯りと即席投石機。こんなものを短時間で作り、有効に使って敵を退けた。それを自分の目で見たというのに、未だに信じられない。

「こんなものが・・・戦の流れを簡単に変えてしまうのか?」

 灰原昇太郎の手腕に多少なりとも疑いの目を向けていた。しかしこの瞬間、自らの考えの及ばない存在だと認識せざるを得なくなった。そしてそれは敗北後の自分の故郷のことを考えていた今までの自分と決別し、灰原家の一人の将として生きていくことを決意させた。




 後退する赤峰軍に動揺が広がる。未だかつて見たことのない一点集中した光に、城からまだ距離があるというのに飛んできた遠距離攻撃が可能な何かしらの道具。それにより深緋久英は負傷兵が出る前に後退を決断したのだが、その決断の早さが部下達の不安をかき立てていた。

 即座に勝てないと思い知らされたのではないか、という動揺だ。

「深緋様。あれはいったい・・・」

 初めて見る城の守り。わけがわからず、赤峰軍の将は自分より頭の良い深緋久英に問いかけてしまう。

「ふん、偽兵と半々程度、か。なら守りはおよそ五百程度か」

 部下の動揺など知らぬと言うかのように、我が目で見た緑沢の城の様子を深緋久英は冷静に分析していた。

「深緋様?」

「なんだ? 目的は達した。城の兵のだいたいの数がわかり、敵も二度目の襲撃を恐れて城を空けられぬ。当初の予定通りだ」

 深緋久英は先ほどの光や遠距離攻撃をなんとも思っていなかった。

「し、しかしあの守りは・・・いったいなんなのでしょうか?」

「知らぬ」

 部下の不安を払拭する説明ができるほど、深緋久英にも情報は無い。しかし予定通りにことは進んでいるため、彼は一切動じることなく次のことを考えている。

「やはり灰原昇太郎は一筋縄ではいかぬ相手では・・・」

「そうだな。あの光のからくりは今考えてもよくわからぬ。だが、そんなことは勝ってからで良い。勝てば奴らの知恵の全てが我が手に入るのだからな」

「そ、それはそうでございますが・・・」

 ことは予定通りに進んでいる。多少想定外のこともあったが、気にするほどのことではない。それが深緋久英の考えだった。

「しかし我らには城壁の向こうはよく見えず、兵の数もよくわかりませぬ。なぜおよそ五百が城に残っていると?」

「人を見ようとするからわからぬのだ。松明の数を数えるのだ。動いている数と動いていない数で偽兵かどうかがわかる。その割合と守りに割くのに必要な数や、事前に手に入れた商人からの情報などから推察した」

「な、なるほど・・・」

 生まれて初めて目の当たりにしたことに動揺していた部下達と違い、目的に必要な情報を的確に手に入れていた。想定外のことが急を要することなのかどうかを即時に判断し、気にする必要の無いことならば無視する。それを簡単にやってのけるからこそ、深緋久英は周囲の者達を超える存在として今の地位にいるのだ。

「後は急襲部隊が灰原軍を的確に叩けばいい。多くの兵を外に出せば、多くの兵を同時に失う。灰原軍が多くの兵を失えば勝利は確実。急襲部隊にはあらかじめ叩けるだけ叩いておけと言っておいたが、それが功を奏しそうだな」

 特別必要な作戦変更はない。当初用意した作戦通りにことが順調に進んでいる。順調すぎることも多少気にはなるが、もしもの時のために一つ手も打ってある。

 深緋久英は計算通りにことが進んでいる状況に満足しつつ、しかし油断や慢心は一切無いまま、本陣へと引き返していった。




 浅葱繁信が次の一報を待っていたその時だった。眼下、麓の陣から少し離れた場所に灯がともった。松明だ。

「あそこに灰原軍がいるのか? しかし奴らは夜襲を仕掛ける気でいるはずだが、火を灯して居場所を知らせるとはどういうことだ?」

 こちらの斥候に居場所を知られたため奇襲を止めて臨戦態勢に入ったのかもしれない。

「申し上げます! 敵は・・・」

「見えている。あそこに敵がいるのならこちらから仕掛けて蹴散らすのだ。奴らはこちらに動きを知られた故に臨戦態勢を取っているだろう。全力で挑め。本陣も麓へ降りて後詰めをする」

「はっ!」

 命令を発してすぐ、本陣も動けるように指示を出す。その指示を待つ間、松明の数は少し増えた。しかし数はそう多くはない。数にして百程度。松明を持つ予定が無い夜襲部隊ならもう少し数はいるだろう。そう考えれば五百、多くても千に満たない程度か。

「本陣、出陣準備が整いました」

 その報告を聞いたちょうどその頃、麓の軍も動き出していた。数少ない松明めがけて進む千の青森軍。本陣も後詰めに入れば勝てる。

 そう思った浅葱繁信だったが、その思いは一瞬にしてかき消された。

「な、なんだ? あの数は・・・」

 松明の数がドンドン増えていく。それも一気に。数百程度かと思っていた灰原軍だが、松明の数だけを見れば千五百から二千はいる。しかもまだ松明の数は増え続けている。

 まるで火の手が一気に広がっていくかのように、松明が一気に増えた。さすがにその数に動揺したのか、動き出した麓の青森軍は直前で止まる。攻めかかるのを躊躇い、対峙するように向かい合った。

「ど、どうなっている? しかしあの数の松明が一斉に・・・」

 あらかじめ用意していた松明に火種から火を灯す。簡単に松明のできあがりだが、その速さが尋常ではなかった。数多くの火種をあらかじめ用意しておき、複数人が一斉に火を灯したとしか思えない。

「灰原軍総勢で・・・こちらに来たというのか?」

 先ほどまでの強気はなりを潜め、浅葱繁信の思考は完全に停止してしまっていた。

「いかが致しましょうか?」

 部下のかけ声にも即座に対応することができない。状況がつかめず、返答に困り、無言の沈黙の時が流れる。

「ど、どうすれば・・・いったいどうすればいいのだ?」

 浅葱繁信は決断を下すことができず、その場に無言のまま立ち尽くしていた。




 烏羽信龍は五百の兵を引き連れて闇夜に潜みながら青森軍の背後を目指して動いていた。土地勘のある緑沢軍百名に夜道が得意な灰原軍四百名。それは烏羽信龍が任された総勢。

「どうだ?」

「青森軍の斥候に見つかったようです」

「そうか。予定通りだな」

 闇夜に潜みながら動いていたが、敵にその動きを察知された。それも当然だ。百名の先行部隊だけは見つからないように移動した。その先行部隊が準備を始めたところで、後続の四百名がぞろぞろと荷物を持って獣道を突っ切る。移動は百名が限界の獣道にその四倍の四百名が荷物を持って移動、見つからない方がどうかしている。

 斥候部隊は一度陣に帰って報告し、戦闘態勢になった部隊が陣から出て攻め寄せてくることだろう。

 しかし敵が攻めてくると言ってもそれは今すぐ来るわけではない。見つかりはしたがこちらの全容までは捕まれていない。だから少し時間がある。

「まだ余裕はあるが我らにはこの後も役目がある。急いで仕上げるのだ」

 烏羽信龍は部下達に指示を出す。青森軍の背後、陣から少し離れた場所で、作業を急ピッチで進めていく。

 三本の木の棒で三脚を作り、その三脚の上に物干し竿のように一本の木の棒を通して固定。その物干し竿には火のついていない松明が何本もついている。それを持ってきた数だけ素早く設置。

 さらに木の枝を立てて布をかけたもの。まるで案山子だが、これも並べて設置する。

「火種は?」

「こちらにあります」

「じゃあ準備してくれ」

「はっ!」

 烏羽信龍の指示で火種を持つ部下は大量の線香を取り出した。一定の長さに切りそろえられた線香を束にして次々に火を灯していく。

 その頃には物干し竿の乗った三脚の設置も終わり、設置を終えた人が火種を持つ男の元へと集まっていく。

 火のついた線香の束が一人一束ずつ行き渡る。すると彼らは持ち場へと戻った。そこで烏羽信龍は自分が手に持つ松明に火種から火をつけ、高々と掲げる。

「準備は良いか?」

 その問いに全員が無言。沈黙は肯定と事前に決めていた。つまり全員が準備万端の返答をしたことになる。

 烏羽信龍は一度大きく松明を下げ、そして再び大きく松明を掲げた。その上下運動が合図。その合図を見た部下達は一斉に、束から抜いた火のついた線香を松明の点火部分に置いていく。

 松明の点火部分には事前に油がしみこませてあり、線香の熱によって引火。松明は一斉に、一気に、その数を爆発的に増やしていった。

 線香という火が目立ちにくく消えにくい道具を使い、一斉に大量の松明に火をつける。案山子と一気に増えた松明の数。これでこの場所には二千名以上の兵がいると青森軍は錯覚することだろう。

「では撤退だ」

「はっ! こちらの道を使えば安全に目的地へ移動できます」

「この地のことを知り尽くしている者がいてくれて助かる」

 緑沢軍の者達の先導で烏羽信龍率いる灰原軍はこの場を離脱する。万が一青森軍がこの場所に攻撃を仕掛けてきても、ここにはもう誰もいない。青森軍の、それも麓の軍に無駄足を踏ませることができる。そうすれば青森軍の本陣は一気に手薄になる。

「案山子と松明・・・か」

 たったこれだけのもので千という数の敵をおびき寄せて一時的に無力化してしまうことができる。そんなことを短時間で考えて、短時間で作ることができるもので実現してしまう。烏羽信龍は灰原昇太郎という男のすごさを自らの身をもって知ることとなったのだった。




 浅葱繁信は動けず、言葉すら発することができなかった。ただただ状況が飲み込めないまま、時だけが過ぎていく。そして動くかどうかを決断しなければならないことに気が付いたとき、すでに灰原昇太郎の次の魔の手が迫ってきていた。

「よ、よし、麓の部隊とまずは合流して守りを・・・」

「申し上げます! 本陣付近に多数の松明! その数およそ五百・・・いや、千・・・千五百・・・まだ増えています!」

「なっ、なんだと?」

 麓の部隊と合流すれば総勢千五百名。麓の陣で守りを固めれば、そう簡単にやられることはなくなる。その安全策でこの場を乗り切ろうと思った矢先のことだった。本陣と麓の間に無数の松明。さらに本陣側面にも松明が出現する。

「ど、どうなっているんだ・・・」

 灰原緑沢連合軍は総勢三千五百。麓の部隊を引きつけている松明はどう数えても二千は超える。さらに本陣周辺にも二千以上の松明がある。どう考えても計算が合わない。しかし松明に灯がともっていく速さを考えれば、人の手で火が灯されているとしか思えない。

「いったい・・・なにがどうなって・・・」

 敵の総勢は三千五百。しかし今目の前には四千以上の敵がいる計算になる。緑沢の城内でも松明が動いており、単純計算で五千。浅葱繁信はもう何が何だかわけがわからず、頭の中が真っ白になってしまっていた。

「申し上げます!」

「な、なんだ? まだ敵の数が増えたのか?」

「はっ! 山の麓、我らの麓の陣の正面にも無数の松明が・・・」

 次の一報。これもまた敵の数が増えたというものだった。数はさらに増えて、もう数えるのも嫌になった。

「嘘だ。偽の松明だ。どこかが偽りに違いない」

 そう思った浅葱繁信。しかしどこが偽物でどこが本物かは皆目見当がつかない。当てずっぽうで動いて外れだった場合、全滅すらも覚悟しなければならない。少なくとも少なくない数で灰原軍は動いている。判断を誤ったが最後、青森軍は壊滅状態に陥ることになるだろう。

「どこが偽物だ? どこが本物なんだ?」

 全てが偽物の可能性もあり、全てが本物の可能性もある。そう考えるともう頭が正常に動いてくれない。浅葱繁信は冬の夜空を仰ぐ。どう動いて良いのかわからない、お手上げの状態だった。

「申し上げます!」

「・・・なんだ?」

 浅葱繁信の力の無い返答。解決の糸口が見えず、もう部下に気丈な姿を見せる余裕すらない。

「灰原軍より使者が参りました」

「・・・使者?」

 また敵の数が増えた、という報告かと思った。しかし違って、灰原軍から使者が来たという。この圧倒的優位な状況で使者を出したのは何故なのか。浅葱繁信は立て続けに怒る想定外の事態に、もう使者が来た理由すら考えがまとまらないほど混乱していた。

「いかがいたしますか?」

「使者か・・・会おう」

 敵のどれが本物でどれが偽物か判断がつかない。判断の誤りは壊滅、最悪全滅へと繋がる。その事実から一時的とはいえ逃げることができる唯一の手段。それは使者と会って話すと言うこと。

 交渉などという余裕もない。浅葱繁信は現状から逃げるという選択をしたいが為に、

使者と会うことを決めた。

「お、お前は・・・」

 使者としてやってきた男には見覚えがある。少し前に青森領内で行き倒れていた頼りない優男だった。




 灰原昇太郎は錫原昌宗と五百の兵を率いて青森軍本陣へ。烏羽信龍は五百の兵を率いて麓の青森軍を陽動。胡粉勝光も五百の兵を率いて城の守りに当たっている。それぞれ松明に三脚に線香に案山子に、小道具満載での作戦決行となっている。

「動くな! 武器を捨てて投降せよ! 刃向かうなら、無事に帰れると思うなよ」

 しかし緑沢晴時だけは偽兵の作戦を使わず、二千の兵を率いている。それは相手が最も警戒しなければならない赤嶺軍の実働部隊だからである。

 夜の闇に紛れていても、偽兵に気付かれてしまえば相手は本気で攻撃を仕掛けてくるかもしれない。そしてこの一点が崩れれば、他も連鎖して崩れる可能性がある。それを防ぐために、灰原軍を挟み込もうとする赤嶺軍の進路を昇太郎が先読みし、二千の兵を伏兵として置いていた。

 灰原軍を青森軍と挟撃するはずだった赤嶺軍の男達の表情が、夜の闇で多くの人の目に留まらなかったのが悔やまれる。それくらい緑沢晴時の伏兵作戦は上手くいった。地形を知り尽くした緑沢家の当主。どこが隠れやすくて、どこが罠にはめやすいか。それを熟知している自国領土内だからこそできたのだ。

 灰原軍を強襲しようとやってきた赤嶺軍。その数は千ほど。対する灰原軍は倍の二千。さらに偽兵などではなく、その二千の兵が優位な位置を取っていることがわかるように堂々と姿を見せている。それも数カ所に別れて、包囲。いつでも矢を射かけられるように臨戦態勢。

「青森軍はすでに灰原軍との共闘に合意している! 青森軍の援軍は来ぬぞ!」

 そして嘘。まだ青森軍は赤嶺軍との同盟関係は継続中だ。あくまでも陽動と意表を突いた出現方法が功を奏し、相手を惑わして動きを止めているから交戦状態にならないだけ。その嘘が看破されるまでに赤嶺軍には武器を捨てて投降して貰わなければならない。

 灰原昇太郎は敵も味方もなるべく死なないように、穏便に勝ちたいと言っていた。その意を汲むことができる作戦を現状は遂行できているはずだ。しかしここで赤嶺軍が幸福を選ばず攻撃してきた場合、作戦立案者の意が守られなくなる。

 だからこそ勝利は揺るがないが、より完璧に作戦通りことを完遂するため、緑沢晴時は投降を迫る。

「武器を捨てよ! 今投降すれば悪いようにはせぬぞ!」

 しかし赤嶺軍に投降する様子は見当たらない。状況は最悪でも、今回の戦を起こした男の直属の部下達。そう簡単に降伏するわけにはいかないのだろう。

「申し上げます! 別働隊、烏羽信龍隊が到着!」

 簡単に降伏するわけがない赤嶺軍。その赤嶺軍の心を折る最後の一押し。別働隊として麓の青森軍の陽動に当たっていた烏羽信龍の部隊。それが仕事を終えて戻ってきたのだ。これで灰原軍の数はさらに増えた上に、青森軍が交戦する様子はない。これが決定打となったのか、赤嶺軍の指揮を執っているであろう男が武器を置いた。

「皆、武器を置け」

 そして部下の兵士達に投降するように指示を出した。その指示に兵士達が従ったのを見て、緑沢晴時は緊張の糸が切れたかのように大きく息を吐いた。

 勝利は揺るがないとしてもここにいる二千の兵は彼にとっては借り物。他の部隊が損害を出さずに作戦を遂行しているというのに、借りている緑沢家の当主がその流れを止めてしくじるわけには行かない。

 緑沢晴時は内心ドキドキしながら、投降を迫っていたのだった。

「ふぅ、一仕事を終えた・・・」

 普通に戦うよりも、劣勢をはねのけて勝つよりも、神経をすり減らした瞬間だった。

 借りた兵を無傷のまま返せなかった場合、緑沢家の評価がどうなることか。今は助けに来てくれているが、借り物の兵だからと簡単に損失を出してしまう男だと思われたら最後。灰原家は今後緑沢家を助けてはくれないだろう。さらに灰原昇太郎の完璧な策を潰した男として悪評が広まってしまう可能性もある。

 緑沢家の今後を占う大一番。その仕事を完璧に成し遂げることができた。無意識に漏れた息は、その安堵のため息だった。




 緑沢軍本陣で二人の男が向かい合っている。一人は今回、青森軍の指揮を任されている浅葱繁信。そしてもう一人は稀代の知将としてその名をとどろかせた灰原昇太郎。

「このようなところでこうして会うとは思わなかったぞ」

 何を話して良いのかわからなかった浅葱繁信。ひとまず思いついたことを言葉にしたものの、言った瞬間にそれが間違いだと気付いた。

 灰原昇太郎は青森領から出る時、すでにこうなることを予感していたかもしれない。そうだとすればそれができていない自分は灰原昇太郎よりも劣る人間だと、自分で認めるような発言になってしまうのだ。

「それで、今宵はどのような用件で? 物見遊山ではるばる緑沢領まで来た、などというわけではなかろう」

 あくまで自分が主導権を握って、青森家に不利にならないように。それが浅葱繁信の一番の思いだった。

「今日はお願いがあってきました」

 戦略上、圧倒的優位にいる灰原軍。その灰原軍の総大将がまずこうして使者としてやってくることが異様。しかしその異様さに比べれば、灰原昇太郎が一番に取った態度はもっと異様だった。

「今回は武器を収めてもらえませんか?」

 優位な立場の総大将が先に頭を下げた。それもお願いという形で、だ。

「な・・・」

 本来ならば互いの優劣を一つ一つ並び立て、降伏を迫るものだ。それも総大将自らなどではなく部下を送り込んで、だ。しかし灰原昇太郎はそうせず、あくまで総大将自らが戦わないように頼みに来た。

 その異様な様子は浅葱繁信の頭の整理をさらにつかなくした。

「・・・いったい何を考えている?」

 浅葱繁信にはもう言葉がなかった。自分の想像の及ばない世界にいる男の作戦や戦術や態度や言葉。その全てを理解することなど不可能であり、勝ろうとすることすらそもそも愚かなことなのかもしれない。そう思い、単刀直入に聞いた。

 その話し合いの様相は灰原軍の総大将と青森軍の総大将の話し合いなどではなく、ごく普通の二人の人間の会話であった。

「みんながちゃんとご飯を食べられて、誰も傷つけ合わなくて済む。そうなるにはどうしたら良いか、ってことかな」

「その、みんなには、我ら青森家のものも含まれているのか?」

「はい。灰原領だけではなく、緑沢領も、青森領も、赤嶺領も、今ここに集まっている人達やその関係者だけでなくもっと多くの人達も、です」

 浅葱繁信はその言葉を聞いた瞬間、自分の心の中から何かが消えた気がした。

 今まで青森領内だけで手一杯で、緑沢家の救援にも表には見えない苦心があった。浅葱繁信の世界はそれが全てで、そこだけが存在する世界であった。しかしそのはるか外、見たことも聞いたこともない人までが対象だと簡単に言う男に、今まで感じたことのないものを感じた。

「少なくとも、日常に満足がいっていれば不必要な戦いは起こりません。それは平穏な世界の第一歩でしょう」

 そう言いながら灰原昇太郎は一枚の書状を取り出し、浅葱繁信に差し出してくる。

「約束は、絶対に守ります」

 差し出された書状。それは灰原家当主の灰原昌隆が書いたもの。灰原家で行った治水対策や農地拡大など、食糧確保に必要な全てを援助する。その代わり戦いは止めてともに手を取ろう、というものだった。

「・・・正気か?」

 戦えば勝てる状況で、敵国を下して征服することができる状況で、それを選択しないでともに歩もうと言っている。自国の利益のためや仲間の利益のためなど、そんな利己的な考えが灰原昇太郎には、いや灰原家にはそれが一切無い。それは灰原昇太郎の態度や行動だけでなく、この書状からも伝わってきた気がした。

「勝てる戦ではないのか?」

「勝っても、失うものが大きければ意味がありません」

 戦いで多くの兵を損失すること。それは当然起こってしまう自然のこと。しかし灰原昇太郎はそれが勝利とともにあるのが自然という考えを持っていない。一人でも多くが死なずに済み、一人でも多くが平穏な日常を得られる。それこそが灰原家の、灰原昇太郎という男の勝利であった。

「・・・勝っても失うものがある、か。考えたこともなかった」

 青森軍の総大将として、青森家の未来を担うものとして、青森家の信義を忘れず青森家の人間として判断する。深緋久英の手駒ではなく、赤嶺家の配下ではなく、青森家の人間浅葱繁信として、決断を下す。以前、青森家当主青森広敬に言われたことが一瞬で脳裏をよぎった。

 灰原昇太郎という男の実績は十分であり、実際に白山家や黒川家が冷遇されたという話は聞いたことがない。民衆は収穫を喜び、国は豊かになっていっている。そんなことができる男がこうして頭を下げている。このまま赤嶺家の深緋久英の手駒として生きるより、灰原家の傘下に下った方がどれだけ国を豊かにすることができるだろうか。そう考えれば、悩みなど一瞬で吹っ飛んでしまった。

「青森軍の皆は無事国に帰ることが出来るのか?」

「はい、お約束します」

「青森領は豊かになり、食料に困らぬようにできるのか?」

「全力を尽くします」

「・・・そうか」

 浅葱繁信は目をつむって一つ深呼吸をする。そしてゆっくり目を開けると、すぐに膝を地面についた。

「必要とあらばこの首すらも差し出すつもりであった」

「そんなのいりませんよ。無意味ですから」

 敵総大将の首が無意味。その言葉も想像の上を行く。膝をついたことに後悔はない。

「青森軍総大将浅葱繁信。これより赤嶺家には従いませぬ。灰原家に、灰原昇太郎様に全てを委ねます」

 戦を指揮する総大将としては完敗。しかし青森家としてはこの敗北こそが勝利なのではないか。少し前の自分では考えつかなかったであろう発想に、浅葱繁信自身が驚きを隠せないでいた。

 浅葱繁信はすぐに麓の部隊に伝令を送って臨戦態勢を解くように命令を下した。これにて灰原軍と青森軍との戦いは死者や負傷者を一人も出すことなく幕を閉じたのだった。




 夜明け間近の赤嶺軍本陣に早馬が駆け込んでくる。乗っていた兵は息を切らしながら転げ落ちるように馬から下りると、本陣奥に鎮座する深緋久英の元に駆けつける。

「も、申し上げます! 灰原軍急襲部隊、罠にはまり降伏! 青森軍は我らから灰原家へと鞍替え致しました!」

 赤嶺軍本陣に激震が走る。ざわめく将兵。しかしその中でただ一人、深緋久英だけは涼しい顔でその報告を聞いていた。

「投降した我が軍の千、鞍替えをした青森軍の千五百を合わせて灰原軍は総勢六千。現在緑沢の城とその周囲で炊煙が上がっており朝食を取っており、朝食を済ませ次第こちらに進軍してくるものと思われます!」

 衝撃的な報告に浮き足立つ部下の将兵。誰もがこの状況をどうするのか、深緋久英の次の言葉を固唾をのんで見守っていた。

「そうか。やはりそうなったか」

 衝撃的な報告もまるで想定の範囲内だと言ってのける。この最悪とも思える状況すらも深緋久英は読んでいた。つまりその先の一手がまだ存在するということだ。

「案ずるな。わしはもう一つ手を打っている。灰原軍総崩れはもう目前だ」

 余裕の笑みが浮かぶ深緋久英。その余裕がいったいどこから来るものなのか。そしてそんな男と真っ向から策略策謀のやり合いしている灰原昇太郎。もはやその二人の世界は誰の考えも至らない、二人だけの世界となっていた。

「強襲部隊の策で勝てれば楽で良かったが、まぁいい。予定通りだ」

 誰がどう見ても勝敗が明らかな今回の戦い。しかし深緋久英の策はまだ尽きてはいなかった。

「灰原昇太郎、その首はわしが貰う。だから早くここへやって来い」

 総勢六千と数が膨らんだ灰原軍。対して赤嶺軍は総勢五百まで数を減らした。しかし深緋久英は圧倒的大差になったにもかかわらず、灰原昇太郎率いる大軍の到着を心待ちにしているのだった。


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