第6話 戦

 昇太郎が灰原家の城にお世話になってから十日ほどの時が流れた。相変わらず動きは遅くて毎日活躍できているとは言い難い状況だが、少しずつ慣れてきたせいもあって筋肉痛にはなるが寝込んで動けなくなる程ではなかった。灰原家の家臣達ともある程度言葉を交わしたりして面識もでき、少しずつ暮らしやすい環境が整いつつあった。


 しかしそんなとき、灰原家全体を揺るがす大きな出来事が起こった。


「お館様! 出陣要請でございます! 白山家からの出陣要請でございます!」


 日が昇った頃、一騎の早馬が城に駆けてきたことで今までの平穏は一気に綺麗さっぱり無くなり、代わりに戦時中というこの時代のもう一つの日常が訪れた。


「せ、戦争・・・」


 昇太郎は体が震えて固まってしまう。なんせ彼はここにいる間は灰原家のために奉仕をすることが約束されている。その約束の中には戦争で兵士として戦うことも含まれているのだ。


「心配するな。昇太郎はまだ戦場へは行かぬ」


「そ、そうなの?」


「当たり前じゃ。具足を着て走ることさえできぬ者が行って何かできるのか?」


「い、言われてみれば・・・」


 昇太郎は日々の鍛練でようやく筋肉痛がマシになって来た程度だ。こんな状況で鎧を着て戦場へ送り出したところで足手まといにしかならない。


「それに此度は増援要請じゃ。灰原の領地が攻められたわけではない」


「そ、そう言えば白山家が何とかって・・・」


「白山家とは灰原家と友好関係を築いている隣国の大勢力の一つじゃ。その領地に敵が迫ったのでその援軍に出向くのが今回の戦だな」


 早馬の男が言っていた白山家からの増援要請。それは灰原家への危機ではなく、友好国の危機に助け舟を出すということだ。


「相手はおそらく黒川家じゃな」


「黒川家? どこかで聞いたような・・・」


「私が昇太郎と初めて河原で会った時に間者と疑ったであろう」


「ああ、あの時だね」


 白山家に攻め込んだ黒川家だが、灰原家にとっても黒川家は敵ということなのだろう。


「ちなみに黒川家も灰原家の隣国の大勢力で、白山家と同様の友好国の一つじゃ」


「・・・え? ど、どういうこと?」


「つまり友好国が友好国に攻め込んで、そのどちらかにしか助け舟を出せない状況というわけじゃ」


「そ、そんなの無理ゲーじゃん」


「は?」


「あ、いや、そんなの片方だけの味方をして大丈夫なの?」


「しかたあるまい。その両方の国が灰原家の五倍以上の国力と兵力を持っている。我ら弱小国は生きるためにどちらかの味方をせねばならない。両国の争いをただ見ているだけでは両方の国に見捨てられてしまう。最低でも片方の国との関係は守らねば灰原家は簡単に滅ぶ。数多ある弱小国はこうやって生き延びていくしかないのだ」


 戦国の世とはよく言ったものだ。歴史の教科書や授業でよくこの時代の話を聞くが、このような厳しい選択を迫られている国々が日本国中にあったとは思いもよらなかった。


「それにただ単に片方の味方をするわけではない。黒川家と白山家では民衆に対する税のかけ方が違う。税は白山家の方が軽い。朝貢も白山家の方が少なくて済む。それにより灰原領の民衆は白山家寄りの者が多いのだ」


 国人衆はたくさんの考えを持つ者達が自分の生まれ故郷を守るために集まって領土を守っている。その守り方は様々あるが、戦国の世では敵対する国の両方と手を結び、その片方を選んで助けるというのも必要なのだ。そしてそれは国家間の情勢を見る目と政治的な手腕が問われる。一歩間違えれば即座に滅びの道を歩む大博打である。


「なに、近年は小競り合いだけで大きな戦にはなっていない。最近両国の争いに数度出陣しているが、灰原家の者達はここ一年くらいまともに戦っておらぬからな」


 隣国間の小競り合いを収めるために灰原家を味方につけている可能性もある。様々な政治的な意味合いや選択、見えないところでの圧力や懐柔などが常に行われているのだ。第三者として見る戦国の世は実に様々な人間ドラマがあって心を打たれるのだが、実際にその世界に入ってみれば一挙手一投足を誤るだけでとんでもない被害が出る。恐らく昇太郎が知らないだけで、現代社会での国際情勢もこんな緊迫感あふれる中であの手この手を駆使しているのだろう。


「父上と兄上が出陣するようじゃな。見送りに行くぞ」


「あ、うん」


 琴乃に連れられて城の門へと向かう。そこでは大河ドラマでしか見たことの無い鎧兜を着た男達が続々と集結していた。


「す、すごい・・・」


 これから戦場へと向かう男達の鬼気迫る様相。そして太陽の光を受ける重厚感あふれる鎧兜。大河ドラマに出てくるような歴史上の偉人ではないため、派手で華美なものではない。しかしその迫力はテレビで見るものとはまるで違った印象を受ける。


「琴乃、皆と留守を頼むぞ」


「はい。ご武運をお祈りします」


 琴乃はそう言うと侍女から手のひらに収まる石を二つ渡された。それを父や兄達に向けて叩き合わせる。すると火花が散った。どうやらそれは火打石のようだ。


「よし、出陣じゃ!」


 灰原家の主である琴乃の父、灰原昌隆率いる一軍が大声を挙げながら城を出立した。


「大河ドラマより迫力ある・・・」


 人数は大河ドラマよりも圧倒的に少ない。だが命の危険がある場所に向かう少数は安穏とした時代でする大数の演技を遥かに凌ぐ。


 実際に灰原軍の数は武士が三十名ほど。あとは農民達が武器を持って集まった寡兵で総勢でも二百名足らず。そしてこれが灰原家が動員できるほぼ最大兵力だった。


「無事に帰って来て欲しいな」


「父上も兄上も無事に返ってくるに決まっておろう」


 出立した灰原軍を見送る昇太郎。戦場へと出向く男達を見送る妻子達の気持ちはこんな感じだったのかと、不安や無事を祈る気持ちで立っていることも辛かった。


 琴乃の父と兄に加え、昇太郎と一緒に鍛錬を行っていた甚六を始めとする武士達が戦場へと向かっていく。いつかはそこに自分も加わるのかという恐怖を感じながら、昇太郎は出陣していく灰原軍が見えなくなるまで呆然と立ち尽くしていた。

 戦争は望ましいことではない。戦国時代であればいつ戦争に巻き込まれるかわからないのだ。しかも時間が経てば経つほど戦争へと駆り出される可能性が大きくなって行く。戦争は起こらないに越したことは無い。


 しかし昇太郎は少しだけ、ほんの少しだけ戦争に感謝しているところもあった。


「腰が引けているぞ。男であろう。もっと気張らぬか」


 昇太郎を普段鍛える役目を負っている甚六が出陣しており不在。戦えるものはすべて駆り出されているため、昇太郎の鍛錬を受け持つ相手がいないのだ。よって残っている面子の中で唯一武芸の心得があり、昇太郎に教えられるだけの実力がある琴乃が鍛錬の相手を受け持つことになったのだった。


「ほれ、どうした。そのようなへっぴり腰で生き残れるほど甘くはないぞ」


 刀を素振りさせられている昇太郎の傍らになって檄を飛ばしている。すでにわかっていたことだが琴乃の性格はサディストだ。指導側に彼女が回れば厳しい鍛錬が昇太郎に科せられる。しかしそれを上回るほど、琴乃と二人になれることが昇太郎には嬉しかった。


「琴乃さんは戦場に行った事があるの?」


「いや、私も出陣した経験はない。だが城の物見櫓から近隣に現れた賊の討伐を見たことはある。戦いというものは想像以上に過酷だぞ」


 鍛錬では殺さないという大前提の元、一対一で刀を振り合うことが多い。しかし実戦になれば敵は一人とは限らない。ましてや高い地位についた名のある者になればなるほど敵が群がってくる。無論部下も多くなり、より戦いは複雑化していくことになる。その中で自らの身を守り、迫る敵を打ち倒せるだけの力を持たなければならないのだ。


「こら、話を利用して休むでない」


「す、すみません」


 話をしている最中に手が止まったことを叱責される。


「腕が上がらなくなるまで振り続けるのじゃ」


「そ、そんなに?」


「当然であろう。昇太郎はただでさえ軟弱なのだ。他の者の鍛錬以上に鍛えなければいつまでたっても弱いままだ」


 サディスト改め鬼教官、もしくは鬼軍曹のようだ。


「腕が上がらなくなったら夕飯が食べられないんだけど・・・」


「それくらい私が食べさせてやる」


 昇太郎は心の中で本気のガッツポーズが出た。


「はい、頑張ります」


 そして俄然やる気が出た。実に単純で下心ありの感情に流される昇太郎。そしてその感情に自分で気が付いた時、彼は本気で琴乃に惚れていることを実感した。


「その意気良し! 腕が上がらなくなったら次は具足を付けての荷物運びで足腰の鍛錬をするぞ」


 刀の素振りだけで終わるとは思っていなかった。もちろんその後にもたくさんの鍛錬が待っているのだろう。きっと終わった頃には介護が必要な人と相違ないほどボロボロになっているに違いない。


「そんなにやると水浴びとか着替えとかもできそうにないんだけど・・・」


「体くらい拭いてやる。その程度の事で鍛錬が軽くなると思ったか」


 琴乃は昇太郎が今日の鍛錬が軽くなることを期待していると思ったようだが、昇太郎はこの戦国時代で生き延びるために鍛錬を積み重ねるのは仕方がないと割り切っていた。その割り切った上で、ボロボロになった自分を琴乃が助けてくれるというシーンを想像してテンションが上がっていた。


「なぜだ? 甘やかさないと言ったのになぜ勢いが増すのだ?」


 琴乃は昇太郎が急にやる気を出したことに戸惑っていた。そして昇太郎はそんな自分を客観的に見て、マゾヒストの気があったのだと少々自己嫌悪に陥るのだった。


 翌々日の昼ごろ、今日も琴乃との鍛錬を行っている。すると侍女が走って来て琴乃の元へとやってくる。


「姫様、お館様がお戻りになられました」


「そうか。わかった。すぐに行く」


 侍女は一礼をして踵を返し、琴乃と昇太郎の視界の中から消えて行った。


「私は父上や兄上の出迎えをせねばならぬ。昇太郎は素振りを言った数が終わるまで続けよ。それが終わったら私と一緒に皆の慰労の手伝いじゃ。いいな?」


「わ、わかりました」


 琴乃は帰って来た父や兄に早く会いたいのだろう。いつもより上機嫌な様子と軽い足取りで昇太郎の前から早歩きで歩き去っていく。


「・・・一人取り残されると虚しい」


 周囲に誰もいないのに刀をひたすら素振りする昇太郎。ここが戦国の世でなければ剣道部にでも所属していない限り滑稽な姿として周囲の目に映ることだろう。


「でも、頑張ろう」


 せっかく琴乃が昇太郎のことを考えて課してくれた鍛錬だ。サボるのも悪いし、サボればサボるだけ昇太郎自身の命の危機にもつながりやすくなる。自業自得と言えばそれまでだが、戦国時代での自業自得は高い確率で死が着いて回る。それを考えると昇太郎は怖くてサボることができない。


 しばらく素振りを続け、琴乃に言われた素振りの数は何とか終わった。さすがに連日鍛錬を行っているおかげか、最近はくたくたに疲れるがまだ動くことはできる。初日のようにボロ雑巾のように寝転がっていることしかできず、泥のように眠って翌日の日が高くなるまで起きられないということも多少はマシになって来た。


「僕、強くなっているのかな?」


 今までの自分が自分でないかのような感覚に昇太郎は陥っていた。記憶の中にある弱々しくていじめられても黙って受け入れることしかできなかった自分。そんな情けない自分に今の姿を見せてやりたい。まだ大きな変化はないのだが、少しずつ自分が変わってきているのがわかる。成長しているという実感が昇太郎の心を強くしてくれている気がする。


 すでに筋肉痛も初日程ではない。痛くても次の日の鍛錬に耐えられる程度になって来たし、刀も心なしか少し軽くなっているようにも感じられる。それは自分に筋力が付き、刀の扱いが上手くなったことを意味している。それは紛れもなく成長だ。


「あ、そうだ。手伝いに行かないとダメだね」


 素振りを終わらせた昇太郎は琴乃に言われた通り、帰って来た武士達の慰労のために琴乃が向かった方向へと行く。


 するとそこで昇太郎はこの世の現実を突き付けられた。


「う・・・わ・・・」


 言葉が出なかった。目の当たりにした光景はこの世界では当たり前のもの。しかし昇太郎にとっては初めて見る凄惨な光景だった。


 血に染まった服、包帯の様に布を巻かれた体のあちこち、聞こえてくる痛みによって漏れるうめき声、風に乗って伝わってくる血と泥と汗が混ざった不快な匂い・・・


 この世の真実にして歴史上幾度となく繰り返され、現代でも世界のどこかで銃声とともにこの臭いが充満している場所がある。しかしそれは昇太郎にとっては遠いどこか別の世界の出来事という感覚だった。だが今この場所で目の前に突き付けられたこの光景を見て、昇太郎は今まで自分がもっていた甘い考えがどれだけ愚かだったのかということを思い知らされた。


「あ、あれ? 琴乃さん?」


 帰って来た負傷兵の手当てをする中に琴乃の姿はない。そして負傷兵の中に琴乃の父親と兄の姿が無かった。外にいなければ既に屋内だろうと推察し、昇太郎は負傷兵の横を通り抜けて城の中へと入っていく。

 いくつかの部屋を見て回り、そしてついに琴乃を見つけた。


「琴乃・・・さん?」


 上座に寝かされているのは甲冑姿の男性。そしてその傍らに正座をしたまま黙り込んで動かない琴乃がいた。


「・・・あっ!」


 心配になって近づいて行くと、押し黙っている琴乃は大粒の涙を流していた。そして琴乃が泣いている理由。それは上座に寝かされた男性がすでに物言わぬ屍であったからだ。


「あ、あに、兄上・・・」


 上座で屍となったのは琴乃の兄。甲冑にはいくつかの傷と汚れがある。そして首から大量の出血があることから致命傷は首なのだろう。見たところ刀傷ではなく矢が当たったように見える。


「・・・・・・・・・・」


 昇太郎は何も言えなかった。今までどんなに苦しい人生を歩んできたと言っても、これほど重苦しく心が締め付けられて空虚な感覚になるのは初めてだった。


 昇太郎にとってはまだ知り合って十日程度の人。しかし琴乃にとっては今までずっと慕ってきた兄だ。そんな大切な人を失った悲しみを昇太郎はまだ主観で経験していない。経験していないが、それでもこれがどれほど辛いことかはこの部屋の空気で分かる。


「・・・ごめん」


 昇太郎は蚊の鳴くような声で謝罪の言葉を口にした。その謝罪の言葉が向けられたのはこの戦国の世界の住人の誰かではなく、現代に生きている自分の両親に対してだった。


 いじめられていた自分が川に飛び込んで目覚めたら戦国時代にいる。恐らく現代に自分はいないのだろう。ならば現代の自分は死んでしまったのと同じ状態のはずだ。琴乃が感じている悲しみを昇太郎は自分の両親に感じさせてしまったことになる。それどころか琴乃の兄は国を守っての戦死だが、昇太郎はいじめに耐えかねての自殺だ。琴乃以上の辛さと苦しさを両親に味あわせてしまったことへの罪悪感はとても大きかった。


「乱戦の中、流れ矢に当たったようだ」


 甲冑を外した琴乃の父、灰原昌隆がまだ汚れも残る衣服と体に神妙な顔つきで部屋へと入ってくる。


「すまぬ。もっと早くに敵の奇襲に気付いておればこのようなことにはならなかった」


 父は我が子を失った辛さだけでも心が壊れそうなのに、琴乃を苦しめ悲しませてしまったことにまで罪の意識を感じている。


「我が子に先立たれるとは・・・情けない父よ」


 すでに返事もできない琴乃の兄の姿を見て、父の灰原昌隆も涙が流れる。


「だが、泣いてばかりもいられない」


 父は涙を流したがすぐに服の袖で拭い去る。


「家督を継ぐ者を失った以上、これからのことを考えねばならぬ。琴乃よ。今後の家督の話はそなたにも関係がある。まだ子細は何も決まってはおらぬが、養子か婿を取ることを考えねばならぬ」


 灰原家の跡取りが戦死してしまった以上、灰原昌隆が死んでしまえば灰原家は跡継ぎがいなくなってしまう。家督を継ぐ者を用立てる時、妻はまず間違いなく琴乃になることだろう。


「父上・・・覚悟はできております。度重なる不幸も戦国の世の理ですから」


 気丈そうな言葉を発している琴乃だが、その言葉は嗚咽と鼻声でとてもではないが気丈とは言い難い。


「子細が決まり次第伝える」


「・・・はい」


 灰原昌隆はそう言うと部屋から出て行く。残された琴乃と会話に全く入れなかった昇太郎はしばらく琴乃の兄の亡骸と同じ部屋で同じ時を過ごしていた。

 その日のうちに琴乃の兄の葬儀は執り行われた。灰原家の主君である灰原昌隆を始めとした家臣団一同が揃うが、葬儀自体は質素で簡略化されたものだった。灰原家は裕福ではないため、葬儀にも多額の資金を投入できない。苦しいお財布事情に跡継ぎの戦死が重なったことで、灰原家の状況は財政だけにとどまらず様々な方面から危機が叫ばれていた。


「・・・昇太郎、すまない」


「ううん。さすがに辛いよね」


 琴乃は自室で壁を背に座り込み、赤くなった目を見せまいとうつむいている。その琴乃をあまり凝視しないように昇太郎が視線を逸らしながら対応していた。


 本来ならば葬儀に出なければならない琴乃なのだが、あまりの悲しみに葬儀どころではなかった。とりあえず自室で落ち着くまで休むということになり、その付き人の役目に彼女は昇太郎を指名した。


「情けないな。戦国の世で男達が死に逝くのは日常茶飯事だ。それを受け入れて慣れなければならないのが女の運命。もう三度目だというのに、親しい者がいなくなってしまう悲しみにはどうしても堪えられぬ」


 琴乃の悲しみを昇太郎は完全に理解することはできない。昇太郎は現代でもまだ肉親や家族の死に立ち会ったことがなかった。親しい人を失う悲しさを知らない。それは当たり前に見えて実はとても幸せな事だったのだ。


「さ、三度目?」


 琴乃の言葉に引っかかった昇太郎は無意識に聞き返していた。そして瞬時に不味いことを聞いたと思ったが、言葉にしてしまった以上もう後戻りはできない。


「ああ、昇太郎はしらなんだな。今日、葬儀をしている兄は家督を継ぐはずだった嫡男なのだ。次兄は二年ほど前に病に倒れた。三兄は去年の暮れだったか。領内で乗馬の訓練中に落馬して命を落としたのだ」


 跡継ぎの長男以外の家族を琴乃は既に失っていた。その時も今回のように葬儀にも出られないほど落ち込んでいたのだろう。しかしその時はまだ家督のことを心配することもなく、全ての兄弟を失ったわけでもなかった。しかし今日で琴乃は全ての兄弟を失い、灰原家の子供は彼女一人になってしまった。


「・・・不思議だな。同じ灰原の性を名乗っているからか?」


「え? な、なに?」


「昇太郎といるとなぜか落ち着く気がする。まるで家族と一緒にいるかのようだ」


 琴乃の何かを求めるような顔が昇太郎に向けられる。何かにすがりたいという、彼女の弱さなのだろう。最後の兄弟を失ったことで琴乃の心の中はとても孤独に近い状態になっていた。そんな心は誰か安心できるものを傍に欲していた。


「昇太郎・・・お前は私を置いて遠くへ行かないでくれ」


 琴乃は壁にもたれていた体を起こし、昇太郎に抱き着きつくように密着した。何かにすがりたい。彼女の心を染める孤独の色への恐怖から、間近にいる昇太郎に助けを求めるようにくっついて離さない。


「こ、琴乃・・・さん・・・」


「こんな私に親しく友のように家族のように接してくれるのは昇太郎だけだ。皆、武芸を嗜む私を奇異の目で見る。男勝りの馬術を見せればはしたないと叱責する。父上や兄上以外で受け入れてくれたのは昇太郎、お前だけなのだ」


 昇太郎は率直に馬を乗りこなし、武器を扱える琴乃が凄いと思ったことから彼女を褒めたのだ。しかしこの時代の常識では女がそこまで武芸を磨くことは非常識と言える。まったくないわけではないが、圧倒的に少数派である。故にその少数派が異端視されるのは致し方ない。


「僕は琴乃さんが琴乃さんの思うままに生きればいいと思っているだけだよ」


 現代では男女平等という考えが基本になる。そして戦国時代当時は男尊女卑の時代だったと言われている。


 当時は戦争が男の仕事で城や家を守るのが女の仕事となっていた。男尊女卑とは言葉だけで男女によって完全な役割分担があり、その役割に沿って自分の生き方を貫くのが当時のスタイルである。しかし現代ではそのスタイルは薄れつつある。男が必ずしも命懸けで戦ってくるわけではない。女は社会進出を果たして家を守るだけの存在ではなくなった。

 時代と共に移り変わっていく価値観があり、琴乃はこの時代の価値観に当てはまらない女性だ。そして昇太郎のいた現代の価値観に近いかもしれない。ならば彼女が昇太郎に親近感を持つのは当然で、昇太郎が彼女を悪く言わないのもまた当然のことだった。


「昇太郎・・・お前は本当に優しいな」


 琴乃がギュっと、昇太郎に先ほどよりも強く抱きついてくる。それはもう抱き着くというより抱きしめるといっていいくらいの強さだ。


「え、い、いや、僕なんて・・・」


 抱きしめてくる琴乃の体が昇太郎の体に密着する。あれだけ男勝りで勇ましい彼女なのだが、いざ密着してみれば思ったよりもその体は柔らかい。抱きしめてくることで胸が身体に触れて気が気ではない。今まで男としか接触がなかったと言ってもいいくらい寂しい人生を送ってきた昇太郎。触れる彼女の腕や体の一部は男とは全く違う女の子特有の柔らかさを持っている。それは昇太郎にとって想像以上の衝撃と共に、男勝りな彼女でもこんなに柔らかいのかという驚きから、自分がしっかりしなければならないという思いと新たな決意があった。


「・・・・・そうだっ!」


「うわっ!」


 しんみりとした雰囲気が漂っていた時、何かを思いついた琴乃が突然大声をあげた。密着していた体を離して琴乃は真正面から昇太郎をじっと見つめる。


「・・・ふむ、少々無理があるな。しかし駄目かどうかもまだわからぬ。父上に進言してみる価値はあるかもしれぬ」


 琴乃は昇太郎を見ながら何か一人で考え込んでいる。


「え、えっと・・・何?」


「ふふっ、それはまだ秘密じゃ」


 先ほどまでの悲しみに満ちた雰囲気から一転、どことなく明るさを取り戻した琴乃がそこにいた。彼女が何を考えているのか昇太郎にはわからなかったが、それでも彼女に笑顔が少しでも戻ったのならそれだけで満足だった。


 その後は少し落ち着いた琴乃といつものように雑談めいた会話を交わし、現代の知識を持つ昇太郎が琴乃の興味を引きつける内容を話しに盛り込んで会話した。それにより会話はこんな状態であるにもかかわらず思いの外リズム良く進み、琴乃はほぼ正常といえるくらいまで元気を取り戻していくことができたのだった。

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