第5話 看病と生活

 翌日の昇太郎の朝は遅かった。日もだいぶ高くなったころに目が覚めた。


「・・・か、体が動かない」


 全身筋肉痛で少しでも動こうとすると痛みが走る。ただ仰向けに布団の上で寝転がっているだけなのに、全身が痛みによって熱を持っているような気がしてならない。


「運動不足・・・だったのかな?」


 今まで体育の授業でもろくに活躍をしたことが無いし、そもそも活躍できるような身体能力も持ち合わせていなかった。そのため日常でも運動らしい運動をすることもなく、ただ毎日を学校と家の往復に使っていただけだった。


 部屋の外では鳥の鳴き声が聞こえる。昇太郎がこうして動けなくても、世界は変わることなく動き続けていると思うと、自分がこの世界の中でどれだけちっぽけな存在かがよくわかる。


「うぅ、いたたたた・・・」


 起き上がろうとすると激痛が走る。怪我をしたわけでもないし、病気になったわけでもない。しかし体は動かない。人間はどうやら筋肉痛でも動けなくなる。それを昇太郎は初めて知った。


「昇太郎! 起きておるか?」


 痛みが走る体との格闘を諦めて少しした頃、お膳に乗った朝食を琴乃が運んできてくれた。


「台所へ行って私がこの手で用意をしてやったぞ。ありがたく思え」


 そう言って琴乃は昇太郎の傍らにお膳を置いた。しかし昇太郎は起き上がることができずに横たわったままだ。


「ん? どうした? 腹が減っておらぬのか?」


「い、いや、体中が痛くて動けないだけ・・・」


「おぉ、昨日言っておった筋肉痛というものだな。動けぬほど酷くなるものなのか?」


「いや、こんなのは僕も初めて・・・」


「そうか。昇太郎の軟弱さは天下一かもしれぬな」


 琴乃が実に楽しそうに笑っている。昇太郎は自らの不甲斐なさを悔やむが、琴乃がいい笑顔でいられるのであればこの不甲斐なさも悪くないと少しだけ思った。


「ところで昇太郎。お前のここは朝から元気だな」


「え? い、いや、それは生理現象というもので・・・」


 目覚めた頃に起こる男の生理現象。女にはわからないだろうが、こればかりはどうしようもない。しかし琴乃は女で、さらにこの時代ならそんなことを知っている方がおかしいのかもしれない。


「せいりげんしょう?」


「えっと・・・眠くなったらあくびが出たり、おなかが空いたら音が鳴ったりするのと同じで、男は朝起きるとだいたいこうなるんだけど・・・」


 一目惚れした相手に男の生理現象を説明する。昨日の夜といいこれほどの羞恥プレイを無意識にさせる琴乃は生粋のサディストなのかもしれない。


「そうなのか。私はまだ男を知らぬのでな。無知で済まぬ」


「え、えぇ?」


「本来なら私の年になる前にすでにどこかへ嫁いでいるのが普通なのだが、灰原家の置かれた状況と周辺の勢力との関係によって嫁ぎ先が無くてな。だからといって灰原家は他家の子を養子にもらう程の家柄でもなく、跡継ぎになる兄上もおるのでな。養子を受け入れる意味がない。よって私はこの年になってもまだ夫がおらぬのだ」


 戦国時代では三歳や五歳くらいで嫁に出ることも珍しくなかった。いわゆる政略結婚というものだ。そんな常識に中で昇太郎と同い年ぐらいになっても、まだ結婚もせずに婚約者が決まっていないのは異例中の異例なのかもしれない。


「いずれは夫を持つ身になるのだろうが、それもいつになるかわからぬ。飽き飽きとした日々に武芸や乗馬に興味を持ってな。暇つぶしのつもりが災いしたのか、弓を引いたり馬に乗って駆けたりしたことで貰い手が減ったのかもしれぬ」


 確かに琴乃は姫らしくない。だがその綺麗な容姿は絶対に嫁に欲しがる男はいるはずなのだ。もしかしたら本当に男勝りの弓や馬術の実力のせいで嫁の貰い手が無くなったのかもしれない。だがそれは一目ぼれをした昇太郎にとってちょっと嬉しい、そして安堵できる内容の話だった。


「将来の夫のためにも少し勉強しておくのも悪くなかろう」


「・・・え?」


 身動きが取れない昇太郎。体中が戦闘不能の中、朝の生理現象のせいで一部分だけ元気いっぱいの場所があった。まるで自分をアピールするようなその場所を琴乃が興味本位でデコピンのように指ではじいた。


「ぎゃっ!」


 突然の衝撃に驚いて体がこわばる。その瞬間、全身に激痛が走った。


「いでぇぇぇぇぇっっっっっ!!!!!」


 泣きそうな痛みが全身を襲い、さすがの生理現象も一瞬にして戦意喪失していた。


「男であろう! 多少のことで痛がって泣くでない!」


「む、無茶言わないでよ。そこだけは無理だから。あと全身も痛いからもうやめて」


 半分泣きそうな顔の昇太郎は無我夢中で仰向けのまま琴乃に懇願していた。


「昇太郎は軟弱だから鍛え方が足りぬのではないか?」


「そ、そこは鍛えられないんだよ」


「そうなのか?」


「そうなんだよ」


 昇太郎は思わぬ不意打ちに半泣きから本気で泣きそうになった。しかも琴乃は無知という天然の攻撃兵器と最強の防御城塞を備えており、何が羞恥プレイになっているのかさえ全く気が付いていないのだ。


「昇太郎だけではないのか?」


「世の男達全員の弱点はそこだよ」


「そうだったのか。すまぬ。まさか武士の様な屈強な男達にも克服できぬ弱点があるとは知らなかった」


 本当に悪いことをしたと気付いたのだろう。琴乃は怒られた子供の様に肩をすくめて申し訳なさそうにしている。今までの様子から見て彼女がこのような態度や雰囲気になるというのは意外だった。


「いかんな。私はダメな女じゃ。これでは嫁の貰い手がおらぬのもうなずける」


 彼女の嫁ぎ先が無いのはあくまで周辺国との状況によるもの。しかし彼女は自分に女としての魅力や価値がないと思っているのだろう。初めて会った時、彼女が自分の容姿を気にしていた。それは嫁の貰い手が無かったからなのかもしれない。


「い、いや、そんなことは無いよ。琴乃・・・さんはその・・・すごく綺麗だから・・・その・・・自信を持っていいと思うよ。だって僕は・・・・・」


 昇太郎は生まれて初めての一世一代の決意を固めた。この時代に恋愛結婚が成就するとは思えないし、昇太郎のようなどこの馬の骨ともわからないような男と、小さいとはいえ武家のお姫様が結婚にたどり着くなどということはあり得ない。それでも昇太郎はどうしても言ってしまいたい衝動に駆られた。生まれて初めて、生涯最初で最後になるかもしれない心の内を思い切って吐き出そうとした。


 しかしその時、昇太郎の腹が「もう待ちきれない。そこにある飯は俺のだろ」と言うかのように大きな音を立てた。


「おっと、すまぬ。朝食を持って来たのに私が邪魔をしては悪いな」


 昇太郎の心は涙に濡れていた。自らの一世一代の決意を自らの腹の音が台無しにしてしまったのだ。


「昇太郎、一人で食べられるか?」


「え? も、もしかして・・・」


 心の内を告げるのは失敗に終わった。しかし昇太郎のラッキータイムはまだ終わってはいなかった。


「体を起こすのも難しいか。ならば私が食べさせてやろう」


 お膳に乗っているご飯と一汁一菜のおかず。少なくてもっと食べたいと文句を思ったことはこの短い期間でも一度や二度ではない。たった二日しか経っていないのに食事に不満があったのだが、そんな不満を遥かに超える最大の幸運がやってきており、文句を始めとした負の感情は現在一切存在しなかった。


「なに、心配するな。病床に伏せた兄上の食事を手伝ったことがある」


 昇太郎は心の中で「心配はしていません。むしろ歓迎しています」と、琴乃に食べさせてもらえることに人生最高の喜びを感じていた。


「では行くぞ。何から食べたい?」


 琴乃の優しさに昇太郎は食事の味もわからず、赤面して喜びながらも照れて、さらには舞い上がっているのだった。


 食事が終わると昇太郎のいる部屋の障子を琴乃が明けて縁側が見えるようになる。


「昇太郎はそこで休んでいるといい」


 琴乃はそう言うとどこかへ行ってしまった。


 開け放たれた障子の向こう側では日の光を浴びた庭の樹が風に揺れている。時には小鳥が庭に下りてきて鳴き声を聞かせてくれる。このようなのどかで落ち着く光景は現代ではなかなか見られない。


「・・・ずっとこうしていたいかも」


 琴乃がいるかいないかではなく、自然というものの良さを生れて初めて知った。現代を生きる若者のほとんどは常にコンクリートジャングルが生活圏のほとんどになる。昇太郎も例外ではなく、コンクリートジャングルでの生活以外を知らなかった。生まれて初めて知る大自然がメインの中にある人の世界。自然と共に生きているという感じが凄く伝わってきて、それが心地良いと思うのは人間が動物だという証拠なのかもしれない。


 そんな庭の小鳥たちが飛び立っていく。すると小鳥たちがいなくなった庭に琴乃が現れた。手には弓が握られており、腰につけた筒に矢が何本も入っている。着物の上着を脱いで帯から上は薄い肌着の着物一枚のみ。その姿になった琴乃が腰につけた筒から矢を一本取出し、弓に番えて引き絞り狙いを定めていく。


「綺麗・・・」


 昇太郎は目を奪われた。立つ姿勢といい、持っている凛とした雰囲気といい、狙いを定める鋭い視線といい、全てがまるで芸術作品のように見えた。琴乃が番えた矢を射出する時に一瞬風を切る音がする。そして一瞬後に見えない先で矢が的に当たる音。見えなくても音と琴乃の様子で命中したのがわかった。


 一射を終えると琴乃はすかさず次の矢を筒から取り出して弓に番える。そして再び芸術的な立ち姿を見せて的を射る。雰囲気と音でまた当たったのがわかった。琴乃はそのまま筒の中の矢が全て無くなるまでそれを続け、全ての矢を的に当てると一息ついて額を流れる汗を拭う。


「どうだ? 今日は全て当たったぞ」


 彼女は少し嬉しそうに言った。どうやら全弾命中は日常茶飯事ではなく、今日は特別に出来が良かったようだ。


「実はこの部屋はずっと空き部屋でな。弓の稽古をするときには誰の邪魔にならないようにこの部屋の前でいつもしていたのだ。昇太郎が来てどうしようかと迷ったが、まぁ今日は病人だ。寝ているのも暇だろうから見て暇潰しにでもと思ったのだ」


 汗がにじむ琴乃は本当に綺麗だった。化粧や着飾った美しさではなく、人間が本来持つ生物としての美しさというものがそこにある気がした。


「見物人の前でするのは緊張するな。だがそれのせいか今日は珍しく全弾命中だ」


 嬉しそうな彼女はどうやら本番に強い勝負師のタイプなのかもしれない。緊張を味方につけられる心の強い人間。プレッシャーにすぐ心が折れそうになる昇太郎とは似ても似つかぬ正反対の存在だ。


「姫様! 何をなさっているのですかはしたない!」


 汗をかいた琴乃の元に一人の年を取った女性がやってくる。侍女の一人だろうか。


「嫁入り前のおなごが男の前でこのようなことをなさってはなりません!」


「ははは、心配性だな。今日の昇太郎は隣に裸で寝ていても安心じゃ。添え膳さえ食えぬのだからこの程度は問題ではない」


「問題大有りです!」


 琴乃と侍女の考え方や感性は全く違うようだ。琴乃が大丈夫だと思っていることも侍女は怒って注意している。それに対して琴乃は不満を言いながらも渋々従い、乱した着物を綺麗に着直す。


「昇太郎。怒られてしまったので今日はこれまでだ」


 懲りた様子を見せることなく、彼女は笑みを浮かべながら昇太郎の部屋の前から立ち去って行く。後を追う侍女に一度睨まれたが、何も言わずに琴乃の後を追いかけて行った。


「僕・・・何もしていないのに悪者になった?」


 全身筋肉痛によってとてもラッキーな思いをしたが、その一方でこれから少し暮らしにくくなりそうな暗雲も立ち込めていた。

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