第4話 鍛錬

 その日の夜から昇太郎の新しい生活は始まった。灰原家が所有する城の空いている一室を与えられた昇太郎に出された食事は実に質素な物。ご飯に小さな川魚と漬物に具がたくさん入った味噌汁だけだ。


「これが食事・・・」


 この時代は一汁一菜が基本であり、豪勢な宴の時も一汁三菜が普通だ。しかしその食事は現代の栄養学の観点から見れば質素である。


「なんだ? 魚は苦手か?」


 いきなり来た城の中で一人は寂しかろうと気を利かせて琴乃が自室での食事に呼んでくれた。よって琴乃と一つの部屋で食事をとることになったのだが、女の子と二人で食事をすることなど今までなかった昇太郎は緊張している。さらに慣れない食事に戸惑いも隠せない。もう一つ言えば部屋の外で何かあった時のために侍女が控えているという監視の目にも落ち着かない。


「栄養はしっかりとれるのかって思ったんだけど・・・」


 ご飯に魚に野菜入り味噌汁に漬物。武家で小さいとはいえ城持ちの家族でも、裕福ではない以上贅沢はできないのだろう。夕飯にカレーやハンバーグが当たり前のように食べられた現代が懐かしい。


「やっぱり肉はいると思う。体を動かすと肉を食べた方がいいし、魚ももっと大きいのをちゃんと食べた方が体は丈夫になる。野菜もこの量は少ないんじゃないかな?」


 現代での生活で得た食育の知識を昇太郎は琴乃に聞かせていた。


「お主は不思議な奴だな。自らの出生や過去には触れられぬというのに、そう言うことはよく知っておるのだな」


「あ・・・」


 この時代、栄養という観点はまだそこまで重要視されていない。米に魚に肉に野菜を食べるということが重要であり、ビタミンやミネラルやたんぱく質やカルシウムという栄養素は全く知識として存在していない。よってそれらの栄養欠乏症で病気になる者は少なくなく、それは地位の低い者に限られなかった。


「確かにたくさん食べれば体は大きくなるな。以前、裕福な商人を見たことがあるが恰幅が実によかった。当たり前すぎて考えたこともなかったが、それを確かに知識として持っているのは必要な事かもしれないな」


 琴乃が魚とご飯を食べる。昇太郎もそれに続いて味噌汁に手を伸ばす。


「じゃが、体が丈夫になるというのは説得力に欠けるな」


 琴乃の視線が昇太郎の体に向く。色白で線が細い昇太郎はどう見ても体が丈夫そうには見えない。


「そ、そうだね」


 いじめられていたこともありストレスで痩せていることもあり、小学生の頃は給食を横取りされてしっかりと食べられていなかったという事実もあるが、どう説明していいのかわからずにそこは伏せていた。


「そなたはどこか不思議な感じがする」


「ふ、不思議?」


 食事中、琴乃から会話を振ってくる。


「この戦国の世にどこか異質な雰囲気を感じる」


 その正体はおそらく争いというものを知らずに身についた平和ボケと、さらにいじめ等の猛威から逃げ続けてきたことから生まれる敗北者としての空虚な雰囲気の集合体だろう。戦国の世では生きるか死ぬかの中で命を懸けてみんなが戦い、時には死ぬとわかっている戦いに自らの誇りのために出向く時代だ。命は大事で誰も死にたいとは思わないし死んでいいとも思わない。しかし時にはその考えを覆してでも誇りを守ろうとする。それが普通の時代に、昇太郎という存在は実に異質だ。


「それほど多くの人と会ったわけではないが、そなたのような雰囲気を持つ者には今まで出会ったことが無い」


 琴乃が出会ったことが無いのも無理はない。そもそもこの時代ではありえない社会構造が当たり前の時代で昇太郎は生きていた。この時代は世界中を探しても昇太郎のような人間は見つからないだろう。


「ここへ連れてきた理由の一つに、そなたに対する興味もあるのだ」


 食事を終えた琴乃が膳に器と箸をおく。


「なんと言うか、そなたと共にいても一切身の危険を感じぬのだ。何故だかわからぬが私の勘が無害だと断じている。この戦国の世では時に家族であっても裏切ることなど珍しくないというのに、そなたにはなぜか安心してしまう。理由はわからぬし事細かに話す言葉も持ち合わせておらぬのだが・・・」


 琴乃は首をかしげながら少しずつ言葉を絞り出すように、今の自分の率直な思いを言葉として連ねていく。


「あー・・・とりあえず、だ。私はお前という人間がどのような存在なのかが気になったのだ。だからしばらくはここから離れないでくれ」


 琴乃が笑顔を昇太郎に向ける。


「あ、は・・・」


 昇太郎は今まで同年代からそんな表情を向けられたことがなかった。誰も昇太郎に興味を持たないし、誰も昇太郎と深く関係を持とうとしなかった。常に底辺にいる存在で、いじめっ子達からはおもちゃにされるだけの日々。そんな昇太郎にとって、自分に興味を持ってくれる人がいることはこの上なく嬉しい。そしてその興味が昇太郎自身をまったく傷つけない興味であることが喜ばしい。


 昇太郎は綺麗な琴乃の笑顔に見惚れて食事の手が止まっていた。


「なんだ? もう満腹か?」


「あ、食べます」


 琴乃の笑顔で胸はいっぱいになったが、腹はまだいっぱいにはなっていなかった。


「そなたはこれから私の話し相手になってくれ」


「は、話し相手?」


「姫という肩書は実に堅苦しくて暇でな。今日のように外に出るのも一苦労なのだ」


 そう言う風に見えないのは琴乃が家族からもお転婆と言われていることが原因なのだろう。軽快に馬を乗りこなし、弓を体の一部のように扱う彼女はいうなれば女武者や姫武者などというのが適当かもしれない。


「引き受けてはくれぬか? もちろん時間のある時で構わぬ」


「あ、えっと、それなら問題ないです」


「そうか。それはよかった」


 琴乃が嬉しそうに笑顔を見せる。その笑顔に昇太郎の心は矢で射抜かれたように虜になってしまう。


「ではこれからよろしく頼むぞ。昇太郎」


「あ、は・・・・・い?」


 琴乃が今言ったセリフに昇太郎が固まる。


「えっと、今僕の名前・・・」


「ずっと他人行儀では話辛かろう。私はお前のことを昇太郎と呼ぶ」


 同年代の女の子に下の名前で初めて呼ばれた。その感動と衝撃、そして心を鷲掴みにされるような感覚に昇太郎の顔は照れて赤くなっていく。


「お前は私のことを琴乃と呼んでよいぞ。まぁ、二人だけの時限定だがな。立場上のものもあるので他の者がおる時は様をつけるよう心がけよ」


 そして相手も名前で呼んで良いという許可を得られた。今日初めて出会った琴乃という女の子と一日でここまでの間柄になれたことは昇太郎にとってはまるで夢のようだった。


「明日、目が覚めたら家の布団の中とかじゃありませんように・・・」


 昇太郎は戦争に巻き込まれるのは嫌だ。だからと言っていじめっ子がいる現代も好きではない。どちらか片方を取るというのは難しく、どちらも一長一短と言える。その中でこの不便で殺伐とした時代におけるプラス要素として琴乃の存在が挙げられる。彼女に対する感情が昇太郎には琴乃がいるこちらの方がいいという思いを少なからず思わせていた。


「だが昇太郎との話がつまらぬと思うたら話し相手の話はなかったことになるぞ?」


「え?」


 天国から地獄へ真っ逆さま。そんな琴乃の言葉に心臓はずっとバクバクと激しく動いている。


「つまり昇太郎の仕事は私を楽しませることだ」


「で、でも・・・僕、話すのは下手だよ」


「話し方や話す技のことを言っているのではない。話す内容で私を楽しませよと言っているのだ」


 話術の技量は問わない。とにかく琴乃の知らないことや思いもよらないことを話して彼女を楽しませる。それができればできるだけ、彼女と一緒の時間が増えるのだ。


「が、頑張るよ」


 武人としての鍛錬を受けさせられることが決まって心が沈む一方で、昇太郎にとって女の子と楽しく話せる時間が来たことは胸が躍る。これにより明日から行われる鍛錬にも身が入り、琴乃との楽しい時間が過ごせると昇太郎は考えていた。


 しかし武人としての鍛錬を終えて話が楽しめるだけの余裕があると思っている昇太郎にとって、明日はそれほど甘くない現実が突き付けられることを彼はまだ知らなかった。


 翌朝から昇太郎にとって厳しい日々が始まった。早朝、日が出ると甚六が昇太郎を叩き起こしてまずは厩の掃除と餌やり。そして井戸から水を汲んで食事の準備をする台所にいる女性陣に届ける。そして屋内の掃除をして朝食。食べ終わると領内の農家の手伝いを含めた巡回。この時代は一日二食のため昼食やおやつといったものは無く、終われば城に帰って剣や槍の稽古。そして再び水汲みをして台所に届け、食事ができるまで城内の備蓄品の管理や整備だ。武器や兵糧などの確認が終わり、夕食を食べるころには日は完全に沈んでいた。


「つ、疲れた・・・」


 昇太郎は与えられた部屋の中で布団にまでたどり着くことができず、部屋の入り口付近でうつ伏せになったまま動けなかった。食事の前に水浴びをして汗は流せたが、今まで石鹸やシャンプーなどの生活用品があった時のようなすっきりした感じはない。


 体中はいたる所が悲鳴を上げていた。厩の掃除の時点ですでに疲れていたにもかかわらず、農家の手伝いでは重い荷物の持ち運びなどを行い、疲労困憊の中で剣や槍を扱った訓練を行った。当然剣や槍など持つのも初めての昇太郎は疲れと非力さと不慣れから情けない動きしかできず、稽古をつけてくれる甚六にとにかく手痛い目に遭わされた。最後の備蓄品の管理や整備ではすでに頭は回っておらず、勘定のミスを幾度も起こしては叱責を受け続けた。部屋にこそ帰ってくることはできたものの、今にも死んでしまいそうなほどの疲労と眠気に耐えるので精いっぱいだった。


「昇太郎! 元気・・・・・ではなさそうだな」


 勢いよく障子を開けて部屋に突撃してきた琴乃を迎える力も残っておらず、うつ伏せのまま死にそうな目で彼女を見ることしかできなかった。


「軟弱な昇太郎に甚六の鍛錬は厳しかったか?」


「き、厳しいとか言う前に・・・鍛錬の前でもう限界だったんだけど・・・」


 昔の侍はこんな生活をしていたのか、と昇太郎は嘆きたくなる。今まであった知識には全くない生活スタイルだったことから、侍や武家という存在に対する認識が変わりそうだった。


「すまぬな。灰原家は裕福ではない。農民の手伝いや厩の掃除、備蓄品の管理などに専属の者を割けるだけの余裕がないのだ」


 本来なら武士がしない仕事まで灰原家の人達はやっている。裕福ではない武家が戦国の世の中を生きていくには節約や倹約も必要なのだ。しかし武士をテーマにした映画やドラマではそれなりに地位のある人が中心になる。つまり歴史に名を残した偉人達とは全く違う生活を昇太郎は送っている。しかしそれでも戦国の世の武士というカテゴリーに属する生き方である。


「明日は明日でまた厩の掃除から始まる。農民の手伝いへ行くが明日は別の農村だ。行けるか?」


「・・・立つことも無理かもしれない」


 昇太郎は完全に意気消沈としており、明日起きられるかどうかも疑わしいほど体は疲れていた。


「弱音を吐くでない。なせば成る。それに耐えねばならぬ時に耐えられなければいざという時に困るぞ」


 『耐える』・・・・・その言葉に昇太郎は現代での生活を思い出させられる。いじめっ子たちにいいように弄ばれながらも毎日学校へ行っていた日々は耐えていたのだろうか。そう考えると答えは簡単だ。耐えていたのではなく諦めていた。いじめられることに耐えるのではなく、それを無気力に受け入れてしまったことで完全に諦めていたのだ。そしてそれが蓄積されてとうとう昇太郎は諦めの境地にいることさえできなくなり、川に飛び込むという暴挙に走ったのだ。


「体中が痛い・・・たぶん明日は筋肉痛だよ」


「き、きんにくつう?」


 昇太郎の言葉に琴乃が首をかしげる。


「慣れていない動きをいきなりたくさんすると体中が痛くなるんだ。それは体を動かす筋肉っていう・・・まぁ、内臓みたいなものかな。それが耐えきれなくなって休息したいって悲鳴を上げている状態なんだよ」


 現代では当たり前の筋肉痛も当時は今ほどの医学的な知識が広く浸透していない。


「ああ、なるほど。腕や脚や肩などが痛くなるのはその筋肉痛というものだったのか」


 しかし知識では知らなくても感覚や経験で彼らは知っている。そしてそれらは口伝えで後世へと語り継がれ、それが民間療法や文化的な知識となり、試行錯誤の末に編み出された解決策がいわゆる知恵袋となるのだ。


「しかし相当参っておるな。身動きが取れない昇太郎を見ていると可愛らしいぞ」


 琴乃がうつ伏せに倒れて身動きが取れない昇太郎に傍らに座って指で突っついている。


「あ、ちょっと・・・そこは痛いからやめて・・・」


 限界を超えた疲労のせいで昇太郎は身動きが取れない。痛い場所を突かれても逃げることさえ叶わないのだ。


「面白いのう。身動きが取れぬ男を手玉に取っているようじゃ」


 おもちゃを手に入れた子供が遊んでいるような気がした。そしてその遊びを通して昇太郎は確信した。琴乃は現代に生きていれば間違いなく気の強いサディストだ。


「しかたあるまい。今日だけは特別に私が布団を敷いてやろう」


「・・・え?」


 昇太郎に与えられた部屋で、琴乃が昇太郎のために布団を敷いてくれる。それは中学生という多感な年ごろの少年にとってある一つの妄想を思い浮かばせる。


「なんだ? 姫である私には布団を敷くこともできないと思っていたのか?」


「い、いや、そうじゃなくて・・・・・」


「安心せい。こう見えても家事は得意なのだぞ」


 得意げに笑いながら琴乃は布団を手際よく敷いていく。どうやら日頃から自分の布団は自分で敷いているようだ。


「ほれ、この通り。完璧であろう」


 まるで旅館の仲居さんが敷いてくれたのではないかと思う程、しわもほとんどなく綺麗に布団が敷かれていた。


「では、昇太郎を・・・」


 琴乃は昇太郎の傍らに立つとしゃがみ込み、疲れ果てて動かせない体を横から押して転がしていく。


「わ、うわ、痛い、それに、目が回る・・・」


 ゴロゴロと転がされて昇太郎は布団の上へと到着した。


「どうじゃ? 寝心地はよかろう」


 寝心地は正直昨日と大差はない。だが女の子に敷いてもらったという事実だけで、その布団はどことなく別格なような気がした。


「・・・う、うん」


 女の子と二人きりで自分が布団の上に寝転がっている。昇太郎にとってこのようなシチュエーションは初めてだ。そしてその先を想像するとどうしても顔の赤さが耳にまで広がっていってしまう。


「病にでもなったか? 顔が赤いぞ?」


 琴乃は昇太郎の額に手を当てる。同年代の、しかも女の子からこのように優しくしてもらったことが初めての昇太郎。もう夢見心地でこのまま死んでも悔いはないと思えるほど幸せだった。


 だが、昇太郎はまだ死ねない。この先を想像した妄想が現実となるまで、昇太郎はまだ絶対に死ねないと一瞬で心が切り替わっていた。


「ふむ、少し熱いな。今日は体に似合わず働き過ぎたのだろう。ゆっくり休め」


 昇太郎の妄想は脆くも崩れ去る。動けない昇太郎に薄い掛布団代わりの布をかけ、部屋を灯していたろうそくの明かりを吹き消す。


「昇太郎は今日の働きのせいで明日は動けそうもないと甚六に伝えておこう。だから気兼ねなくゆるりと休むが良い」


 琴乃の言葉に妄想の実現はあり得ないと確信した。だが優しくされただけでもよかったと、とりあえず昇太郎は喜ぶことにした。


「昇太郎」


「・・・あ、なに?」


 部屋を出て行こうとした琴乃が立ち止まって振り返った。灯りは既に消されていたので月明かりだけでは彼女の表情はよくうかがえない。


「聞いてはいたが、男とは体が元気で無くともそこは元気になるのだな」


「・・・・・え?」


 琴乃の言葉に昇太郎は穴があったら入りたい気分だった。一目惚れした相手がいくらオープンな性格だとはいえ、そんなことを言われればどんな羞恥プレイ以上の精神的ダメージを負う。


「だが昇太郎よ。そこが元気であれば病は軽いぞ。ではまた明日だ。次は楽しい話ができるといいな」


 簡潔に話を終わらせて部屋を出て行くのは彼女が恥ずかしがっているからなのか、それともこれ以上の話は昇太郎に悪いと思ったのか、とにかく何もわからないまま琴乃は部屋を後にしてしっかりと障子を閉めて行った。


「明日、どんな顔をして会えばいいんだよ」


 動けない体のせいで最後の最後にとんだ辱めを受けた気分だった。できれば琴乃が明日も普通に接してくれることを願う昇太郎。しかし一人になったら静かな部屋。日中の疲れがどっと押し寄せてくる。幸か不幸か、ろくに何かを考えることもままならないまま、昇太郎はあっという間に眠ってしまった。

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