第12話 神速

「深緋久英を捕らえました!」

 灰原軍本陣に届いた一報に喜びと安堵の声が其処此処で漏れる。

「危険な男です。すぐさま切り捨てるべきでしょう」

 緑沢晴時の一言に皆同意しているのか、異議はなく首を縦に振っている。

「深緋久英の首を赤峰家に送ってやりましょう。そうすれば二度と戦など起こせますまい」

 敗北を悟り、戦うことなく降伏した深緋久英。その処遇は昇太郎を除く全員が満場一致で斬首を主張する。

「深緋久英さんの件についてですが、今は置いておきます」

 昇太郎の一言に周囲は首を傾げた。

「何故でございますか? 此度の戦を主導した男でございます。首を切るのは当然のことでございましょう」

 深緋久英を斬首の処すべきという主張は頑強だった。おそらくここで説得しても時間を無駄に労すだけで変わることはないだろう。

「深緋久英さんはすでに捕まえています。後回しにして、優先順位の高い方を先に済ませなければなりません」

「優先順位の高い方・・・とは?」

 誰もが思っていた。戦いは深緋久英を捕まえ、赤峰軍を降伏させたことで終わったのだと。その結末を疑う者はいなかった。

 しかしそれでは解決しないことが多いのだ。

「確かに戦いは終わりました。ですが、それでは多くの禍根と、将来また争いが起こる火種を残したままになります」

 昇太郎は灰原軍本陣にいる全員を見渡しながら言葉を続ける。

「まず降伏した赤峰軍の兵士達はどうしますか? こちら側に取り込むとなれば、住居に食料に仕事などを用意しなければなりません。早急に対応したとしてもそれなりに時間がかかりますので、良い選択肢とは思えません。それに故郷から離れるということを快く思わない人もいるでしょう。なら赤峰領に帰すのか、となれば無傷で敵国の兵力を回復させるようなものです。それもできません」

 戦いに勝てば万事解決というわけではない。むしろこの戦後処理が後の治安や国力の増減に大きく関わってくる。

「それに今回の戦いの原因は食糧問題です。赤峰領と青森領、そして緑沢領も含め、全ての領地で安定した食糧供給が行われなければ、再び今回のような戦いが起こってしまう可能性があります。それを避けなければ、いつまで経っても戦いはなくなりません」

 中世以前の地球上で起こった戦争の多くは食料や水資源などの奪い合いが主目的だったとも言われている。より豊かな土地を手にいれ、より安定した食糧供給が可能な国を目指した結果の戦いが多かったのだ。

「今後起こりうる戦いも含めて、今回で全て解決したいと僕は考えています」

 今後起こりうる戦いも含めた全てを解決する。その一言に周囲はみんな黙った。異議を唱えることを考えている者もいるが、昇太郎が何を考えているかわからないことから口を閉ざしている。

「このまま一気に赤峰領と青森領もおさえます」

 昇太郎のこの一言は皆を大いに驚かせた。驚きがあまりにも大きかったためか、何名かは考えていた反論を口にできず沈黙を守ることとなった。

「し、しかし、それではあまりにも時をかけすぎるのではありませぬか?」

 胡粉勝光が驚きに負けじと異議を唱えた。それに烏羽信龍も続く。

「茶土家が動く恐れがあります。時をかけて国を留守にするのは得策ではございませぬ」

 灰原家を取り巻く環境は決して安泰というわけではない。隙あらば攻め込もうという隣国もある。しかし今は食糧事情により各国が動くに動けないという状況の中、海を要している茶土家は他国に比べて食糧事情がそこまで逼迫していない。灰原領を兵士達が留守にしている隙を狙うという情報がある以上、一刻も早く国に兵士達を連れて帰らなければならない。

「時間の猶予があまりないこともわかっています。ですが青森家や赤峰家の現状を置いておくわけにもいきません。ですのでここは素早く、そして一気に片をつけます」

 自信を持って放った言葉に異論はなかった。灰原昇太郎が奇跡の大勝を収めた知恵を持つ人間だと言うことは周知の事実。そんな人間が自信満々に言い放ったのだ。反論できる者などいない。

「部隊を分割します。胡粉さんと烏羽さんは一部隊を率いて赤峰領へ向かってください。おそらく交渉次第ではすぐに降伏して戦いにはならないでしょう」

 主戦力は降伏して灰原軍の一翼を担い、赤峰家の強さの主要因であった深緋久英は敗れて捕縛された。その点を前面に出して降伏勧告を行えば、赤峰家を戦わずに降伏させるのはさほど難しくないだろう。

「深緋久英は一度、緑沢さんに預けます。そして緑沢の軍を中心とした一部隊率いて城で待機していてください」

「う、うむ、承知した」

「そして浅葱繁信さんは僕と一緒に一部隊を連れて青森領へ向かいます」

 昇太郎直々に青森領へと向かう。その指示はまたしても皆を困惑させる。

「兵力差は歴然でございます。わざわざ出向かれる必要があるとは思えませぬが?」

「青森広敬さんは少々特殊な方で、今回の一件を経ても降伏しないかもしれません。いや、もしかすると責任を取って自ら命を絶つ、などということもあるかもしれません」

「た、確かに・・・」

 浅葱繁信は昇太郎の予想に頷く。青森広敬ならばそういう行動を取ることは十分想像できる。

「ですがあの人を失うのは青森領にとって良いことではありません。ですからなんとか誤った決断をしないようにしなければなりません」

 青森広敬を思い留まらせるためにも、昇太郎自身が出向くのが一番だと考えたのだ。

「余り時間を無駄にできないのですぐに行動へ移しましょう。人数の割り振りも僕の言う通りでお願いします」

 深緋久英の軍を破って間もなく、次なる戦いのために灰原軍は動き出した。その動きはまだ特筆すべき速さを見せてはいない。




 青森領へと向かう昇太郎と浅葱繁信が率いる灰原軍。青森領に入る頃にはすでに日が暮れようとしていた。

「茶土家が動き出すとすれば猶予はあと一日程とお聞きしましたが・・・」

 青森領内に入っても守りの青森軍はいない。すんなりと城まで突き進む道中、浅葱繁信が昇太郎に問う。よその国のことにかまっていて大丈夫なのか、と。

「そうですね。明日には動き出して、明後日には攻められると思います」

 あっさりと昇太郎は灰原領が危機にさらされていると言葉にした。それを聞いて浅葱繁信はいても立ってもいられなくなった。

「殿はわしが説得する。昇太郎殿は国に帰られるが良いだろう」

「え? どうしたんですか? いきなり・・・」

 浅葱繁信は真剣な顔で、まっすぐ昇太郎を見て言葉を続けた。

「自らの国を失う危機を前にして、よその国を気にかけている場合ではなかろう」

「まぁ、確かに余裕があるとは言えませんけど、それは青森家も同じでしょう」

 今回は赤峰家に狙われた。その赤峰家を挫いたとはいえ、完全に安全になったというわけではない。青森家に隣接する国は赤峰家だけではないのだ。青森家をこのまま放っておいたら、新たな敵がまた押し寄せてくるだけだ。その前に手を打たなければ、青森家の未来は苦しいまま何も変わらない。

「しかし灰原領が狙われているというのに・・・」

 一方的に助けられるだけでしかいられない。それが浅葱繁信には申し訳なさ過ぎて、耐えられなかった。

「では、次は助けてください」

「は?」

 昇太郎の言葉の意味がよくわからなかった。

「次に灰原家に何かが起こったとき、青森家が助けてください」

 今危機に陥っていることなど無いかのように、昇太郎は優しく浅葱繁信に言った。

「次など・・・」

 そのようなことなどあるのだろうか。もし灰原軍が帰るのが間に合わなければ、その次など一生訪れない。

「今は、目の前のことに集中しましょう」

 昇太郎の言葉を聞いて前を向く。その視界の中には見慣れた、青森家の城がはっきりと見えた。

 城に到着してから、城内に招かれるまでは早かった。浅葱繁信が使者となり、青森広敬との面会を許された。昇太郎は青森領に突如現れたときと同じように、灰原家の人間としてはたった一人で城の中へと入っていく。

 広間の奥には青森広敬。傍らには水月がいた。昇太郎との再会に笑みを浮かべる水月だったが、青森広敬の圧倒的な威圧感が広間の緊迫感を強める。

 昇太郎を先頭に、浅葱繁信が傍らに付き従うように、青森広敬と対面して広間の床に腰掛けた。

「灰原昇太郎殿か。此度はいかなる用件で参った?」

 昇太郎を保護してくれたときの雰囲気とは全く違う。他国の、そして敵国との外交用の表情と雰囲気だ。一切の隙もなく、一瞬の緩みも見られない。

「青森さんには戦わずに降伏してもらいたいと思っています。そしてその思いを直接伝えようと、今日はやってきました」

「ほぅ、わしに戦わずに膝を着けと申すか」

「はい。今回の戦いは何も産みません。無駄な戦いはしないに越したことがないと思います」

 青森広敬の威圧感に負けないように気を張る昇太郎。状況としては青森広敬が圧倒的に不利だ。兵力差に加え国力に食糧事情など、全てにおいて灰原家の方が勝っている。さらに灰原昇太郎の知恵には青森家の未来を明るく照らす力があることもすでに示している。ここで青森広敬が戦いを続行する理由はない。

「確かにわしに勝ち目はない。青森領の行く末を考えれば、灰原家に従うことが最善であろう」

 青森広敬は全てをわかっている。わかった上で、他国同士の外交という場をここに設けているのだ。

「全ては灰原家の隙にするが良かろう。青森家にはもはや選択の余地など無い」

 国難において青森家の進むべき道は一つ。食糧事情に困っていない灰原家に助けを請うこと以外にない。この点において、降伏の了承と従属の承認はいとも簡単に得られた。

「これより先のことはそこにいる浅葱繁信に全てを任せる。灰原家の元で力を発揮し、青森家の未来を明るいものとするのだぞ」

 そう言って青森広敬は立ち上がった。もう話は終わりだと言わんばかりに広間を出て行こうとするその背中に、昇太郎は大きな声で待ったをかける。

「待ってください!」

 優男の昇太郎らしからぬ大声に、さすがの青森広敬も足を止めてしまった。気圧されたわけではなく、ただただ意外だと驚いただけだ。

「青森家にはまだあなたの力が必要です。まだ全てを誰かに託すのは早すぎます」

「わしの最期はわしが決める」

「まだ終わってはいません」

 青森家を浅葱繁信に譲り、自らはいなくなる。自決か出家か、何を考えているのかはわからないが、その選択肢こそ昇太郎が回避したいものだった。

「青森領内の人達はみんなあなたを慕っていて、信じていて、頼りにしています。そんなあなただからこそ、これからの青森領に必要なんです」

「灰原昇太郎の策があればわしのことなど皆すぐに忘れる。腹一杯食べ、外敵に脅かされない国作りが成されるのであろう?」

「そうなるためにも、あなたの力が必要です」

 青森広敬は背を向けていた昇太郎に方へと向き直る。

「ほう、何故わしの力が必要になる?」

「今の灰原家にはあなたのような人がいません」

「ん? どういうことだ?」

 昇太郎の言葉の意図がわからず青森広敬は眉を少しひそめる。

「経験豊富な武人であるあなたという人は他にいません。もし力が必要となったとき、灰原家はあなたに頼ることになるでしょう」

「わしに・・・頼るだと?」

 無傷不殺で戦に勝ち続ける男が、戦に経験だけが取り柄の武人を欲する。その意図がはっきりとわからない。

「これから灰原領内は新たな経済圏を築きます。そこで必要になるのは、長所と短所をそれぞれ補い合う関係性です」

「長所と短所を補い合う、だと?」

「はい。旧白山領、旧黒川領では農作物が多くとれます。赤峰領では海産物が多くとれます。緑沢領や青森領では山が多いので農作物は多くはとれませんが、おそらく上質な木々や石材がたくさんとれるでしょう。灰原領はただの拡大した支配地ではなく、それぞれの土地がそれぞれの土地に特化した産業を発展させ、互いの長所で互いの短所を補い合う地域的な関係を経済圏として築くことを考えています」

 食べ物がとれる土地では食べ物をとり、資源がとれる土地では資源を取る。それを双方向に多少をやり取りして、互いに助け合い補い合う国を目指す。地産地消で領内の全てが安定して回るようにする。それが昇太郎の目指す灰原領の未来であった。

「戦いがいつ起こってもおかしくないような世の中だからこそ。戦いに秀でた人が一人いてくれるだけで心強いんです。それに青森領内では誰よりも信頼され、誰よりも領内のことをよく知る人がいなければ、改革を素早く行うことはできません」

 長く青森領を統治してきた青森広敬以上に青森領内を詳しく知るものはいない。素早く事を運ぶのには、青森領内を詳しく知り尽くした人間の力が必要不可欠だ。その人間は青森広敬を置いて他にいない。

「どうかお願いします。青森領の未来のため、そしてこれからの灰原家の経済圏全域に住む人達のため、あなたの力を貸してはくれませんか?」

 昇太郎の考えていることの全てを理解したわけではない。昇太郎の言っていることの全てがわかったわけでもない。何を言っているのかよくわからない部分もある。しかし、その言葉にはなんとも言えない魅力があった。

「わしの力が必要だと?」

「はい。欠かすことができません」

 まっすぐ、青森広敬を見る昇太郎の目。その目は一切のよどみがなく、わずかに視線がそれることもない。本心から本気で、灰原昇太郎は青森広敬の力を求めているということがよくわかった。

「・・・いいだろう」

 少し考えた後、青森広敬は昇太郎の申し出を受けることに決めた。

「わしの最期はしばし先延ばしだ」

「ありがとうございます」

 青森広敬は昇太郎の言葉を聞き入れ、青森家に残ってくれることになった。自害もしない。昇太郎の求めていたとおりの結果となった。

「水月」

「は、はい」

 今まで置物のようになっていた水月。急に青森広敬に名を呼ばれて多少まごつきながらも返事をした。

「お前の住む場所はもうこの城にない。これよりお前は灰原の城で過ごすのだ」

「・・・はい、かしこまりました」

 水月が即座に了承するが、昇太郎は突然のことで戸惑いが隠せない。

「え? ど、どういうことですか?」

「どうも何も、これより我ら青森家は灰原家に付き従うのだ。裏切らぬという証のために人質を送るのは当然のこと」

「え、えぇっ?」

 昇太郎は青森広敬が裏切るなど微塵も思っていない。だから今回の件は、青森広敬が昇太郎の申し出を受けた時点で終わりのはずだった。しかし、それ以上の展開が昇太郎を待っていたのだった。

「これからよろしくね。昇太郎」

 もはや外交の場では無いと言うかのように、ただの昇太郎という一人の人間としてこの地に来たときのように、彼女は堅苦しくない笑顔と共に挨拶をした。

「えっと・・・あ、はい・・・」

 突然のことで戸惑う昇太郎。その返答には先ほどまで力説していた時のような言葉の強さは全く見られないのであった。

「おっと、こうしている場合ではない!」

 浅葱繁信が突如声を上げた。

「すぐさま灰原領へ帰らねばなりませぬ」

 灰原領は外敵の侵攻を受ける危機にさらされている。青森家での用事が済んだのであればすぐさま帰らなければならない。

「部隊もすぐさま反転させ、行軍の準備を・・・」

「あ、それは大丈夫です」

 青森領へとやってきた灰原軍を動かす準備。それを昇太郎は拒んだ。

「何故でございますか? 灰原領を外敵より守るには兵が必要でしょう」

「それはそうなんですが、部隊を今から緑沢領へ戻しても到着は明日、休み無く灰原領へ戻っても疲労で戦力にはなりません。ですので僕だけで大丈夫です」

 数が揃っていればいいというわけではない。兵士も人間だ。疲労が蓄積すれば動きは鈍くなる。そうすれば戦力としての力を発揮できない。数がどれだけいても、使い物にならないのであれば意味がない。

「そこで申し訳ないのですが、また緑沢領まで行けるようにしてもらえませんか?」

 以前は緑沢家の使者と共に緑沢家へ向かった。しかし今回はそうはいかない。青森家の面々に助けてもらわなければならないのだ。

「水月、一人くらいなら馬に乗せられるか?」

「あ、はい。できます」

「そうか。なら人質ついでにお主は行け。そして繁信、早々に健脚の良い馬を用意せよ。一刻も早く緑沢領へ送り届けるのだ」

「はっ!」

 浅葱繁信がすぐさま広間を飛び出していく。水月も馬に乗る格好へと着替えるために広間を出て行った。

「・・・お前が本物で良かった。礼を申す」

「いえ、僕の方が先に助けてもらっていますから」

 行き倒れのところを助けてもらった借りを返しただけ。昇太郎のその言葉に青森広敬は大いに笑った。

「はっはっはっ、器の大きな男だな」

 青森広敬は昇太郎がただの優男ではなく、信頼に値する優れた男だと確信したのだった。




 灰原軍が灰原家を出立してから三日。茶土家は軍備を整え、茶土領を出立。灰原領への侵攻を開始した。進軍開始から一日。茶土軍は灰原領との国境まで迫り、一夜の休息を経て万全の体制で攻撃開始の合図を待っていた。

「あれが国境を守る灰原の砦か」

 国境を守る灰原の砦など今やほとんど人がいないことは間違いない。攻めるとなれば容易に砦は陥落するだろう。

「あの砦を足がかりに灰原領を攻略するとして、どこまで攻め込むかが重要ですな」

「うむ、他国を助けにいった動機は知らぬが、敵はあの灰原昇太郎だ。まともにぶつかればこちらが危険だ。灰原軍が帰ってくるまでに攻め取れる限りを攻め取るのが良いだろう」

 その後のことは状況を見て判断すれば良い。今はまず手に入れることができる灰原領の一部を奪い取ることが先決だ。

「申し上げます。緑沢領を探っていた者より報せが届きました」

「そうか、それで灰原軍の動きはどうなっている?」

 一番重要なのは灰原軍がいつ国に帰ってくるかだ。その動き方次第では最小限の動きでこちらも攻撃を中止しなければならない。しかし有利とみれば一気に攻め取る。そのためにはこのように手に入る情報は非常に重要となる。

「今朝緑沢領を援軍が出立した模様」

「ほう、今朝か。ならばこちらに着いて、戦えるようになるのはおそらく・・・ん?」

 部下の報せを聞いた茶土軍の大将を務める茶土昭義(さどあきよし)は、何かに引っかかった。

「もう一度だ」

「は?」

「もう一度報せを言ってみよ」

 何かに引っかかった茶土昭義。彼はその疑問を解消しようと、再び知らせを聞く。

「今朝緑沢領を援軍が出立した模様、とのことでございます」

「待て、援軍とはどういうことだ?」

 灰原軍が動いたのであれば、灰原軍が動いたという報せが入るはずだ。しかし灰原軍が動いたではなく、援軍が出立した、と報せが来たのだ。

「今朝緑沢領を出立した灰原軍の構成が赤峰軍五百、青森軍五百、緑沢軍五百の計千五百とのことでございます」

 灰原軍は動かず、灰原家に従属した三家の連合軍が動いた。これは確かに援軍と言って差し支えない。

「・・・待て、あの砦をよく調べよ。灰原軍の兵はどれだけいる?」

 大した数はいないはずの灰原軍。しかし援軍が動いたと言うことは、主となる灰原軍はもう動いていることになる。そうでなければ援軍が動くはずがない。

「城壁や櫓にはそれなりの数が配されているようですが、総数がどれだけになるかはわかりかねます」

 砦の中に籠もっている総兵力まで見抜くのは不可能だ。しかし現状、その総兵力が非常に重要なのだ。

 灰原軍は国を空にしていたはず。しかし出陣してみれば砦にはそれなりの数がいる。そして緑沢領を出立した援軍も時間が経てば到着する。それまでに砦が陥落していなければ、灰原軍の総兵力と援軍を同時に相手にしなければならなくなる。

「まさか灰原昇太郎はすでに国に引き返しており、守りを固めていたとでも言うのか? たった三日で戦を終わらせ、帰って守りを固めたとでも言うのか? そのようなことができるのか? まるで神のごとき速さではないか・・・」

 有利に事が進められるとみたから出陣したのだ。しかしその目論見が外れたとなれば一お大事だ。灰原家の総兵力は三千程度。そこに緑沢家の五百、青森家の二千、赤峰家の二千を加えれば、総兵力は七千五百と大きく膨らむ。もちろん全軍が牙をむくことはないだろうが、二千そこそこが限界の茶土家にとって、この数の差は非常に大きい。

 今回の侵攻は失敗が許されない。失敗は即、茶土家が灰原家に攻め滅ぼされることを意味するからだ。

「敵はあの灰原昇太郎・・・そう、あの灰原昇太郎なのだ・・・」

 国を失い、兵力も無かった。しかし瞬く間に三国を手に入れた稀代の知将。敵に回すと言うことはただならない覚悟が必要となる相手だ。圧倒的に有利で、勝つ勝利が確実とみたからこその侵攻。そこに不安要素が生まれた。ここからは攻めるか引くかは大将の判断次第である。

「・・・全軍・・・」

 茶土昭義は言葉を溜める。その間、風が吹き抜ける音だけしかしなかった。

「ここは、退く」

「なっ! ここまで来て戦わずに退くのですか?」

 配下の者達からは当然のように異論が出た。しかしその異論はたった一言で封じられる。

「敵はあの灰原昇太郎なのだぞ?」

「うっ・・・」

 国を失った状態から一瞬で三国を手に入れるような策を思いつくような人間を相手にしている。それは完全な勝利が見えた戦以外は仕掛けるべきではないという警鐘でもある。

「しかし我らはすでに兵を動かしております。今更退いたとしても、敵対したという事実に変わりは無いのでは?」

「実際に刃を交えていないのだ。外交の場でなんとでもなろう」

 戦ったかどうかは実に大きい。戦いが実際に行われていれば関係修復が不能だが、戦いが起こる前であればまだ取り返しはつく。

「ここは退く。いいな?」

 配下の者達の反論はなく、茶土昭義の指揮の下、茶土軍は戦うことなく国境から兵を退いたのだった。


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