第7話 策謀を巡らせる者達

 灰原家の城内の一室。そこでは灰原家の家臣団が集まり日々会議が行われている。その時と同じように今日も上座に現当主の灰原昌隆(はいばらまさたか)がいて、部屋の中央を開けるように両端に列を作り内向きに並ぶ家臣団。時と場合によって灰原昌隆の傍らに彼の娘がいることもあるが、基本的には男達が中心となって会議が行われている。

 しかし今日はそのいつもの光景とは少し違う。上座に座る灰原昌隆と距離を取りつつも対面して座るのは緑沢家の姫である花菜。そして灰原昌隆の傍らには双子の姫が揃っている。健康的で活発な長女の琴乃と、長女と比べるとやや細身で穏和な雰囲気の次女の雪絵。そして今日はさらにその二人が両側を身動きすら許さないというくらいがっちりと固めるように接近されている一人の優男がいる。半年前に灰原家を襲った滅亡の時、彼はその寸前に突如現れては誰もが思いつかないような策を用いて灰原家を救い、さらに灰原家を脅かしていた国力の上回る白山家と黒川家を無血併呑してしまう。その活躍から彼は英雄として灰原家のみならず、近隣諸国にまでその名声が広がっていた。

 その英雄として灰原家のみならず近隣諸国にて確固たる地位を築いたはずの灰原昇太郎だったが、この会議の場に立ち会う前の一悶着により彼は額にあざを作り、衣服は少々血で汚れていた。彼が片手に持った手拭いは鼻に当てられており、その手拭いは時間と共に赤い色が少しずつ広がっていく。

「あの、昇太郎様。少しお休みになられては?」

「いや、花菜さんもかなり切羽詰まっているみたいだから・・・」

「そ、そう言われましても、さすがに鼻血を出しながら会議というのは・・・みんなやりにくいと思うのですが・・・」

 会議の場を包み込む微妙な雰囲気。それは昇太郎の負傷具合によるものだ。さすがに昇太郎の身のことも考え、さらに会議が滞りなく進むかを考えれば雪絵の進言はもっともだ。

「しょ、昇太郎が良いと言うておるのだ。だ、だから良いではないか」

 昇太郎の両脇を固めるもう一人の姫、琴乃。雪絵と瓜二つの顔立ちである彼女はどこかよそよそしく目が時折泳いでいる。

「姉上様、昇太郎様が良いとおっしゃられるのであれば良いと思います。ですが再開した時のあの対応はいかがなものかと・・・」

「し、しかたないではないか! 昇太郎が長らく姿を消していたのが悪いのだ!」

「確かにお怒りはわかりますが・・・だからと言って再会の挨拶と言わんばかりに跳び蹴りをお見舞いするのはさすがにやりすぎだと・・・」

「しょ、昇太郎が貧弱で脆弱で軟弱だということを忘れていたのだ。そこは悪いと思っている。しかし半年たっても変わらない昇太郎も・・・」

 双子の姉妹の言葉の応酬に会議場の空気はもはや筆舌に尽くしがたいほど間抜けなものとなっている。国の行く末を決める議題もあるはずなのだが、もはや国の行く末よりも昇太郎の帰還を発端に起こった琴乃の暴走から昇太郎が負った負傷具合。それが姉妹二人の最重要議題となっていた。

「あー・・・二人とも少しは落ち着かぬか」

 収拾がつかないと感じた灰原昌隆が二人をひとまず黙らせる。

「さて、まずは昇太郎」

「はい」

「よく無事に帰ってきてくれたな」

 灰原家の城までは無事に帰ってくることができたが、一番安全なはずの灰原家の城の中で負傷したという事実はひとまず無視する方向のようだ。

「客人に緑沢家の姫が来ている。正直、会っても言えることは限られている。故に会わぬことにしていたが、お前が帰ってきた時の騒動で城の中に入れてしまった故、ここで追い返すのも無礼だ。ひとまず、話を聞くことにした。少し休みたいかもしれぬが・・・お前にも聞いてもらいたい」

「あ、はい。大丈夫です」

 鼻血も収まってきたため昇太郎は手拭いを鼻から放す。そして視線は招かれざる客であるはずだった花菜に向けられる。

「あなた様が灰原昇太郎様とはつゆ知らず、今朝は大変なご無礼をいたしましたこと誠に申し訳ございません」

 会議の場の視線が緑沢家からの使者としてやって来た花菜に向けられる。彼女はまず冒頭で昇太郎の方を向いて深々と額が床につくほど頭を下げて謝罪の意を示す。

「あ、いいよ。気にしてないから」

 一国の重要人物に働いた無礼を許すにはあまりにも軽い昇太郎の返答。花菜は本当にそれで許されたのか心配ではあったが、しかしそれがいかにも昇太郎らしいと灰原家の昇太郎と面識のある面々は半年前を思い出して懐かしんでいる者もいるほどだった。

(この方が本当に灰原昇太郎様なのでしょうか?)

 昇太郎の様子に不信感を抱くのは花菜。彼女が思い描く頼りになる男像とはかけ離れているどころか、知的な様子も感じられなければ思慮深い雰囲気も見当たらない。それに彼女は先ほど琴乃の跳び蹴りによって昇太郎が負傷させられるという一部始終を見ていたのだ。今朝の寺での朝の様子と城の中での光景を思い返してみても、彼が頼りになりそうだとは微塵も思えない。




 城の城門前で昇太郎と再会を果たした雪絵。彼女は昇太郎の手を引いて城の中へと彼を誘った。もう目の届かないところへ行くことは許さないと言わんばかりの少々強引な手の引き方ではあったが、雪絵が昇太郎を心から信頼しているということがよくわかる一場面でもあった。

「どうぞ、こちらへ。父上も姉上も昇太郎様のお帰りをずっとお待ちでした」

 城の中に入るや否や、たまたま廊下を歩いて琴乃が昇太郎を見つけた。

「しょ、昇太郎ではないか!」

 大声と共に駆け寄ってくる琴乃。昇太郎の頭の中には雪絵との再会を琴乃でもう一度再現することになるのだろうという予測が立っていた。

「あ、琴乃さん。久しぶり・・・」

 駆け寄ってくる琴乃が抱き着いてくると思っている昇太郎は完全に彼女を迎え入れる体勢で立っていた。しかし琴乃の次の行動は昇太郎の予想の中にはないものであり、完全に迎え入れる体勢でいたことから全く対応することもできないまま彼は全てを受け入れざるを得ない状況となってしまったのだった。

「この阿呆! いったい今までどこをほっつき歩いておったのじゃーっ!」

 駆け寄ってきた琴乃は昇太郎との距離がもうあとわずかというところで、一流の格闘家も顔負けの華麗なジャンプからの両足での跳び蹴りが昇太郎の体に叩き込まれた。趣味と実益を兼ねるかのように普段から体を鍛えている琴乃と違い、一切体を鍛えていない最弱の優男である昇太郎は体も軽ければ踏ん張る力も弱々しい。ましてや琴乃のことを受け入れる姿勢でいたこともあり、彼は強烈な両足での跳び蹴りの衝撃をその体で全て受け止めてしまった。

「・・・え?」

 琴乃の跳び蹴りを体に受けた昇太郎は宙を舞い、蹴られた衝撃により空中で体をフィギュアスケートのジャンプのように一回転半させ、その勢いのまま顔面から地面に叩きつけられたのだった。

「あ、姉上様!」

「・・・はっ! しまった!」

 雪絵の声で我に返った琴乃だが時はすでに遅い。昇太郎は顔面から地面にダイブした形となり、鼻血を出して倒れ込んでいた。

「昇太郎様? 大丈夫ですか?」

「と、とりあえず部屋に運び込まねば」

 慌てふためく琴乃と雪絵。そこに城門の外にいたはずの花菜が駆けつける。

「で、でしたらお手伝いいたします」

「すみません、助かります」

「足を持ってくれるか? 私は体を持つ」

 昇太郎の負傷。それにより一時的に混乱した琴乃と雪絵が花菜の自然な手助けを受け入れてしまった。その一連の流れがあって、花菜は灰原の城に入る事ができたのだった。




 まるで即席のお笑いの舞台演劇だ。そんな光景を見て、さらに女の蹴り一つに対応することもできない。優男の昇太郎に対する花菜の印象は英雄から一転して疑いの眼差しへと変わってしまっているほどだった。

「さて此度、昇太郎が帰って来た。今までの集まりでの意見以上のものが得られるやもしれぬが、同時に緑沢の者も来ておる。本日の本題の前に緑沢の件を先に取り上げたい」

 部屋の中が一度静寂に包まれたのち、当主である灰原昌隆が場を仕切って緑沢家の姫である花菜に発言権を与えた。それを察して花菜は一呼吸置いた後、部屋に集まった灰原家の面々に向かってゆっくりと言葉を発していく。

「本日はお目通りが叶いましたこと、心より御礼申し上げます」

 今日のこの機会が偶発的とはいえ与えられたことに対する花菜のお礼の言葉。灰原家の面々は昇太郎を除いて、全員がこの場を持つべきではないと思っていたこともあり、静寂の中に響く花菜の言葉に対して微妙な雰囲気が部屋を包み込んでいた。

「我ら緑沢は山の中の小さな土地を治める小国。今、国境で接している赤嶺家に国を狙われております。盟友であり我らを長く守り続けていた青森家は近年の不作による食料不足にて戦を行う力を失い、我らは単独で赤嶺の侵攻に備えなければなりませぬ。しかし我らの力を大きく上回る赤嶺に対して我らだけ対応するのは極めて難しく、恐れながら灰原様にご助力願えないかと参った次第でございます」

 花菜は深々と頭を下げ、緑沢の置かれた苦境と自らの心からの願いを言葉にして、何とか理解してもらって聞き入れてほしいという思いを乗せて必死に伝える。その様子を見るとかつて似た境遇にあった灰原家の者達には断りづらい思いが広がる。

「緑沢の状況は聞き及んでいる。我らも一度は灰原家が滅んだ。助けたいのはやまやまだが、残念ながら今の我らにはそれだけの力も余裕もないのだ」

 もはや頼まれた場合の決まり文句のように門番と同じ内容が灰原昌隆の口からも語られる。それは花菜も重々承知している。曲げられないところを曲げてほしいと、受けられない頼みを受けてほしいと頼んでいるのだ。何度断られようと退く気はない。門前払いから幸運もあってようやくこの場にまでたどり着いたのだ。この機を逃すことは緑沢家の滅亡を意味する。今の花菜にはどのような断りの言葉も通用しない。

「難しいことは重々承知しております。それでも・・・無理を通してお願いいたしたいのです」

 何度となく頭を下げる花菜。彼女には守るべきものは緑沢の家以外にない。故に例え命であろうと緑沢の家を守るためなら捨てられる。それこそが彼女自身の誇りになっているからできることであった。

 何度も頭を下げる花菜。無理は承知、引き換えに命を投げ出す覚悟でいる彼女だが、それでも無理を無理筋のままで断られるつもりはない。力を貸してもらえないのなら力以外のものを貸してもらえばいい。床に額がつくほど下げられた頭が上がるなり、花菜の視線は昇太郎に定められる。

 灰原家に緑沢家を助ける余力がないことなど花菜は重々承知している。灰原家は領地が格段に広くなってからまだあまり時が経っていない。領地の広げ方も急であれば当然国内に不安要素というものが少なからず存在する。その不安要素はちょっとしたきっかけで一気に灰原家の存在を崩壊させる可能性があるのだ。故に灰原家は今は外を気にかけている暇はなく、国内の不安要素を一つずつ潰していって盤石な体制を築くことが急務なのである。そんな状況の灰原家から力を貸してもらえるなどほとんど不可能だということを花菜は十分わかっている。わずかな可能性を信じて頼み込んではいるが、対応から見て確実に不可能だということが分かった。だからと言って緑沢家を諦めることなどできるわけがない。そもそも無理筋の頼みが断られただけである。ならば用意していた次の手に出るだけだ。

「お力添えが望めないのであればせめて・・・せめて、灰原昇太郎様のお知恵をお貸し願えないでしょうか!」

 力を貸してもらえない。ならば知恵を貸して欲しい。これならば直接灰原家の国内を安定させるための人手を割くこともなく、灰原家に直接的な被害が出るわけでもない。また緑沢の救済が叶えば、灰原家としてはその功績を広めて国内の安定を図るための材料にすることもできる。例え緑沢家が滅んだとしても、そもそも救済することは難しい状況であったのだ。灰原家の名に傷がつくということもない。灰原家にとって失うものはないと言える状況だ。

 逆に緑沢家には灰原昇太郎が考案した策を持ち帰ることができる。兵の士気も高まり国内を一つにまとめることができる。国の守りが叶えば緑沢家は青森家に変わって灰原家という後ろ盾を得ることにもなる。緑沢家にとって得るものが大きい結果につながるのだ。

 亡国の灰原家を再興しただけでなく領地まで広げて国力も得たことにより、方々にその名を轟かせた灰原昇太郎の策を手に入れるための策。花菜が取ったのは外交術の一手。相手に無理筋の願いやもしくは負担の大きな頼みごとをしたのち、その申し出をあえて引いて相手にとって負担の軽い楽な願いや頼みごとに切り替える。先に大きな話を聞いた者は小さい話を軽く見積もってしまい、小さい方の話を飲んでしまいがちになる。緑沢家に取って灰原家から軍を送ってもらえることが一番だが、どうしても灰原昇太郎という人間の頭脳を借りることだけは譲れない。故にどうしても譲れない最低限の話を小さい話として後出しして、無理筋な援軍の派遣を大きな話として先出ししていたのだ。

「どうか・・・お願いします」

 連日の嘆願、会議の場での駆け引き。これが花のできる最大限の策であり、彼女が今行うことのできる最高の駆け引き。その成功を祈り、彼女は昇太郎に向かって深々と頭を下げた。

「えっと・・・」

 先ほどまで灰原昌隆に向いていた花菜の視線。それが急に昇太郎に向き直ったことにより彼は多少の戸惑いを感じていた。しかし花菜の言いたいことを頭の中でゆっくりと噛み砕いて理解した。

「さて、昇太郎。灰原は緑沢に援軍を送る余裕はないのだが、お前の知恵を貸して欲しいと所望しているようだ。どうする?」

 灰原昌隆だけではない。この場にいる全ての者の視線が昇太郎に集中する。昇太郎は集まる視線を一身に受け止めていることに気付いて少々体や心に緊張が走る。現代日本にいた時には経験したことの無い重圧。一国、そして多くの命を左右する選択が昇太郎一人に委ねられているとういう現実が付きつけられているからこそのものだろう。

「えっと、あの・・・」

 この場に集まった全ての視線を一身に受ける昇太郎。彼が口を開いた時、その言葉で是か非かが話されると誰もが思った。その瞬間、彼の口から飛び出した言葉は是でも非でもなかった。

「僕、最近の情勢ってよく知らないんだけど・・・誰か教えてくれないかな?」

 部屋に集まった全ての者の間が抜ける。昇太郎の思わぬ返答に全員が喜劇でズッコケるような心境であった。そんな心境の中、花菜だけは昇太郎に対して表情や態度には表さないものの、これ以上ない怒りを覚えていた。

(せっかく周囲が知恵を貸すことくらいならいいではないか、という雰囲気を作ったというのに・・・)

 昇太郎の間の抜けた一言は花菜の交渉術を最初から完全にひっくり返してしまう行為になっていた。力を貸して欲しい、しかし無理なら知恵を貸して欲しいという懇願。それを周囲の者たちが呑んでいる中、昇太郎だけが違っていたのだ。

(一国の中心人物で策略家の灰原昇太郎です。最近の情勢を知らないはずはありません。もしかして・・・私が作り上げた雰囲気を壊すためにわざと?)

 稀代の英雄や奇想天外の策士などと言う様々な呼び名を持つ灰原昇太郎だ。花菜の交渉術を瞬時に見抜いたうえで、灰原家の介入を拒むためにわざと雰囲気をぶち壊した可能性すらある。そうとなれば花菜の望みは完全に潰えたことになる。

「まったく昇太郎は・・・しかたないのう」

 お大臣様が遊女を侍らしているかのように、昇太郎の両脇を固める琴乃と雪絵。その傍らの琴乃はやれやれと言った様子で最近の灰原家を取り巻く情勢を説明し始める。それは本当に何も知らないものに説明するかのような口ぶりだが、花菜にしてみれば全てを知ったうえで芝居をしているのではないかという勘繰りがあり、その勘繰りが彼女の心に生きた心地をさせない。緑沢を助けないと言い渡される死刑宣告を待つ死刑囚のような、首を刎ねられる直前の罪人に許された僅かの間にいる気分であった。

「我ら灰原家は夏に白山家と黒川家を併呑。灰原家史上最大の領土を保有した。しかしそれと同時に灰原家が治めたことの無い規模の民衆、領土、兵数が手元にある。故に我らはまずそれを上手く治めて行かなければならないのだ」

 一人の人間が生まれて初めて何かを経験する時、ほとんどの場合がまずうまく事が運ぶことはない。しかし何回も経験を重ねていくうちに新たなことを学び、知らなかったことを知り、その経験値が失敗を成功に導くことになる。まさに言葉通り失敗は成功の基なのだ。

「白山家と黒川家の民衆の多くは灰原の善政に納得しています。ですがもともと白山家と黒川家に仕えていた家来衆や親戚筋などは灰原の統治能力に疑問を持っている方々もおります。民衆の支持があるので今は何とかなっています。実際に白山の城と黒川の城を奪ったのは民衆の力を借りてのことでしたから。ですが・・・いえ、だからこそ今の灰原家は失敗が許されない状況にあります」

 琴乃の後に続くように雪絵が説明を続ける。灰原家は苦境を脱するために善政という政策を武器に民衆を煽って反乱を起こさせ、城を奪い取って従わない白山と黒川の本家筋の人間を追放した。これにより白山領と黒川領は完全に灰原家のものとなったわけだが、完全に平定したというのは時期尚早。もともと白山家と黒川家に忠義を誓っていた家来衆、敗北を察して降伏をして灰原家に従うことにした白山家と黒川家の親戚筋。彼らは灰原に三国を統治する能力がないと見るや反旗を翻す可能性もある。その可能性を考慮するならば、たった一度の失敗や小さな付け入る隙を与えてしまっただけで大変なことになる。そしてそれは国内だけではない。戦国の世ではわずかな油断や隙が命取りとなる。国内に種火があり一度火がつけば国外にまで飛び火する火薬庫を抱えているという、極めて油断ならない危険な状態が灰原家の現状である。

「そうなんだ。僕はできれば一人でも多くの人が傷つかないで、平穏無事にことが済めばいいと思っているんだけど・・・」

 灰原家の滅亡を期に動き出した昇太郎の策。それは灰原家の者だけでなく、白山家の者や黒川家の者達も含めて、国盗りの段階では誰も死んでいない。それは昇太郎の願いが実現したうえで灰原家を守り、さらには悪性に苦しむ民衆を救うという完全な形での物語の終結に至った。しかしそれですべてが終わったわけではない。物語は終わっても、物語の中の人間の生活は終わらない。物語の一応の終結は次の物語の序章。灰原家を取り巻く者達の次の物語は昇太郎が望むか望まないかにかかわらず始まっているのだ。

「灰原家の周りってどうなっているの?」

「灰原家に隣接している国はいくつかあるが、その多くの地では食料不足にあえいでいるのだ。不作により実りが悪い。例年通りの収穫ができた灰原の地に食料を強奪に行きたくて仕方なかろう」

 昇太郎の問いに灰原昌隆が答える。領主である以上全ての情報は耳に入っている。自身が手に入れた情報を昇太郎と共有するため、一切の隠し事をせずに全てを昇太郎に伝える。

「しかし戦にはいつも以上に金と食料を要する。よって灰原と隣接している国はどこも戦支度はしておらぬ。逆に我ら灰原は食料に余裕がある故、臨戦態勢は十分に整っているのだ。守りの固い国には誰も容易には攻め入ることはできぬ。治水と共に昇太郎が行うように指示を出していた河川の工事。あれは空堀の役目も果たしているのも大きいな」

 いつ外敵に襲われてもいいように防備のために戦支度は欠かしていない。灰原家ほど余裕がない周辺諸国は灰原家を狙ってはいるものの、表立った動きはできないでいた。それは存在するだけで最強の盾となる抑止力。灰原昇太郎という人間の名前が周辺諸国に余すことなく轟いているからである。

「瞬く間に三国を手中に収めた昇太郎がいるのだ。それだけで我が国に安易に攻め入ろうという輩はおらぬ。さらに我らが常に戦支度を整えていることから、戦支度を行えば宣戦布告ととられる危険性もあるのだろうな。隣国はどこも戦支度を始められぬ状況にある」

 灰原昇太郎という人間がいるかいないかは問題ではなく、灰原昇太郎という人間が存在したことによる影響力が灰原家に鉄壁の守りをもたらしていた。実際には灰原昇太郎がいるとしているだけで本人はいなかったのだが、そんなことは他国には早々簡単に掴めることではない。灰原昇太郎がいた場合、どのような策を用いて戦うことになるのかなど誰にも想像できない。故に誰もが戦いを挑むことに二の足を踏む。不作による食料不足も相まって、今灰原家は近隣諸国の中では最も安全な場所となっている。

「でも・・・ちょっと状況が変わればすぐに攻め込まれてしまう、そう言うことですか?」

「うむ。今灰原家に動かせるだけの兵数があっても動かせぬ。たった一度の失敗、たった一度の過ち、それが灰原昇太郎という人間の存在価値を地に落としてしまうのでな」

 灰原昇太郎という人間の評価は常人をはるかに超えたものとなっている。それほどの評価を得ている人間が兵を動かして失策したとなれば、灰原昇太郎という人間を攻め落とすことは難しくないと周辺諸国の者達は考えるだろう。そうなれば灰原家は隣接している全ての国から好きなように攻められ、持っている食料を始めとしたありとあらゆるものを好きなだけ奪い取られてしまうことになる。故に今、灰原家は慎重に慎重を重ねて戦いから我が身を遠ざけているのであった。

「もっとも隣国の中で灰原家に今攻め込むだけの余力のある国は限られているな」

「そうなんですか? それはどこですか?」

「茶土家だ。茶土家は他の国と違って海に面している国でな。まぁ、一言で言えば緑沢家に攻め込もうとしている赤嶺家と同じだ」

「なるほど、海産物があるから食料には多少の余裕があるんですね」

 いつの時代も自然の恵みというものは大きな影響を及ぼすものだ。昇太郎の元いた現代日本でもそういった情報はインターネットを通して手に入れることができる。石油や天然ガスといった資源保有国であるかどうかで国際社会における外交の優劣が生まれる。その資源がないことで昇太郎の生まれ育った日本はとてつもなく厳しい歴史を歩まざるを得なかった。それを踏まえて考えれば、国の貧富は地理的要因がほとんどと言っても過言ではない。

「でも戦支度はしていないんですよね。全くの平時から戦支度をするとどれくらいかかります?」

「そうじゃな。おおよそ二日と言ったところか。だが今は食料がない。その準備に手間取ると考えれば三日はかかるだろう」

「そっか、三日かぁ・・・」

 灰原昌隆と昇太郎。二人の会話を聞いていた琴乃が眉をひそめながら会話に割って入る。

「ちょっと待たぬか。昇太郎よ、嫌な予感しかせんのだが?」

 三日という時間を気にした昇太郎にまた何か良からぬことを考えているのだろうという予測が立つ琴乃。しかし昇太郎は考えに夢中になっているのか彼女の言葉は耳に入らず、視線は花菜に向けられる。

「えっと、花菜さん。緑沢家の状況をできる限り教えてもらっていいですか?」

「・・・え?」

 すでに断られると半ば確信していた花菜。しかし急に風向きが変わって来た。本当に断る気であれば花菜に話を振る必要はない。身内から情報を聞くだけで充分断る理由は手に入る。しかし話を花菜に振った。それはまだ花菜には灰原昇太郎の力を借りることができる可能性が残されているということだ。

「あ、は、はいっ! あ、あの・・・えっと・・・」

 突然の状況の変化に頭の中がまとまらない。しかしないと思っていたところで訪れたこの機会を逃してしまえば本当に緑沢家は終わってしまう。花菜は慌てながらも急いで頭の中にある状況をまとめ上げて報告を行う。

「み、緑沢は山に囲まれた小国です。隣接している国は灰原、青森、赤嶺の三か国です。灰原領で接しているのは旧白山領と旧黒川領です」

 頭の中で整理しながらわかっていることを話す。かなり難しいことだが花菜からしてみれば普段から住んでいて慣れ親しんだ自分の国の話だ。やってやれないことはない。わかっている地理的な要因を中心に説明しつつ、その説明に今緑沢が置かれている状況を付け加えていく。

「長らく青森家とは同盟関係にありました。ですが不作による食料不足で青森家からの援軍に要請は絶望的です。今緑沢は単独で赤嶺の侵攻に備えなければなりません。そこに灰原様のご助力が加われば、緑沢の地を赤嶺から守り切ることができます」

 灰原昌隆が家臣のものを使って地図を持ってこさせる。そして色のついた駒を地図の上に置き、戦力とより細かい地形の話が持ち上がる。

「花菜殿。この駒一つが兵百人だ」

「あ、はい」

 灰原昌隆に言われて花菜は地図に載っている緑沢の城に緑色の駒を五つ置いた。

「緑沢は今総力で五百程です。ですがこれは直臣以外の農民なども含めての総力です」

「なるほど、それで赤嶺と青森はどれだけの兵がいる?」

「私が聞いたところによりますと、赤嶺と青森はともに二千程かと」

 花菜の情報を基に灰原昌隆は地図の赤嶺の城に赤い駒を二十、同じく青森の城に青い駒を二十配置した。

「灰原の総力は三千ほどだ」

 そして灰家の城には灰色の駒を三十個配置する。これで緑沢家を取り巻く国々のおおよその戦力が一目でわかるようになった。

「そして我らは緑沢に兵を送るとなればその背後も気にしなければならんな」

 灰原の周辺国にも同じく色のついた駒を配置していく。単純な兵力の配置だけで見れば灰原家の周りには総勢で六千程の味方でない兵力を持った国がある。しかしその全てがすぐに動けるわけではない。食料不足、さらには灰原昇太郎の名により動くに動けない国もあるのだ。すぐに動けるのは茶色い駒が置かれた茶土家。駒の数は二十個なので兵力は二千程だ。

「こうして見ると・・・我らも油断できぬな」

「そうですね。周りにもっと味方が多ければいいのですが・・・」

 琴乃と雪絵が灰原家の周辺の国々が保有している兵力に危機感を覚える。ちょっとしたことがきっかけとなって灰原を取り巻く国々が国境を越えて流れ込んでくるかもしれないのだ。その数は単純に数えて六千。灰原家の保有する兵力の倍だ。

「ここから緑沢に出兵したらどれくらいで着きますか?」

「うぅむ、戦の準備は常にできておるのでな。今すぐ出たとして一日はかからぬな。急げば半日で着くが、そうなれば兵は休ませねばほとんど使い物にならぬ」

 普通に行って一日、急いで行って半日。半日で到着できるがその場合休まなければ体力的に厳しい。その間に戦いが始まれば何もできないままやられてしまうことだろう。

「普通に動いて一日・・・急いで半日・・・」

 昇太郎は地図と睨めっこをしながらブツブツと独り言を呟いている。頭の中で何を考えているのか、その場にいる者達にはまるで見当がつかない。しかしどういう方向性でものを考えているかはわかる。昇太郎は緑沢家を何とかして救おうと考えているのだ。

「灰原家の背後にいる茶土家の二千が動けなければ灰原家は基本安泰だけど、でもそうなると動かせる兵力は減っちゃうね」

「そうじゃな。灰原領はこの半年で昇太郎が言った通りに工事が進んでいる。川の一部は氾濫対策で川に沿うように掘っている。堀と空堀という二重の堀として天然の要害と人の手で作った防護柵が使える。茶土が総勢で攻め込んできたとしても二千以下の兵力で守り切ることは可能じゃろうな」

 灰原家の国内は収穫量の増加だけではなく、同時に外敵の侵入を防ぐ工夫も施されている。目下の敵として攻め込んでくるのが茶土家だけだとした場合、半数を緑沢家への援軍として送ることも不可能ではない。しかし当然それには危険がついてくる。攻め込んでくるのが茶土家だけとは限らないということ、さらに茶土家に苦戦すれば他の敵も動き出すこと、緑沢に派遣した援軍が敗れればさらに外敵の侵入を許しやすくなることなど、動けば動くほど危険は増えていくのだ。灰原家の方針が緑沢を助けないとなった理由である。

「後ろに二千、緑沢に五百、赤嶺と青森が二千ずつ・・・」

 昇太郎の地図を見る真剣な表情と鋭い眼差し。それはいつかの彼の様子と実によく似ていた。貧弱で軟弱で脆弱な頼りにならない優男の昇太郎の覚醒ともいえる一人前の男のような様子。その姿を見た琴乃と雪絵も同じくあの時のことを思い出していた。灰原家を復興させ、国力をはるかに上回る二か国にも勝った昇太郎の策。その再来を予感させる雰囲気に琴乃は自然と頬が緩む。

「どうやら昇太郎は緑沢を救いたくて仕方が無いようじゃのう。この際、兵を千人ほど緑沢に送ってみるか?」

 今まで頑なに緑沢を助けることは不可能だと主張していた琴乃の心が動いた。昇太郎の様子に妥協の気持ちが生まれたのだ。

「あ、ありがとうございます!」

 頑なに拒まれ続けた花菜にとって一人でも助けるべきだと言ってくれることは大きな前進である。率直に嬉しく、まだ決まってもいないのについついお礼が口をついて出てしまうほどだ。

「なんか・・・違和感・・・かな?」

 昇太郎が地図を見ながら首をかしげる。その様子に部屋にいる全ての者達の視線が集中する。

「赤嶺家が緑沢家に攻めて来るとして、たぶん二千全部は出てこないと思うんだ。そうなると出てきて千五百とかになると思うんだけど、それだと緑沢は五百だから守り切れないことはないよね?」

 昇太郎の視線が花菜に向く。戦いとは地の利を抑えている守る側が有利だ。そう簡単に領地を広げていくことができないのは守る側が有利であり、それを打ち破るにはそれなりの作戦か相手を上回る兵力が必要になるからである。実際に籠城戦となれば攻める方は定石で三倍の兵力がいると言われている。山に囲まれた小国とはいえ、敵の数が三倍までなら緑沢には守る術がないわけではないはずだ。

「そ、それは・・・」

 緑沢が苦境なのは間違いない。しかし緑沢にも手立てがまるでないわけではないはずなのだ。それにもかかわらず花菜のこの慌てよう歩必死な様子。緑沢家にはただの侵略以外の何かほかの恐怖があるのかもしれない。

「赤嶺家は最近まで家中が二分しておりました。緑沢に攻め寄せるのは主にその片方だったのですが、その二分していた家中が今は一つにまとめ上げられました。そのまとめ上げた者は深緋久英。灰原昇太郎様が現れなければ近隣諸国では一番の知将と呼ばれる者であり、此度の攻め手はこの男が一手に受け持つとも言われております」

 深緋久英という名が出た瞬間、部屋の中の雰囲気が少し変わる。ただ兵を派遣すれば守り切れるという状況にないという判断を誰もが下すのだ。それだけ彼の評価は各地で高く、それは灰原領内も例外ではない。

「あー・・・すごい人らしいね。なんでもまだ一度も負けたことがないとか?」

 部屋の中にいる全ての人とは違い、昇太郎はまるで他人事のように深緋久英の名前を口にした。

(知将・・・か。教えてもらったのは確か、確実に周囲が深緋久英って人の勝利だと確信する内容で戦いを終わらせるってことと、内乱の相手を数日で倒して敵の中心人物の首を刎ねるってことだったかな)

 誰が見ても確実な勝利を手にする。そして自分と敵対した敵の中心人物の首を刎ねて自らの勝利をより一層強調する。性格から見れば自己顕示欲の強い負けず嫌いな人間のように見えなくもない。

(そんな人が守り側の三倍の兵力があるからって簡単に攻めて来るかな? 青森家の援軍を封じたからってなんだか軽率な気が・・・)

 昇太郎が考えている時、花菜がしつこいくらい灰原家の力と同じくらい昇太郎の知恵を欲していることを思い出した。そして聞くところによれば灰原昇太郎という名前は昇太郎本人が思う異常に各地に広まってしまっているようだ。そこに深緋久英という男の自己顕示欲の強さと負けず嫌いの性格を当てはめると、今まで見えてこなかったものが昇太郎には見えてきた。

「そっか、その深緋久英って人の狙いは緑沢家じゃないんだ」

「「「「・・・え?」」」」

 昇太郎の一言の意味がよくわからない。赤嶺家は緑沢家への侵攻の準備をしているのにもかかわらず、狙いが緑沢家ではないと昇太郎は言っているのだ。わけがわからなくて当然だ。

「ど、どういうことじゃ?」

「昇太郎様? いったいどういうことなのですか?」

 琴乃と雪絵だけではない。灰原昌隆も花菜も、それ以外の家臣団も全員が昇太郎の言葉の意味を知りたがっている。

「この深緋久英って人の狙いは僕・・・と言うか、今各地に広がっている灰原昇太郎の名前を超えること、かな」

「灰原昇太郎の名前を・・・超える?」

「そう。僕の知らないところで灰原昇太郎という名前はとんでもない効果を発揮するようになっていたんだ。それを灰原家は利用して国を守っていたけど、それが利用できるということは灰原昇太郎という名前に勝る名前がないっていうこと。深緋久英って人はきっと今の灰原昇太郎という名前が持つ力を自分の名前で発揮できるようにしたいはず。要は自分が一番になりたいって思っているということかな」

 昇太郎の言っていることは何となくみんなわかる。しかし誰もがその意見に素直に頷くことはできない。

「そ、そんなことが理由で兵を動かして戦を始めるというのですか?」

 それが当然の感覚だ。自己顕示欲だけで戦を始めるなどありえない。国の存亡や発展があって初めて戦の意味がある。個人の欲望だけで戦は起こり得ない。

「だから違和感があったんだよ。緑沢家は交通の要所ではあるけど国は狭くて農産物は多く取れない。灰原家だけでなく青森家にも接していて外敵に攻められる危険性がただ増すだけなんだ。特に青森家は緑沢家と長く同盟関係にあったんだよね。だったら緑沢家の仇を討つために攻め込んでくる可能性は大いにあり得るよね」

「た、確かに・・・」

「でもその深緋久英って人は知将として名高いんでしょ? だったらその人はきっと『灰原家が介入してきても打ち破れるだけの策がある』とか『緑沢家だけでなく長年の仇敵である青森家も手に入れることまで計算している』とかって考えていると思うんだ」

 深緋久英という男がどのような策を用いて昇太郎が言ったことを実行に移そうとしているかは現段階では分からない。しかし知将として名高い人物が不用意に他国を攻め込んでその地を支配下に置くだけで満足するとは思えない。

「多分だけど・・・青森家は食料援助と引き換えに緑沢家との同盟を破棄して赤嶺家と新しく同盟を結ぶと思う」

「そ、そんなはずは・・・」

「それで青森家の力も借りて緑沢家を攻め滅ぼす。この兵力数から考えると緑沢に押し寄せる敵の総数は赤嶺家と青森家の連合軍のおよそ三千。灰原家の総力とほぼ同じだね」

 昇太郎の言っていることはあくまでも憶測にすぎない。花菜は青森家が緑沢家を助けられないことは承知している。しかし青森家が緑沢家に牙を剥くなどと言うことは一切考えになかった。故に信じられない。信じられないが、昇太郎が言うと説得力があり否定しきれなかった。

「赤嶺家は青森家の力を借りて緑沢の領地を簡単に手に入れることができる。後はお礼と称して青森家に食料を送るんだけど、一応食料を送っておけば同盟国としての体裁も保てるから、義理堅い青森家は赤嶺家に戦を仕掛けることはできないっていうのが目的。その食料の量を秋までもたないようにすれば、秋前には青森家は食料不足で戦どころじゃなくなる。赤嶺家は大した被害もなく緑沢家と青森家に勝つことができるんだ」

 誰もが思いつかない策。深緋久英が確実に同じことを考えているかどうかはわからないが、思いもよらない策を昇太郎が思いついたとなれば相手にも策はあることだろう。

「そして赤嶺家と青森家の連合軍が三千ってことは灰原家が援軍を出してもすぐには決着がつかない。数が少なかったら負けるだろうし、総力を挙げれば国が空っぽになってしまう。だからと言って時間をかけて長引かせれば長引くほど灰原家が不利になる。灰原家は介入すればするほど国の内情が不安定になっていくんだ」

 深緋久英はあまりにも用意周到。緑沢家だけでなく青森家も手中に収める策を練りながら、灰原家の動きを封じることも忘れていない。来年の秋を迎えるころには灰原家と真っ向勝負を挑めるだけの国力が出来上がっているかもしれない。しかしそれを防ぐ手立てを灰原家も緑沢家も青森家も持ってはいない。深緋久英率いる赤嶺軍の一人勝ちという物語が完全に完結するようにできているのだ。

「まさか、そこまでとは・・・」

 昇太郎に言われて花菜はがっくりと肩の力が落ちる。表情には絶望の色もうかがえ、緑沢家の未来を諦めかけるところにまで来ていた。

「・・・お騒がせして、申し訳ありませんでした」

 花菜はそう言うとみんなに向かって深々と頭を下げた。

「は、花菜殿?」

「我々緑沢家を救うためにお力添えをいただきたかったのですが、そのせいで灰原家が亡ぶようなことになってしまえば本末転倒です」

 援軍を送ったせいで灰原家が亡ぶなどと言うことになってしまうわけにはいかない。緑沢家を救いたい花菜だが、そのために灰原家が払うことができる犠牲の限度があることくらいわかっている。灰原家にとって緑沢家は自国の滅亡と引き換えにしても守らなければならない地ではないのだ。花菜はこれ以上嘆願することも懇願することもできない。灰原家に大きな余裕がないことがわかっているからこそ、退くという判断をせざるを得ないのだった。

「あれ、花菜さん? どうしたの?」

「ど、どうしたのと申されましても・・・灰原家のお力添えをいただくのは無理だということがわかりました。灰原昇太郎様のお知恵をお借りしたとしても赤嶺青森の連合軍三千に緑沢は屈するほかないでしょう。これ以上灰原家の皆様にご迷惑をおかけするわけには・・・」

「え? いや、三日で終わらせればいいんだよね?」

「「「「・・・は?」」」」

 花菜は諦め、灰原家は緑沢家を助けないという方向で話が落ち着こうとしていた時、昇太郎の一言が再び部屋の中に混乱を巻き起こす。

「昇太郎? 自分が何を言っているのかわかっているのか?」

「さすがの昇太郎様でも三日で同行するのは無理ではないかと・・・」

「昇太郎、緑沢家を救いたい気持ちはわかるがさすがに無理があるぞ」

「深緋久英と三千の兵を相手に三日で何をすると言われる気ですか?」

 怒涛の如く昇太郎に向かって言葉が飛んでくる。その言葉の勢いに押されながらも、昇太郎はあの時に琴乃と雪絵に自分の策を話した時と同じ顔をしていた。

「灰原家は三千の総力を挙げて三日以内に全ての決着をつけるんだ。それ以外に緑沢家を救って灰原家を守る方法はないよ」

 とんでもなく滅茶苦茶なことを言っているようだが、かつての彼も同じように滅茶苦茶なことを言っていた。しかしその時は決死の覚悟に似た表情から琴乃も雪絵も滅茶苦茶な策の向こう側に見える勝算に賭けたのだった。そしてその時と同じ表情を昇太郎はしている。つまりこれは彼の頭の中でははっきりと勝算があることを意味している。

「昇太郎。さすがに此度は我ら個人が動いてどうこうなるものではないのであろう」

「うん。琴乃さんと雪絵さんに手伝ってもらった前と状況が違うのはわかっているよ」

「ではできる限りのことを話してもらいたいのじゃが、良いか?」

 琴乃の問いに昇太郎は首を縦に振る。昇太郎が立てた策が灰原家の中で共有されることとなり、それは同時に緑沢家救済に動き出すという灰原家全体の意思統一を図ることになるのである。




 灰原家の城での会議を終え、部屋から家臣団がそれぞれの役目を負って出て行く。その中に二人の若武者がいた。一人は胡粉勝光(ごふんかつみつ)、元白山家の家臣で主君である白山の親戚筋に当たるものだ。そしてもう一人は烏羽信龍(からすばのぶたつ)、元黒川家の家臣でこちらも同じく主君である黒川の親戚筋に当たるものである。

 白山家と黒川家は幾度となく戦を繰り広げた間柄ではあるが、今は等しく灰原家の傘下に収まり家臣として仕えている。そしてこの二人の若武者は親戚筋で在り、国の中を守る役目を担っていたため直接戦で相まみえたことはなかった。よって灰原家の家臣団の一翼を担うようになった今、元的同士だったとはいえ今はそれなりに仲良く話す間柄になっていた。

「勝光、正直どう思う?」

「何がだ?」

「先ほど聞いた策の話だ。うまくいくと思うか?」

「さぁな。皆目見当もつかない、それが正直な感想だ」

 昇太郎の策を聞いて勝算があることはわかる。しかしその策が確実に成功するかと問われれば未知数なところが多すぎる気がする二人。灰原家の家臣ということで命令には従うのだが、その命令が最悪の結果に至ることも十分ある。そうなった時、彼らは灰原家の家臣としての忠義よりも自らの信義を重んじることになる。

「命令故従う。しかしあの策が成らぬとわかった時、わしはわしの故郷を守るために全力を尽くすことになろう」

「それは同じだな。灰原家に従ってはいるが、灰原家が進む道を誤った後も付き従う必要はない」

 胡粉勝光は旧白山領を故郷として守りたいと考えており、烏羽信龍は旧黒川領を故郷として守りたいと思っている。灰原家に付き従うのは故郷を守るのに灰原家と行動を共にしている方が有益だからだ。

「信龍、もし此度の策が成らぬ時は・・・わしと手を結ばぬか?」

「灰原家が立ち行かなくなった後はなるべく味方が欲しいとお互い思っているようだな」

 二人の思いは固まっている。故郷を守るために灰原家に付き従うが、灰原家が滅亡を迎えることになれば即座に故郷だけを守る方針へと切り替える。その時に共に同じ志を持って動いてくれる仲間がいることは心強い。

「良いだろう。灰原家が仕損じた時、我らは盟友だ」

「ああ、共に互いの故郷を守ろうぞ」

 灰原家の者達が知らぬ間に、灰原家の家中では旧白山家の家臣団と旧黒川家の家臣団がこのような話を方々で行っている。灰原昇太郎という名前が持つ抑止力、そして彼が考え出した農業政策や国防のための河川工事など、御駅に与れる部分は恩恵に与る。そしていざ灰原家が危うくなったと知れば即座に灰原家から逃げ出す。灰原家が三国を併呑してからまだ間もないため各地でこのようなことが行われるのは致し方ない。灰原家は国内の安定を剥成りこのような会話が発生することを防ぐためにも、今回の策を仕損じるわけにはいかないのであった。




 胡粉勝光と烏羽信龍を含め、灰原家の家臣団が部屋から歩き去っていく。その部屋から出て来るのは彼らの様な若武者たちだけでなく、壮年や中年の男性もいる。年を取った二人の男性もまた、先ほどの二人の若武者たちと同じように言葉を交わしながら歩いていた。

「のう、さっきの軍議だが・・・」

「わしに聞くな。軍略のことなどわかりゃせん」

 年を取った二人の男性。そのうちの一人は薄墨隆尚(うすずみたかなお)、灰原昌隆の親戚なのだが武士ではなく、灰原領を中心に商いを行う商人である。そしてもう一人は錫原昌宗(すずはらまさむね)、彼もまた灰原昌隆の親戚であるが同じく武士ではなく、灰原領を根城にする狩人だ。二人は到底家臣と呼べるような知識や見識もなければ、経験値や能力を持ち合わせてはいない。しかし灰原家は急激に領地を広げてしまったため、彼らのような将としての才覚がない者達も将として取り込まなければ灰原家はやっていけないのであった。

「商いのことならある程度わかるのじゃがのう。しかし商いの規模もそこまで大きいわけでもない。わしにはやはり荷が重いぞ」

「それを言うならわしの方が荷が重いわい。お前のように他国の者とやり取りをすることもなかったんじゃぞ。人を使うこともなく、家族で狩りを行っていただけじゃ。弓は扱えるがそれ以外はからっきしじゃ」

 今回の作戦は灰原家史上最大規模の軍事作戦となる。そのため彼らにも役目があてがわれたのだが、将としての経験不足から行動を起こす前にすでに壁にぶち当たっていた。

「しかし・・・やらねばならぬようじゃのう」

「ああ、武士でないことで気ままに生きておったというのに・・・」

 戦いが始まる前から戦いに対する不安を持つ二人。彼らのように経験不足であてがわれる役目や地位の能力に合っていない人間も灰原家には少なくはない。小国の灰原家が一気に広がった土地を何とか収めようとするためには、とにかく指示系統を確かにするための人を配置しなければならない。その配置する人が足りていないのだ。よって彼らのように将として経験不足の年配の人も駆り出されているのであった。

「とにかく言われた通りにしておけばよいのじゃろう?」

「そうじゃ。それ以外のことをやれと言われてもできぬがな」

 不安から彼らは与えられた指示通りに動くことを確認し合っている。旧白山家家臣や旧黒川家家臣の者達と違い、いい意味で従順で命令通りに動いてくれる。しかし小さな予定外の出来事に上手く対応する能力は全く持ち合わせていないのだ。

 胡粉勝光や烏羽信龍のような能力はあるが忠節を誓いきっていない者達と、薄墨隆尚や錫原昌宗のような能力はないが従順に言うことを聞く者達。灰原家の中核をなす者達は彼らの上に立って彼らを上手く扱わなければならない。支持する側に立つ者達の苦労は絶えない上に、その手腕が問われる時がやって来たのである。




 灰原家で緑沢家救済の行動に出ることが決まった頃、青森家では軍備が着々と進んでいた。多くの兵が鎧を身に着け、赤嶺家より送り届けられた食料を出征用に準備している。そんな中、青森家当主で近隣諸国きっての猛将で知られる青森広敬は一切甲冑を身に着けてはいなかった。

「繁信。此度の戦はお前に任せる」

「は? し、しかし・・・」

「長らく共に戦ってきた緑沢家を攻めるのだ。わしが行くわけにはいくまい」

 青森広敬が先陣を切って攻め込めば緑沢家は思いのほかあっけなく降伏するはずだ。しかしそうなれば待っているのは緑沢家の滅亡である。長らく盟友だった相手を攻めなければならないこの状況で、青森広敬はかつての盟友に刃を向けることができないでいた。それは義理堅く実直な彼らしい判断であった。

「それに此度の戦の総大将は赤嶺家の深緋久英だ。奴の指示に従っておればよい」

 経験不足の浅葱繁信では最善の戦をすることは難しいだろう。しかし指揮を執るのは深緋久英であり、彼の策に従って動くことになる。それならば青森広敬の存在の有無など戦局に大した違いを生むことはない。

「だが、青森家の信義だけは忘れるでないぞ。あくまで此度の敵は緑沢だが、お前は赤嶺家の家臣でもなければ深緋久英の配下でもない。悩んだ時は青森家の人間であることを思い返して判断せよ」

「はっ!」

 浅葱繁信は青森広敬に一礼すると戦の準備をしている家臣団の下へと向かう。青森家の総大将は青森広敬だが、今回の戦の総大将は一時的に浅葱繁信となる。故に彼は戦の準備を万全に進めるために自らの目で見て回ろうと動き出したのだった。

(わしが行かぬこと、深緋久英は見抜いておるであろうな。だが、さすがの奴でもあの者の考えや動きまでは完全には読み切れまい。その時、青森軍を率いているのがわしではなく繁信であることが功を奏せばよいのだが・・・)

 青森広敬はあえて自ら軍の総大将の座を退いた。それにはとある思惑があり、不確定要素が多いことをわかっていながらも青森広敬が望む結果を求めるにはその不確定要素に賭けるしかない。自らが行けば頑固に頑なに戦を行ってしまうが、その性格を持ち合わせていない浅葱繁信であればまた違った結果にたどり着くこともあるかもしれない。頑固でないということがいい方に転んでほしいという、願望を込めた運に任せるという策を獲るのが精一杯でありながらも、現状に対する最大限の抵抗として彼はその選択をするのであった。




 赤嶺家でも着々と軍備が進んでいる中、一方が深緋久英のもとに飛び込んでくる。

「申し上げます! 灰原、動きます! その数三千、灰原軍総勢でございます!」

「・・・そうか」

 周囲の家臣達が驚く中、深緋久英は涼しい顔でそう一言いうだけに止める。

「こ、深緋様。灰原が動くとなればこの戦一筋縄では・・・」

「案ずるな。想定の範囲内だ」

 一切動揺を見せない深緋久英に従う者達はその様子を心強いと思いつつも、以前聞いた策では灰原家の動きは封じていると聞いていただけに家臣団の動揺は計り知れない。

「灰原が動くとなれば少数を援軍として向かわせるか総勢で動くか、この二つが考えられる。少数を援軍に向かわせるならば数で圧せばよい。しかし総勢となればこちらと数は同等。力押しでは守る側が有利だ。ならばとるべき手段は一つだけだ」

「そ、その取るべき手段とは?」

 深緋久英の顔は自信満々にニヤリと笑みを浮かべる。

「ただ長期戦に持ち込めばよいだけだ」

「そ、それだけでございますか?」

 深緋久英の策があまりにも簡素であることに家臣達はまだ納得がいっていないようだ。

「灰原が総勢を出してきたということは短期決戦を望んでいるということだ。ではなぜ短期決戦を望まなければならないのか、それは灰原家家中や周辺諸国の動きなどに不安材料が多いからに他ならない。灰原がわざわざ動いて出てくるというのに、向こうの思惑通り短期決戦に付き合ってやる必要はない。灰原が緑沢の領内にいられるのは三日程度。ならば我らは灰原が緑沢の領内から出て行くのをゆるりと待てばよいだけよ」

「おぉ、なるほど」

「さすがでございます。深緋様」

 家臣達が深緋久英を称賛する声が飛び交う中、彼は表情にも態度にも出さず心の中で一つの野心を強く再認識していた。

(灰原が動く・・・ならば灰原昇太郎の策もあるはずだ。もしお前が動くとなれば戦いに応じようではないか。お前が考えた三日以内に我らを退けるその策を必ず見破ってくれよう。そしてその首、必ずもらい受ける!)

 灰原昇太郎に対する敵対心が燃え上がるが、その個人的な感情は軍の士気や家臣達の忠誠心を左右してしまうかもしれない。それがわかっているため深緋久英はそんなそぶりを微塵も見せない。しかしその内心は灰原昇太郎に必ず勝つという熱く強い思いが烈火のごとく燃え上がっているのであった。




 灰原家、青森家、赤嶺家、緑沢家。各々の思いと考えと策謀が練られ準備されていく。戦は戦いが始まる前に大半が決していると言われる。兵の数、進路、進軍速度、敵味方の配置、地形、季節、天気など、どれだけを見破り見抜き味方につけてどれだけを封じて有利に事を進めるかである。

 彼らが事前に用意した全てが緑沢領にて交錯する、その瞬間が間もなく訪れようとしているのであった。

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