第8話 対峙
昇太郎が灰原家に帰還したその日の夜。灰原家の城内では大人数を集めての工作作業が行われていた。城の中にあるいくつもの部屋を開放して、閉農期の冬で手が空いている農民達を集めての一大作業だった。
冬の農民の主な収入源は草鞋などを作る内職が主となる。その内職の内容が今だけは農民たち個々の収入源から灰原家の都合によるものに切り替えられた。もちろん給金は支払われるが、善政の灰原家の為ならと農民たちは快く呼びかけに応じてくれた。
「・・・のう、雪絵よ」
「はい、姉上様」
「いったい何を作っているのじゃ?」
「さぁ、私には皆目見当もつきません」
工作作業には農民達だけでなく、灰原家に仕える女中や将達の妻子も参加していた。身分も役職も関係なく、必要であれば普段は偉い人も率先して農民達と作業を共にする。昇太郎からしてみれば、優先順位をつけて人員を割いて集中的に一つの作業を行うというのはごくごく当たり前のことだ。しかし戦国の世では身分によってそれが当たり前とならないことも多々ある。ましてや灰原家は急激ではあったが、もはや周辺諸国からも一目置かれる存在となった。故に灰原家の姫である琴乃と雪絵が農民達と共に作業を行うというのは農民達からしてみれば、弱小国だった時代のことを忘れず農民達と共に汗水流して泥をかぶって国を維持していくという連帯感や信頼感が生まれる。灰原家の国内は依然として不安定ではあったものの、こういった行為の積み重ねが知らず知らずのうちに国内が徐々に一つにまとまるきっかけになっていた。
「まったく、昇太郎の考えることはよくわからぬ」
「はい。ですが、考えが読めてしまっても困りものかと・・・」
「うぅむ、それはそうなのじゃが・・・」
口は休めずとも手は休まらない。琴乃と雪絵は農民達と共に着々と作業を続けていく。彼女たちの手の中にあるのは木でできた小さな部品。それを糊付けしたり組み合わせたりして辺と角だけの立方体を作っていく。その立方体の偏と角は大小二種類あって小さいものができたらその外に大きなものを組み合わせて二重になる。二重にしたことで紙芝居のように間に何かを挟み込むことができるようになっているのだが、これが戦にどのように役に立つのかと問われるとみんなそろって首をかしげる。
「おーい、そっちを持ってくれ」
「こっちから削るぞ」
「いや、そこは穴をあけるんだ」
「あ、そうだったか?」
「ああ、それで削るのはここだ」
部屋の中で琴乃と雪絵が作業を行う中、部屋の外の中庭では木材を加工する大工達を中心にこちらも工作作業が行われていた。こちらは一本の長い木を横にして、縦穴を貫通させるように穴を複数あけたり、穴の近くや長い木の中央部分は削ったりして何やら加工を施している。こちらも戦にどのように役立つのかと問われればみんな揃って首を横に振るのだ。
「みんな、お疲れ様。ちょっと休憩して食べる?」
数人の女中たちと共に昇太郎が湯気の上る出来立ての料理を持ってきた。
「しょ、昇太郎? お主一体何をしている?」
一国の領主と同等かそれ以上の力を持っているとされる灰原昇太郎。本来ならばドシッと構えているだけで良いのだが、彼は何故か女中たちと一緒に軽食の準備をしていた。
「なにって・・・夜食の準備?」
「そうではない! 自分の立場が分からぬのか?」
「まぁまぁ、姉上様。昇太郎様も灰原家総出で緑沢家を救う方針です。ご自分も動かなければ気が済まなかったのでしょう」
「だが昇太郎まで・・・・うぅむ・・・」
昇太郎まで働いている様子に琴乃は納得がいかないようだ。雪絵も昇太郎まで働くとはもっていなかったが、最大限彼の考えや行動を尊重してやりたいという様子がうかがえる。
「まぁまぁ、とりあえず食べようよ。結構自信作だよ」
そう言って昇太郎は大皿を琴乃と雪絵の傍らに置く。女中たちも作業をしている者達のところへ行ったり散らばって作業している者達を集めたりと、工作作業の時間はいつの間にか食事の時間に移り変わっていた。
「ぬ・・・こ、これは?」
「これ? なんて言えばいいのか・・・簡単に言えば即席味噌炒飯・・・かな?」
大鍋に油を引いて米に細かく切った干し肉に細切れの野菜、卵を絡めて味付けに味噌を入れて炒めただけの単純な料理だ。集まった人数が多すぎるため小皿は数が足りなかったため、大皿からみんな匙を片手に料理を恐る恐る口に運ぶ。
「お、美味しいですね」
暖かい料理を寒い冬の夜に食べる。それだけでも良しさが二割増しだというのに、昇太郎の考案の手作り料理とあっては琴乃も雪絵も一口食べるごとに幸せそうな表情に自然となってしまう。
「昇太郎・・・まさか料理の才まであるとは思わなかったぞ」
「才能っていうほどのものじゃないよ」
昇太郎は現代日本にいた時にたまたま自分一人で料理を作らなければならない状況があった。その時にインターネットで調べて出てきたレシピを現状手元にある者だけで何とかできないかとアレンジして作ったに過ぎない。本当にすごいのは最初にその料理を考え出した人であって昇太郎ではない。しかしここでは昇太郎が作り出したと誤解されてしまっているためか、思わぬ特技に驚きとともにみんなの忠誠心がより固まったのであった。
「それで進行状況はどうかな?」
「うむ、朝までには昇太郎が言った数はできるであろうが・・・」
「はい。数は問題なくそろえられると思いますが・・・」
「・・・ん? な、なに? なにか問題でも起こったの?」
進行状況に問題はない。では何に問題があるのだろうか。琴乃と雪絵の様子に昇太郎が眉をひそめる。
「いや、その・・・なんと言いますか・・・」
「まぁその・・・一言で言えば・・・」
琴乃と雪絵はお互いに顔を見合わせ、昇太郎に向かって心の中にあったものをはっきりとぶちまける。
「これはいったい何なのだ?」
「これはいったい何なのでしょうか?」
二人の質問を受けた昇太郎が一瞬キョトンとする。そして質問の意味を理解した後にどう説明するとわかりやすいかを少し考えて簡潔に答えを言葉にした。
「えっと・・・まぁ、わかりやすく言えば明かりのための道具、かな」
「明かり? これは明かりのためのものなのか?」
「明かりと言いますと・・・提灯や灯篭みたいなものですか」
二人はようやく納得したのか、出来上がった木の枠しかない明かりの入れ物を様々な角度から観察するように見ていた。
「昇太郎様、只今ご所望のものを用意して戻りましてございます」
琴乃と雪絵の興味が明かりの骨組みに向いている時、昇太郎のもとに錫原昌宗と烏羽信龍がやって来た。山人生まれの錫原昌宗と、元黒川家の親戚筋であった烏羽信龍。二人が昇太郎に言われて用意したのは枯草や藁に木片や縄である。
「ありがとう。じゃあ明日出陣する人達はもう休んでいると思うから、二人も今日は休んでいいよ」
「は、はぁ・・・」
枯草や藁に木片や縄。戦で使うものらしいが使い道がよくわからない。火をつければ盛大に燃えそうなものばかりなので火に関係しているのかもしれない。しかしそれは確証などではなくただの推測であり、昇太郎の頭の中はわからずじまいのままである。
「申し上げます!」
食事を行いながらも聞き耳を立てている琴乃と雪絵、昇太郎にねぎらいの言葉をもらって今日の仕事を終えた錫原昌宗と烏羽信龍。その間に挟まれるように一人焦りは見せずに落ち着き払っている昇太郎。そこに一人の若武者、胡粉勝光が駆けて来る。
「先ほどご所望になられたものでございますが・・・薄墨殿いわく明日の朝の出陣に間に合うかどうかはまだわからぬとのことにございます」
「あー・・・そうなの? じゃあどれくらいで用意できそう?」
「薄墨殿は朝の間には用意するとのことにございましたが・・・」
「じゃあ、えっと・・・薄墨さんと・・・胡粉さんだっけ? 二人は少し遅れてきていいから、揃い次第追いかけてきてね」
「か、かしこまりました」
出陣に間に合うように急いだが間に合いそうもない。しかし間に合わないことを叱責するどころか遅れても構わないという。戦に必要で大切なもののはずなのに出陣に間に合わなくてもいいというのが理解できない。ましてや灰原としては今回の戦は短期決戦を強いられている。出陣の時に全てが揃っていなければならないわけではないようだ。
「あ、みんなもお腹空いてないかな? よかったら食べてよ」
昇太郎が大皿に乗った即席味噌炒飯を今やって来た三人にも勧める。
「い、いや、私はまだ薄墨殿の手伝いがございますので」
「あ、そう? じゃあおにぎりにするよ。薄墨さんにも持って行ってあげてね」
昇太郎はそう言うと胡粉勝光の返答も聞くことなくさっさとその場から立ち去り、急ぎ足で料理場へと向かって行ってしまう。
「・・・勝光。薄墨殿と共に何を用意しているのだ?」
残された者たちは昇太郎に指示されて用意するべきものを爪に駆けずり回ったり城で作業を行ったりしている者達ばかりだ。全容を知っている者は昇太郎以外にはいない。そもそも知ったところで完全に彼の頭の中を理解できるものなどいるのだろうか。
「我らは黒染めの布に油、火打石に蝋燭、そして鏡だ」
「油や蝋燭まではわかるが・・・鏡だと?」
「一体何に使うつもりなのだ?」
集まっている男達もわけがわからなさ過ぎて困惑している。用意しろと言われてかき集めるのはそう難しいものではないものばかりだが、そんなものを一体何に使うのか誰にも皆目見当がつかない。本当に戦に役立つのか、その疑問や不安が家中には広がっていた。
「あ、ありがとうございます」
「なに、かまわぬよ。緑沢の地を守れたのであればこれくらいは我らにとっても苦ではないからな」
廊下を歩いてくるのは灰原昌隆と花菜。灰原昌隆は大皿に乗った即席味噌炒飯を見て歩み寄って来る。
「琴乃、雪絵。少し貰っていいか? さすがに疲れて腹が減った」
大皿の傍らに座り込む灰原昌隆。花菜はその後をまるで飼われている子犬のようについてきてちょこんと彼女も腰を下ろす。いきなりの主君の登場に錫原昌宗、烏羽信龍、胡粉勝光が慌てて一礼していた。
「父上、昇太郎は父上にも何か頼まれたのですか?」
「うむ、書状を書いてほしいとな」
「書状でございますか?」
「ああ、まずは緑沢家に対してだが、今回の戦に関しては昇太郎の指示通りに動いてほしいということ、さらに緑沢家の存続が成った暁には灰原が行った政を緑沢の地でも行い緑沢は最大限灰原と行動を共にすること、つまり同盟関係になるということだな」
灰原の力を借りて守ることができた後は灰原に付き従う。形の上では同盟だがそこにはれっきとした上下関係が存在する。しかし青森家という有力で力強い味方を失った緑沢家にとってこれほどの好条件はない。灰原家の庇護下に入る事で緑沢家が存続できるのだ。
「緑沢家のみならず、家中の者達も民衆も皆喜びます」
花菜は胸に大事そうに書状を持っている。先日まで門前払いされていた彼女にとってこれほどの結果は奇跡以外の何物でもない。
「あとは灰原家が行った政を教える代わりに灰原とは戦を行わないという約束を取り付ける書状なのだが・・・」
灰原昌隆は数口、即席味噌炒飯を食べながら肩を回す。
「書けるだけ書いてくれ、と言われた」
「か、書けるだけ?」
「ああ、あればあるだけ困らないらしい」
戦に必要なものをそろえながら、戦を避ける書状を山のように用意する。戦をするつもりなのか回避するつもりなのか、全くもって昇太郎の考えが読めない。
「何を考えているのか全くわからんな。まるであの時のようだ」
昇太郎の考えが読めない。しかしそれは今に始まったことではない。
「あの時と言われますと・・・白山や黒川に戦をせず勝ったあの時でございますか?」
「ああ、わしは途中から故よりわけがわからなかったが、琴乃や雪絵は初めから一緒にいたが最後まで何をしでかすかわからなかったそうだ、なぁ?」
琴乃と雪絵に同意を求める灰原昌隆。その同意を求める問いかけに二人は躊躇うことなく首を縦に振る。灰原家を救うだけでなく黒川家を奪い取り、白山家まであっさりと乗っ取ってしまった。正規軍もなく、従う将兵もない状態であるにも関わらず、だ。その結果が灰原家を中心とした国の運営。善政と改革により不作に見舞われず、今年は濃地の拡大もできているため収穫高はより一層増えることだろう。民衆の中には灰原昇太郎に不満を言う者は誰もいない。それこそが彼の残した功績で在り実力だ。
「また、我らの想像を超える結果をあいつは出すかもしれぬぞ」
「ふふっ、父上は楽しそうですね。では例えばどのような結果でございますか?」
「む、例えば・・・か? そうよなぁ・・・」
灰原昌隆は少し考え、二度三度頷いて思いついたことを言葉にする。
「緑沢家は無事で灰原家も無事。さらに青森家の食糧難も解決して赤嶺家など恐れるに値しない、とかだな」
「では私はそこに将兵の被害がない、を付け加えます」
灰原昌隆が言ったことでもかなり実現するのは難しい。しかしそれをさらに上回る難しさを琴乃は付け加えた。
「ふふっ、私も姉上様の考えに賛成です」
灰原昌隆の予想をさらに上回る結果を笑顔で話す灰原親子。その光景は昇太郎の功績を我が目で見ていない者達からしてみれば異様そのものでしかない。灰原親子の灰原昇太郎に対する信頼はもはや並大抵のものではない。
灰原親子は昇太郎が緑沢家を救い、青森家も救い、灰原家を無事存続させる結末を予想している。しかもそれを三日以内で行うという予想なのだ。常識ではまず考えられない。
「胡粉さん、薄墨さんや一緒に頑張ってくれている人達用に即席味噌炒飯おにぎり作って来たから持って行ってあげてもらえますか?」
大量のおにぎりの包みを女中たちと抱えて持ってきた昇太郎。話題の当人が帰ってきたことにより雑談を行っていた面々は一瞬沈黙する。
「あれ? どうかしました?」
おにぎりを抱えてやってきた昇太郎はまさに小間使い。優男で頼りにならず言うことをただ聞いているだけの人間にしか見えない。灰原親子はそれを認識したのか、お互いに顔を見合わせて笑みを浮かべる。雑談を一緒に聞いていた者達は雑談の内容が真実になることはないと思いつつも、もしかしたら灰原昇太郎ならやってのけるかもしれないという思いから畏怖や疑いなど様々な感情が複雑に入り混じった表情をしていた。
「・・・?」
雑談を一切聞いていなかった昇太郎にはこの場の雰囲気のことが一切わからず、一人蚊帳の外のような状態で首をかしげているのだった。
その後、おにぎりを受け取った胡粉勝光は商人として腕を振るって必要なものを集めている薄墨隆尚の下へと向かう。錫原昌宗と烏羽信龍は明日の朝、昇太郎と共に兵を率いて緑沢家へ出陣をするため休みを取る。花菜も明日の朝従軍するため休みを取り、灰原昌隆は引き続き灰原家を率いるものとして責任を持って書状の作成を行う。琴乃と雪絵は引き続き工作作業を行い、昇太郎も明日出陣ということで早めに休みを取ることとなる。
「・・・姉上様? どうかなさいましたか?」
必要な数ができるまで夜通し作業を行わなければならない琴乃と雪絵。しかしそれはある一つのことが確定していることを意味する。
「のう、雪絵。私達は・・・此度は蚊帳の外か?」
寂しそうな表情が琴乃の心情を表している。作業の手は決して止めないが、作業に集中できているかと問われれば首を横に振る他ないだろう。
「私は・・・戦う力を持ちません。姉上様のように武芸を鍛えたわけでも、昇太郎様のように策を練ることもできません。あの時、私が昇太郎様のお役に立てたのは・・・私以外に人が他にいなかったからだと今でも思っています」
「雪絵・・・」
「私と姉上様は双子でした。生まれてすぐ私は捨てられ、白山家領内の農村で拾われて育ちました。灰原家領内を流れる川が続く白山家領内の農村に私が行きついたように、昇太郎様も川に流されて私のもとに流れ着きました。偶然だとか必然だとか、いろいろあるかと思います。ですが私が重用されたのはただ・・・姉上様と双子で顔が似ていたからにほかなりません。私など・・・私一人の力など・・・何の役にも立たないのです」
雪絵も手を休めることはない。しかし事の動揺作業効率はどう見ても落ちている。それは心の中にあるちょっとした引っ掛かりを吐露することに神経が集中してしまっているからである。
「何を言うかと思えば・・・雪絵よ。私の力も昇太郎の策の役には立っておらぬぞ。あの日の昇太郎の策はあくまで戦いというものを全て避けて行うものであった。灰原、白山、黒川・・・どこの民も兵も命を落とさなかった。それこそが昇太郎の策であり、今の灰原家を作っている。それはわかっているはずだ。そうでなければ先ほど私が将兵の被害がないことを父上の考えに付け加えた時、間髪入れずに同じ考えだとは言えぬはずだ」
昇太郎にとって一人の人間がどれだけ戦えるかなどはどうでもいい。だからこそあの時の奇跡的な結果があり、それゆえに琴乃の鍛錬などは全くの無意味だと突き付けられているような気さえする。
「そうでしたか。私、一人で・・・自分だけが昇太郎様のお力に成れていないとばかり思っていました」
「最近、領内によく見聞に向かっていたのは・・・」
「はい、灰原家の一員として・・・昇太郎様のお力に成りたくて・・・」
雪絵は農村で育ったが灰原家の姫の血筋であることに変わりはない。灰原家の城の中にいれば誰もが姫として扱ってくれる。その地位に甘んじることも可能だが、その地位に甘んじたとしてもそれだけだ。灰原家の役には立てず、昇太郎の力にもなれない。農村で育ったからこそ学はなく、武芸の訓練もしてこなかったため力もない。しあきんようやく馬に乗れるようになっただけのただの女に過ぎないのだ。故に彼女は足掻いていた。灰原家の一員になれていない気がする苦しみや昇太郎の力になれていないという焦りから、できることをとにかくしていくことで灰原家の一員に近づける気がしていたというのが彼女の今日までの原動力だった。
「そうか。雪絵は・・・私以上に姫らしいからな。私はお転婆だ。弓を引き、刀を振り、槍を突き、馬で駆ける。故に少々姫らしい感覚を失っておるのだろうな。今日も昇太郎をあのような目に遭わせてしまった。しかも・・・素直に謝れぬ」
昇太郎に跳び蹴りを食らわせたことで怪我をさせてしまったのだが、琴乃は素直に謝ることができなかった。今まで趣味だったとはいえ武芸を一通り鍛えていた彼女。行動する時の選択肢の優先順位一位は自分の感情や直感に従ってのことが多い。姫としてある程度の学はあるものの、感情的に動いてしまうために失敗も少なくない。
「昇太郎は頭がいい。私はどちらかと言えば先に手が出てしまう。昇太郎に会えるのはうれしい。ずっと待っていたのだ。待っていたのだが・・・昇太郎の側にいるのが私の勝手で昇太郎は望んでいないのではないかと・・・どうしても思ってしまう」
琴乃にとって自分らしい生き方というものは昇太郎の枷になるのではないかと、昇太郎とは全く違う相性の自分が一緒にいることは彼にとって負担ではないのだろうかと常に気が気ではないのだ。しかしだからと言ってそう簡単に自分を変えることなどできない。感覚的に直感に従って第一歩を動き出してしまう。それを後で自覚した時に後悔し、より一層自責の念が積み重なっていくのだ。
「・・・ふふっ」
琴乃が自分の心の内を明かし終えた時、雪絵が小さく笑いを漏らす。
「雪絵?」
「どうやら、姉上様も昇太郎様が大層お好きなようでございますね」
「なっ! 何を言う・・・ん? 私も?」
「はい。私は昇太郎様をお慕い申し上げております。それが姉上様も同じで、考えていることも同じで・・・少しおかしくなってしまいました」
クスクスと笑う雪絵。言っていることが今一つよくわからない琴乃はキョトンとしている。
「私達はともに昇太郎様に好かれたいと思っているのです。だから自分のどこが至らないのかをいつも考えてしまう。昇太郎様に相応しくないのではないかと悩んでしまう。私の姉上様も悩みの中身は違えども考えていることは同じです。本当に、双子の姉妹らしく似ておりますね」
琴乃は雪絵に言われて「なるほど」と納得した。言われてみれば琴乃は昇太郎のことを四六時中考えている。会えなかった夏以降から今日会った時以降もずっとだ。それは好きであるからこそ気になり、好きであるからこそ頭から離れないのだとはっきり理解した。
「惚れた弱み・・・とは少し違うか」
「ですが、近いかと」
「やはり、そう思うか」
惚れた弱みとは好きになった方が好かれている方の言い分を拒めず相手に合わせてしまうことを言う。昇太郎は別に琴乃や雪絵に何かを強いているわけではないし、どうしてほしいかを言うこともない。しかし勝手に相手のことを思って何かと行動を起こしてしまうのは、正しい意味合いとは違うとはいえ似ていないこともない。
「・・・これから戦です」
「そうじゃな」
「昇太郎様が確実にご無事であるかどうかは誰にもわかりません」
「ああ、戦には想定外のことも付き物だ」
昇太郎は他の追随を許さない知恵の持ち主であることに違いはない。しかし相手が昇太郎以上のものである可能性も否定できない。
「そこで、です。昇太郎様の傍らには常に昇太郎様のご無事を考えることができる方がいないといけないと思うのです」
「うむ、それはそうじゃな」
灰原昇太郎の頭脳こそが最大の抑止力。だからこそ灰原昇太郎に何かあってはならないのだ。彼の周囲には彼を一番に思う者が常に付き従っているに越したことはない。
「ならば、私達も何かしなければいけません」
「・・・ん? 何かをする? どういうことだ?」
「昇太郎様のことを強く思い、なおかつ昇太郎様に信頼され、さらに昇太郎様を守る力を持ち、かつて昇太郎様を守ったことのあるかたがおられるではありませんか」
「は?」
雪絵はまっすぐ琴乃を見ている。妹の言葉と様子から雪絵が何を言いたいか琴乃は察した。
「ほ、本気か?」
「はい。本当は私が行きたいのですが・・・私は最近ようやく一人で馬に乗れるようになった程度ですので」
灰原家が一度黒川家によって滅ぼされたとき、昇太郎と共に逃げ延びた琴乃。灰原家の中で昇太郎を信じている者は多いかもしれないが、昇太郎が心から一番信じているのは琴乃ではないか。それが雪絵の思いでもあり考えでもあった。
「姉上様。何があったとしても、昇太郎様をお守りください」
「う、うむ。それはいいのだが・・・」
「それと、できれば昇太郎様がどのようなことをお考えであったのか、後で詳しくお教え願えればと思います」
「うぅ・・・よ、良いのかのぅ・・・」
今回、琴乃は従軍しない予定だ。それを破って昇太郎に付き従っていいのか、さすがの琴乃も悩んでしまう。昇太郎は琴乃がついてきたとしても怒ることはないだろうが、そのせいで昇太郎の考えに何かしらの影響はないか、昇太郎の考えの邪魔になったりはしないかと気になってしかたがない。
「まぁ、城にずっといると落ち着かぬが・・・その前にこれを全て組み立てねばならぬ」
「あ、そうですね」
与えられた仕事を放棄して命令にない行動をとるなど言語道断だ。琴乃と雪絵は遅れを取り戻すかのように、木枠を組んで昇太郎の望むものを急いで作っていく。
夜明け。冬の日の出は遅くまだ周囲は夜という布団から抜け出せない寝坊助のように暗い。さらに日の光が差し込む前の早朝ということで寒さも厳しい。現代のように化学繊維の上着や肌着などない。寒いならとにかく工夫して厚着をするほかない。
「うぅ・・・寒い・・・」
その寒さに慣れていない現代人の昇太郎は人一倍着込んで寒さ対策をしている。こんもりと厚着をしたおかげである程度寒さはましになったものの、厚着をしたおかげで体にかかる負荷は増している。
「うぅ・・・そして重い・・・」
現代の衣服がどれだけ軽量化と保温性能に優れているか、保温性能の低い衣服を重ね着するこの世界の防寒対策と比べて大いなる進化を実体験した。
「これ、何をしておる。昇太郎はこっちじゃ」
「・・・え?」
やや上から聞こえた声の方に顔を向ける。そこには凛々しく美しい姿勢で馬にまたがる琴乃の姿があった。
「え? あれ? 琴乃さん? ど、どうして?」
「昇太郎は軟弱で貧弱で脆弱だからな。緑沢までの道を歩けるとは思えぬ。聞けば山道だが馬は使える程度の道を通ると聞いた。ならば私が乗せて行った方が速かろう」
「で、でも・・・」
「昇太郎の足に合わせておると緑沢の城に着くまでに三日以上かかってしまうわ」
「・・・か、返す言葉もありません」
長距離を歩くことにとにかく慣れていない昇太郎。青森家領内の散策、青森領から緑沢領へと移動、そして緑沢領から灰原領への移動、その全てで足を攣るか痛めるかになっているのだ。そして生き倒れのようになったりお荷物になったりと、とにかく人の手を借りなければもう死んでいてもおかしくはない。
「でも・・・琴乃さん、女の子だし・・・」
「ん? 私が女子だからなんだというのだ?」
琴乃は馬から華麗に降りると、昇太郎を無理矢理馬に乗せるためにぐいぐいと後ろから押す。その力に昇太郎は負けて流されるように馬に乗せられてしまう。
「昇太郎と共に私も戦に巻き込まれたとしよう。少なくとも私の方が生き残る自信はあるぞ」
「・・・ごもっともです」
女の子だからとか、戦場が危ないからなどの理由は通用しない。琴乃は昇太郎に比べればはるかに強い。馬にも乗れるし武器も扱える。昇太郎は逃げるにしても長距離を移動することすらできない弱すぎる足腰があり、どう考えても戦場に置いて守られるべき存在は琴乃よりも昇太郎であった。そのため昇太郎は琴乃を灰原の城に押しとどめて出陣することができなかった。
「昇太郎様、準備が整いましてございます」
緑沢家救済のための軍に将として従軍する烏羽信龍。出立の準備が全て滞りなく済んだことを知らせに来てくれた。
「あ、じゃあ出発します」
「はっ! 全軍、進め!」
昇太郎の出発の指示を聞いて烏羽信龍が出陣の合図を全軍に送る。一緒に従軍している錫原昌宗の方が灰原家家中内では役職は上なのだが、兵の指揮を執ったことがないため実質的な指揮官は烏羽信龍が請け負うことになっていた。
「では父上、雪絵、行ってまいります」
「い、行ってきます。後のことはお願いします」
昇太郎が乗る馬に琴乃も跨る。もちろん手綱を握るのも琴乃だ。昇太郎はあくまで行軍の邪魔をしないように、琴乃の馬に乗せてもらっているだけというこの時代の男子では実に情けない姿であった。
「琴乃さんと一緒に馬に乗るの・・・久しぶりだな」
琴乃と一緒に馬に乗って移動した記憶が昇太郎の頭の中で蘇る。まだ半年程度しか経っていないのにもうかなり昔のように感じる。
「昇太郎、呆けておると落馬するぞ」
「え、あっ・・・はい。すみません」
会いたかった女の子とこんなに密着しているという状況に健全な青少年の心が躍らないはずがない。半年前の出来事を思い出せば半年間会えなかった期間のことも思い出す。連絡を取る手段を持たない片思いの相手が遠方に行ってしまい、ひょんなことから久しぶりに再会したような気分の昇太郎だった。しかしそんな浮ついた昇太郎の気持ちを琴乃は見透かしたのか、母親が真剣にならない子供を叱るように昇太郎は琴乃に怒られてしまったのだった。
「行ってしまいましたね」
「そうだな。では、留守を任されたからにはしっかりせねばな」
灰原軍のほぼ総勢を引き連れ出立した。それを見送る灰原昌隆と雪絵。見送った後は国内が手薄になる。周囲の敵国がすぐに攻め寄せてくることはないとはいえ、虎視眈々と領地を狙われている以上やらなければならないことは山のようにあるのだ。
「留守を任されたのはわかりますが、何かできることはあるのですか?」
「うむ、今朝昇太郎に書状の束を渡したのだが、その時に兵が留守の間にやってほしいことがあると言っていた」
「昇太郎様が?」
「うむ、どうやら留守の間に何かあっても即座に最悪の事態には陥らぬようにするためのようだな」
いったい昇太郎にはどこまで見えているのか、そしてどこまで考えが至っているのか、それがわからないからこそ雪絵は昇太郎と共にいることに安心感や好奇心というものがある。しかしそれと同じだけ、自分とはかけ離れた世界にいる人だという印象もあり、少なからず寂しい思いをしていた。
「留守だからと言って暇を持て余す暇はないぞ」
「はい」
しかし任された以上は確実にその役目をこなして役に立ちたい。そう思う雪絵はただ待っているだけでなくやるべきことがあると知って俄然やる気が出て来る。小さくなっていく灰原軍を見送り、雪絵は灰原昌隆と共に留守の役目を果たすために行動を開始する。
青森領を出陣して緑沢領内へと侵入しようとしている青森軍。青森軍の大将を務める浅葱繁信は千五百の兵と共に緑沢領へと続く山道を進んでいた。
「申し上げます!」
静寂な冬の山の中に大きな声が響き渡る。報せは緑沢領の方面からやって来た。つまり向かう先で何かが起こったことを意味している。
「どうした?」
「緑沢は籠城の構え! 城内に食料や人を集めております!」
「ふむ、赤嶺も動いているのだ。そうする他に手はなかろう」
緑沢の兵力は総勢で五百程。青森家と赤嶺家の総勢はそれぞれ千五百ずつ。合わせれば三千、六倍もの数になる。三倍まで、それも一方向からなら奇襲や地の利を生かした守りで何とか防げないことはないだろう。しかし二方向から総勢六倍ともなれば籠城する他ない。むしろ籠城しても勝ち目は非常に薄いと言わざるを得ない。
「申し上げます!」
緑沢の様子を伝えに来た者の後にもう一人、急いで駆けてきた者が再び静寂な冬の山に声を響かせる。
「今度は何だ?」
「灰原が動きましてございます!」
「なに?」
緑沢だけを相手取った簡単な戦で終わる予定であった。赤嶺家が誇る知将の深緋久英の策を考えれば灰原は動けないはずだ。
「誠か? それで数は?」
「灰原はほぼ総勢、三千の兵を率いて緑沢領へ向かっています!」
「総勢・・・三千だと?」
青森軍に動揺が広がる。ただでさえかつての同盟国を攻めるという精神的に苦しい状況にある上に、それが下手をすればとんでもない長期戦になってしまう可能性もあるのだ。
「我らと赤嶺を合わせて三千、緑沢は灰原の援軍を得て三千五百・・・ほぼ同数か」
数の上では同数だ。しかし戦いというのは基本的に地の利を持っている守る側が有利。それを上回るためには数を用意したり策を弄したりしなければならない。それにもかかわらず守る側の方が若干とはいえ数が多いとなれば、攻め手はどう考えても苦労することは目に見えている。
「想像以上に灰原の援軍が多いな」
灰原も国内事情が完全に安定しているとは言えない。そのため援軍が来るとしても少数だと予想していた。しかしその予想を裏切り、灰原は総力を挙げて緑沢を助けに来た。
「申し上げます!」
灰原軍の援軍が多いということを聞いて動揺する浅葱繁信と配下の将兵達。しかしそこへさらに火急の報せが飛び込んでくる。
「今度は何だ!」
「灰原軍三千、緑沢領へ入りました!」
「なに? もう入ったのか?」
あまりの行軍の速さに浅葱繁信は驚きを隠せない。しかし彼だけでなく、従軍している全ての将兵が平常心でいられない最悪の知らせがその後に続いた。
「はっ! なお、灰原軍の総大将は灰原昇太郎とのことにございます!」
「な、なに・・・」
灰原昇太郎。この名がどれだけ灰原家の周辺各国で恐れられているかを表す反応。青森軍の総勢が灰原昇太郎を相手取って戦うことに大きな不安と恐怖を抱く。一人の兵も持たないまま民衆を味方につけて戦らしい草を行わずに三国を併呑した男。その策はあまりにも鮮やかで完璧すぎた。人伝に聞いただけでも敵に回したくないと思うほどだ。その恐怖の存在が敵軍の総大将として、援軍として三千もの兵を率いて緑沢領に入った。
「衝突は・・・避けられぬか」
最悪の相手であっても今の青森家に緑沢領侵攻の手を休める選択肢はない。ならばあとは緑沢領内で灰原昇太郎率いる軍と一戦交えるのみ。その勝敗がどう出るかはわからないが、今の青森家には選択の余地など一切ない。
「皆の者! 気を引き締めて進め!」
浅葱繁信の激も大きな効果はなく、進軍は続くものの将兵に一度広がった動揺はなかなか収まらない。そして心に不安を抱いているのは浅葱繁信も同じこと。一寸先は闇の中を突き進まなければならない恐怖を背負っているような気分のまま、青森軍は緑沢領内へと侵入していった。
出陣の準備を完全に整えた状態でまだ赤嶺領から出ていない深緋久英率いる赤嶺軍。赤嶺領内の寺に駐屯して何かを待っているようだ。寺の一室に一人で座っている深緋久英は静かに時が経つのを待っているようにも見える。そしてそこにも青森軍同様、火急の報せが飛び込んでくる。
「申し上げます! 灰原軍、動きました!」
「そうか。それで数は?」
「およそ三千!」
「ほぼ総勢、か。やはり短期決戦を挑んできたな。そうなれば総大将は間違いなく灰原昇太郎であろうな」
時は来た、そう言わんばかりに深緋久英はニヤリと笑みを浮かべて立ち上がる。そして部屋を出て家臣達が集まっている場所に足早に向かう。
「皆の者、これより我らは緑沢領へ侵攻する!」
出陣の準備が整った後も寺で長々と休息をとっていた。しかしそれもこの時まで。深緋久英の号令により休息をとっていた赤嶺軍は一斉に行軍の準備に取り掛かる。
「敵は緑沢軍、そして援軍として緑沢領に入った灰原軍だ! 各々、手柄を立てて思うままの褒美を手に入れよ!」
深緋久英の号令に赤嶺軍の将兵達はまるで勝ち戦に向かうかのように高々と声を上げる。深緋久英はあえて灰原軍の援軍が来たことは伝えたが、その援軍の正確な数と総大将が灰原昇太郎だと予想できることは伝えなかった。赤嶺領内では深緋久英の名を知らないものは誰もいない。しかしそれと同じく灰原昇太郎の名を知らないものもいない。赤嶺領内以外では深緋久英よりも灰原昇太郎の方が各上だとされている。そしてその思いは少なからず赤嶺軍にもある。故に深緋久英はあえて灰原昇太郎が敵陣にいる可能性には触れなかったのだ。味方の士気の低下を考え、灰原昇太郎の鼻を明かすためにも援軍としてやって来た灰原軍を討ち果たす。赤嶺軍の士気を高く保つのに必要な情報はそれだけでいい。
(灰原昇太郎。お前の策はある程度先読みができている。後はお前の動き次第で不確定要素を潰し、お前の狙いを見抜くまでだ)
意気揚々と出陣する赤嶺軍。その軍の中枢に乗馬した深緋久英。彼の頭の中には何通りもの駆け引きが先読みされている。その中のどれか、それともそこにない全く新しい策を用いるのか、楽しみと同時に勝つことで最高の知将としての名声を得ることに少なからず武者震いが深緋久英の体を走り抜ける。
(お前はまず間違いなく青森の懐柔に動く。食料援助と引き換えに、な。わしはそれを潰す。そうすればお前は次の手を打たなくてはならない。そうなればこちらが主導権を握り思うままに事を進められる)
深緋久英の頭の中には勝利までの道筋がはっきりと見えている。それは灰原昇太郎の首を刎ねて、その前で酒を飲むところまでだ。
(わし以上の知将だというのであれば・・・その実力、見せてみよ)
深緋久英率いる千五百の赤嶺軍もまっすぐ緑沢領に向かって進軍していく。これで決戦の地である緑沢領内には灰原軍三千、緑沢軍五百、赤嶺軍千五百、青森軍千五百という敵味方総勢六千五百という大軍が小国の中にひしめき合うことになるのであった。
緑沢の城では空気が張り詰めている。誰もかれもが緊迫した面持ちで、一言も話すことなく無言のまま籠城の準備が進んでいる。緑沢家にはすでに青森家が敵に回ったことも、赤嶺家とともに総勢三千の兵を動員して攻めて来ることも伝わっている。緑沢軍の六倍もの兵力。さらに率いるのは真の知れた知将深緋久英。まともに戦わずとも敗戦は誰もが各自とだと考えている。しかしそんな緑沢家に希望の光がないわけではない。
「申し上げます! 灰原様の援軍がご到着なさいました!」
「おぉっ! 来たか!」
城内で灰原軍の到着を今か今かと待ちわびていた緑沢家当主の緑沢晴時。援軍の到着を知るなり急いで部屋を飛び出し、全力で廊下をかけて灰原軍の出迎えに向かう。
「開門! 開門せよ!」
城門を開いて灰原軍を城の中に引き入れる。その援軍の総数は想像をはるかに超えた三千という大数。緑沢晴時は援軍の到着が間に合ったことで緊張の糸が切れたのか、体を震わせて涙を一筋こぼしていた。
「父上!」
灰原軍と共に緑沢の地に戻って来た花菜。彼女は実の父である緑沢晴時に抱き着かんばかりの勢いで駆けよる。緑沢晴時も花菜の両肩を両手で掴む。自然とその手には力が入ってしまう。
「よくやった。よくやったぞ、花菜・・・」
感動の再会や功績の称賛など複数の意味を持つ再開の一幕。そこに二人が乗馬した馬が到着する。
「あ、父上。こちらは灰原昇太郎様、並びに姫の琴乃様にございます」
「おぉ、此度は援軍の申し出を受けていただき誠に・・・」
深々と頭を下げた緑沢晴時だが、頭を挙げた時に見えた顔に見覚えがあった。鎧を着て槍や刀を持つ灰原軍の中で一切武装していない一人の優男。緑沢晴時が依然会った時に灰原昇太郎の偽物だと判断した昇太郎がそこにいたのだ。
「そ、そなたは・・・まさか・・・」
「この前は灰原領への生き方を教えていただきありがとうございます。大したことはできませんが、お礼をしに帰ってきました」
ニコッと笑みを浮かべる昇太郎と、驚きから硬直してしまっている緑沢晴時。二人の間に何かあったようだが琴乃や花菜にも二人の関係性がわからずただ見守ることしかできないでいた。
「ふっ・・・お礼、か。期待はしていなかったが、まさかこれほど大掛かりなものがやって来るとは思いもよらなかった」
「僕は受けた恩は忘れませんよ」
「恩、か。あれを恩と言ってくれるのか・・・」
緑沢晴時は地面に膝をつくと、昇太郎に向かって深々と頭を下げる。
「御無礼、お詫びいたします。そして援軍、感謝いたします」
緑沢晴時は深々と昇太郎に対して頭を下げたまま動かない。昇太郎はどうした者かと少し悩んだが、緑沢晴時のもとに歩み寄って膝をつき、その肩に手を置いて頭をゆっくりとあげさせる。
「頭を上げてください。これから共に戦うのですから、堂々としていてくれた方が灰原の者達も安心して共に戦えます」
兵の数や立場上しかたないとはいえ、共闘する味方の総大将が媚びへつらったり腰が低くなったりすると味方としての信頼感が失われる。頼れない相手との共闘はいい結果を生むことはない。兵の数や立場などを抜きにして、味方である以上は頼りがいのある存在感を示してくれる方が心強い。
「お心遣い、感謝いたす」
緑沢晴時は灰原昇太郎に促されて立ち上がる。初めて出会ったわけではないが、会ってそれほど長く時を共にしたわけでもない。その二人の間にはこのわずかな時間で確かな共闘するための信頼関係が成立していた。
「昇太郎様、兵を休ませねばなりません。ほとんど休みなしの強行軍であったが故、半日ほどは休ませなければ使い物にはなりませぬな」
緑沢の城に入った灰原軍の様子を見て回った烏羽信龍が状況を報告する。
「みんなを休ませてもらっていいですか?」
「うむ、かまわぬ」
「ああ、それと・・・食べ物もお願いします」
「それは私が受け持ちます」
「なら手伝おう」
花菜が料理場へと走っていく。その後を琴乃がついて行く。
「緑沢さん、手の空いている人をできるだけお借りしてもいいですか?」
「構わぬが・・・一体なにをする気なのだ?」
「もうすぐ物資が届くと思うので、工作作業を手伝ってもらいたいんです」
「・・・工作作業?」
昇太郎の言っていることがわからない緑沢晴時は眉をひそめている。昇太郎が何を考えているのか灰原家の人間もわからないのだ。今初めて工作作業という言葉を聞いた緑沢晴時にわかるわけがない。
「とにかく人をお願いします」
「わかった。集められるだけ集めよう」
「はい。では錫原さん。工作作業の方はお任せします」
「か、かしこまった」
灰原軍に従軍していた錫原昌宗。彼は材料をかき集めるために走り回っていたことから工作作業自体にはそれほど関わってはいないが、事前に昇太郎からどのようにすればいいかを聞いていたこともあり工作作業の責任者を命じられた。
「烏羽さんは後続の人達の案内や誘導を願いします」
「心得ました」
烏羽信龍はすぐさま馬に乗って入って来たばかりの緑沢の城を飛び出して行く。
「灰原昇太郎殿、何か策がおありで?」
以前顔を合わせた時とはまるで違う対応に昇太郎は多少違和感を覚えながらも、力強く首を縦に振る。
「はい、成功するかどうかはわかりませんが」
「敵はあの深緋久英だ。以下に灰原昇太郎殿で会っても一筋縄ではいかぬ男だろう」
「そうだと思います。現状、僕たちには余裕がありませんから」
灰原家に許された時間は三日しかない。その間に戦いが終わらなければ灰原領は隣国から襲撃を受けてしまう。それを防ぐために灰原軍が灰原領に帰ると緑沢軍は恐らく簡単に敗れてしまうだろうし、灰原軍も無事に帰ることができるとは限らない。さらに言えば灰原昇太郎という名が持つ抑止力も同時に失われてしまう。灰原家にとってこの戦は何が何でも短期決戦で勝たなければならないのだ。
「申し上げます! 物見によれば青森は陣を張った様子にございます。そして逆方面の遠方に赤嶺の軍が見えました」
「ついに来たか」
緑沢晴時は赤嶺軍が遠くに見えると言われた方角にある城壁へと向かい、遠くを監視するために建てられた櫓に上っていく。昇太郎もその後に続いて櫓の上へと上っていく。
「わぁ、見晴らしがいいなぁ」
高さ数メートル。現代日本では決して高い建物というわけではない。しかし周囲に視界を遮るものはほとんどなく、三百六十度をほぼすべて見渡せるのは都会育ちの昇太郎にはあまりない経験で新鮮なものだった。
「殿、灰原殿、あそこに見えるのが赤嶺軍でございます」
物見の兵士が指し示す方向に視線を向ける。そこには確かに大勢の兵士が小さくだが見ることができる。
「赤嶺軍・・・あそこに深緋久英がいるのか」
緑沢の地を狙う知将を緑沢晴時は恐れているのだろう。不安そうな雰囲気は隣にいる昇太郎にもひしひしと伝わってくる。
「大丈夫ですよ。まずはこちらが主導権を握ります。そうすればこちらが有利に事を運べますから」
「う、うむ」
不安と緊張からか緑沢晴時の様子は決していい状態ではない。だからこそ昇太郎は自分がしっかりしなければと自分自身に言い聞かせる。高名な知将を相手にすると言うことで生まれる恐怖や緊張は昇太郎にもある。命の危機には何度も遭遇しているが慣れるものではない。小さな失敗一つが大勢の人の生死を分ける。そしてその決定権を自分が握っている。緊張しないはずがない。怖くないはずがない。それでも昇太郎は総大将としての役目を負っている以上は気丈でいなければならない。
(大丈夫・・・必ずうまくいく・・・)
全く面識のない会ったこともなければ話したこともない相手と戦うという不安。それは戦場である緑沢の城に来たことでより一層昇太郎の心を圧し潰そうとしてくる。それでも昇太郎はその不安や恐怖を平静な表情で覆い隠し、いつも通りの平静を装い続けていた。
「赤嶺の軍、動きを止めました」
「あの場所は陣を張るのに向いていない。陣を張るならもう少し山を下ったところでなければならぬが・・・一体何をしているのだ?」
緑沢晴時と物見の兵士は赤嶺軍が急に動きを止めたことに怪訝そうな表情をしている。その理由がわからず何か見当がついているかを昇太郎に通すとした緑沢晴時だったが、その言葉は喉元まで来て発する前に飲み込まれた。
(見据えているのか? 互いの宿敵を・・・)
赤嶺軍をまっすぐ見たまま動かない昇太郎。進軍してきて急に山道の途中で動きを止めた赤嶺軍。両軍の総大将が互いに相手の姿を視認できているかはわからない。わからないしそもそも会ったことがないはずなので相手の姿を知らないはずだ。よってお互い意図して視線を交わらせることはあり得ない。それでもまるで互いに相手を見据えているかのような光景に、緑沢晴時は宿敵同士が対峙している光景だと理解した。
(こうなれば・・・わしも腹を決めねばならぬな)
深緋久英の策に緑沢晴時は立ち向かう術を持たない。緑沢晴時は灰原昇太郎の頭に頼らざるを得ない。ならば彼が最善の策だとして出した命令には言われるがまま従う。その結果自分が死ぬことになろうとも、緑沢の地が守られるのであれば構わない。その覚悟を緑沢晴時は人知れず心の中で決めているのであった。
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