第5話 小国の危機

 青森広敬の意向により昇太郎は緑沢家の使者と共に緑沢領へと向かうこととなった。正太郎を緑沢領へと連れて帰る使者の一行たちの表情や雰囲気は重い。今まで一番親身になって力を貸してくれていた青森広敬の直々の力添えが貰えなかったのが一番の要因だ。しかしそれでも彼が緑沢家お斬り捨てる気がないことは分かった。その証拠ともいえるのが昇太郎を使者と共に緑沢家へと向かわせるという判断だ。

「青森広敬殿の助けを得ることはできなかったが、この昇太郎と申す者の正体が誠にあの灰原昇太郎であったなら、我ら緑沢家にとってこれ以上ない力となろう」

 昇太郎は自らの本名が灰原昇太郎であるということは言っていない。そのため一緒にいる優男の昇太郎が広く名の知れ渡ったあの有名な灰原昇太郎であるという確信は一切ないと言ってもいい。しかし青森広敬がわざわざ連れて行かせたとなれば全く無駄な存在だと考えるのは難しい。緑沢家からの使者の一行たちは真偽こそ分からないものの、緑沢家の命運を握ることになるだろう昇太郎と名乗る優男に一縷の望みを託すこととなっていた。

「しかし・・・本当に緑沢家の命運を託していい者なのか・・・」

 青森広敬のお墨付きのような状況であるため疑いはそこまで深くはないものの、疑問点は多多存在するのは間違いない。灰原家という弱小国から国力を上回る二か国を飲み込んで地盤が安定した地にいればいいのだが、なぜかその場所にいることはなく青森家に人知れず身を寄せていた。その疑問は一切払拭されていない。さらに言えば灰原家の国の守りの要は灰原昇太郎という人間が灰原家にいるということだ。灰原家がそう簡単に灰原昇太郎を手放すはずはなく、現状に一切納得がいかないのは当たり前のことでもあった。

 そしてそれ以上に昇太郎という一人の男に緑沢家の命運を託すことに不安を覚える理由がある。それは今現在、青森領から緑沢領へと向かう山越えの途中に起こった出来事。

「あの・・・すみません」

 そう謝るのは使者の一行と共に緑沢領を目指す昇太郎。彼は先ほどまで自らの足で歩いていたのだが、近道を行くために急勾配の激しい山の獣道を歩いている途中で足を攣って歩けなくなってしまったのだった。そのため彼は使者の一行の一人の背負われながら緑沢領を目指すという、なんとも間抜けな光景がそこにあった。

「気にせずともよい。だが、足腰は鍛えておいた方がよいぞ」

「な、なるべくそうします」

 緑沢家の命運を握る男、救世主となるかもしれない男。少なくとも青森広敬から昇太郎を預かった時にはそういう認識でいた緑沢家の使者の一行だったが、青森領を抜けて緑沢領へと入る前に起こった事態に不安や心配の種は尽きない。

「もはや賽は投げられた・・・のかもしれぬな」

 預かったどうにも信頼しきることができず安心することにも心許ない昇太郎に託すしかない、その現実に使者の一行たちは最悪の時には自らの命を懸けることも覚悟しなければならないと言葉にこそしないが心の中で思うのだった。




 青森領を出て最短距離を最速で移動しておよそ半日。緑沢家へと帰還した使者の一行。弱小国である緑沢家の守りの要でもある山城に到着するなり、その帰還を心待ちにしていた複数人の男達が一斉に城門の近くにまで走って死者の一行へと近づいてくる。

「おお、どうであった? 青森殿のご助力を得ることはかなったか?」

 複数人の男の中の一人が使者の一人に問いかける。その問いかけに使者を請け負った男性は表情を強張らせ、即座に両膝を地面について深々と頭を下げた。それこそ額を地面に打ち付けるのではないかと思うほどの勢い、そして地面に額をこすりつけるほどの深さというただならぬ様子。その行動を見た瞬間、誰もが返答を言われずとも交渉の結果を察したが、使者を請け負った男は申し訳なさそうに報告を行う。

「申し訳ございませぬ! 青森家の援軍は・・・参りませぬ!」

 深々と頭を下げる使者の男。しかし彼を責める者は誰もいない。近年稀にみる複数年続く不作による食糧難は各地で起こっている。内陸地の国では海に食料を求めることもできず、厳しい状況にあるのは致し方のないことだ。海のある赤嶺家に比べ、海を持たない青森家や緑沢家が厳しい立ち位置にあるのは周知の事実だ。内陸地にありながら不作の影響を受けていない例外は灰原家くらいで、その他多くの国々の民衆が不作による苦境から悲鳴を上げているのだ。

「いや、これは致し方のないことだ。我らとて援軍を求められても兵糧を集められるかはわからぬのだからな」

 明らかに意気消沈、残念な面持ちとなる出迎えた複数人の男達。しかしそれはある程度想像はできていたことでもある。苦しいのは青森家だけではないのだ。

「我らは今まで幾度となく青森家に助けてもらっていた。此度は我らだけで守り切るしか無かろうな」

「はっ・・・我が力が至らず、申し訳ございませぬ」

「そう言うな。青森広敬のことはわしもよく知っている。あの男はやすやすと我らを切り捨てる男ではない。苦渋の決断であったのであろうな」

 青森広敬の心中を察することは容易にできる。義理堅く無骨な男である青森広敬。今まで長らく助けていた小国を助けに行けないという事実は彼にとって厳しいものであることに間違いはないだろう。

「しかしながら、殿。青森殿は我らにこの男を同行させるように言ってまいりました」

「ん? おお、そう言われてみれば見慣れる者がおるな」

 殿と呼ばれた男は緑沢家領主の緑沢晴時(みどりさわはるとき)である。

「その者は何者だ? 青森広敬が遣わしたとなればただ者ではなさそうだが・・・」

「青森殿に聞くところによれば、この者の名は昇太郎と申すそうでございます」

「ほう、昇太郎・・・なに? 昇太郎だと?」

 緑沢晴時の表情が一変する。今まではどのような男かを観察するような物珍しいものを見るような眼だったが、昇太郎という名を聞いた瞬間に驚きや喜びや恐れなどの表情が入り混じる。名前を聞いてすぐということもあってか、緑沢晴時は自らの感情を自ら律することができていないようにも見える。

「まさか・・・あの灰原昇太郎か?」

「いえ、それに関してこの者は一切首を縦に振りませぬ。しかし青森殿が関わっている以上は無駄とも思えず、しかし重用するには不安要素が多すぎて・・・正直どのように申せばよいのか困っております」

 昇太郎の扱いには彼を緑沢家に連れてきた使者たちも困惑している。むしろいっそのこと、昇太郎が自らのことを灰原昇太郎だと言い切ってくれればいいと彼らは思っている。真偽はわからないが、そう言い切ってくれた方が扱いには困らずにすむ。

 しかし昇太郎は自らの本名をそう簡単に名乗るつもりはない。灰原家家中で名乗るのであればまだしも、灰原家と敵対関係ではないものの深い関係にない場所で本名を名乗るのは危険だと考えているからである。青森家では危害が加えられることはなかったが、青森家の外ではどうなるかわからない。今はまだ青森広敬という人間との関係性が昇太郎に向く危険を取り除いてくれてはいるが、それがいつまで続くかも不透明だ。よって昇太郎はあえて灰原昇太郎という名を隠すことで自らの身を守ることにしており、それが今のところは成功していた。

「うぅむ、青森広敬が遣わしたのであれば手荒に扱うわけにもいかぬ。しかしあの灰原昇太郎でなければ、我らの力に成るとも思えぬ」

 昇太郎が灰原家を救った灰原昇太郎であればいくらでも利用価値がある。しかし昇太郎がその灰原昇太郎でなければ存在価値はほとんど無いに等しい。青森広敬の性格を考えれば全く無駄なことをするとは考えにくいが、もし緑沢家と袂を分かつために偽りの灰原昇太郎を用意したということも可能性としてはあり得る。緑沢晴時は青森広敬のことを信じてはいるのだが、国を守るということを最重要課題として考えればすべてを疑ってかかることも必要になって来る。

「ひとまずこの者の扱いは保留とする。部屋を用意し、客人を案内せよ」

「はっ!」

 緑沢晴時はひとまず昇太郎に対する処遇の決定を先送りにして様子を見ることにした。今目の前にいる昇太郎が、弱小国の灰原家を救ったあの灰原昇太郎であるかどうか、本人の口から聞かずとも様子を見れば何かが見えて来るだろうということからの判断だ。

 昇太郎を城内の屋敷の一室へと案内させ、その背中を見送る緑沢晴時。残った家臣達には事態を甘く見ずに最大限尽力することを伝えて気を引き締めるよう指示を出す。

「あの者が誠に灰原昇太郎であるという確証はない。我々の国はまず我々の手で守らなければならない。赤嶺家との国境とその近辺に人を配せ。どのような事態にも即時対応できるよう抜かりなく準備せよ」

「はっ!」

 例え今日やって来た昇太郎が本物の灰原昇太郎だったとしても、緑沢家の地理や国内情勢に疎いことに変わりはない。絶対の勝利や安心などない戦国の世に油断などあってはならないと言わんばかりに、緑沢晴時は家臣団に対応可能な全てを行うよう指示を出す。それは援軍が見込めない状況で赤嶺家の侵攻を許してしまうという最悪の事態にあっても、緑沢家を守るために最大限の努力と工夫を行い戦いにも応じるという緑沢晴時の強い意思表示でもあった。




 緑沢家にやって来て客人として客室を与えられた昇太郎であったが、その実態は半ば軟禁状態であると言っても過言ではなった。昇太郎の正体がわからないことから容易に重用はできないものの、青森広敬の意向もあってむげにもできない。取扱いに困った緑沢家は客人として迎え入れつつ、監視を怠らずに情報を一つでも多く手に入れるという方針でいるようだ。

「うーん、昔の人の自由がないってこういうこともあってのことなのかな?」

 監視が厳しくて自由に動き回ることができない。人質ともなれば移動の度に必ず同行者が複数人付き添う。屋敷の中にいれば部屋から出るのにも制約がある。昇太郎は特に人質という状態にはないが、人質と同じような待遇となっていた。

 しかしそれもつかの間のことだ。緑沢家には正直に言って余裕がない。今まで国を守るために必要だった同盟国である青森家の力を頼れなくなり、長らく虎視眈々と緑沢領を狙っていた赤嶺家が不作続きによる食料問題で優位に立っている。野心のある赤嶺家が動くとするならばこの機を逃すはずがないことは明白だ。青森家が動けない今、緑沢家の命運は風前の灯火と言っても過言ではない。

「客人、失礼する!」

 客室の襖が勢いよく開け放たれ、そこには険しい表情をした若者が数名立っていた。彼らは誰もが鬼気迫る様子を見せており、昇太郎の返答を待つことなく襖を開け放ったかと思えばずかずかと部屋の中にまで踏み込んできた。

「え、え? なに? なんですか?」

 突然のことで客室の真ん中に座ったまま動けない昇太郎。その周囲を若者たちがぐるりと取り囲む。その表情や視線は全員、昇太郎に対してかなり厳しいものがある。

「客人、あなたの名が昇太郎だということは聞き及んだ。しかし我らはただの昇太郎という優男に時を割いている余裕はない。よって率直に答えていただきたい。客人は昇太郎と名乗るが、灰原家を窮地から救った灰原昇太郎で間違いないか?」

 鬼気迫る様子で昇太郎に質問をぶつけてくる緑沢家の若者達。彼らは自らの国を思うがためにこのような行動を起こしたようだ。その行動力は昇太郎がまだ自分の時代にいた時に調べたことのある幕末の志士のようにも見えなくもなかった。

「あ、それは・・・えっと・・・」

「答えよ!」

 若者の一人が刀を抜いた。そしてその刃の切っ先を昇太郎の目の前に突き出す。目から指一本分も離れていない距離に緑沢家の若者が持つ刀の刃の切っ先がある。それに恐怖を感じた昇太郎は反射的に後ろに倒れ込むように背中を床につくと、そのまま刀の切っ先から距離をとるように体をズルズルと引きずりながら両手足を必死に動かして後退していた。

「逃げられると思いか?」

 後退する昇太郎の背後に二人の若者が回り込み退路を塞ぐ。これ以上の後退も許されない上、刀を抜いた若者はその切っ先で昇太郎に狙いを定めるかのように構えてにじり寄って来る。沈黙は金、言わぬが花、口は禍の元などの黙っていることや黙ることを知ることが良いという言葉は数多くあるが、現状はそれに当てはまるとは言えない。彼らは今は尋問くらいのつもりでいるかもしれないが、何がきっかけで危害が加えられる結果になるかわからない。その不安と恐怖から昇太郎はついにその口を開きかけた。しかしその時、天の救いのように一人の男が客室へと足を運んでいた。

「貴様ら! いったい何をしている!」

 一人の男の怒号により口を開きかけた昇太郎は言葉を失い、鬼気迫る勢いで昇太郎に迫っていた若者たちの雰囲気は一転して畏怖へと変わる。

「と、殿・・・」

 現れたのは緑沢家の領主である緑沢晴時。緑沢領内に置いて彼以上の権限を持つ人間は存在しない。突然の領主の登場に若者たちは即座に昇太郎を取り囲んでいた立ち位置から離れ、片膝をついて自らの主君に深々と頭を下げた。

「御客人は青森家領主の青森広敬殿より預かったものである! その御客人に刃を向けるということは青森家にも刃を向けることと同じことであることがわからぬか!」

「し、しかし殿! 我ら緑沢家の置かれた状況は厳しく、この者が・・・」

「黙れ! 二度とこのようなことをするな! わかったか!」

「・・・はっ!」

 若者たちは自らの行動の理由を話す機会さえ許されることなく、緑沢晴時に叱責を受けて全員が口を閉じる。

「出て行け」

 緑沢晴時の命令を受けて若者たちが即座に客室を出て行く。客室で昇太郎と緑沢晴時が二人きりとなる。しばらくの沈黙の後、緑沢晴時は開け放たれた襖を閉めるなり、床に腰を下ろして深く昇太郎へ頭を下げた。

「我が家中の者が失礼をした」

 一国の主がただの一客人に深々と頭を下げる。その光景は大変な失礼た無礼があったとはいえ、戦国の世では早々簡単に起こり得ることではない。

「あ、頭を上げてください。僕は大丈夫ですから・・・」

 深々と頭を下げる緑沢晴時。その懇切丁寧な姿勢を真正面から見ていると、逆に自分の方がいたたまれなくなってくる。

「あの者達も緑沢のことを思っての行動。出来得る限りは許してやりたい。しかし昇太郎殿が厳罰を望むとあれば、今すぐにでも腹を切らせて・・・」

「あーっ! そ、そんなことはしなくていいです! 大丈夫です! この通り無傷ですから! 問題ありませんから! だから罰とかそんな話はもういいですから!」

 危うく切腹を命じられそうになった先ほどの若者達だが、その厳罰を被害者であるはずの昇太郎が必死に食い止めようとしている。自らに危害を加えようとしていたかもしれない者達の助命嘆願まで必死に行う昇太郎の姿を見て、緑沢晴時は昇太郎の性格というものを少し理解した気がした。

「寛大なお心遣い、感謝いたす」

 若者達への厳罰は無し。それどころか完全に無罪放免。刀まで抜いて刃を向けた相手にそこまで言える人間が何人いるだろうか。目の前にいる優男の昇太郎という男が世間一般の常識から遠いところにいる。そう感じた緑沢晴時であった。

「しかし、わしとてこの国、そして緑沢家、さらにはこの地に住む民を思う者。あの者達の行いは性急過ぎたが、わしとてこの国の行く末を左右するとなれば同じことをするやもしれぬ」

 国を思うが故に出てしまった過剰な行動。時間をかければかけるほど詰んでいく状況にあるとなれば、緑沢晴時とて実力行使も選択する。それは一国を預かる領主故に背負うものがあるからに他ならない。先ほどの若者達とは立場や考え方こそ違えど、今の緑沢家には選択肢というものが極めて少ない状況にあることに変わりはないため、考えた結果が過剰なものとなることもあるのだ。

「故にお尋ねしたい。昇太郎殿があの灰原昇太郎であるかどうか、これは問うたところで返答はいただけまい。ならば別の問い方をいたす故、できうる限り答えていただきたい」

「別の・・・問い方?」

 昇太郎が本物の灰原昇太郎であり、緑沢晴時に力を貸してくれる。これこそが緑沢家にとってこれ以上ない最高の結果だ。しかしその結果を昇太郎の口から聞くことはできず、無理矢理吐かせようとするならば協力関係にあるとは言い難い。あくまで昇太郎が自らの口から自身の意思で言ってくれなければ、緑沢家にとって最高の結果には結びつかないのだ。

「昇太郎殿は・・・緑沢の敵か? それとも味方か?」

 昇太郎が自らの口から語らない以上、その話題を深く掘り下げたところで大きな意味はない。昇太郎が語ってくれるのを待つか、語ってもよいと思える状況を作り上げる必要がある。ならばこの際その話はすべて捨て置き、最も重要な点にだけ要点を絞って問いかけるという手段に出たのだった。

「我ら緑沢は楽観視できる状況にない。我らの助けとなってくれるのか否か、我らの敵として存在するのか否か、それだけをお聞かせ願いたい」

 緑沢晴時は再び頭を深く下げる。一国の領主が深々と頭を下げるだけでも異例の世界において、何度も頭を下げるということはよほど厳しい状況にあると言わざるを得ない。

「あの・・・僕はその、よくわかっていないことも多いと思うんですけど、緑沢家はどれくらい危ない状況なのでしょうか?」

 昇太郎はまだ戦国の世に再来して数日。しかも以前やって来た灰原家とは違う国に来ている。様々な話を聞いてはいるものの、状況の把握がほとんどできていないのだ。

「・・・緑沢家は今や風前の灯火。それほどに厳しい状況にある」

「そ、そんなに? この城に来るまで緑沢領を少しだけだけど見て、のどかでいいところだと思ったんですが・・・」

「大げさではない。我ら緑沢は小国。周囲を山に囲まれた地ゆえ人はあまり多くはなく、周囲は我らを超える力を持つ国ばかり。特に赤嶺家は長きにわたり我ら緑沢の地を狙っており、青森広敬殿がいなければこの地はとうの昔に赤嶺のものとなっていたことはまず間違いない。それにもかかわらず、此度赤嶺が軍を起こそうという動きがある中、青森の助力を得ることができなかった。これほどの危機は久しいが、久しいがゆえに風前の灯火ともいえる」

 緑沢家は以前の灰原家と状況が似ている。国力の上回る国々に周囲を囲まれ、その中の一国と親密な関係を築いて守ってもらうことで何とか国を維持してきていたのだ。しかも国力の上回る一国に国の明暗を委ねるにあたり、青森家の青森広敬という義理堅く信頼できるものを選んだことも緑沢が国としての形を保てていたことの要因の一つでもある。これが青森広敬以外の物であった場合、緑沢家は庇護の名のもとに吸収されてしまっていてもおかしくはない。それが青森広敬という男だったからこそ緑沢はひとまず国として成り立ち続けることができていたのだ。その大前提である守ってくれる青森家が動けない状況にある。それは国防の大前提が崩れてしまったことを意味するのだ。

「今は国内に混乱はまだ見られぬが、赤嶺家が本格的に軍を動かしたとなれば国内の民の中には緑沢の地を離れる者も出て来るだろう。ましてや赤嶺の軍を指揮するのは深緋久英という赤嶺家きっての知将と聞いている。青森家の助力がなく、赤嶺家も動かせる総力を挙げて侵攻してくることだろう。我らだけでは兵の数だけでなく、兵を指揮する知も及んではおらぬ」

「深緋久英?」

 昇太郎は聞きなれない名前を耳にして首を傾げた。

「うむ。深緋久英とは赤嶺家の末端、恵まれた家柄や地位を持たぬ家臣団の中でも小さな家の出だ。しかし家中の出世争いに勝ち、赤嶺家では領主の次に力のある地位についている。領主の赤嶺家守(あかみねいえもり)も信頼しているため、実質奴が赤嶺家の全てを掌握していると言っても過言ではない」

「す、すごい人ですね」

「うむ、出世争いでは上位の者の過ちを目敏く見つけては失脚させ、自身の政は細緻に組み上げて功を立て続けた。そんな赤嶺家の家中でも深緋久英についてはその当時は評価が分かれていてな。奴を重用する者と敵視する者に分かれて内乱が起こったほどだ。しかしその内乱も深緋久英率いる軍が数日のうちに反対勢力を打ち負かした。これにより赤嶺家は深緋久英を中心に回っていくことになり、反対勢力の主だった将は即日首をはねられることになった」

 恵まれない地位から這い上がり、家中で実力を見せて仲間を増やし、反対勢力を打ち破って実力で実権を握った。その鮮やかな手腕は広く知られることとなり、近隣諸国では深緋久英という男を警戒するようになった。

「赤嶺家の実権を握った深緋久英はその後対立する勢力と次々と打ち倒し、今の赤嶺家の勢力図が完成したのだ。深緋久英は戦において今まで一度も負けたことがない。常に敵を完全に打ち負かし、誰が見ても確実に勝利を手にしていると判断される結果を手にしている。奴が近隣諸国の中でも名の知れた知将であると恐れられているのはその戦績もあってのことだ」

 絶対的な勝利を挙げ続ける知将。そうなれば確かにその評価が高いことにも頷ける。深緋久英は敗北を知らず、全ての戦で敵を完膚なきまで叩きのめして圧倒的な勝利を手にしてきた。その戦績があるが故に、緑沢家も彼を恐れている。そして青森家が動けない状況も作戦の内と考えれば、深緋久英の頭の中ではすでに緑沢領を手中に収める策は完成していると考えるのが妥当だ。

「故に我らは深緋久英を超えるであろう者の力を欲している。それこそが弱小国であった灰原家を救い、国力の上回る白山領と黒川領までを戦を行わずに手に入れてしまうという策を考え実行し成功させた男、灰原昇太郎だ」

 半年ほど前の夏休み、戦国の世で過ごした時間の中で行ったことがまさかこのように語り継がれているとは思いも揺らなかった。悪い気はしないものの、あの時は昇太郎も必死だった。正直に今の自分が同じ状況に立たされたとして、またあのような大きなことを成し遂げることができるかと問われれば首を縦に振る自信はない。それほど奇跡的にすべての作戦が上手く言った特殊な事例だと、作戦を練って策を弄した当人は思っていた。

「我らは灰原昇太郎という男の力が欲しい。その頭を貸して欲しい。偉業を難なく成し遂げた男に策を授けてほしい。これがわしの嘘偽りのない本心だ」

 緑沢晴時はそう言うと再び昇太郎に向かって頭を下げる。昇太郎にとってみれば過大評価もいいところだが、ここまで厳しい状況に追い込まれた人が最後に頼る存在として名を挙げられてしまえば、心優しい昇太郎にはその願いを突っぱねることはできなかった。

「・・・頭を上げてください、緑沢さん」

 昇太郎に言われてゆっくりと頭を上げる緑沢晴時。大きく深呼吸をする昇太郎と頭を挙げた緑沢晴時の目がまっすぐ向かい合う。

「僕にできる限りであれば、お手伝いします」

 先ほどまでの優男の雰囲気は残るものの、何かを決心したかのように吹っ切れた様子の昇太郎。その様子とものの言い方から、昇太郎の中で何か心境の変化があったことを緑沢晴時は察した。

「おぉっ! ありがたい。緑沢は今や危機的状況にある。一人でも味方が増えてくれるならこれに越したことはない」

 緑沢晴時は昇太郎に詰め寄り、鍛えていない細い手を両手で強く握り締める。

「それと、お手伝いしたいのはやまやまなのですが・・・僕は緑沢家や青森家、さらに言えば赤嶺家のことをほとんど何も知りません。腕っぷしに自信がないので頭脳労働になりますが、そのためにいろいろと教えていただいてもよろしいでしょうか?」

 昇太郎は灰原昇太郎だと名乗ってはいない。しかし先ほどと少し変わった雰囲気に、緑沢晴時は昇太郎こそあの灰原昇太郎であるという確信めいた思いがあった。昇太郎は灰原昇太郎であることを名乗らないまま手助けを申し出、緑沢晴時は灰原昇太郎という確信はないものの宋だという認識の下から昇太郎に賭ける。

「おぉ、任せよ。今すぐに絵図を用意させる」

 緑沢晴時はすぐさま立ち上がると襖を勢いよく開け放って廊下へと飛び出し、足音を響かせながらどこかへと駆けて行った。

「・・・この世界じゃ当たり前なのかな?」

 国のためになりふり構っていられないという緑沢家の若者達、国の為ならばどのような選択も辞さないという緑沢晴時、そして国を守るために自らの信念を貫き続ける青森広敬。そういった者達の姿が記憶の中にあるかつて灰原家で見た必死な姿の琴乃と被る。

「琴乃さん・・・元気かな?」

 はっきりとした別れもできないまま灰原家を去ってしまったことに対する罪悪感、さらに灰原家を去ってしまったという虚無感。二度と会えないかもしれない人たちとの遠すぎる距離を認識してしまったがための絶望感。現実の現代に返ってきた後に感じた様々な感情が呼び起こされる。そしてかつて灰原家を救うに至った時と同じような心境になりつつあった。

「昇太郎殿、待たせたな」

 緑沢晴時は数枚の紙を手に客室へと帰って来る。部屋に貼るなり襖を閉めて持ってきた紙を床の上に広げる。

「こちらが緑沢家の領地の絵図、こちらが国境も含めて周囲の国についても書かれている絵図、こちらが近隣諸国も含めた広域を描いた絵図だ」

 床の上に広げられた絵図との睨めっこが始まる。緑沢家が生き残るために絞り出せる知恵や策は全て絞り出す決意はできていた。

「まず兵力を教えて下さい」

「うむ、我ら緑沢家は恥ずかしながら動かせる兵は国中から集めても五百程しかない。対して青森家と赤嶺家は国内におよそ二千ずつ兵がいる。青森家は動かぬが、赤嶺家は動くとなれば千五百は動かすことだろう」

「つまり単純な兵力の数で言えば青森家が味方として動いてくれるだけで拮抗、緑沢と協力関係にあるだけで優位に立てていたというわけですね」

「うむ、そうだ」

 青森家と赤嶺家の戦力差はほとんどない。故に赤嶺家からしても青森家が緑沢家に肩入れしている状況は面白くはないのだ。ならばなおさら青森家が自由に動けないこの状況で動き出すことは間違いない。

「山道を通らないと隣接している他国へはどこにも行けない。地形から考えれば先に要所で守りを固めれば守るのに有利だと思えるけど、逆に言うと山道ばかりで敵の進軍を読み誤ると空っぽの城に簡単に攻め込まれてしまう。数が少ない以上読み違えをした時点で敗北は決定的、か」

 城にて籠城をするのならば少数でも可能だが、食料に余裕がない状況で援軍も見込めないとなれば籠城はいい作戦とは言えない。昇太郎が知る日本の歴史にも、難攻不落の大坂城が失策にて陥落したことは有名だ。籠城をするならば援軍の見込み、もしくは長期間戦えるだけの備蓄が最低限必要。そのどちらもない緑沢家には攻めにくい山城があるとはいえ籠城は向いていない。しかしだからと言って出て行って勝てるかと言われればそうではない。地理的に優位な場所を先に抑えたとしても、山道の中には獣道も多い。完全に道を塞いでしまうことは極めて難しい。ましてや敵が策を弄することを得手としている知将の深緋久英という男が指揮を執るのであれば、有利な地を先に抑えても時間稼ぎになるかどうかも怪しい。

「緑沢家を助けてくれる他の勢力はありませんか?」

 さすがに緑沢家単体では厳しい。あまり多い数ではなくても、少しでも手数が多い方が切ることのできる手札も多くなる。青森家以外に緑沢家を助けてくれる勢力の当てがあれば戦略や作戦の幅は大きく広がる。

「恥ずかしながら、今まで周辺国で信じられるのは青森家しかいなかった。よって青森家以外とは親密にこそならないが敵対しないように振舞ってきていただけでな。危機に陥ったからと言ってそう都合よく手を貸してくれる勢力は今のところない」

「そうですか・・・」

 やや手詰まり感が漂い始める昇太郎と緑沢晴時。灰原家の時は内政や税制の面で民衆の不満が高まっていたという点を利用することができた。しかし今はどこの国も一律に食糧不足。民衆の感情はむしろ海に面している赤嶺家の方に余裕があるだろう。

「周辺国なのですが、ここが緑沢家。そして四方を山に囲まれている一方が青森家でもう一方が赤嶺家なのはわかりました。残りの二方向はどういう勢力の支配地なのでしょうか?」

 四方を山に囲まれた緑沢家は四か国と隣接している。うまく山が国境になっているためやすやすと侵略を受けなかった。それは青森家や赤嶺家だけではなく、それ以外の二勢力に対しても同等の効果がある地形なのだ。

「こちらが元白山領、もちらが元黒川領。今はどちらも灰原領となっている」

「・・・え?」

 昇太郎は予想していなかったことを聞いて思考が停止してしまい、言葉にもつまって完全に沈黙してしまった。あれほど会いたいと思っていた灰原家の人達は国境線を一本挟んだ向こう側にいるのだ。その事実は様々な感情を心に抱いている昇太郎にとってはとてつもなく大きく重大なことであった。

「灰原領・・・ですか?」

「そうだ。正直、去年の夏を迎えるまでは灰原家がこの二か国を飲み込むなどとは夢にも思わなかった。よって灰原家とはこれと言って繋がりがなくてな。急いで友好的な関係を築こうとはしているが、さすがに何もないところから信頼関係を築くというのは難しい。同盟関係にもないため、今も援軍の要請に向かってはいるのだが、色よい返事はないようだ」

 そもそもつながりが希薄な国を助けるほどの余裕も灰原家にはない。灰原家は二か国を飲み込んだとはいえその周辺には新たに違う国々を抱える結果となっている。助けを求められたからと言ってそれに簡単に応じることができるほどの余裕もなければ、小国だった灰原家がいきなり広がった領地を安定的に治めていくのにも手間暇と時間がかかる。白山領と黒川領を飲み込んでまだ半年程度。外敵を討つならまだしも、他国を救済することはまだ無理だ。

「・・・なるほど、それで僕が灰原昇太郎であるかどうかの真偽にみんなこだわっていたんですね」

 昇太郎は今までの周囲の人たちの言動の全てに合点がいった。昇太郎が灰原昇太郎であったなら、隣国となった灰原領からの援軍が見込める。その援軍が穏便に呼び込めたものであるか、もしくは手荒なことをして呼び込めたものかは別にして、ひとまず緑沢家の存続は可能とする方法がいくつか浮かび上がる。その方法があるかないかが重要であり、緑沢家の若者達が実力行使に出たのも灰原昇太郎の真偽を知ることで状況が一変するかもしれないという期待からであった。

「・・・そうだ。しかし、どうやらそうではないのかもしれないな」

 灰原昇太郎か否か、その真偽を知りたいと緑沢家の者達が躍起になっていた理由を知った昇太郎。当然緑沢晴時も必死になってあの手この手で聞き出そうとしてくると思っていた。しかし彼はそうはしなかった。

「誠に灰原昇太郎であったならば、灰原領が隣接している国がどこかくらい知っているはずだ。我ら緑沢家は小国故に知らずとも、絵図を見ればまず間違いなく気が付くはず。しかしそうはならなかった。故に、わしにとっても、青森広敬にとっても、見込み違いだったということかもしれぬな」

 緑沢晴時が急いで絵図を用意したのは昇太郎が灰原昇太郎であるかどうかの真偽を確かめる状況に持ち込めたからだ。そしてその結果、状況証拠ではあるものの、緑沢家にいる客人の昇太郎は灰原昇太郎ではない。そういう判断が下されることとなった。

「邪魔をしたな、御客人よ」

 緑沢晴時はそう言うと床に広げた絵図をまとめて片付け始める。もうこれはこの場には必要ないということだ。

「我々の期待通りでなかったとはいえ客人であることに変わりはない。今宵はゆるりと休まれよ。そしていずれこの地は戦場となる。申し訳ないが明日の朝には緑沢の地を立ってもらうぞ」

 緑沢晴時はそう言うと絵図を手に持ってゆっくりと立ち上がる。その様子は先ほどとは打って変わって静かで、どこか憂いさえ感じられる。

「わかりました」

 昇太郎は緑沢晴時の言うとおりにする旨を告げる。ここで食い下がったところで何も変わることはない。すでに灰原昇太郎ではないという判断を下されてしまった以上、何を言っても聞き入れてはもらえない。昇太郎がこの戦国の世の人間でないということも含めて信じてもらえるはずがないのだ。

「一つだけ、お願いを聞いてくれませんか?」

「なんだ?」

 部屋を出て行こうとする緑沢晴時に、昇太郎は最後の会話であるかのように頼みごとをする。その声のかけ方は今生の別れに近い気もしないではない。

「灰原領への行き方だけ、教えてください」

 青森家に厄介になっていた昇太郎。起死回生の一手となる者ではなかった人がこの先どこへ流れていくか、そんなことは緑沢晴時にとっては知ったことではない。

「いいだろう」

「ありがとうございます。いずれ、お礼の機会があれば必ず・・・」

「ふっ、期待しないで待っているとしようか」

 緑沢晴時は小さく鼻で笑った後、最後に昇太郎の姿を一瞥して部屋を後にした。客室に一人となった昇太郎。その頭の中では先ほど見た絵図がしばらくはっきりと頭の中に画像として映し出されているのであった。

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