第2話 二度目の戦国

 空には雲が少なく青空が広がっている。太陽の光は大地を照らし、温かさを届けてくれる。しかしその温かさを相殺してもまだ余りあるのが寒さ。時は既に冬を迎えている。雪こそ降ってはいないが、いつ降り始めてもおかしくないのではないか。そう思わせる寒さが大地を包み込んでいる。

 太陽の光によって照らされている大地。寒さの中でもしっかりと葉の緑を主張するように木々は立ち並んでいる。しかしその木々も冬の様相に変わっており、緑の葉を失った枯れ木の様な寂しさを見せるものも少なくない。

 それでもその緑の量は多い。人の手が一切入っていない、自然そのままの光景がはっきりと残っている。山道は舗装されていない自然とできたもので、川と岸の境目にコンクリートの堤防はない。あるがままの風景、あるがままの生態系がそこにあった。

「ふむ・・・今日は獲物が出ぬ、か」

 そんなごく当たり前の自然がある中、一人の白髪の老人が弓を片手に山道を一人で歩いている。老人と呼ぶには体は大きく、筋骨も隆々としている。年寄りに見えるが足腰は健常で、見た目の年齢以上に若さを感じさせる。草鞋を履いた足は足袋に包まれて冬の寒さにも負けず、自らの手で狩ったと思われる獣の毛皮で作られた上着を羽織っている。眼光は鋭く、修羅場を潜り抜けてきた猛者であることを思わせる老人は、山の中を歩いている時、一人の人間が道端で転がっているのを見つけた。

「獲物は出ぬが、人が出たか。しかし、これは食えぬな」

 転がっている人間はまだ若い少年。体の線は細く、優しそうな顔立ちをしている。一言でいうなら優男。そんな少年が冬の山で気を失って転がっていた。体の複数箇所に怪我が見えることから、山道で足を滑らせて転がり落ちて気を失ったのではないか。老人はそう推測した。

「死体か、それともまだ息があるか・・・」

 老人は気を失っている少年に手を触れる。寒さで体は冷えているものの、息はまだあり生きているのがわかった。

「腹は満たされぬが、心が満たされるか」

 遭難しているかのような少年。彼を助けることで老人は人道的に善行を積んだこととなる。それは心に満足感を与えるが、その一方で狩猟を切り上げなければならなくなる。腹を満たすための獲物を得ることができなくなってしまうのだ。

「まぁよい。このような日もあろう」

 老人は年に似つかわしくない筋骨隆々な体で少年をひょいっと軽々担ぎ上げる。優男という印象がピッタリの少年の体はまるで女の子のように軽く、鍛え抜かれた肉体を持つ老人にとって荷物と言っていい重さかと問われれば首をかしげてしまいそうになる。しかし人命にかかわる以上、このまま少年を担いで狩猟を続けるというわけにもいかない。

「今日はこれまでとするか」

 老人は少年を担ぎ上げたまま踵を返し、今まで登ってきた山道を帰っていく。獲物を得た時のような軽やかで満足感に満ちた足取りではないが、その帰還していく足取りはどことなく人命救助できた誇らしいしっかりとしたものであった。




 最後に憶えているのは何だったか、とにかく寒くて痛かったことだけは記憶にあった。しかし今は寒くもなければ痛みも大幅に軽減されている。何があったのかわからないが、吹っ飛んだ意識が徐々に元に戻りつつあることだけは何となく分かった。

「・・・ん」

 ゆっくりと目を開く。見えるのはランダムに波打つ木目、木の板の天井。体に感じるのは体温を籠らせてくれる掛け布団、少し硬いがその硬さが寝るのに最適なのだと感じさせてくれる敷布団。その間に包まれている心地よさは、布団から唯一飛び出している顔に感じる少し肌寒い空気のせいか、一生このままでもいいのではないかと思ってしまうほどだった。

「ここは・・・」

 しかし頭の中には意識が飛んでしまう直前の出来事が残っている。それが僅かな違和感と共に自分にとって重大なことだと頭が理解した時、布団に包まれている少年の頭は一瞬で覚醒した。

「・・・ここは?」

 ガバッと体を起こした少年。目に飛び込んでくるのは純和風の一室。障子に襖、畳に木の壁や柱。その部屋の中にいる心地よさは自分が日本人だということを再確認させてくれるような気がしたが、そんなことはどうでもよかった。今自分がどこにいるのか、それが今現在少年にとって最も重要なことである。

 体を起こした少年が部屋の中をキョロキョロと見渡していると、スッと部屋を仕切っている襖が開いた。そして廊下から部屋に一人の女の子が足を踏み入れると、目が覚めた少年を見て少し驚きつつも笑顔を見せる。明るい色の着物がその笑顔に合っており、少女の雰囲気を誇張する効果が着物からも感じられた。

「おっ、起きた。顔色もよさそうだし、大事がなくてよかったよ」

 まるでそれなりの時間を共に過ごした知り合いか友達であるかのように、部屋に入ってきた少女は気さくに少年に話しかけた。そこに初対面だという気づかいは一切ない。しかし少女の持つ独特の雰囲気からか、笑顔や距離感のない言動は全く違和感を覚えさせなかった。それどころか、それが少女の普通だというのが初対面ですぐにわかってしまった。

「あの・・・ここは?」

「ん? ここ? 私の住んでいる家だけど?」

「あ、いや、そういうことじゃなくて・・・」

 少年の問いかけに少女は何を聞いているのかという雰囲気で返答したが、その少女に対して少年は何を言っているのかという雰囲気で向き合っていた。

「ああ、そっか。山で倒れていたんだよね。どこからどこに行くつもりだったのか、その途中で倒れたのか・・・なら今いる場所って領地のことなのかな?」

 少年とのやり取りから少女は少年が欲している情報が何なのかを考え、その答えにたどり着いたようだ。しかしその考えの最中の独り言は全て漏れており、すべて自己完結してしまっている。少年には少女の思考や独り言に口を挟む余地すら与えられていなかった。

「今いる場所は青森領、そしてここは青森家の領主屋敷。ちなみに私は青森家の末娘で姫様なのだ」

 少女は満面の笑みで、しかし少し誇らしげに、それでいて友達と接するように、少年に現在地と自らのことを話す。

「青森家領主、青森広敬の娘、水月(みつき)と申します。長くなるか短くなるかわからないけどお見知りおきを・・・なんてね」

 姫様らしくかしこまった雰囲気と言葉で自己紹介をする彼女。しかしその姫様らしい時間帯はそう長くは続かない。すぐに素の彼女に戻ってニコリと笑みを見せる。それが実に彼女らしいと、少年はむしろ彼女は姫としてのかしこまった様子の方が似合わないと思った。

「それで、あなたはどこの誰? そしてお名前は? ねぇ教えてよ、旅の人」

 姫という地位にいながらも人との距離感が皆無。ぐいぐい距離を詰めてきて、少年が気付いたころには掛け布団の上に乗って少年の顔と水月姫の顔の距離がもう僅かというところにまで迫っていた。

「えっと・・・」

 少年は自らの名を名乗ろうと思ったが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。

(青森領とか青森家とかって、もしかしてここって・・・あの戦国の世界?)

 かつて少年が川に飛び込んだ時に跳んでいった戦国時代。元の時代に返ってから調べてみたが史実には一切登場しない名前ばかりが並ぶ戦国の世。パラレル世界の戦国時代なのではないかと考えることもあったが、それ以上に二度と行くことができないと思っていたところにまた来ることができたという喜びに心が躍る。

 しかしそれと同時に自らの身は自らの手で守らなければならない。夏のあの日、彼がたどり着いた場所。ここがかつて自分のいた灰原領であれば何も気にすることなく名乗ればいい。しかしあれからこちらの世界はどれだけの時が流れているかわからず、ましてや灰原家との関係も今はわからない。ならば容易く自らの名前である『灰原昇太郎』という名を名乗るのは愚の骨頂だ。敵対状態にあった場合、即刻殺されても文句は言えないのだ。

「えっと・・・僕は昇太郎です」

「昇太郎か。それで昇太郎はどこからどこへ行くつもり?」

 もう間近まで迫っていた顔の距離がさらに近づく。目をキラキラさせて迫ってくる水月をむげに押し返すこともできず、しかしこのまま放っておけば彼女は昇太郎と顔が接触するまで近づいてくるかもしれない。突き放さずに迫らせない、その微妙なところで少女の接近を何とか昇太郎の細腕で止めていた。

「水月、何をしている」

 昇太郎が何とか水月の顔の接近を押しとどめている時、昇太郎が寝かされている部屋に一人の老人が入って来た。老人というにはあまりにもがっしりした体格と鋭い眼光に、老人という呼称は当てはまらなさそうだった。しかしやや長めの白髪を後ろで結んでいるところと、それなりにしわのある顔から老人と判断した。

「離れよ。客人に失礼だ」

「・・・はーい」

 水月はあからさまに不機嫌そうな表情を見せながら昇太郎から距離をとる。

「水月、客人は目覚めたばかりだ。白湯か何か持ってきなさい」

「はい、わかりました。父上」

 水月は指示を受け、それを即答で快諾する。すぐさま部屋を後にして廊下の向こうへと消えていくのだが、表情は終始不機嫌な色が色濃く残っていた。

「まったく、日々姫として生きなければならぬと言い聞かせておるのだが、どうにも年の離れた末娘には甘くなってしまう」

 とても甘いとは思えない強めの口調に聞こえた昇太郎は心の中で「あれで甘いのか」と自らの価値観や感覚を疑ってしまいたくなる気分だった。

「さて、客人よ。自己紹介が遅れたな。わしは青森家の当主、青森広敬だ。今朝方、山で倒れていたところを狩りの最中拾ってここまで運んだのはわしだ」

「そ、そうでしたか。お手数をおかけしてすみません」

「なに、謝ることはない。困っている者は見捨てておけぬ性分でな」

 筋骨隆々の肉体と鋭い眼光。その二つを併せ持つ青森広敬だが、こころは見た目以上に優しそうな感じがした。弱い者の味方となって弱者救済をすることを躊躇わない。そう言う人柄が見受けられた。

「しかし、お前は実に運が良かったな」

「・・・え?」

「今は冬、山で倒れていれば凍え死んでいてもおかしくはない。しかし例年ならばすでに降っているはずの雪も今年はまだ降ってはおらぬ。それに倒れていたのは山の中でも寒さが控えめな中腹部だ。さらに野犬や狼にも襲われなかった。山で倒れるということは多くの場合が命を落とすものだが、お前は実に運が良かったと言えるだろう」

 老人青森広敬の言葉に、昇太郎は自らに運命のようなものを感じざるを得なかった。昇太郎自身、どうやってこの史実ではないとしか考えられない戦国の世にやって来ているのかは不明だ。しかし、そこに自分が来ている以上何かしらの運命のようなものを背負ってやってきているのだろうという感覚が芽生え始める。

 以前やって来た時は灰原家を救い、国を失った灰原家を復興させるために三国を併呑する気策を立てて成功させた。本人にもそのようなことができるとは思っていなかったが、土壇場で何故かいろいろと頭が回ったのは不思議だった。それが自分に課せられた運命だとするのなら、今回も何かしらの運命を背負ってこの世界に連れてこられたと考えるのが普通なのかもしれない。

「さて、お前の名は何と言ったか?」

「あ・・・昇太郎です」

「昇太郎か。それで昇太郎よ。お前はどこで生まれ、どこで育ち、どこへ向かおうとしていたのだ?」

 青森広敬の鋭い眼光がまっすぐ昇太郎を射抜く。実際に昇太郎に危害が加えられたわけではないのだが、体を矢で射貫かれたかのように身動きが取れなくなった気がした。蛇に睨まれた蛙ということわざは正しいのだと、身をもって経験した昇太郎だった。

「えっと・・・僕は・・・」

 青森広敬の威圧的な雰囲気に気圧されてしまう昇太郎。生まれや育ちを言ったところで通じるはずもなく、だからと言って余計なことを言えばこの世界の常識では即刻死を意味することもあり得る。下手なことも口にできず、真実も言えない。それが昇太郎の言葉を詰まらせてしまう。

「言えぬか。まぁよい。何を言われたところで鵜呑みにはせぬ」

「え?」

「わしはお前が刺客であるやもしれぬ、ということも疑っておる。体の線が細くひ弱に見えるが、それを逆手にとって油断させ差し違えるという術がないわけではない。他国が我が領地を侵そうと考え、その前にわしを亡きものにしようとしているのではないか、という危険性は十二分に承知している」

 青森広敬はそう言うと、腰を下ろすことなく昇太郎に背を向ける。早々に部屋を後にしようとしているようだ。

「わしに用があるのであればあればいつでも来るがよい。いかなる用件であっても、相手をしてやろう」

 ただならぬ雰囲気を最後に見せつけ、青森広敬は早々に部屋を後にした。残された昇太郎はあまりの凄みに鳥肌が立ち、体はしばらく硬直して身動きが取れなくなってしまうほどだった。

「こ、怖い・・・」

 もし昇太郎が暗殺者だとした場合、あれだけ真正面から暗殺者であることを疑い警戒していると言い放ってくる相手はやりにくい。最悪の相手であることを疑っていると釘をさすことで、牽制と同時に身を守ることもできている。さらにあの雰囲気を察すれば暗殺を行動に起こすことに二の足を踏む。そう言うことを考えての威圧だったのだろう。

「あれ? 父上は?」

 お盆に湯呑を乗せて戻ってきた水月は部屋の中をキョロキョロと見渡している。この部屋にいるであろう人物がいなくて探しているようだった。

「あ、えっと、さっき出て行きました」

「えー・・・さっさと人払いしたくせに、帰ってくる前にいなくなるなんてひどい」

 持っているお盆を昇太郎の枕元に置き、布団の傍らに座り込む水月。昇太郎を布団から起き上がらせて湯呑を渡す。湯気がユラユラと立つ白湯は少し熱めだったが、布団の外は思ったより冷えているせいかちょうどよい温かさに感じられた。

「ではでは、先ほどの続き」

 昇太郎が白湯を飲んで落ち着いた頃、水月はいつの間にか先ほどと同じように掛け布団の上に乗り上がってきていた。総合格闘技のマウントポジションを取られそうな姿勢で愚言った昇太郎に可愛らしい天真爛漫な笑顔に満ち溢れた顔を近づけて来る。

「昇太郎はどこからきてどこへ行くつもり?」

「え、いや、それは・・・」

 言いよどむ昇太郎。するとさらに水月は顔を近づけて来る。もうあと数センチで唇が触れ合ってしまうのではないかというほど接近した彼女は小さな声で囁く。

「私はね。籠の中に囚われた鳥なの」

「え?」

 水月が言った言葉の意味が昇太郎には理解できなかった。だが、その言葉の意味は次に彼女の口から出た言葉である程度理解できた。

「教えてほしいの。外のこと、異国のこと・・・私は知りたいの」

 知的探求心や好奇心に溢れている水月は姫という立場による束縛や行動の制限によりその欲求を満たせないでいる。そこに昇太郎が拾われてきたことで彼女はその欲求を満たすことができるのではないかと考え、このような行動に出ているようだ。

「さぁ、聞かせて。昇太郎はどこから来たの?」

 天真爛漫、無邪気、裏表ない・・・いろいろな言い方があるが、彼女のまっすぐな視線と期待に満ち溢れた表情に、昇太郎の心の決意が少し揺らぎ始めているのだった。




 しばらく昇太郎と話し込んだ水月。彼女は昇太郎の部屋を後にして廊下を歩き、領主屋敷の奥の一室へと足を運んだ。

「父上、水月にございます」

「・・・入れ」

 廊下と部屋を仕切る障子戸を開けて水月が部屋に入る。そこには先ほどの老人、青森広敬が座っている。部屋に入って障子戸を閉めた水月は父の前に腰を下ろす。

「・・・して、昇太郎は何か話したか?」

「やっぱり、私を聞き役にしたんだ。普段から姫のように振舞え、一人で動くな、って口うるさいのにね」

 青森広敬は水月を利用して昇太郎から彼の身元が分かるような情報を引き出そうとしていた。水月はそれがわかって不機嫌そうな表情を見せる。

「これも青森家の為だ。我が国は今、危機に瀕している。これ以上弱みを見せるわけにも作るわけにもいかぬ。不安材料は早急に取り除かねばならない」

 青森家は何か大きな問題を抱えており、そのためには小さな不安材料も見逃せない。昇太郎はその取り除かなければならない不安材料なのかどうかを見極めたい。それが青森広敬の考えだった。故に自らの方針を曲げてでも、大切な末娘を使ってでも、昇太郎という人物を知ろうとしていたのだった。

「それで、何か話したか?」

「うん。いろいろと、ね。でもどこで生まれてどこで育ったのかははっきり言ってくれなかった」

 戦国の世、初めて会ったばかりの人間に自らの全てを包み隠さず話すなどと言う行動をとる者はいない。もしそんな人間がいたならそれはただの大馬鹿者か愚か者のどちらかでしかない。それならば不安材料にはならなかったが、そうでないならば少しは警戒する必要がある。

「でも昇太郎の話は面白かったよ」

「・・・面白かった?」

 昇太郎について話す水月はいつになく明るい表情を見せている。彼女は思ったことがそのまま表情に現れる。そのため彼女が本心で話しているかどうかはすぐにわかる。その本心とまったく同じ表情をしている末娘の言葉に、普段は険しい表情を崩さない父も興味を持って耳を傾けていた。

「うん、最近いろいろ勉強して知っていることが増えたらしいの。それで何を勉強したのかって聞くと、本当にたくさんのことを知っていたよ」

「ほう・・・詳しく聞かせてくれ」

「たくさん話して私もよくわからないことが多かったんだけど・・・あっ、そうそう。農作物の収穫量を増やす方法とか、質を上げる方法とか、水害から畑や人の生活を守ることとか・・・」

「なんだと?」

 理解できない事は水月の口からは出てこない。彼女が口にする話は少なくとも彼女の頭の中で理解できたことだけだ。わからないことはすぐにわからないと正直に話す水月であるため、彼女が理解できる農作業の方法には領主である青森広敬も大いに興味が湧いた。

「ふむ・・・なるほど、よくわかった」

 大まかに何を話したか、それを水月から聞いた青森広敬は彼女の話をそこで止める。

「話の内容如何では斬り捨てねばならぬと思うておったが・・・怪しいことには変わりないがそれ以上に大いに興味が湧いてきたな」

 昇太郎がどこのだれかわからないということには変わりない。それはそれで警戒をしなければならない理由だが、それ以上に彼が持っている知識や知恵というものに青森広敬は興味を示し、この場で昇太郎の処遇を決めるつもりだった自分の方針を即座に転換した。

「水月、もうよい。大儀であった」

「はーい」

 父の言葉に末娘はぺこりと頭を下げる。そして入って来た時と同様に、襖を開いて廊下へ出て襖を閉める。こうして部屋には青森広敬一人だけとなった。

(・・・昇太郎、か。もしや行商人から聞いたあの灰原昇太郎か? もしそうであったとするならば・・・いや、それはない。灰原昇太郎は弱小の灰原家を率いて滅亡から瞬く間に三国を併呑した英雄。今や灰原家では領主以上の力や決定権があると聞く。昨今の嵐による水害でも灰原領の被害は周辺国に比べて極めて少なく、嵐の後だというのに例年以上の収穫量があったとも聞く。その点を踏まえるならば、あの昇太郎が灰原昇太郎であるという仮説も成り立つが・・・)

 青森広敬は一人、黙して頭の中で考えを巡らせている。行商人から伝え聞いた灰原昇太郎の話は青森領内でも知られている。よって水月が聞いた話から昇太郎が伝え聞いた灰原昇太郎であるという可能性が生まれたのだ。

(しかし灰原家が重要人物である灰原昇太郎を追い出すとは考えにくい。灰原昇太郎が見せた軍略を恐れる周辺国は灰原領への侵攻を諦めるくらいだ。存在自体が国を守る人物を追い出すのはありえないだろう。灰原昇太郎自身も地位と名誉と求心力を得た灰原家を自ら出て行くとは考えにくい。当人である可能性は低いと言わざるを得ないが・・・連なる者か、もしくは騙りか? いや、騙りであるならば灰原の名を隠す理由はなかろう)

 いろいろ考えて仮説は立てるものの、決定打となる材料が欠けているためどれも推測の域を出ない。青森広敬は考えるのを一度やめ、深くため息を吐く。

(それに灰原家では今も灰原昇太郎が政務を取り仕切っていると聞く。灰原家の重要人物が自ら間者となって他国に侵入するとも考えられない。はてさて、ここで考えているだけでは何もわからぬ、か)

 青森広敬は昇太郎が本物である可能性は極めて低いと考えながらも、本物である可能性が僅かながら存在する事実を捨てられずにいた。普段の彼であればわずかな可能性など早急に切り捨てていただろうが、それができない理由が今の青森家にはあるのだった。

 つまり、彼が思う昇太郎が灰原昇太郎かもしれないという憶測は、彼自身が青森家を救うために何かしらの外的要因の力を無意識に望んでいるために、斬り捨てたくても切り捨てられない。藁にもすがる思いで外的要因に彼は救いを求めているのだ。

(本物であるか否か・・・それは明日から試していくとしよう)

 青森広敬はひとまず昇太郎を青森家で与ることにした。そしてその間に昇太郎が本物の灰原昇太郎であるかどうかを探ることを決め、彼の頭の中ではどのような方法で真贋を見極めるかの思慮がこの後もしばらく続いていくのであった。

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