第11話 昇太郎の策
昇太郎が戦国時代に来て間もなく三十日になろうとした頃、再び彼らの身の回りに事件が迫ってくる。
農村での生活を始めた琴乃は昇太郎に教えてもらった方法で魚を捕りに河原へと来ていた。川の片隅を石で入り江のような場所を作り、そこに魚を追い込んで取るという簡単な漁法だ。道具は河原の石と、追い込んだ魚を取る網、そして魚を入れて帰るための籠だけでいい。
「ふぅ、これだけあれば上出来だ」
河原に来ていた琴乃は汗を拭いながら籠の中にいる魚を見てニンマリと笑みがこぼれてしまう。琴乃はどうやら魚料理が好きなようだ。
そして陽気な気分で帰ろうとした時、突如大きな声が聞こえてきた。
「おぉ、雪絵か。村まで行く手間が省けた」
そう言うのは白山家の領主、白山勝実。お供の者数人を引き連れて今日も村まで行こうとしていたようだ。
「いい加減我が妻となれ。さもなくば少々乱暴な手を使わなければならなくなるぞ?」
「乱暴な手?」
白山勝実は河原にいるのが雪絵だと信じて疑っていない。河原に来ているのは琴乃なのだが、来ている衣服は雪絵のものを借りている。ここ数日の農作業で汚れてしまったため、今は洗濯をして干している最中なのだ。そして琴乃のことを知らす、農村に昇太郎も来ていることも知らない白山勝実は、琴乃を雪絵と間違えたまま話を進めていく。
「今年の年貢はお前達の村からだけ量を引き上げる」
「なっ!」
「もはや助けは来ぬ。先日灰原家は黒川の軍勢に飲み込まれた。灰原家の面々は幾人か我が領内に落ち延びてきているので間違いはない。それに先日の灰原正太郎と言ったか。あの男は落ち延びてはこなかった。言いたいことはわかるな? お前は農民にしておくには惜しい女だ」
昇太郎が帰った後に灰原家は黒川家に飲み込まれた。落ち延びたとしてもどこへ行ったかは行方知れず。また助けに来てくれると思うのは甘い考えであり、早々に婚姻の話を飲めば村の者に迷惑をかけなくて済む、と言いたいようだ。
「よくよく考えることだ。それと村から逃げてみよ。残った者達がどうなるかは言わなくてもいいだろう」
白山勝実はそう言うと乗っていた馬の踵を返す。
「近日中に我が元へと来い。そうすればお前の住む村の者達は皆喜ぶであろう」
そう言い残すと、白山勝実は馬を走らせて自分の居城へと戻って行った。
「あやつ・・・私や昇太郎のことは知らぬか。しかし噂以上に汚い男よ」
雪絵ではどうしようもないことを突き付け、多くの関係者を人質にとり、圧倒的な権力差を用いて思い通りにしようとする。白山勝実は雪絵を逃す気などさらさらない。美しい女は全て自分の懐の中へと囲ってしまおうとしているのだ。
「まぁ、雪絵が狙われるということは私も褒められているということか」
雪絵の危機に少しだけ自分に自信を持つ琴乃。双子の姉妹が褒められるということは当人が褒められているも同然だ。それが琴乃は少しだけ嬉しかった。しかしそれ以上の嫌悪感と怒りが白山勝実という男に敵意を向けさせる。
「早く知らせねばな」
琴乃は魚を大量に獲った喜びも忘れ、足早に農村へと駆け戻る。
農村では昇太郎と雪絵が牛の糞を使い、草や葉っぱなどを混ぜて新たな肥料を作ろうとしていた。
「昇太郎、雪絵。一大事じゃ。先ほど河原で白山勝実と会ったぞ。私を雪絵と間違えておったが、雪絵を無理矢理にでも妻に迎えようとしておった」
琴乃は白山勝実に言われたことを雪絵に伝える。雪絵にしてみれば幾度となく言われてきたことなので慣れてはいるが、それ以上に現実になりそうだという恐怖が雪絵の表情に暗い陰を落としている。
「昇太郎。何か妙案はないのか?」
「妙案って言われても・・・」
「雪絵だけじゃなくてこの村も守る方法を考えるのだ」
「無茶言わないでよ」
相変わらず琴乃の無茶振りは凄まじい。何の前触れもなくいきなり来るから昇太郎としては心臓に悪いし、吹っかけられる内容も想像を絶する難しさだ。
「何なら私が直接直談判に行くぞ」
「琴乃さん。それをやると雪絵さんだけじゃなくて琴乃さんまで狙われるよ」
「それがどうした。大したことではないだろう」
「いやいや、大事だよ。たぶん灰原家の復興とか浪人達の受け入れとかを条件に琴乃さんに婚姻を迫ってくるよ」
「む、言われてみればそうだな。父上もおそらく白山家に世話になっているであろう。こうなると下手に動けぬな」
雪絵と村の危機に琴乃は少し頭に血が上っていたようだ。全ての家族を失ったと思ったところに、降って湧いたように現れた双子の姉妹の危機は見逃せない。その家族愛のおかげか、琴乃は冷静な判断力と思考力を損なっていた。
「でも、わからないよね」
「なにがだ?」
「琴乃さんと雪絵さん。雪絵さんの方が少し痩せているってだけ。琴乃さんも活発に外に出ていたから日に焼けているし、二人は本当によく見比べないと見間違うよ」
雪絵が少し痩せている以外に二人に大きな変化はない。身長もあまり変わらず、顔も似ている。この時代の着物や衣服だと体型が隠れてしまうことも多く、痩せているということはあまり気にならない。すると必然的に見分けがつかなくなるのだ。昇太郎も初めは完全に雪絵を琴乃と間違ったくらいだ。一目見ただけで区別がつく方がおかしい。
「あの・・・」
雪絵が二人の会話に割って入る。
「私、白山のお城に行ってみようかと思います」
雪絵の思わぬ言葉に昇太郎と琴乃は止めに入ろうとする。しかし雪絵はそこからさらに言葉を続けて二人を黙らせる。
「私、自分の親に会ってみたいのです。灰原昌隆様、私の父。今は白山家に身を寄せていると聞きました。ならばお城に行けば会えるかもしれません」
自らの本当の親に会いたい。子供心にそう思うのは不自然なことではない。しかし自らの親がいる場所にはあの男もいる。会いに行くのは危険すぎる。
「・・・・・ねぇ、ちょっと思ったんだけどさ」
昇太郎がやや重い口調で頭の中に思い浮かんだことを言葉にしていく。
「雪絵さんもこの村も救うには、この村を灰原家の領土にしないといけない気がするんだけど・・・」
昇太郎の言っていることはもっともだった。灰原家の領内では農民と武士が一緒に国づくりに精を出している。そしてこの農村の農民達も灰原家の治政を羨ましがっている。雪絵は白山家の領内にいるから危険なわけで、灰原家の領内で守ることができれば危険はない。
「だがそれは無理であろう。私達だけで白山家か黒川家のどちらかを乗っ取るか滅亡させるかをしろというのか?」
それは確実に不可能な話である。白山家も黒川家も多くの兵力を持っている。一方昇太郎や琴乃は一人も味方兵士がいない。よしんば村の住民が手伝ってくれたところで、その数は圧倒的に足りない。
「うん。そうするしかないんだ」
しかしその不可能な無理難題を昇太郎は実行すると言い出した。思わぬ提案に琴乃も雪絵も完全に言葉を失っている。
「昇太郎! お主の頭は大丈夫か? この暑さにやられたのか?」
琴乃が昇太郎の体を揺さぶる。それを雪絵が止めて、昇太郎の話の続きを聞く。
「僕達三人ならできる。いや、僕達三人にしかできない」
そう言う昇太郎にはどこか確信めいたものがあった。初めてここに来た時の軟弱な昇太郎ではなく、既に一人前の男としての雰囲気と風格が漂っていた。よって彼が言った発言は絵空事の大馬鹿なものだが、どこか信じさせることができる雰囲気を持っていた。
「もちろん危険は付き物だよ。敵の城に乗り込まなきゃならないからね」
三人で、しかも敵の城に乗り込んで事を為そうという昇太郎の考え。それに乗るかどうかは琴乃と雪絵次第だ。そして誰か一人でもやめた場合、昇太郎の考えていることを実現することは不可能だ。
「勝算はあるのか?」
琴乃が真剣な眼差しで昇太郎をまっすぐ見る。
「灰原家、白山家、黒川家のことをよくよく考えれば不可能じゃないと思う。でも成功率は低いよ」
つまりは賭け。三人で動き、三人がそれぞれ何かをするのだが、一人でも失敗して欠けたら三人全員が共倒れとなる。
「私は乗る。昇太郎と一緒ならこのまま流浪の身でも悪くはないが、昇太郎と何か大きなことを為せるというのであればそれはそれで生きる楽しみじゃ」
琴乃はさすがに武家で育ったというだけあって腹をくくるのが早い。しかも危険な方に踏み出す勇気をしっかりと持っている。
「わ、私は・・・」
しかし雪絵は農民として生きてきた。大きなことを決断することなど今までそうそうない。そして今、その大きな決断をする時がやって来たのだ。
「私でも、この村を守るお役にたてるのですか?」
「わからない。けど、やらなければ何も変わらないよ」
昇太郎は嘘だけは言わなかった。ここで嘘を言って作戦に抱き込んでも仕方がない。あくまで雪絵には自分の意思で参加する科辞退するかを選んでほしかったのだ。
そして・・・
「私にもやらせてください」
雪絵は一つ呼吸を置いて作戦への参加を表明した。それは村を守りたいという率直な思いと、昇太郎の助けになりたいという恩返し、さらには双子の姉妹と何かをしたいという絆。そういった思いが彼女の首を縦に振らせたのだった。
「じゃあ、僕が考えたことを説明するね」
昇太郎の言葉に琴乃と雪絵の耳が傾けられる。灰原昇太郎、琴乃と雪絵と共に一世一代の大勝負へと出ることになった。
その翌日の夕刻、白山家の居城を一人の女性が訪ねてくる。
「頼もう。灰原家当主、灰原昌隆の娘が参ったと伝えよ」
城の前で大きな声を上げる女性。その声が響いてしばらくした後に白山家の城門がゆっくりと開いた。数名の兵士達に促されて女性は白山家の城の中へと招き入れられる。灰原家の城よりも大きな白山家の城の中を奥へと案内される。
案内された場所は応接室のような部屋。部屋に入ったところで下座に座り、面会相手が現れるのを待つ。
「琴乃、いったいどうしたというのだ」
部屋にまず足早に入って来たのは父である灰原昌隆。そしてその後から続いて白山勝実が入って来た。
「・・・なに?」
白山勝実が怪訝な表情を見せる。それもそのはずだ。彼は今日初めて灰原昌隆の娘と対面する。その娘が農村にいた雪絵と瓜二つなのだから、戸惑いが無いはずがない。
「ふむ、なるほど」
しかしすぐにその戸惑いは欲へと変わる。灰原昌隆の娘であるならば懐柔しやすいと思ったのだろう。そしてそれが成功した後に雪絵も手に入れれば、瓜二つの美女を二人とも手に入れることになる。女好きの白山勝実がその絶好の好機を逃すはずがなかった。
「昇太郎はどうしたのだ?」
「はい、世話になった農村へ足を運んでおります。私は少々所用がありまして、父上への面会に足を運んだ次第でございます」
座敷に座る灰原昌隆。そして上座に白山勝実がドカッと腰を下ろす。
「灰原殿。実にお美しいご息女だ」
親と娘の会話が終わる前に白山勝実が会話に割って入って来た。
「いかがであろう。灰原殿のご息女を私の妻に迎えたい。これで白山家と灰原家はより強固で結ばれるであろう。それにご息女が生んだ子を灰原家の跡継ぎとすればよかろう」
白山勝実は思った通りの発言をしてきた。琴乃を妻に迎えることで灰原家にとってメリットがあるということを見せる。それにより灰原昌隆を揺さぶり、琴乃を手に入れようという腹積もりだ。
「勝実殿。申し訳ないが娘はある男に託していましてな」
「ある男とは?」
「灰原昇太郎と申すものです」
「灰原昇太郎・・・」
白山勝実の頭の中に農村で出会った昇太郎が思い出される。
「一度見かけたことがあるが、あのような若輩者に何かできますかな? あのような者よりも白山家に嫁いだ方が御身にもご息女のためにもなると思いますが?」
「いや、人は見かけによらぬとはまさにあの者のことを言います。勝実殿も昇太郎のことを知れば一目置くことでしょう」
思いの外灰原昌隆が昇太郎を高く評価していることに白山勝実は少々ムッとしている。そもそも灰原家は現在白山家の庇護を受けている状態だ。城を失って国を追い出された小国の主が、頼る先の要望に応えないということに苛立ちを感じていた。
「父上、少々よろしいでしょうか?」
「ん? ああ、そうだ。ワシに用があって参ったのであったな」
今度は二人の会話に琴乃が割って入った。
「父上、言い伝えはご存知ですか?」
琴乃がそう言った時、父の表情が少し硬直した。
「そのお顔を見るに、私には双子の姉妹がいたのですね?」
「・・・ああ、そうだ」
娘に問い詰められる前に父はあっさり白状した。
「言い伝えはワシ自身もそれほど信じてはいなかった。だが、実際我が子に双子の姉妹が生まれてしまえば、言い伝えを思い出してしまってな。周囲の言葉につい耳を傾けてしまったのだ」
灰原昌隆は当時のことをよく憶えていて、今もあの時の選択は正しかったのかと悩んでいるようだった。
「だがその分、ワシは琴乃を二倍愛娘として愛情を注いだつもりだ。嫁ぎ先が見つからなかったことをこれ幸いにと、手元に娘がいることが当たり前になってしまっていた」
いくら戦国の世とはいえ、我が子を我が手で捨てたり葬り去ったりするのは楽なことではない。故に残ったもう一人の愛娘には二人分の愛情を注いできた。それが罪滅ぼしであるかのように、だ。
「では、父上は琴乃のことを本当に大切に思っておられますか?」
「当然だ」
灰原昌隆は即答した。しかし、その問いに対する琴乃の返答は深いため息だった。
「そんな自己保身のための嘘偽りに満ちたお言葉はお聞き入れするわけにはいきません」
突然の琴乃の豹変に灰原昌隆は驚きの表情を見せる。
「白山勝実殿。あなたも自らが幾度となく妻へと誘った相手がおわかりにはなられないようですね」
琴乃の言葉で二人は気付いた。あまりにも堂々とした様子から、誰もが武家に育った琴乃だと思い込んでいた。そして瓜二つの双子は衣服を変えるだけでここまで簡単に化けられる。後は先入観で一度思い込ませれば勝ったも同然だ、と彼女に昇太郎は告げていた。
「ただの農民の小娘が失礼いたしました。私は琴乃という名ではなく、雪絵と申します」
自らの正体を明かした雪絵は今一度深々と頭を下げた。琴乃であれば武家の娘ということで少々のことは大目に見てもらえるかもしれない。しかし雪絵は双子とはいえ農民なのだ。下手を打てば打ち首になる可能性だってある。よって謝罪は早急に行われた。
「お初お目にかかります。あなた様が私の本当の父、灰原昌隆様であらせますね」
琴乃だと思っていた人物が雪絵であったことに面食らった灰原昌隆はまともな返答をすることさえできなかった。
「雪絵、この城に来たと言うことはついに我が妻になる決意を固めたか?」
しかしここに信じられないくらいポジティブな考え方をする男がいた。白山勝実はこの城にやってき雪絵が妻になりに来たと勝手に思っているのだ。前後の会話など全く関係なく、自分の言ったことを聞き入れたということだけが彼の頭の中にはあった。
「申し訳ありませんが、それは今朝の話でしょうか? 今朝、そのお誘いを受けたのは私ではありません」
「そんなことはどうでもよい。よく似た二人だ。初見なら見間違うこともあろう。二人とも我が妻に迎えることで区別もつくようになるだろうな」
白山勝実は相変わらずのポジティブさを見せつける。しかしその考え方も雪絵にとっては嫌悪の対象の一つでしかない。
「せっかくの申し出ですが受けかねます」
「何故じゃ? この白山勝実のどこが気に入らぬ? 何が物足りぬ?」
白山勝実が立ち上がって声を荒げる。欲しい者は手に入れ、気に入らなければ武力や権力などで威圧して押さえ込む。そんな性格自体が気に入らないとはさすがに口が裂けても言えない。
「では一つ、お願いがございます」
「ん? なんじゃ?」
雪絵が前向きな様子を見せたところで白山勝実はその言葉に耳を傾ける。
「軍を出してください」
「軍・・・だと?」
雪絵の要求にさすがの白山勝実も少しためらいが見られる。
「灰原の城を取り返し、灰原家に平穏たる日常の保障をお願いいたします」
雪絵が深々と頭を下げる。誠心誠意の願いだということを体で表現する。
「それが叶えば双子の姉妹である琴乃様も安全です。長く離れ離れになっていたとはいえ双子の姉妹ですからやはり気にかけます。それが叶えば、妻になることも考えなくはありません」
双子の姉妹である琴乃と灰原家の平和が実現すれば、雪絵は妻になることに前向きな姿勢で臨む。農民の雪絵が白山家の主にここまで強気に出られるのは、彼が雪絵を欲しているという弱みと灰原家との関係を無視できないという大前提があるからである。
白山勝実は雪絵を欲している。琴乃も欲しいが、いきなり両方を手に入れるのは難しい。まずは確実に手に入る雪絵を手に入れるべきだという思考が頭を支配する。
「よかろう。灰原の城を取り戻して見せよう。だが、終われば我が妻となるということをここに確約せよ」
白山勝実は曖昧な約束では気が済まない。確実に雪絵を手に入れることができるという事実が欲しい。
「・・・わかりました。白山勝実様が灰原領を取り返されたその時、私はあなた様の妻へというお申し出をお受けします」
雪絵はもう一度深く頭を下げた。その様子に白山勝実は笑みを見せて一息つき、部屋の外へと足早に出て行く。
「誰かおらぬか! 軍備を整えよ! 出陣の支度じゃ!」
部屋の外で大きく叫ぶ白山勝実。その声が遠ざかっていく中、部屋には父と初対面した娘だけが残った。
「では、所用があるので失礼いたします」
雪絵が一礼して席を立とうとした時、灰原昌隆が彼女の元へと迫る。
「すまぬ。ワシは・・・」
「何も言わないでください」
雪絵は父の言葉を途中で制する。
「琴乃様からうかがいました。娘のことを一番気にかけ、昇太郎様との婚姻の話を出したと。先ほどの言葉は真実ではなくとも、真っ赤な嘘ではないことはわかっております」
雪絵は笑みを見せる。
「私はまだやるべきことが残っていますので、失礼いたします」
立ち上がって深々と頭を下げる雪絵。その背中にすがりつくかのように、灰原昌隆は声をかけた。
「ワシと雪絵は・・・親子にはなれぬか」
「それは・・・全てが終わってからですね」
雪絵はそう言って部屋から出て行き、最後に父親を一瞥してから歩き去っていく。
「・・・全て?」
残された灰原昌隆は雪絵が残した言葉の意味がわからないまま、しばらくその場で呆然と一人取り残されていた。
雪絵が白山家の城を訪れた翌日の朝、馬を全速力で飛ばしていた琴乃と昇太郎は灰原家の元領地を迂回して黒川家の居城に到着したところだった。
「では行くぞ」
「うん」
琴乃と昇太郎は馬から降りて城へと足を進める。
「私は灰原昌隆の娘、琴乃と申します! 黒川家領主、黒川信弘様にお目通り願いたい!」
琴乃は大声で城内に声をかける。昇太郎はお付きの者といった様子で琴乃の後ろに着いているだけ。特に何かしらの行動を起こそうとはしない。
しばらくして城門が開き、琴乃と昇太郎が中へ招き入れられる。黒川家の兵士達が出迎える中、案内されて城の中へと入った。
「す、すみません。小便がしたいのですが・・・」
昇太郎が琴乃に申し訳なさそうに言った。それを見て琴乃がため息を吐き、近くにいた黒川家の者に頼んで厠トイレの場所を教えてもらう。一方琴乃はそのまま城の中の座敷へと通される。
「女一人、まぁ従者はいたようだが、実に強気な女よ」
上座に座る主君、黒川信弘。体の線や体格はそれほど大きくはない。しかし主君としての雰囲気や威圧感というものは持っており、周囲もそれを感じ取って黒川信弘を主君と仰いでいるようだ。
「それで、此度は何の用だ?」
灰原家の息女が単身、灰原家を攻め取った黒川の元へやってくるということはただ事ではない。
「この信弘を暗殺しに来たか?」
「滅相もございません。此度はお願いに参りました」
「ほぉ、お願いとは?」
「灰原は黒川様に逆らわず、従属することをお約束いたします。ですからどうか灰原の領地に我ら灰原家の者が帰ることができるよう、お願いに参った次第でございます」
黒川家の家臣団に挟まれつつ、黒川信弘を前に琴乃は深々と頭を下げる。
「何を言い出すかと思えば、随分と勝手な女だな」
黒川信弘は琴乃の申し出を鼻で笑う。
「灰原は我ら黒川と白山のどちらかにつかざるを得なかった。そして灰原は白山に付いたのだ。ならば敵であろう。それにもかかわらず、負ければ灰原の領地に住まわせてほしいだと? 灰原が城を失った理由は明白だな」
家臣団が一斉に笑い始める。侮辱され屈辱を感じる琴乃だが、この程度の事で己を見失う程彼女は小物ではない。
「では負け犬は黙って引き下がれ、そう言うことでしょうか?」
「そうは申さぬ。だが、今更すり寄ってくるのは虫が良過ぎるであろう」
「それは重々承知いたしております。では、いかなる対価を用いればお聞き入れくださりますでしょうか?」
琴乃は真剣に黒川信弘と交渉に挑む。
「対価? いくら支払われたところで我が領地であることに変わりはない。この戦国の世で見誤ったのだ。諦めよ」
取り付く島もない。黒川信弘は初めから交渉に応じる気はなかった。
「だが、そうだな。そなたの今後の生活程度なら見てやっても構わぬぞ?」
「いえ、そう言うわけには・・・」
「なに、我が陣営にそなたに執心している者がおってな」
すると黒川信弘は部下に命じて誰かを呼びに行かせた。
「何ならその者の妻になり、黒川に仕えるのも今後の人生の選択であろう」
「いえ、私にそのような気は・・・」
拒もうとした時、座敷へと入ってきた一人の男。その男と目が合った時、ありとあらゆる思考が一瞬で真っ白になった。開いた眼は閉じず、口も無意識に半開きになってしまうほどの驚きだ。なぜならその男は琴乃も見たことのある人物だったからである。
「じ、甚六・・・」
座敷に入って来た男は灰原家の臣下だった甚六だ。
「そなた、黒川に下ったのか?」
琴乃がそう言った時、黒川信弘が笑い出した。
「はっはっはっはっ、だから灰原は滅んだのだ」
「な、まさか・・・」
「この者は初めから黒川の臣下よ。灰原の内情を探るために長らく灰原家に仕えているふりをしていたまでのこと」
つまり甚六は灰原家に属しているふりをして、ずっと情報を流していた密偵だった。ならば黒川家との戦の時に奇襲が失敗に終わった理由や、灰原家の内情が厳しい時に黒川の軍がまた取って返して攻めて来た理由がわかる。内情が完全に筒抜けだったのだ。
「甚六、そなたのせいだったのか」
「ふん、密偵に気付かぬようではどのみち先はない」
「確かに、返す言葉もありません」
琴乃は灰原家を滅ぼした本当の犯人にようやく気が付いた。しかし時はすでに遅い。今からでは何も取り返すことはできないところまで来てしまっている。
「さて琴乃と言ったか? この者はお前に執心しているのだが、妻となって黒川のために働かぬか?」
「いえ、その申し出はお断りさせていただきます」
黒川信弘の誘いを断る。琴乃には既に昇太郎がいる。まだ夫婦とは呼べるような仲ではないが、琴乃が全幅の信頼を寄せているのは他ならぬ昇太郎だ。
「まだあの軟弱な男を想っているのか? あいつは・・・」
「昇太郎は生きている。だから私はこうして敵の領内に足を踏み入れることができておるのだ。そなたの妻となったところで、このようなことはできぬ」
琴乃は鋭い目で甚六を睨み付ける。
「主君を裏切るような男と契りは結べぬ」
「主君? 俺はもともと黒川の人間だ。灰原家がどうなろうと知ったことではない」
琴乃はそう返してきた甚六の言葉を鼻で一笑した。
「だからそなたは主君を裏切ったと言っているのだ」
琴乃は次に黒川信弘に視線を戻す。
「甚六は大手柄を立てた。灰原家の危機を救ったのだ。黒川軍が撤退したあの時の火柱は甚六の手によるものだ」
琴乃のその発言に家臣団が急にざわめき出す。
「違う! あれは昇太郎と言う男が・・・・・」
「なら何故賞罰の記録の時にそなたは自分の手柄だと申した!」
「そ、それは灰原家により深く入り込むために・・・」
「その必要は無かろう! 昇太郎を斬って奇襲部隊を壊滅させれば灰原の城はあの時点で黒川の手に落ちていたのだ! お前は何を思ったのか、昇太郎を自由にさせて黒川軍に損失を出した! そして先ほどの家臣団のざわめきを聞くにこのお前は嘘の報告をしておったのであろう! それが裏切りでないとなればなんだというのだ!」
琴乃の強い言葉に甚六は黙り込む。言い訳も言い逃れもできないと言った様子だ。
「お前はどうせ私を手に入れるために何かしようと企んでいたのであろう。だが当てが外れたな、甚六よ。私はお前の妻となるくらいなら自刃を選ぶ」
甚六との仲を完全に拒否し否定した。わなわなと震える甚六だったが、そこに思いもよらぬ追い打ちがかけられた。
「甚六よ。嘘の報告をしたというのは誠か?」
黒川家当主の黒川信弘。自分の当主に問われれば答えないわけにはいかない。
「も、申し訳ございません」
甚六は深々と頭を下げた。謝意を示して許してもらえないかと思っているようだが、黒川信弘はそこまで甘い人間ではなかった。
「謀るのは灰原だけにしておればよかったな」
「・・・そ、それはいったいどういう意味でしょうか?」
「黒川を謀り利己的に動く者などいらぬと申しておるのだ」
それは事実上の追放を意味する。甚六は長い時間をかけて灰原家に入り込み、黒川家のために情報を送り続けた。しかしその苦労もちょっとした保身と我利のために水泡と帰したのだった。
「早々に立ち去れ」
「・・・は、はい」
甚六は体格や風貌に似合わない弱々しい返答をすると、ゆっくりと立ち上がってふらつく足取りで座敷を出て行った。今までの長い苦労が無駄となり、さらに士官先まで失ったのだ。そして黒川信弘は言い訳をいくつ並べたところでその決定を覆すような男ではない。ならば甚六はもうその場を立ち去らなければその命がない。そう言う状態になってしまったが故の結末だった。
「さて、琴乃よ。あの者のことはもう忘れよ。無駄な時間であった」
黒川信弘は長い時間をかけて黒川家のために忠節を尽くした男も簡単に切り捨てた。たった一つの小さな過ちさえもこの男は許さないのだった。
「そなたの申し出だが、受けることは無い。居が欲しければ提供してやらぬことはないがな」
「そのような待遇は望みませぬ」
「ほぉ、では何を望む?」
「灰原の安住の地、でございます」
「それは無理であろう。今の灰原には何もできぬ」
「はい。ですので一矢、報いとうございます」
「・・・なに?」
琴乃の言葉によって家臣団に緊張が走る。琴乃が黒川信弘を殺しに来たのではないかと警戒したためだ。しかし、それは全くの見当違い。
「灰原の力、最後にとくとご覧いただきたい」
琴乃は立ち上がって座敷の外の廊下に出る。空は明るく日が降り注いでいる。灼熱の太陽が見守る中、琴乃は心を決める。
その瞬間、琴乃は大きく息を吸い込み・・・
「昇太郎っ! 盛大に見せてやれ!」
城全体だけでなく、城の外にまで聞こえるほどの大声。琴乃の声が広く広がり、それが合図となる。
一瞬の間を置いて黒川の城の一か所に巨大な火花が上がる。それと共に大地を揺るがすほどの大爆発。そう、それはあの夜、黒川軍を撤退に追い込んだ水蒸気爆発と粉塵爆発のコラボレーションだ。
「な、何事だっ!」
黒川の家臣団の数名が廊下へと飛び出す。中には腰が抜けて動けなくなっている者もいる。それほど凄まじい爆発が起こったことにより、城内だけでなく城外の町や村までもが騒然としていた。
「お館様! 兵糧庫でこやつを捕えました!」
数名の男に連れられてやってきたのは昇太郎。もとより逃げる気など無い。彼の仕事は琴乃の合図で火柱を挙げることなのだ。
「いったい何をしたっ!」
「あの夜の再現です」
怒りを露わにする黒川信弘に対し、沈着冷静に琴乃はそう言い放った。
「この者は灰原昇太郎。あの夜、黒川の軍勢を追い払う火柱を挙げた当人です」
琴乃の説明に火柱を実際に見たことがあった男達は犯人の風貌を見て驚きを隠せない。線の細いただの少年があれだけの大爆発を引き起こした。それも偶然ではなく今回もまた行ったのだ。つまり昇太郎の実力と言うことにある。
「許せん! この黒川信弘に宣戦布告を申し出るか! 国を持たぬ者共が!」
小さなミスも許さない黒川信弘はすでに怒りが最高潮にまで達している。
「打ち首にせよ!」
「ならば大衆に見せるべきであろう!」
黒川信弘の命令に琴乃が食って掛かる。
「これだけの大騒動。巷では黒川の城で何が起こったのかを気にする民衆で溢れているでしょう。ならばその民衆の前で私と昇太郎の首を刎ねればよい!」
斬首など覚悟の上。その上で殺すなら大衆の前で見せしめにせよと琴乃は言い放つ。
「その望み叶えてやるわ! 即刻周囲より人を集めよ!」
黒川信弘に命令で慌ただしく家臣団が動き出す。そして琴乃と昇太郎は捕縛され、見せしめに処刑を行うために城外の川へと連れて行かれる。
戦国時代、打ち首の多くは川で行われ、跳ねられた首はさらし首として様々な場所に設置されるのが通例であった。そして例外なく二人もそのように処分される。
「ははっ、つくづく川に縁があるなぁ」
処刑の場となる川に連れてこられた昇太郎は自分の最後の一つ期間を振り返ってつぶやいた。
「昇太郎よ。あまり無駄口を叩くな。猿轡をかまされてしまうぞ」
「はは、黙っておくよ」
人生の最後になるかもしれないという時に、昇太郎と琴乃は相変わらずの様子で会話を重ねられた。それは二人の間に確かな絆のようなものがあり、たとえ死ぬことになっても一緒であれば怖くはないと思えるからだろう。
「さきほど城での騒動の犯人はこの両名である! 黒川家に仇なす灰原家の残党の卑劣極まりない行為は許し難い! よってここで首を刎ねる!」
間もなく二人の首が跳ねられるという時、斬首を見物に来ていた黒川信弘が勝ち誇った様子で琴乃に声をかけた。
「何か言い残すことはあるか? 辞世の句でも読むか?」
それはこれから死にゆく者に対する最後の慈悲とも言うべき内容の言葉。だがそこに慈悲の感情などない。圧倒的な勝利を自他ともに知らしめるためのものだ。そして琴乃はその言葉に甘えることにした。
「我が首が落ちるところを見に来た者達よ! よく聞くがよい! 私は灰原家当主、灰原昌隆の娘、琴乃である! 先ほど黒川の城で燃えたのは兵糧庫だ!」
いきなり何を言い出すのかと黒川の者達は戸惑っている。本来なら口を閉ざさせるところだが、黒川信弘に言い残すことを聞かれての答えだったので、臣下は誰もその口を閉じさせることができない。
「さらに白山軍が間もなく黒川領へと侵攻してくる! 黒川の者達はそれを隠して我らの首を刎ねようとしている!」
それを聞いて黒川信盛は家臣を呼び出して事実関係を調べさせようとする。その事実関係の確認の人員を出す直前、勢いよく駆けてきた早馬が白山家出陣の報を届けた。
「また戦じゃ! しかも先の戦で黒川軍は大量の兵糧を失い、此度の我らの所業で備蓄していた全ての兵糧も灰と化した! 収穫の時がまだ来ていない故、戦になれば黒川軍は食料に困る! その時どこから食料を調達する!」
見物に来ていた観衆がざわめき始める。それはその被害者が黒川領の民衆であることが明白だからだ。
「我は灰原家の者! 灰原家は白山家と懇意にしている! さらに黒川のような暴政を敷かぬことは重々承知であろう! そなたらが自らの生活を変えるのは今ぞ!」
その瞬間、刀を持った部下に斬首の命令を下す黒川信弘。しかしその家臣に昇太郎が体当たりをして琴乃の言葉を遮らせない。
「暴君黒川信弘を許すな! 我ら灰原はそなたらの味方ぞ!」
言い終わる前に民衆が暴動を起こす。今まで溜まりに溜まった年貢や税の強制徴収に堪りかねていた民衆の背中を押すことに成功したのだ。
斬首されようとしていた二人は暴動を起こした民衆に保護され、逆に黒川信弘とその家臣たちが民衆によって捕縛されることとなった。
「民こそ国の元。善政こそ国の力。己の存在が全てとは見誤ったな。黒川信弘」
捕縛していた縄を解かれた琴乃が捕縛された黒川信弘を今度は逆に見下して言った。完全なる形勢逆転。昇太郎の考えたシナリオ通りに事が進んだ結果だった。
「くっ、不覚・・・」
黒川信弘の過信と慢心がこの結果に繋がった。もし捕縛された時にすぐにでも斬り棄てられていればこの結果はあり得なかった。
「皆の者よ! まずは黒川の城から黒川家を追い出す! 主があっての国ではなく、民があってこその国だと知らしめよ!」
民衆の大きな声が川に響く。今まで溜まりに溜まった憤りが爆発し、黒川の民は精鋭相手でも戦えるほどの高い士気を誇っていた。さらに暴動を起こした民衆は同じく不満を持つ黒川領内の全ての民衆にその暴動が伝播していく。一時的に総大将となった灰原昇太郎と琴乃が一時的に保有する兵士の数は留まるところを知らずに増大していくことになる。
「昇太郎。見事じゃ」
「まだだよ。琴乃さん。まだ終わってない」
「え?」
「黒川の城を取った後は灰原の城を取り返す」
「そうであったな」
「そして、白山の城も取る」
「・・・なに?」
琴乃は灰原の城を取り返すだけで終わりだと思っていた。灰原の城を取り返し、黒川の城を手に入れれば白山に負けない勢力を保持できる。さらに雪絵を助けることにもつながり、万々歳で終わると考えていたのだ。しかし昇太郎はさらにもう一つ先まで手を打っていた。
「雪絵さんが今頃白山領内の農村に一揆を起こすように仕向けているんだ。でもただ普通に一揆をおこしても鎮圧されれば終わり。だから灰原領を取り返しに城を空けている隙を狙って白山領を抑える。白山軍は黒川領と灰原領の兵を持って迫ればいい。戦いは起こらない。一揆と多数の兵、そして居城を失ったとなれば白山家は降伏以外に道はないんだ」
この時代、兵士は主君に付き従う武家と、戦のたびに駆り出される民衆を一時徴兵した寡兵で構成されていた。割合は武家よりも圧倒的に寡兵の方が多い。よって一揆や暴動でその寡兵を味方に付けてしまえば、戦力差は大幅に広がるのだ。
「灰原家の平穏と安寧は外敵に侵されない強固な国を作ってこそだと思うんだ」
灰原家が黒川家と白山家を併呑して三国を一つの国にまとめ上げる。それで善政を強いて国力を増大すれば、その力はそうやすやすと他国の侵攻を許さない。それこそが昇太郎の目指していた終着点だった。
「昇太郎・・・そなた・・・」
「話はあと。まずは目の前の黒川の城だよ」
「うむ、良き男がいれば心強い!」
琴乃は民衆を扇動して黒川の城へと迫る。移動中も続々と人数が集まり、その数は黒川家の武士を簡単に超えてしまい、さらに主君や家臣団を人質に取っていたことで黒川の城はあっけなく陥落した。
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