蹴りをつけるために僕は走る
「なるほどねえ」
担当の若い刑事は、赤木に、まったくもってやる気なさげに言った。
「刺されちゃったんだ。でもさ、そんなにさ、命狙われたとか、そういうことでも、ないんじゃないの?」
「何を……? 狙われたじゃないですか……?」
署で、僕ははさすがに驚いてしまった。
一般に、警察はやる気がないと言われる。ストーカー事件で動かずに、結局殺害されてしまったとか。なんでも、民事不介入ですから警察は動けませんだとか。
僕は、これは本物だと思った。なるほど、これは、凄いなと。公務員だ!公務員の鑑である。と。
「こうして告訴状も作ってきたのです。これが事件にならないのですか?これが事件にならないのなら、何が事件になると言うのですか?」
狭い、警察署内の個室の中で、若い刑事とベテラン風の男の刑事は顔を見合わせて、これだから、しろうとはまったく……とでも言うような表情とともに、苦笑してみせた。
「でもさ、あなたが怒るのもわかるけどさ、あなたには、刺される原因がなかったと言えるの」
「はあ……?」
僕は思わず声で反応してしまう。
「そのさあ、障害持った人が集まる施設でさ、あったんだろうけど」
「施設?何の施設ですか? 就労移行支援事業所です。ここに書いています!」
怒りが出てしまう。
「ああ、そう。その事業所でお互い知ってたんでしょ。だったらなんか、トラブルってのはあるもんだよ。ね?」
「だから、加害者、いや、被告訴人とは!面識がほとんどなかったんですよ?私は彼を、知らないのです」
刑事たちが、「ヒコクソニン」……という言葉に、苦笑しあうのを、隠しもしなかった。
「あなたが知らなくてもあっちが知ってるってこともあるでしょ」
「……」
これは何だろう。
僕は何を相手にしているのか。
これほどなのか。
「じゃあ刑事さん」 と僕は言った。
「僕が今、本気で、『あなたを殺してやる』と言っても、それは事件になりませんか?」
「言ってみたらいいよ?」
この刑事は現行犯でひとつ手柄を立てるのだろうな、と僕は思った。
「まあな、これから親御さん連れて来るんだからよ。3人で?4人か。話し合ったらいいじゃん。大人なんだからよ。ちゃんとな。な?それでいいだろうが」
ベテランが言った。
「では、被害届はどうですか?それすらも受理されないということですか?」
「そうだね」
若い刑事が言う。
僕はもはや怒りを抑えられなくなった。
「いいですか……?彼は僕に、ずっと根拠のない被害妄想を抱き続けていたんです。彼はその妄想を自分のなかで勝手にずっと膨らませ続けていた。スタッフだって知っていますよ。今回は事業所のスタッフがそれを僕に伝えることをしなかったから……、それは僕が警戒することを心配してのことだと思いますけど。それがあの日、彼はついに抑えきれなくなって、爆発して、行動に出たんです」
僕は怒りを表情に、語気に出さないように、冷静を装って続けた。
「彼は根拠のない妄想で、僕を攻撃した。自分が中傷されているとか、笑っているとか、声が聞こえるとか、事実じゃないことを理由にです。じゃあ、これが僕でなかったらどうだったか?
たまたま、僕だったのです。僕だって、こんな被害者になるなんて思いもしなかった。こんな、恐ろしいことってありますか?センターには女性だってたくさんいるんです!何人も。みんな障害を抱えていますよ。僕だってそうです」
僕は彼女のことを想う。
「じゃあ、その、自分を笑ってるって思い込んでいる人が僕じゃない誰かだったら?いろんな障害を抱えている人が、いるんです。人が怖いひとだって、います。それでも頑張って、通所して、社会に出て、仕事をしようと来ている人だっているんです。もし、この件の被害者がそのような人だったら?
僕はまだ、こうして『責任を取ってもらいたい』、そう思えるだけ、ましなんです。でもそうじゃない人もいます。
僕だって……、怖いんです。でも、『もし僕じゃなかったら』、と思う。やられたのが僕じゃない誰かで、その誰かは、ひょっとしたら、立ち直れなくなっていたかもしれない。通所できなくなるくらい、人が怖くなっていたかもしれない。家から出られないくらいの恐怖心を、ずっと抱えてしまうことになっていたかもしれない。そう思うと……、彼を、なにごともなかったかのように許す気には、なれない。なれません」
刑事の顔が怒りの表情に変わるように見えた。
「僕じゃない誰か……、がやられていたかもしれない。僕は、それが、いちばん怖い。……許せないんです…よ!」
僕は間違っているだろうか。間違っているのか、いないのか、もはや僕には判断がつかない。僕はただ……、曲げたくなかった。それを、言葉に、尽くした。
「よしわかった!」
ベテランの刑事が睨み、言う。
「オマエな、そしたら被害届は受理してやるよ。まだ荒川さんは来てないんだろ。そしたらそれまで事情もっかい聞かせろ。そしたら、事件にするからな」
加害者はさん付けで、被害者はオマエが警察というものらしかった。実際、ストーカー事件の被害者も、こんな感じだったのだろうな、と思った。
「だけどな、いいか。お前のことも調べてやることになるからな。覚悟しとけよ。事件にするってのは、そういうことなんだからな。何だ?病気なんだろ。知らんけどよ、な」
「あんた……!」
僕は反射的に立ち上がってしまう。それを、目の前の若い刑事が、制する。
すると、女性の警官が部屋に入ってきて、何か紙をベテランに渡した。
それを見、何か、若い刑事にベテランは耳打ちし、何も言わずに、僕を一瞥すると部屋を出た。そして開いたままの扉を閉めた。
若い刑事は僕の顔を見て言う。
「ちょっと待って。あなた、荒川さんを脅したな」
「は?」
「キョウハクしたでしょ。わからない?」
「え?」
「病気だから忘れちゃった?」
「何言ってるんですか」
「あなた、犯人ということになるんじゃないの、これ」
若い刑事は、そう告げた。
「キョウハク、ですか」
僕はもはや、呆れてしまった。
呆れてしまった気持ちは、ある。あるものの。自分が今どこにいるのかを認識する必要があることは、忘れちゃいなかった。
警察署である。
署内である。
そして、刑事ふたりと話しているのである。
「刑事さんね、強い方の
「何言ってるの?荒川さんはね、キョーハクされたって言ってるよ。民事だったら警察いらないよね。『脅迫されました』って言ってるの」
僕は刑法の記憶を引っ張り出す。
脅迫とは、相手に危害を加えることを、告知すること。告知すること。
「そんな話があるんですか」
殺す、と僕にやってきた人間が、脅されましたとは、どういう神経をしているのか。
「そんな話、あると思いますか?なんで僕が脅迫しなきゃならないんですか」
「でもさ、あなた、一度会ってるよね。その時の話」
「……? それは、会ってますがね」
ここは警察署だ。どうやら、曖昧なことは言わないほうがいいようだ。
僕ははっきりと言うことにする。
「脅迫など、脅すことなど、していません」
言うと、再び刑事がいる側の扉が開き、さきほどの女性警官が現れて、さらに数枚の紙を無言で刑事に渡した。
刑事は、紙面に目を向けると、驚いたような目で女性警官を見やった。女性警官は、黙って頷き、再び扉から出ていき密室となった。
「……何ですか」
刑事は紙に目をしばらく落とし、沈黙が続いた。
「赤木さん。あなた大変なことをしていたんだね」
「……」
沈黙が続く。
「妹さんとは、今でも仲が悪いの」
「何ですか!」
刑事の目つきが、鋭くなる。そして、その眼は僕を「対象」として見ている。
そして、何かを察するように、恐ろしい優しさで、言った。
「お母さんのこと、ね」
「関係ないでしょう」
「なくねえだろ!お前!」
刑事は、「対象」を、「警察官の職務としての執行の『対象』」としての僕に対し、叫んだ。それは、威圧であり、制圧であると、直感するとともに、
僕は、もはやここがただの「お話し合いの場」ではすまないこと、彼らは済ますつもりがないことを、決定的に直感した。
「そうだな。『そんな』になったのは、その前からか。まあ、こんなことやってたなら、悪化するよな、病気にも、なるよな」
扉が再び開き、僕の声を聞きつけて、であろう。刑事がふたり、さらに密室に入ってきた。
「いい」
手で、大丈夫だという合図をして、それを制すると、ふたりは戻っていった。
そしてまた沈黙。
「ごめんね怒鳴っちゃって。君も、大きい声を出すものだからさ」
僕は既に適当な言葉が出せなかった。
怖い。
それを、悟られないようにすることで、精一杯だった。
「あの時から、大丈夫だったんだよね」
「……何が」
「うんだから、頑張ったんだよね。……4年入院してたの、か?」
「……ずっとじゃない、刑事さん、本当に、関係、ない」
駄目だ。関係ない。本当に関係がないのだから、冷静にならなければ。……しっかり、しなければ。「あの事」と、アラカワが僕を襲うことと、関係が、あるわけがない!
「なあ。俺たちもさ、訴えが出てる以上、ちゃんと調べなきゃなんないんだ。わかるだろ?」
僕の告訴状は一切放って置くくせに、とは、もはや、言えなかった。
「な、」と、刑事は言った。
「病気のこと、わかるんだよ。うつ病だっけ?わかるけどさ」
既に
わかっていないから、こその、不安は、既に、抑えられない。
「病気だから、知らないうちにやっちゃってるってこと、あるだろ」
「……」
「前もあるんだからさ、ちょっと部屋、変わろうな」
刑事は、扉を開けて、「おいちょっと」と言った。すぐにふたり、刑事が入ってくる。
「待ってください、トイレに、行きたい」
「なんで」
「なんでって」
「あとで行けばいいじゃん」
「そんな」
「あとでちゃんと行かせるから」
「そんなこと……!僕は、出ます」
「ちょっと待ってって。荒川さん来るんだから」
「出ますって!」
僕は書類をバッグに仕舞い、立ち上がり、振り返り、出口へと向かう。
後ろのふたりの刑事がただちに僕に近寄り、ドアを開けようとするのを阻んだ。
「トイレに行かせてくれないんですか?」
「だから待てって言ってるだろ?」
ドアの前に立つふたりの刑事のひとりが、言う。
出ようとする僕は振り返る。
「これ、『任意』でしょう」
「うん、行ってもいいけど、荒川さんが来るのを待とうよ」
「ま……待てない」
屈強なふたりの刑事が僕の両脇で、腕を掴む。左腕は完全に掴まれた。
「ちょっと! ……本当に、僕をここから出さないつもりですか……!?」
2人の刑事が言う。
「出さないって行ってないだろ」
「待てるだろ?お前」
右腕で、僕はドアノブを掴む。そして手前に引き、開けようとした。
「痛い!」
そう、僕の左腕を掴んでいた警官が、叫んだ。
「お前!人にドア、ぶつけることないだろ! 何やってんだ!」
「ドアに挟まっちゃったよ、痛いだろ……、なんだお前、頭、おかしいんじゃないのか」
刑事たちが、そう言った。
僕は、想像して、ぞっとした。
これは。公務執行妨害……。
刑事たちは言って、座って僕と話をしていた刑事の方を見て頷いた。そして彼は腕時計を確認するのを、僕は、見た。そして、ついに言った。「今の時刻」を。
「今……、午後5時52分か……」
「警察官を殴るなんて、何するんだ。ドアに叩きつけるとは…午後5時52分、公務執行妨害か……。現行犯だな」
「待っ……」
僕は、もはや言葉を発することもできない。
左手は、掴まれたまま。
「現行犯逮捕する気……?こんな、密室で」
刑事は、碇ゲンドウのような手の組み方をして、僕を見ていた。
「仕方がないよ。事実なんだから」
「何のために? 僕は被害者です。 誰がどう考えても、そうだ。違いますか」
「それはそれ、これはこれだ。やられたから、脅していいことにはならない」
「僕は確かに事件の後、アラカワと話をした。そこは認める。けれど、」
僕は記憶をたどる。
あの時のアラカワは、様子がおかしかった。.0.,,
ワンカップを飲んでいた。目がうつろで、顔がぼうっとういていたようだった。
しかし。しかし。
絶対に、脅すようなことは、していない。
「言っていない」僕は宣言した。
「金をよこせと、言ったんだろ?」
「言ってないって、本当に」
……金を、出せ?
「刑事さん。『金をよこせ、』ですって?」
「そうだろ」
僕は、首をふってみせた。
そして、内心、思った。「勝った」
「刑事さん」
……僕は、しばし目を閉じて判例六法の記憶を……探る。
「
「何だと。」
くくっと笑って見せる。
「知らないの?古畑の明石家さんまの回で出てくるでしょ。虚偽告訴。アラカワが脅迫罪で僕を訴えるというなら、訴えたというなら、僕は虚偽告訴でアラカワを訴えてやる」
僕は、あの野郎に、そんなことはしていないのだから。どう記憶を辿っても、金を要求するようなことはアラカワには、言っていない。絶対に言っていない。
記憶がない時に、自覚がないときに、なんて言っていたらキリがないけれど、僕の双極性障害は妄想や幻覚が生じる類のものではない。
「もちろん、殺人未遂罪を、主でね」
間違いない。
僕は、3人の刑事にもわかる様な、大きなためいきを吐いた。それは安堵によるものだった。完全に、虚偽だ。嘘の、訴えをしている。虚偽告訴罪が適用される。
「僕を逮捕するなら、本当に冤罪になる。いいんですか」
刑事の目を見据えて、はっきりと言った。
「そこまで、自信があるのか。証拠もあるのに」
僕の顔には、汗。しかし、余裕が、微笑を浮かべて、見せつけてやる余裕が、生まれた。
「僕が脅迫をした、証拠ですか」
「音声記録があるそうだよ」
「じゃあ、出してくればいい」
もう一度、深呼吸して、言う。
「証拠能力は、ありません。適当な誰かで、でっち上げたんだ」
本当は、出せるものなら、出してみろ、くらいの言葉を使ってやりたい。けれど、曲がりなりにも、今、刑事3人に拘束されている状況。強がることしか、できない。
「調べればわかることですよ。音声解析……、声紋鑑定に、かけることに」
「この野郎!警察を舐めてるのか!障害者が!」
刑事が、机を叩きつけて言った。机の上のモノが、揺れ動き、激しい音がするほど、強く。僕は、身が震えた。
「マルセイが……。お前みたいなやつを、そう言うんだ」
「ああ、」と刑事は言った。
「さっき言っただろう。取調室の話をした時だ。
「何度も言ってる。母さんの事件はこの事件とは関係ない……。もう、何年も昔のことだ。……関係ない」
「ないかどうかはこっちが決めるんじゃ!ボケ!」
「……決めるのは、裁判所です」
「てめえ……」
刑事の、怒り。
「……さっさと認めろ。20万脅されたっていう証拠があるんだよ」
「ハシタ金を『設定』させてリアリティを持たせたんでしょ。言ってないんだから、記録なんかない。あっても、捏造」
僕は、よく思い出してみる。
よく思い出してみる。退院したあと、アラカワに会いに言った時のことを。
あの時、ワンカップ飲んでたアラカワに声をかけた時。
かなり、驚いていた。
あの瞬間にICレコーダで記録なんてできるようには思えない。
「『この場所で、警察で話をつけよう』、『きちんと責任を取れ』、そう、あと、『昼間から、ワンカップとは、いい身分だな』とね、言ってやった。……それだけ」
「バカ」
呆れた表情で、刑事は僕を見た。
「母親の事件でお前には前科がある。前科のある人間がアメリカに入国できるわけがない。言わなきゃわからねえか……。精神障害者って、こんなめんどくせえのか」
「何?アメリカって。おかしいんじゃないの、刑事さんの方が」
僕。顔。汗。そしてわずかな余裕の笑み。
「自分がおかしいなら、他人全員おかしく見えちまうんだろうなあ」
と、刑事。
「ワシントンにどうやって会いに行ったの?空でも飛んだか」
「……何言ってんのさ」
「だから、被害者がぁ、いるワシントンのことだよ!」
「……待って」
アラカワは……?
「あいつは国内にいるじゃないですか」
「いないよ。何言ってるんだ。頭おかしいだろ。お前は被害者の荒川氏から20万……、これ、ドルか?円か? ちょっと、この書類じゃわからないけどさ、2000万円脅し取ろうとしてたことになるね」
……ワシントン?
「行政書士と司法書士を使って住所を調べて会いに行った。」
「知るか。日本の住民票に、住所ワシントンって、載ってたってか。お前、障害重いな」
刑事は、ああ!と叫んだ。
「お前と話してると、こっちまでおかしくなっちまうな」
「ちょっと」
僕はさむけがした。
「アラカワ、東京に、いないの?」
「荒川氏はいねえ。被害者の荒川さんはわざわざワシントンからここに向かってるんだ。だから、待てって言ってんの」
「まさか」
まさか。
「20万って」
「お、思い出したの。やるねぇ。じゃあもう、わかるだろ、自分がやったこと」
心の中で舌打ちをするとともに、
思い出して、
鳥肌が立った。
「……そっち……か?」
「ん?どした?」
あの時、荒川さんに「実質的に」20万を要求した。思い出してしまった。
「荒川は、録音してたんだ……そっか」
「うん、万が一のこと考えてたんだろうね、そしたら案の定ってわけだ。思い出した?」
思い出した。
やばい。
多分今、ベテランの刑事は逮捕状を取りに行ってるはずだ。間違いない。
本当にまずい。
切り札を切るしかない。
「——確保だ」
2人の刑事が、僕の両腕を、掴んだ。
そして、僕は完全に、
動きが取れない。
「いいの、刑事さん。こんなこと、して。完全に違法逮捕、拘束。」
「……お前には、ここからも何も、ないよ。やっちゃったんだから」
刑事は立ち上がり、完全に身動きの取れない僕の側に回って、言った。
「見せてみろ。鞄の中。」
と、バッグを調べはじめた。
「おい。携帯出せ。録音とか、してねえだろうなあ。どこに隠してんだ」
僕は鼻水をすするような音を立てて、言った。「助けてよ……」
「け、刑事さん……おしっこ、漏れちゃうんです、早くトイレ行かせて」
「ふざけんな!なんだ。情けねえな。お前に行かせるトイレなんか、ねえよ」
「今は駄目だって言ってるだろ!」
「お願いします!」
「だから、駄目だって、今は」
「刑事さん、刑事……な、なんてお呼びしたらいいんですか、お、お名前は…」
「西田だよ」
「西田刑事……おねがいしますから、は、離してください、僕、さされたのに、どうしてこんなことするの。トイレ行かせて」
「警察なめんなよ。駄目だって言ってるだろう!!」
「うん。わかった……。もう いい」
僕は名前を特定した刑事に言った。
「もういい。これで十分です。、刑事さん、西田刑事」
「うん」
「ねえ、荒川さんはICレコーダを持ってたよね。」
「そうだ」
「……舐めないでほしいな。」
「……お前まさか……」
「何ですか?」
「録音してるんじゃねえだろうな!」
「……してませんよ。僕は録音なんかしてない」
「おい!」
と、両腕を確保された僕のポケットを探り出した。
「……離したほうが、いいですよ」
「なんだ、お前。」
「勘違いしないで。レコーダなんて、持っちゃいない」
「何だぁ?」
「僕が使ってるのは、ICレコーダじゃあなく……。」
刑事は僕が胸ポケットに入れていた携帯を探り当てた。
そして、見つけた。
「この野郎……録音してやがった」
「……」
僕は頭をもたげて、うなだれた。
そして、上目遣いで西田を睨んだ。
「けす気?」
「当たり前だ、てめえ」
そして、僕のiPhoneを操作しはじめた。
「動くなよ、おい、絶対に離すなよこいつを」
「西田、残念」僕は言った。
「なに?」
西田が、
顔を上げようとする
瞬間。
今だ。
僕は頭をもたげて、顔が写らないようにした。「Hey...」
「Siri! 『送れ!』」
「はい。ショートカットを実行します」
僕は顔を下げて、隠した。
携帯が、まばゆい光を放ち。
「う!」
刑事はうめいた。
かしゃり、と、音が、2回、
響いた。
「お前、何した。」
「だから、僕が使ったのは、」
使ったのは
「『ショートカット』……。」
僕は、口元で微笑んで見せた。口元だけ、目は笑わずに睨み。
「両腕を拘束してるこのふたり。を撮った。
そして、携帯を操作してるあなたの顔は、フロントカメラが完全に抑えた。両手使えないから、これしかなかった。」
「そんなこと……!?」
「僕のSiriは、賢い。……ショートカットって、いってね。ベースを作ったのは、僕じゃないけど少しいじった。カメラが拘束してる僕の後ろのふたりを写す瞬間を狙ってね、指示」
「なに、やってんだ…お前……!」
「そして、撮っていた動画、音声は、今、クラウドに向かってる。アップロード、70パーセントくらいかな。iCloud、GoogleDrive、Dropbox……。……日本の警察には、絶対に、手が出せない」
西田は黙っている。
身を守るため。
「袴田警察署の西田刑事。なにもせずに来ると思った?警察なんて……こんな危険な場所に」
刑事は声を拾われないように、黙った。
「今トイレに、僕を……いや、
……俺を外に出さないならクラウドに向かったその音声を、今すぐに公開することもできる。トイレのくだりだけ切り取って、ね」
「公開……?」
「YouTubeに。」
「この野郎……!」
「僕オリジナルの、YouTube公開用の『ショートカット』を装備してる。」
「——!」
「刑事さんが持ってるそれ、その赤のやつ。」僕は言う。
「無理して、エイトのその色を買っておいてよかったです。」
西田が持つ赤いそれは、自身へのレッドカード。
「僕をトイレに行かせなかったのは、まずかったよね。ドアの公務執行妨害も、まずい。警察の違法取り調べとして、どうなるか、想像できますよね?ネット拡散……TV……」
「離して。違法拘束を解くなら、今だよ。
次のショートカットを、実行……する。」
そして「Hey……」
「もういい……!」
西田は、歯を食いしばって言った。「……離してやれ」
僕は……言った。
「俺の勝ち。」
「わかった。行けよ」
諦めたように言った。
「ただし、本当に、逃げるな。必ず戻って来い。いいな。約束は、守れ」
「……わかってる。西田さん……、逮捕状はまだないんだし、本当に違法です。さっきの公務執行妨害もまだ執行されてないでしょう。録音するのも、違法なことじゃない。公開するのも憲法が、報道の自由として完全に保障してる。なにも、問題ないです。もっとも……」
僕はドアノブを引きながら、刑事を見て、言った。
「
話が、ずれていた。僕はたしかに会っていた。僕が刺された後、
「アラカワの、親父にね」と。
警察署を出た僕は、すぐに電話を掛けた。すでに
まだいるだろうか。
出た。
センター責任者の佐々木氏。
「……なるほど。その話でいけば、まず問題ないとは思います。民事ですから」
「俺もそう思います。しかし、まさかこんなことになるとは。野郎の父親が?卑怯な野郎だ……自分の息子がしたことを。俺にしたことをわかってるのか。佐々木さん。いや、『佐々木先生』。あなたに依頼した告訴状。俺の訴えたいことを、あなたはわかってくれますか?」
佐々木先生は、答えた。「わかっています」
「許せないのは、自分がされたことでは、ないのでしょう?別の誰かが……、されていたとしたら。そのことが。アカキさん、あなたが怖い気持ち。それは自分がどうとかじゃない。自分の大事な誰かだとしたら。そのことが……」
沈黙。
「赤木さん。あなたにとって、それが誰かも、私はなんとなく、わかる気がします」
「……佐々木さん。わかるか?」
「伊達に社会福祉の仕事をやっているわけではありませんからね」
「副職でも?」
「関係ないです。」
「アカキさんのその優しさはわかっています。あなたが人を脅すなんてことをするはずがない。あなたはまっすぐに自分の過去を見つめている。だから、」
「わかっています。俺は、
いや、僕は母を殺めた。妹も傷つけた。間違いのない事実。真実じゃない、事実です。だから、僕はを背負って生きていくと決めたから」
「そのために障害者支援員になろうとしている」
「はい。あなたのようになりたくて。償っていきたいから。佐々木支援員。そして佐々木弁護士。」
「警察に戻りなさい。そうでなければあなたはおそらく、逮捕される。逮捕状が発行される可能性が高い。あなたは今、逃亡しているとみなされることが、いちばん危険です。これは支援員ではない。弁護士としての立場の意見。いいですか、あなたも知っているように逮捕というものは、逃亡のおそれがあるからされるのです。それが冤罪だろうと無罪だろうと、逮捕だけは避けてください。」
「うん、……はい」
アカキは言った
「ありがとう。佐々木さん。あなたは俺を優しいと言ってくれた。……優しさ。優しさなんてものがわかるのは、
優しいひとだ。それがわかるのが、優しさだ。俺には、たぶん一生わからないと思う。」
「その未来を決めるのは、赤木さん。あなた自身だ!あなたが決めること。決めるのは、今しかないんだ!」
「……はい!」
「では、あなたの将来を、私は待っています。何年、何十年かかろうとも。いいですね?」
アカキは携帯の電話を切った。
すでに走り始めていた。
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