彼女は姿を消した
その日は朝から夜だった。
そして、その日は朝から雨だった。
カーテンを開けるまでもなく、雨音を聞くまでもなく、
ベッドの上で横たわっているだけで、雨が降っているかどうかを認識することができる。もっとも僕の部屋にはカーテンもなければ、ベッドもない。ゴミ捨て場から拾ってきたソファだけ。
仕事に就いてもいない身では、Amazonの1万円組み立てシングルベッドさえ注文することすらできぬ。寝返りをうつこともできやしない。
台風が来るとだるい。雨の日はだるい。雨の日の前の日もだるい。
それを「気象病」と呼ぼうが、なんと呼ぼうが、
ああ、血液と脳髄液が鉛のようだ。どんより、という言葉さえも生ぬるい。どんに、寄り。いや、どんに寄ってさえいない。「
まさにきつい、障害だ。どうしてこんな障害を背負ってまで、生きなければいけないのか。
実際、メンタルを病むまでは、気圧や、天候で身体が重いとか、頭痛がするとか、調子を崩すなんて聞いても、「何を言ってるんだ、妄想じゃないか……」と思っていたものだ。自分の身になってみなければ、信じることもできなかったとは……、情けない話だと思う。
ましてやあの面接のあとの虚脱感は、僕に50倍の重力、負荷をかけてくれていたのだった。
午前9時。
犯罪的に過酷な時間。
よくもまあ、間に合う方も間に合わせたものだと思う。僕は心中、自分に緑綬褒章を授与した。
いつものように。
何事も変わりの無いように。
就労を目指すメンバたちが集まる。
集まっていた。
いつもの景色。
いつもの風景。
「9時になりましたので、体操を行います。皆さん、手の当たらない位置に広がって、移動してください」
「体操、初めー」
もはやパワハラ。パワハラはやられる方がパワハラと思ったらパワハラなので、僕はこれをパワハラと定義した。
PCからHDMIで映し出される、映像に沿って、皆、体操を始める。
僕には、それにならう気力はまったく残されていない。
僕は自分で自分を褒めたたえてやった。アカキくん。お前は素晴らしいぞ。よくやった。やるだけのことはやった。「うん。俺もやるだけのことは、やったさ。あれだけの面接を、よく自分の主張を通したもんだ。よくやった、よくやった」
かくして、
僕と、
みすゞさんの、
就労移行支援の物語は終わり、
それぞれの道を歩み始めた。
その先に見出すものは、僕であり、みすゞさん次第である。おわり
というわけにもいかない。
僕はラジオ体操に似た、ブレイク体操をほとんど心そこにあらずという様子でこなした。動きに機敏さは微塵もなく、だらだらとした手と足の動作。傍目から見れば、なんだこいつはと思われるだろう。僕はそんな気力で取り組んでいた。
ぶらーん、ぶらーん、ゆやゆよん。
ぶらーん、ぶろーん、ゆやゆよん!
ぶろーん、ぶらーん、ゆよゆやん!
僕は叫び出したい気持ちを、あからさまに、20人近いメンバーの目の前で、誰にともなく当てつけるように、ふざけてその体操に取り組んだ。
「はい、時間になりましたので、15分訓練に移ってください」
そんな声も、僕には遠く遠く聞こえていた。
案の定、佐々木さんと、僕の担当である後藤さんに呼び出された。
特に担当の後藤さんは、暴走王と呼ばれるだけあって、厳しい。模擬面接の訓練で、少し冗談めかしたことを言っただけで、「この面接を点数で言うなら、0点から、最高100点だとするなら、赤木さんな。お前は、マイナス100点だ……」と言われたこともあるくらいだ。もっと言うなら、小川さんには「赤木さん、あなたは身だしなみがなっていない。自分では身だしなみがなっていると、思うのか?どうなんだ?え?言ってみろ。答えてみろ。自分で自分のことを、清潔だと思っているのか。思っているのか?思っているなら……、マイナス、100点だ」と言われたこともあるくらいだ、
そんな時、センターの隣の公園のベンチで、どうーんと落ち込んでいる僕に声をかけて、辛さの言葉を聞いてくれたのが、このセンターのレジェント、中邑氏であった。
それはともかくとして、スタッフ後藤氏と佐々木
「赤木くんさあ、どうだった? ウチの面接」
と聞くのは、もちろんスタッフ後藤氏。
佐々木氏は結果を知ってかしらないのか、黙っている。
スタッフ後藤氏は、ひらだけど、模擬面接とか、履歴書・職務経歴書の添削ではかなりアドバイスを頂いている人。それだけじゃない。僕がセンターに入ると必ずやる気500のヨッチが一人加わる。それが、小川さんが入っている日だということにも気付いているし、Windows95くらいの時代のLeafの名作の話を、センターのメンバーとしているときも、「そのようなデリケートな話は、つつしめ」と言ったのも後藤氏である。こんな話は、ちょっとやそっとのライトゲーマーでは、わかるものではない。僕にも匹敵するような、「相当の」やり手だということは、よく知っている。
「で、どうだったの? 俺んとこにはまだ連絡は来てないけど」
どこの職場でもいるような、常に怒っているのか、それとも怒っていないのか、それが素なのか、わからないような表情、風体で尋ねてくる。
「話にならなかったです。 一応、経歴だけはかなり綿密に聞かれました。あとは何も……。自己紹介も、自己PRも聞かれなかった。こんな面接、あるんだなって思いました。ある意味、勉強になったっていうか」
「え? 自己PRもなかったのか?」
「もっと言えば、志望動機も……」
「……志望動機も聞かれなかったのか?」
「はい」
後藤氏は頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。
「まあ、志望動機ってのは、書いてあるのを読めばわかるからさ。そこはそんなに、落ち込むこともないと思うんだよ。ただ、自己紹介も自己PRもやらせてもらえなかったって? そいつはどうかなあ……」
「前回もそういうこと、ありましたから。自己紹介、自己PR、志望動機、何一つ聞かれない圧迫面接。その時のテクニックが役に立ちました。『何一つ聞かれない時、こっちから無理やりねじ込んでいく方法』……。やっぱり、何事も経験しておくもんですね……」
「まあ、それはいいけどな……」
「こっちの立場も、考えてくれよ」と、後藤氏は小さな声で言った。
それは、そうだろう。採用担当者に、下手な面接の内容を見せたなら、それはセンターの支援員のスキルをそのまま疑われることになってしまう。
「だとしても、ぶちこむことはすべてぶちこんだと思います」
「何だ、それは言いたいことは全て言えた、言ったということか?」
「はい。採用担当の方も、かなり聞いてくださったと思います。まだまだ言うことや伝えたいことは、いくらでもありますけど、変な圧迫面接より、とても親身になって聞いてくれたと思います。感謝していますよ」
後藤氏はそれを聞いて、言う。
「まあ、赤木君がそこまで言うなら悔いもないんだろう。そりゃ、ラッキーだったと言ってもいいと思うぞ? 赤木君が言うようにさあ、自己紹介も自己PRも志望動機も聞かれないで終わる面接なんて、ザラなんだから。でも、そこで自分の言いたいこととか、気持ちとか、想いとか、全部ぶち込めたんだよな?」
個室の向こうから、にーに、さんし、さんに、さんし、という体操の声が聞こえる。
「ブチ込みました」
「なら何も言うことはない。俺からはね。佐々木さんからは、何かありますか」
佐々木サービス管理責任者は静かな笑みを浮かべながら、言った。
「私が言ったとおり、嘘はつかなかったんですよね?」
僕は迷った後、言った。
「ん……。嘘なんか、ついてないです」
「それなら、結構だと思います。ならいいです。わたしたちのほうから、特に言うことはありません。結果が出たら、私の方から連絡します。とにかく、お疲れさまでした。今日は普通の訓練日ですけど、いろいろあってかなり疲れていると思いますから、特に注意したりとか、そういうことはしませんから、なにしろ昨日の今日ですから今日は、とにかくゆっくり休んでください。こんな時間に言うのも変ですけど、お疲れさまでした」
僕は個室をあとにして、体操が終わったスペースに戻り、15分訓練をして、時間を潰した。
15分訓練なんていったって、たいしたことじゃない。塗り絵をやったり、漢字の書き取りをやったり、といったことだ。それに特別重い意味が込められているわけじゃない。ただ、それをやることで、訓練の時間に向けて、集中力を高めていこう、というだけの話。
そんなことでも、意味があると思えば意味があるし、くだらねーと思えば、なんだってくだらなくなる。ぼくは前者の人間だ。
そこに、中邑氏がやってきて僕に話しかけてきた。
「お疲れさまです。どうでした?」
「どうもこうもない。中邑さん……、はやっぱり、すごいわ。センターのレジェンドだよ。何も、聞かれなかったもん。自己紹介も、自己PRも、志望動機も……」
「え、まじですか?」
「まじもまじ、大まじ。 一応『なにひとつ聞かれなかった時のため』の想定はしてたから、無理やり言いたいこと言わせてもらったけど、それも無理やりだもん……。4次?5次?面接まで行けたってことは、それだけ中邑さんは手放したくない逸材だって思ったってことだよ……。勝ち負けじゃないけど、完敗だ。俺の完敗に、乾杯だよ……。終わったらガスト行こうか」
「4次、まではいきましたけどね。もう、次はわからないです。たぶん、無理だと思いますよ。それと、話したいことがあります」
「え……?」
「大事なことです」
「外、出る?」
「はい。出ましょう」
僕たちは公園でタバコに
そこで聞いたことは、衝撃的な、ことだった。
「彩樺さん、退所しました」
「……嘘だろ」
「本当です。確実な情報。スタッフから、聞きました」
「な、んで。どうして」
「わからないですけど……。実は、実際は、赤木さんがやられた事件のことかもしれないって、噂が。アラカワのせいですけどね」
「……なんで、なんでだ……!」
「赤木さんは、悪くないです。悪いのは、あいつです。妄想ふくらませて……」
そんな。
そんなことって。
信じられない。信じたくない。
「確かな事実、なんだね」
「……はい。僕たちも、応援したかった」
……僕は、言葉にする言葉も、なかった。少し、ひとりにして、ください、と彼に言った。中邑さんは、察してくれたようだった。
ぼくは、彼女の力になりたかった。
ぼくが就職するとか、そんなことよりも、ぼくよりもずっと若い、就労の経験のないだろう、彼女に、僕のこれまでの経験とか、アドバイスとか、彼女の力になれることを、伝えたかった。彼女の、役に、立ちたかった。彼女の、力に、なりたかった。
それは、もう、かなわない、のか。
どうして。
どうして!!!
「ああああああああああ!!!!!」
ぼくは公園で、ひと目もはばからず、声を上げて叫んだ。
もう、一生、会えない、だろう。
もう、一生……。
たぶん。
許せない。
許せない……。
許さない……。
僕の行き場を失った気持ちが向かうのは、ひとつの場所だった。
「許さない」
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