僕とみすゞの就労支援

 それから、日は過ぎた。


 アラカワには、それなりの後ろ盾があったようで、僕を刺した事件は大事にならなかった。小事にもならなかった。


 僕が本気で大事にしてしまおうと思えば、できたと思う。けれど僕はそれを望まなかった。いや……望んでいたと思う。それくらい、僕は怒っていた。そのうえで、やれることをしたと思う。僕は僕で、あれだけの場所で、やれるだけのことをやったのだから。

 もちろん、僕の、脅迫をした、しないなんていう話は、刑事事件として扱われることなんか、あるはずもなかった。「こんなもん、民事にもならねえよ」とは、あの西田刑事の言葉だった。ベテランの警部も、逮捕状なんか取りに行ってもいなかった。こんなことは、警察では日常茶飯事らしく、「しょうがねえ民事くずれの事件訴えに来やがって」ということで、ただ煙草を吸っていただけだった。

 ワシントンからはるばるとやってきた父親は「手打ちにしてくれ」といったのだった。そして、彼らにしてみれば、丸くおさまったかにみえた。それをどうするかは、これからの僕が決めることだし、今の僕には、警察が事件にする気がない以上、そこに力を注ぐ時間は、なかった。

 結局、とことんまで、警察は、仕事をする気がなかったのだ。だから、僕が何をしようが、アラカワが僕を刺そうが、びっくりするほどの警察の面倒臭さが、「事件」を消したのだった。

 それから、アラカワがどうなったかは、知らない。文章を割くほどの存在でも、なかった。事件は怖かったけれど、突然街中で刺されるのではないかとか、そんな恐怖感は今はほとんど、なくなった。きっともう、会うこともないと思う。


 僕はその就労移行支援事業所センターへの就職をすることは、かなわなかった。少なくとも、いまのところは。時給950円にも満たない、司法書士法人が、「君の資格をうちで活かすべきだ」と、勝手なことを言ってきたので、僕はそれに乗っかってやることに、した。うまくいけば、その会社が司法書士登録の費用も出して、司法書士を名乗ることができるかもしれない。


 精神障害者の法律職なんて、聞いたことがない。日本にいるんだろうか。たぶんいないと思う。だから、僕をそれに仕立て、まつりあげて、障害者雇用のモデルケースとしてパンダみたいに扱うつもりなんだろうなとは、思う。


 悩んでは、いるが、僕はそこに決めた。家から近いから。


 もう、仕事を始めても、いる。けれど、その本当の『死闘』は、また別の話。


 僕は就労移行支援センターへの就職は今のところは、ままならなかった。

 面接を受けた後、センター長の佐々木氏に言われた。「嘘はつかなかったのですね」と。それはやっぱり、嘘だった。僕にはあの場で、母との事件のことを、どうしても言えなかった。正直に、母を死に至らしめてしまったことを、履歴書の空白期間が執行猶予であることを言えば、また違った結果になっただろうか。……わからないけれど、嘘は、ばれるものだ。


 ところが、センターには、僕の他に、就労移行支援センター「オアシス」へ応募して、話が進んでいた人がいた。中邑さんはその一人だったが、惜しくも、障害者就労移行支援員は既に定員となり、別の部署であれば、という話があったという。しかし彼は僕に言った。

「どうしても、僕は就労移行支援員を目指すと決めましたから」

 そして障害者雇用オープンではかなりの好条件の内定を蹴り、就労移行支援事業所を情熱をもって、戦いを続けると宣言した。決めたことは、実現すると僕も信じる。

 定員……。その意味を知ったのは、僕が就労移行の支援を受けるのを終え、内定を決めていた司法書士事務所で障害者就労を始めてから、ひと月ほど経ってのことだった。

 

 それは、就労支援員と、職場の障害者雇用の担当者との三者面談を翌日に控えたある日。僕は仕事を終え、お疲れ様です、と「オアシス」に電話を掛けた。担当の後藤氏と明日の面談について、軽く話を合わせておきたかったからだ。

「後藤さん。だめだ。なんとか、というか、必死でやってはいます。けれど物足りないし……。ストレスも、相当なものがありますよ」

「そうかあ。ああ、心配してたんだよ。ストレスも、あるだろうなあ。厳しいだろう、そこは……」

「まあ、わかってはいたことですから、……紹介してくださったのも後藤さんですからね。頑張ってはみます。まだ1か月と少しだし、やれなくは、ない。面談は無難にすませますから、よろしくお願いしますよ」

「うん。わかった。悪いようにはしないから。赤木さんの評価とか、聞きに行くから。そっちに。それとさ、いきなりで悪いんだけど、俺はオアシスを退職するので、今後の担当は別のひとになる」

「は?」

「だから、次の定着支援の担当の方とお伺いするから、よろしく」

「参ったな……。そうなんですか。せっかく、これまでお世話になったのに」

「まあ仕方がない。詳しくは、明日そちらで」


 とのことで、翌日ぼくは仕事中、呼び出され、会議室へ入った。

 多くの企業に増えている、障害者雇用の担当の上司と、後藤氏がいる。

「久しぶり、」という笑顔で僕を見る、担当の後藤氏。

「……というわけで、今、上司の方から赤木さんのお仕事ぶりについて伺ったんだけど、非常に評価をいただけているみたいで、ね。よかったじゃないですか」

 上司が言う。

「PCスキルなんか、非常に高いですね。向上心がある……。これからも頑張ってほしいと思っています。それで、今後藤様からもうかがったんですが、担当は今日で終了して、別の方に交代されるということで。赤木さんも、その辺は……」

「はい、聞いております。オープンの就職まで、とてもお世話になった方ですので、やや残念というか、不安ではありますが。頑張りたいと思います」

 部屋をノックする音が聞こえた。

「ああ、次の担当の方だと思いますよ」

 扉が開き、そこに女性が現れた。僕は幻を見ているようになった。

「紹介します。障害者雇用担当の、彩華支援員です」

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