最終話 タッチ

 僕はある日、休日、図書館を訪れているのだった。

 一方的な約束。提案。プロポーズ。約束とは、言えないか。

 時間を過ぎても、現れない。

 昼を過ぎても、夕方に近づいても、現れない。

 静かな空気。

 時が止ー、まったみたい。

 ふと、人陰を感じて、読んでいた中原中也の詩集から目を上げる。

 そこには小さな女の子が、立っていた。

「どうしたの?」

 小声で、僕は彼女に声をかける。


「お兄ちゃん、これ」

 女の子は、一冊の小説を僕に差し出した。

 

 芥川龍之介の、小説だった。

 

「これがどうしたの?」

「これ、渡して、って」

 少女は逃げるように去っていった。誰だろう。


 中に、手紙が入っている。


 こんな内容だった。


 ”わたしは、センターで働くことになるので、規則があるので、卒業生と個人的な連絡先の交換をすることは、できません。”


 僕は思わず、微笑んだ。その口を手元で隠しながら、それを読む。


 ”それでも、あなたは障害者雇用で法律家になるのだから、あなたや私が卒業したあとの、これまでの、そしてこれからのメンバーのひとたちに、力を貸してください。法律家になるには、資格を取っただけではだめで、登録しなければならないのでしょう。登録して、法律家になったら、連絡をしてください”


 ”その時は、障害者雇用を経験したOBとして、障害者としての法律家として、皆に協力してください。プログラムの講師を依頼します。佐々木さんもOKと言っています”


 ”その時を待っています”


 僕たち就労支援を受けて、障害者雇用で仕事に就く人には、

 その就労をサポートする、定着支援スタッフが着く。


 定員が決まって、中邑氏が入れなかったのはそれで……。

 

「あっ」

 

 僕は想った。競争率のきわめて高い就労支援センターに挑戦するのも、就職を、障害者の立場で決めるのも、絶対に容易なことではなかったはずだ。

 そして気が付いた……。就職して支援員になれば、

 メンバーとの立場は、大きく変わる。

 彼女が、メンバーとの距離を置いていたのは、……その、ため……?


 彼女は彼女で、自分の未来を、決めていたのだ。


 なんという戦いだろう。


 ぼくは彼女のまなざしを思い出して、心に、言葉にできない深い尊敬の感情が生まれた。


……まったく。


 いるのかなあ。


 こんな、重い罪を背負って生きて、


 障害者手帳を持ってる、障害者の法律家なんて。


 ここから初めていこうか。僕は僕のやり方で、彼女は彼女のやり方で。


「どうか……よろしくお願いします」

 記念に、僕は、詩集コーナーの、か行の棚から1冊手に取って、読み始めた。


 この頃は、ぼくはみすゞさんを支援する立場にはなかったけれど、彩華……みすゞさんはきっと、強い意思で、僕の職場定着支援を始めてくれるだろう。ぼくは確信した。

 はたして定着支援それは、新しい戦いとなるのだけれど、それはまた、別の話だ。

 そして同時に、これがぼくとみすゞさんとの、就労支援の始まる日となったことを、今でもぼくは想い出す。


 


    作中の詩の引用文は、『わたしと小鳥とすずと―金子みすゞ童謡集』

    (金子みすゞ著 JULA出版局)によりました。 

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