すべて嵐が丘君のため
僕は彼女に声を掛けた。全力の勇気を振り絞って。
一瞬、彼女はこわばったような表情をしたように見えた。いや、実際、こわばったのだった。多かれ少なかれ、みんなメンタルになにかをかかえているぼくたちである。隅でひとりで食事をしているのも、それなりの意味があってのことだと思う。
そして、赤木さんじゃないですか、お久しぶりです、と言った。久しぶりなのかどうかは、僕にもよくわからない。朝会ったような気もするし。一週間ぶりな気もする。いや、いや、そんなことは些末なことだ。
「その岩波……」
と、僕は彼女が積んでいた本を見る。
「あ……、これですか。積んじゃっていたのを、持ってきたんです。嵐が丘」
「で、今読んでらっしゃるのは……、緑本?」
「え……? これですか? これは、金子、みすゞです」
これをどう説明したものだろうか。
「え……。これ……」
僕は持ってきた食事の入ったバッグから、『それ』をひとつずつ、ゆっくりと取り出した。
「あ、え? それ、『明るいほうへ』?赤本……?じゃないですか?どうして?」
さらに。
「もう一冊……、あら不思議。」
「あ、嵐が丘、です、ね」
「たまたま積んでたのを、持ってきたんですけど。マジックじゃない」
「偶然? だって私、金子みすゞの話も赤木さんとはしたことありませんし、この嵐が丘もたまたま家にあったのを持ってきただけですよ……?」
「僕も驚いてるんですが……」
僕も正直、戸惑ってしまった。しかし、胸がどきどきしてきた。
「びっくりですね……。 私も前から、赤木さんにおすすめしようと思ってたんです。金子みすゞ。詩を読まれるのは、知っていたから! じゃあ、おすすめするまでもなかったんですね!」
彼女は、そう、僕は彼女をみすゞさんと暫定的にここでは呼ぼうと思う。みすゞさんはそれをどこまで喜んでいるのか、いないのか、どう思っているのか、ストーカーではないのかと疑っているのかもしれない。僕にはわからない。
些細なことはたくさんある。でも、大事なことは、彼女が微笑んだり、喜んだり、そんな表情を見せたり、言葉をくれたりすること。でも、気持ちは、わからない。そう……。
大切なことは、目に見えない。
だから、大切。
大切にしなければいけない、と思う。
断じて、僕は変な駆け引きや工作じみたことはしていない。単に、趣味が、これまでもなんとなく合ってきたし、今日もぴったり合っていた。そのことは、事実。天沢聖司みたいな、図書館で雫が借りる前にたくさん本を読んで図書カードに名前を書き込んで名前を覚えてもらうようなことは、していなかった。それでも合っている。
人生で、こんなことがあるだろうか。少なくとも僕の20年以上の人生では、ない。だから、これが、とても大切なことであることは、わかる。でも、彼女には、みすゞさんにはそれがわかるだろうか。わかったとして、それはみすゞさんにとって、大切なことなのだろうか……。
そしてその昼休み、僕は、みすゞさんと食事をしながら、金子みすゞや本の話をした。
「あ、雨の日って、体調崩れません?^_^;」
「? 崩れます。もう、だめです」
「今日、よかったら飲み会……、歓迎会……」
「あ、私そういうのは行きませんから。」
「私と小鳥と鈴と、優しいですよね」
「? や、優しいですね。はい。」
「俺、すごく好きなのがあってですねー、月がさして、冷たくて、下が、重たくて……」
「それは……『つもつた』!」
「『雪』!」
たくさん積んでいる本があること……。好きな詩人のこと。僕が好きなアルチュール・ランボォのこと、小林秀雄のこと……。いちばん大好きな本のこと。
「こいつは、『地獄の季節』という詩なんです。聞いたこと、ありますか?『わーたしの記憶が確かならば……』という言葉は、この詩が、元ネタなんですよ」
「小林秀雄が訳しているのは、知っています!中也と親友だったんですよ!」
「え、本当に?」
「『みんなちがって、みんないい』は、金子みすゞさんの言葉で……」
このとき、いろんなことが、ことごとく、腑に落ちたような、気がした。
僕はみすゞさん、と彼女の名前を呼んで素直な気持ちを口にした。
「図書館とか、古書めぐりとか、一緒にしたいですね……」
彼女の雰囲気が変わった。
「い……、いえ! それは、それだけは……。 き、規則で禁止されていますから……。す、すみません!」
みすゞさんは席を立ち、センタの入口に向かって、早足で歩いて行ってしまう。
外で食事をしてきた人たちとすれ違い、何事か?という目で外へ向かう彼女を見ている。
中邑氏が僕を見て、声をかける。
「逃げ、ちゃいましたね……」
「そうですね……」
「また、って言っちゃ、アレですけど」
「うーん……」
「本当に、走って逃げてしまいますからね……」
『メンバー同士の交流をしてはならない』。センター内の法律。条例。規則。丸尾のように金の貸付けをしているメンバーもいれば、頑なに。本当に頑なに守り続ける人もいる。それは、僕は彼女のことなんかなにもわからないけれど、たとえば発達障害やアスペルガー障害、症候群とか、そういうことも関係しているのかもしれない。
でもそれも大事なことじゃない。
僕が彼女と話したり、彼女のことをたくさん知りたいと思う。そのことを、彼女はどう考えているのか。
「でも、うれしかった」
つくづく思う。
大切なことは目に見えない。
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