企業実習へ行き、酒。

 それから数日後、通所していたぼくは、担当の後藤支援員に、相談室に呼び出しを受けた。

「実習ですか?」

「うん。しごと財団経由ではないんだけどさ、センターに来てた求人に、希望する人は実習に入れる案件があるんだ」

 しごと財団というのは、東京都あたりがやっている、障害者向けの仕事あっせんを行う機関だ。だが、そこ経由ではない。

「赤木さん、法律系の人じゃないですか。これ、司法書士事務所です」

「マジですか!?」

 思わず声を上げてしまった。願ってもないチャンス。

「オープンですよね?」

「オープンです。障害者雇用に力を入れているところでね。かなりの大所帯。ま、司法書士事務所というより、行政書士とか、司法書士、税理士の法人をひとまとめにした大きな企業様ですね」

 いわゆる、ワンストップの法人というものだ。法律職は行政書士、司法書士、弁護士、それぞれできる仕事が限られている。新司法試験合格者は、当然に司法書士、行政書士になれる知識を有していると推定されるから、いちいち行政書士や司法書士の試験を受けることなくそれぞれに、なることができる。

 たとえば行政書士は役所に提出する書類を作成することはできても、裁判所に提出する裁判書類を作ることはできない。このように、司法書士にはできても、行政書士にしかできない(認められない)業務が存在する。これを独占業務という。

 それでは、法律的な問題を抱えた人が行政書士事務所に行ったとして、たとえば「土地を買いたい」と言ったとする。契約書を行政書士が作成する。ところが、契約書を作っても、買った土地を登記しなければならない。そうすると、「登記は司法書士の仕事なので、司法書士の事務所に行ってください」となる。トラブルになった時は「それは弁護士事務所に行ってください」、「買った土地の固定資産税について教えてほしい」となれば「税理士事務所に行ってくれ」となる。これでは、たらいまわしのてんやわんやだ。

 そこで、「全部集まっちまおう」というのが、「ワンストップ」ということ。

 その中で、司法書士法人の求人が来た、というわけ。法律職の、障害者雇用はきわめて珍しい。障害者雇用は軽作業を任せることが多いし、なかなか責任ある仕事は任せてもらえない。どんな職場か、どんな仕事を担当できるのか。それを実際にその職場で短期間体験することができるのが、「実習」。

 障害者雇用でしか経験できない、させてもらえない、……というような立派なものというよりは、派遣でいう、「お顔合わせ」。特権、といえば特権かもしれない。面接で、第一印象で蹴られてしまうことがある。ぼく、のように。そんな時、実際に「実習」として仕事に入ってみて(無給である)、スキルをみせる機会があれば、それはひとつの採用の切っ掛けが与えられることになる。障害者でなければ、そのような実習というケースは(不思議なことに)、ないのだから。

 企業にしてみれば、書類選考して、面接して、判断してみても、やはりスキルや人間性がいちばん気になる。志望するほうも、職場を見たほうが安心できる。


 というわけで、僕は二つ返事で返答し、書類と面談を経て、その司法書士事務所で5日間の「実習」が決定したのである。


 果たしてそこは、「うわあ」と声に出したくなるような、まさに大所帯。5階建てのビル。全部で300人くらいはいるかもしれない。こんなところで法律職の仕事ができたなら……。国家資格は持っているのだから、法律事務所ではかなり有利なのは間違いない。ひょっとしたら、給料を貯めていけば、いずれはバッジを付けられる日も……夢ではないかもしれない。資格手当も出るかも……。なんて、考えてしまう。


 実習に参加するのは、3人。3人とも僕と同じくらいの年齢の男性と女性、女性は一人。民間の資格を持っている人もいるが、国家資格を持っているのは僕だけだった。


 前々から情報として聞いていたことではあるけれど、障害者雇用に力を入れている法人らしい。というか、これだけの規模になると、障害者雇用促進法という法律上、従業員のうち2.n%以上は障害者雇用でなければならないと決まってる。障害者を雇わなければならないという法律。


 さて、法律事務所法人の実習に参加することになった僕たちは、フロアに通される前に、説明会に参加することになった。


 通された部屋は、何の特徴もない、部屋。デスクがあって、椅子があって、モニタがあって、飲み物が出される。男性と女性が二人、説明会の担当をする。 


 「では、実習に参加される三人の方々にご説明させていただきます」と、年の頃45……50歳位の女性が笑顔で始める。男性は横に直立不動で立ち、動かない。


「今日から5日間、実習というかたちで弊社の業務を体験していただきます。主に担当していただくのは、入力を中心とした業務になります。3人の方々に配属していただくのは、『総合支援部』という部署になります。これは司法書士法人のフロアにありますが、オフィスの、他の部署からの依頼があったときは、裁判所や郵便局への発送物の郵送ですとか、そういった補助的なお仕事を対応していただきます」

 総合支援部、か。聞こえはいいが……。

「今日の月曜日から木曜日まで実習を経験していただいて、たとえば業務中にこんな配慮が必要だとか、いわゆる『合理的配慮』ですね。合理的配慮、こうしてほしいとか、ここが気になる、というようなことがあれば、可能な限り対応させていただきたいと思います。弊社が皆さんを含めた社員とミッキーちゃんの方々にまず第一に共有したい気持ちは、『長く働いてもらいたい』ことと、『皆で幸せに働こう』ということです。ですから、安心して働ける環境を作っていけたらと思っています」

 ……。今、説明の中で不思議な単語が聞こえてきたような気がしたのは僕の耳の異常か、幻聴だろうか。……!?

 その他、採用に至った場合の条件や、業務内容などの説明を受けた。採用に至った場合の賃金は、時給945円。待遇は、パートから。1日5時間からスタートして、週4日勤務。3か月更新。適正を見つつ、正社員登用の実績もある、という話。

 僕はざっと計算する。945円。ここの最低賃金そのままの額か……。

 956円かける1日5時間で、4780円。それを月、17日勤務したとして、81260円。

 家賃、51000円なんだけどな……。

 僕たちはフロアに案内される。すれ違う人たちが、笑顔で、大声で挨拶をしてくれる。「いらっしゃいませ!」「こんにちは!」。なかなか、活気のある職場だと思う。が、若干の戸惑いを感じることも、確か。

 フロアの隅の島の、窓際に4つの席が空いている。

 デスクにネームプレートが置かれており、それぞれの席に着く。3人の席の間に、説明会の時直立不動で立っていた男性が座っている。年齢は30歳くらいだろうか。

 担当の女性が説明する。

「ここが総合支援課です。ここで業務を行っていただきます。この席も、障害者の方への配慮のひとつとさせていただいています」

 といいますのも、と、続ける。

「以前いらっしゃった方で、後ろにスペースがあると、気になってしまう、覗かれているのではないか、誰かが後ろで自分の悪口を言っているのではないか、と心配される方がいらっしゃいました。そこで、そのようなことが気になることがないように、後ろを人があまり通ることのないような場所に席を配置させていただいたというわけです」

 とのこと。

 直立不動だった男性が立ち上がる。椅子をきちんとデスクの下に戻す。実に礼儀正しい。

「彼も障害者雇用で仕事をされています。入って何年に……なりますか?」

「4年です」

「入内島さんです。彼もね、最初はミッキーさんでしたけど、今は準正社員として頑張ってらっしゃるんです。わからないことがあったら、席隣にしてありますから、質問してください」

 入内島です、よろしくお願いします、と彼は頭を下げた。 

 この話の中で、あきらかに「わからないこと」があるのだが……!? 不思議すぎて質問していいのかどうかはばかられてしまった。絶対に他のふたりも同じだと思う。

 業務はそれほど難しいものではない。が、細かい。それはそうだ。法務局や裁判所に提出する書類の作成にかかわる業務である。氏名、金額、住所、1文字の誤りも許されるものではない。契約上のトラブルにも発展しかねない。あとで直せばいい、という性質の仕事ではないのだ。責任は重い。程度の差こそあれ、責任のない仕事などないが。

 仕事の流れは一通り、教えていただいて、その日から5日間、遅刻も欠勤もすることなく、自分にできることをやった。ITや法律系に強い僕は「CHROMEはどこから開けばいいのか」とか、「Wordでフォントを変えるには??」とかあえて聞く必要もなかったので、他の二人に比べれば手を煩わせることはなかったと思う。

 5日の実習は何事もなく、終わった。よほどのことがなければ、内定は出るだろうなあと思い、その司法書士法人を後にした。この2人とはあまり会話をすることもなかったけれど、縁があるだろうか。

「しかし、81260円じゃなあ」

 どうにもならないよなあ、と思った。あの入内島という男性は4年目になると言っていた。4年働いて、81260円から、どれだけ昇給するのだろう。まさか、2倍になるということはないだろう。勤務時間が増えて、フルタイムになったとしても、4年では時給が300円も400円も上がるとは思えないし、手取りで……、13万円くらいだろうか……。年収で、160万円。準正社員ということだったけれど、賞与は出るだろうか?


 最高で年2回支給されたとしても、どんなに希望的観測で額を考えたとしても、10万円くらいだろう。合わせても、年収200万円に届くかは、疑問。


「長く働いてほしいのが、第一、と言われてもなあ」と、僕は心の中でため息を吐いた。障害者雇用の檻に入るには、月収8万円では、餌にも……、ならない。


 就労支援事業所に終了の連絡を入れ終えた時、スマートフォンが鳴った。

「沖田さんか。お疲れ様。今日通所だったの?」

「通所はいいのさ。今どこ?実習だったんじゃない?」

「うん、まあ、ね」

「これから新宿来れる?今、皆で飲んでるのさ。実習今日までじゃなかったかなって思ってさ。お疲れ様で、アカキさんも呼ぼうって話。来れる?」

 新宿か、少し遠いかな、と思いつつも、就労の現実にクサクサしていたので僕は、「ぼくたち手帳持ちは無料の」都営に乗った。



 10人ほどのメンバーが、すでにできあがっていた。


「こっちだ」

 と、沖田氏が手を振ってくれている。

 僕は仰々しく恭しく「お疲れさまでございます」と、頭を下げて席についた。

「沖田さん、ほら。ヨッチ持ってきたよ。ねえここ、ジャックロックある?」

「アカキさん、ないよ、そんなもん。ビールでいいね!はいはい、お姉さん、ビール、こっちこっち! 生!」


 僕の隣には見慣れぬ方が座っている。メンバーの方だろうか。まあ、そうだろう。

「はじめまして、アカキさんですか?お話はよく伺っています。石澤です」

「あ、はじめまして。アカキと申します。新しい方ですか?」

「はい、今週から入らせていただくことになりまして……」

「よろしくおねがいします。なにかわからないことあったら、聞いてください^^」


「そう! 今週から通所することになった石澤さん!で、今日から2なんだよね!まあ、入所祝いってこと。お祝いっていうのと、今日でアカキさん実習終わるって聞いたから、お疲れさまってことで!あ、ビール来たね!はいじゃあ皆、改めてアカキさん、実習お疲れさま!」


 チアーズ!

 僕はビールの泡が苦手なので、避けて飲む。

 僕は隣の石澤氏のジョッキに、飲み口を下に当てた。


「あの……、こういう集まりって、よくあるんですか?」

「え、ありますよ。普通に。 あ、実は苦手だったりとか……? 沖田さん、好きですからね、強引に連れてこられちゃったとか……?」

「あ!いえいえ、そんなことは。ただ、メンバー同士で集まったりとか、連絡先交換しちゃだめとか、かなり言われてたので」

「ああ……。そこを気にされてたんですか? ばれたら怒られるんじゃないかとか、退所になってしまうんじゃないかとか……?」

 憲法の「集会の自由の保障」が泣いてしまうような話。

「よそはどうか知りませんけど、うちでは集まっちゃいけないことになってますね。『誘われなかった人が傷つくから』『トラブルに発展するから』とか、そういう話ですね。LINEの交換も禁止。これはかなり強く言われますよね。連絡先の交換はNG。『トラブルに発展するから』。持ち物の貸し借りも禁止です。『トラブルに発展するから』。まあ、センター内で金融業を営んでる人もいますけどね……。それはいいとして……。あと、何がありましたっけ。そんなところでしょうか」

「き、金融業!?」

「はは……」

「でも実際は、普通にみなさん、されてらっしゃる……?」

「そうですね……。センターも建前で言っているわけではないと思います。けれど、小学生の集まりじゃないですから……。20歳を超えた人が、もっと言えば、同じ目標に向かって、これだけ集まっているのに、『LINE交換しましょうよ』『いえ、それは規則なので、無理です』なんて、現実的ではないですよ。就職が決まった人がいれば、お祝いや打ち上げだってやりたいですし、年末には忘年会だって、それは、やりますよ。むしろ、やらないほうが不自然じゃないですか。スタッフの方々も、完全に守ってるとは、思っていないですよ。そっちの方が、気持ち悪い話ですよ。皆守ってるとしたら……ね」


「そうそう!小学生の集まりじゃないんだから。要は、『自己責任』ってこと!」

 と沖田氏。僕が話している間にジョッキを開けて、もうウーロンハイに口をつけている。

「センターの中では禁止ってこと! 外出たら、いいんですよ。っていうか、いいも悪いもないでしょ。いい大人が!そこまで拘束する権限なんかないって!」


「要は、スタッフに責任がいかないように、お鉢が回らないようにすればいいってだけだと思うんですよね……」

 僕は3DSを取り出すのをすっかり忘れていた。

「で、どうだったのさ?実習先!」

 この藤原氏は僕より歳は一回り上で酒豪だが、義理堅く、面倒見がいい、優しい人だと思っている。何かあれば、じゃあ、とりあえず、飲みながら!と。理不尽なことがあればスタッフともガンガンやり合う。肚の座った、男だな、と思う。

「ああ……、環境はいいのかな……。それなりの障害者に対する『合理的配慮』もしているようだし、オープンで入ってる人も今3~4人いるみたいで」

「いいじゃない?」

「でも、手どり8ですよ」


「8!? 8って、うーん、800万か。年収でしょ、やるなあ」

「ちがう」

「8万……ドル?すごくね、みたいな」

「ちゃう」

「え……、ペソ……?」

「逆に、ひどい」

「……8万? 月……?」

「食えないですよ。メシも、会社も」

「8万円で、生活できないじゃない。最低時給大丈夫なのそれ?」

「まあ、司法書士法人ですから、その辺は。最低賃金ミニマムですけどね……。パートで入ってフルタイムでどんなに頑張っても15万ってとこですか。保険料引かれたら手取り13いくかどうか……。それも入って早くて2年、3年でやってやっとってとこですよ」

「え……そんな、話なんですか?」

「そうだよ。石澤さん。それがオープンの現状だ」

 あの、と新人の石澤氏が口を開く。

「いろいろ、疑問なんですけど」

「あ、そりゃ、入ったばかりでは、そうでしょうね」

「ジッシュウ、ってなんですか? 赤木さんがジッシュウって、さっき伺ったんですけれど」

「ずばり、給料の出ない研修ですね。普通は書類出して、面接受けて、内定出しますけど、うちらは企業から『誰か障害者で実習に来ませんか』って声がかかったり、募集がきたりするんですよ。もちろん履歴書、職務経歴書も出して面接もありますけど、そのうえで実習やらせてみようか、って話になって、僕この1週間そうだったんですけど、実際に仕事任せてみてOKそうなら採用、って寸法ですね。だから、面接苦手だったりしても、実習に入って、『おっ、できそうだな』って思われたらそっちで採ってもらえることもままありますね」


「さっきステージって言われたんですけど、それは?」

「就労支援事業所によってぜんぜん違うと思うんですけどね、ここでは段階を踏むんですよ。『生活準備』とか、『就労訓練』とか。まあ、それによって、まず夜ちゃんと寝て、朝起きて、ご飯食べて、ちゃんと遅刻しないで通所する。就職活動する前の準備を整えるんですね。生活のリズム。別に、準備の段階で就職活動しちゃだめってことはないですけどね。がんがん履歴書職歴書送るステージ5の段階は、それなりに生活リズム整って、動いてる人でね。ステージ1くらいは、起きて、来る練習の人。ステージを設定した方が、スタッフも管理……っていったらアレですけど、わかりやすいんでしょう」

 僕はふと気になって周りを見渡した。

「沖田さん。丸尾氏は?」

 金貸しの丸尾のことだ。

「あいつはさっきまでいたけどね、トーカさんのこと待ってたけど、トイレで吐いてるんじゃない?お姉さん、ウーロンハイ追加、アカキさんは?はい、グラスワインね。なに、デキャンタで?赤だったね」

「あの、赤木さんは入ってどのくらいになるんですか」

「僕は……、5か月くらいかなあ」

「皆さん、どのくらいで就職、決まるものなんですか」

「そりゃ、人にもよりますけど……。早ければ、3,4か月。長ければ、1年半とか、かかって決まる人もいますね。でも、早けりゃいいってもんじゃ、全然ないですからね」

「そうですか?」

「そうですよ。何だってそうじゃないですか……。内定出たからって、ほいほい飛びついてもしょうがないですよ。給料もそうだし、仕事の内容もそうですし……。雰囲気おかしなところに就職したって、潰れちゃうだけですよ。いろいろ判断して合うところ見つかるまで、じっくり選んだほうがいいと思いますけどね……。

 そうだ、就活の記録シートみたいなの、もらいませんでした?」

「さあ……、あったかもしれないです」

「どこに応募したとか、どこまで進んだかとか、……書類選考通ったかとか、面接まで行ったけどだめだった、とか、記録っていうか、書いていくシートなんですけど」

「はい」

「1シートに10件書く欄があるんですけど、すごい人だと20枚位持ってる人も、います」

 僕はテーブルに置かれた赤のデキャンタに口をつけた。

「おお~、さすが、赤木さん」

「……実習中我慢、してたから。酒」

「あの、に、200……?ですか?応募?」

「間違いないですね……。僕、見たことありますから。その人のシート。すごい人だと思いました。だって、履歴書200枚作れって言われて、作れますか?泣きますよ、ねえ……」

「泣きますね……」

「それをやってる、っていうところが、……、もう、凄い。尊敬ですよ」

「その人、今、いらっしゃるんですか?」

「もちろん……、卒業ですよ。引退」


「引退って?」

「決まったってことですよ。決めたってことですよ……。あの話聞いた時は、皆、自分のことのように喜んでましたよ。ねえ、沖田さん」

「え?何?」

「ほら、山本さんの話ですよ。就職決まった時、ねえ。嬉しかったですよねえ」

「ああ……あれは伝説だ!今頃元気でやってるのかなあ。もう3か月になるかなあ」

 そこに、丸尾がでかい身体と、ビールが溜まっているのが透けて見える腹を揺らしてやってくる。

「アニキじゃないですか!お疲れさまです!」

「あ、ああ……お疲れ、さま。飲んでるな。もっと飲めよ」

「はっはっは」、と、笑う。

「石澤さん。こいつは堅気じゃないから、気をつけて。つけ込まれると、あっというまに借金漬けにされて、身ぐるみ剥がされるからね」

「ま、マジですか……」

「アニキぃ、勘弁してくださいよ!」

「ったく……、そろいもそろって無職のぼくたちを借金漬けにするんだから、本当に悪いやつでね……」

 そんな掛け合いをしながら、デキャンタを飲み続ける。

 ところでさ、ちょっといいかな、と沖田氏が来て、打ち明け話。

「彩樺ちゃんなんだけどさぁ」

 僕は頭を抱えたくなった。

「まだ狙ってるのか?」

「いや……、狙ってるもなにも、ねえ……。。。。 僕が狙ってるのは、これだけですよ」

「何!これって! ちゃんと言えって、ほら~」

 僕は手を上げて宣言した。

 近くの店員に。

「ジャックロック、ダブルで」

 彩樺、とは、みすゞさんの名前だ。


「アカキさん、大丈夫かい。あんたジャックダニエルばっかり飲んでるからだよ! チェイサーチェイサー! ほら、何がいい?」

「コ、コーラ……」

 ジャックダニエルにはコーラがいちばんだ。

「ゆ、揺れてない、かな?」

「揺れてるのはあんただよ。そんだけ飲んでれば、揺れもするさ。ってか、揺れてるのは、心じゃないの?」

「待って。これを語るには、とても、素面ではだめだ」

「十分、素面じゃないでしょうが。アカキさん」

「ジャックダニエル……、ロック、デキャンタで、、、」

「なに馬鹿なこと言ってんのさ、ごまかすなって」

 僕は沖田氏と向き合った。「わかった。僕も男です。ごまかさない」

「うん。で?」

「さっき沖田さん言った。心が揺れてるんじゃないのか、って」

「ああ」

「僕の心はもう、揺れない。何があっても、僕は、俺は彼女を見ているから」

 それを聞いた周りからは、ため息ににた声が聞こえる。

「もう、アニキぃ。こんなガチな恋バナを、聞かせられるぼくらの身にも、なってくださいよ」

「聞かれたから、言っただけ……。赤ワイングラス」

「悪いことは言わねぇ。諦めなって」

「なんで!らさぁ。。」

 ろれつが回らなくなってきたかもしれない。いやいや、実際、酒を飲んでろれつが回らなくなることなんて、そうそうあるもんじゃない。卒中でもあるまいに。

「彩樺ちゃんだけはさ、もう絶対無理。そりゃね、アカキさんとウマが合うんだろう。そういうのは、見ててわかるよ。話、盛り上がってるところも見てる。そりゃ彩樺ちゃんは文学少女で人気もある。でもなぁ、とっかかりがないし、取り付く島もない。いわばさ、壁だ。鉄でできた壁。登れないんだよ。な?垂直に立った鉄の壁は登れないんだ、諦めなって……」

 僕は赤ワインとバーボンでべらべらになりながら、想う。そうだろうか。

「俺もさぁ、彩樺ちゃんのこと詳しくは知らないけど、あのなんでか、アカキさんだってわかるだろ?」

「は、発達障害とか、アスペルガーとか……」

 僕は、その障害について、詳しく説明できるほど知識があるわけではない。けれど、彼女が、みすゞさんがそのあたりを抱いている、ということは、噂でも聞いているし、なにより彼女の振る舞いがそれを何よりもはっきりと物語っている。

「俺も何度も彩樺ちゃんを飲み会に誘ったさ。でも、彼女は絶対に来ることはない。絶対に。連絡先の交換も、絶対に彼女はしない。ものの貸し借りもしない」

「わかってる……」

 彼女と本の話になっても、彼女は本を貸すことも、借りることも、絶対にない。

「赤木さんだって、言ってたじゃん。帰りに本屋に誘っても来ない、とか、センター午前中で終わって、皆でサイゼ行こうかって言ったときも絶対に来ることはないとか、さ」

「わかってるって……」

 そう、彼女は、頑なに、ルールを守り続けている。そんな人なのだ。

 「発達障害を持つ人は、融通がきかない」そんな薄っぺらな知識だけれど、そんな特性を、性格を持つ人がいるという話はよく聞く。まさにそんな人なのだった。

「こればっかりは、どうしようも、ないんだよ……。な?ジャックダニエルはおいといて、水飲んで、ほら。ビール飲んで。運命も、飲んで、さ……」

「の……、飲まないぞ……」

 発達障害だとか、アスペルガー症候群なのか、わからないし、僕は詳しくもない。けれど……、みすゞさんはそれ以前に一人の人間のはずだ。一人の、人間に、人間と、本とか、詩の話がしたい、って思ってるだけ……。じゃあないか……。

「最強の拒絶タイプですぜ。ゼルエルだ。第10使徒ですよ」

 丸尾がそう言った。それを聞いて、僕は静かな感情が急にせり上がってきた。

「何だと、この野郎。」

 僕は丸尾の巨体の身体の、胸ぐらに手を掛けた。

「……もう一度、言ってみろ……!丸尾」

「アカキさん!」

 あ、アニキと、丸尾の声がかすれるほど、強く締める。

「人を拒絶してるわけじゃねえ! 何を、どこをどこまで守ったらいいのか、破ってはいけないのか、わからないことだって、あるだろう」

 周りが一気にざわつくのがわかった。

「アカキさん、落ち着け。丸尾さんも。一旦手を、……離して」

「あ……」

 僕は手を離した。

「石澤さんの集まりに、申し訳なかった……。すみません」

「あ、いや、僕は……」

 丸尾が大きく咳き込むんでいた。僕はそれを見下ろしていた。沖田氏が丸尾を一旦離して、トイレに行かせた。

「赤木さんな。これはセンターもよくないと想う。ガチガチに固めたわけのわからない拘束ルール。それは企業に責任が回ってこないためのルールだ。まあ飲んで。社会に出たら飲み会だってあるさ。そんな時毎回断ってたんじゃ、孤立しちゃうわ……。ノミニュケーションじゃないけどさぁ。もう少し柔軟にしなきゃいけないんだよな」

「沖田さん、彼女、飲み会に来ないのとか……、本心から来るのが嫌で、それを、『規則』を盾にして身を守っているのか、それとも、本当に『規則は守らなければならないものである』と思っているから、来ないのか、どっちだと思いますか?」

「わかんねぇよそんなの……。本人じゃねえんだから。でも、あえて選ぶとすれば……」

 フジワラ氏はウーロンハイを飲んで一息吐いて答える。

「俺は後者じゃないかって思う」

 この間……、僕は家に積んでいる本や詩集を昼休みに読もうと思って持ってきた。そんな時くらいしか、読む時間がないから。それが、ことごとく、彼女が好んでいるものと、かぶる。ことごとく、というのは言いすぎかもしれないけれど。

 噛み合う。

 人間、生きていて、こんなことが、こんな人と、どれだけ出逢えるだろう。少なくとも、僕は出逢ったことは、なかった。初めて出逢った人だった。だったじゃない。人だ。過去形じゃない。

 それがどれだけ貴重なことか、社会に出たことがないみすゞさんは、わかるだろうか。わからないだろうか。わかっても、必要としないだろうか……。

 とても素面じゃ、持たねえ……。

 彼女と交わした言葉のひとつひとつを、僕は覚えている。どんな作品の話をしたか、どんな詩が好きなのか、作家が、文学が好きなのか、僕は忘れられないでいる……。

 彼女が読んでいた本。薦めてくれた作家。詩人。忘れやしない。

 でもそれは、すべてあの場所の中だけでの話。彼女がそこから出る時、なにか変わるのだろうか。


「最後、ジャックダニエル追加で」

「これ以上飲んだら帰れなくならないか?」

「いいや。今日は漫喫を満喫していきます」

「そっか。うん」

「あのさ、かたくなに規則を、守ろうとしてるんだよね」

「彩樺ちゃん?ああ、そうじゃないかな」

「メンバー同士の交流は禁止とか?」

「まあ、そうだろうね」


 ってことは、僕が、メンバーじゃなくなればいい……。のかな……。

 そう、きっとそうだ。そこに、突破口がある……。

 の、かもしれない。


 ラストオーダーの時間になり、丸尾も戻ってきた。僕は丸尾に詫びを入れた。丸尾も僕に、悪いことを言った、というようなことを言った。でも彼は僕を許しているだろうか。すでにアルコールで判断力がつかなくなっていたぼくは、彼の、僕を見る目がどれだけ闇や怒りを宿しているのかが、すでにわからなかった。

 記念撮影を撮ることになった。

 誰か、ケータイで撮ってくれ、と。

 僕はiPhoneの最近導入したプログラムを思い出して、「僕に撮らせてくれ」と言った。

 iPhoneを置き、皆集まった。僕もその中に入る。

「なに?撮ってくれないの?自撮り棒?」

「違う、見てて」

 ざわつく店内だが、うまくいけばいいが。

 Hey..

「Siri、『チーズ!』」

 ショートカットを実行します、と反応した。

 ぱぱっと、カメラのシャッターが光った。

「おお、すごいね? Siriにこんな機能あったっけ?」

「Siriを改造したんですよ」


 僕は写真を全員に送信した。


 そこから、どう帰ったのか、覚えていない。


 僕はその日の記憶を、

 とどめるのを、

 

 やめた……。

 

 なあ、みすゞさん。

 もう、秋だね。

 それにしても、


 なぜに、永遠の太陽を、

 惜しむのだろうね。


 俺たちは、

 きよらかな光を志す身じゃ、ないのかな。


 季節の上に死滅する人々から、

 遠く、

 遠く、


 離れて、

 さ……。

 

 天幕は……。暗幕の空に、星は見えない。

 星の数ほどあっても、つかめないものばかり。


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