刺されるなら、盾になりたかった。と思った。

 どこかで、

 遠いようで近くで、

 不快な音が鳴り響く。

 

 電子音。と、ドアを叩くような音。

「ちょっと、お客さん、お客さま!」

 

 ん……。

 あ、ああ!


 僕は飛び起きた。携帯のアラームが個室で鳴り響いている。店員が部屋の扉を叩き鳴らしている。

「ちょっと!」

「わ、わかったわかった。今止めるから」

 僕はアラームを止めた。

「悪いね」

「勘弁してください。こういうことあったら、遠慮してもらいますよ」

「わかった、わかった……」

 そっか、新宿で飲んでたんだなあ。

 あのまま家まで帰ったんじゃ、とても今日の朝に起きて通所する自信なんかない。土曜日だって、就労移行支援事業所は、眠らない。というか、動いてる。就労移行支援事業所に障害者が1日、ひとり通うだけで、事業所は1万円以上の補助金が出るから。20人が顔を出すだけでも、1日20万以上。

 そりゃあ、何が何でも、来いというよなあ。

 時間は8時30分くらい。ちょうどいい時間。ちょっとうろうろして、軽く食べて行っても余裕のある時間だ。

 皆、ちゃんと帰ったのだろうか。全く記憶にない。今日来るのだろうか。わからないけれど。

 実習の報告もしなければいけない。というか、明日面接じゃないか……!?

 だいぶ前に、佐々木氏から呼び出されて、「書類選考、通過しました」という報告を受けた、あの件。正直、大本命だ。ここを落としてしまったら、相当苦い砂を噛むことになるだろう。

 それなりの準備も、してきたつもりだ。履歴書も、職歴書も作ったし、スタッフとの、トレーニングではない、1対1の模擬面接も何度もやった。僕は履歴書にしても、職務経歴書にしても志望動機にしても、小説にしても、長々と書き連ねてしまうきらいがある。これはよくないと自覚しているのだが。

 だから、昨日は寝たけれど、実習中も、寝ないで徹夜で書類を作った。ここだけの話、スタッフに添削を依頼するだけじゃなく、メンバーの仲間、特に中邑氏に見てもらったり、面接のトレーニングに付き合ってもらったりした。

 ひとそれぞれ特性、特技がある。ない人もいるかとは思うが。

 僕がこの間、昼休みにみすゞさんに話しかけようかどうか臆していた時、「行きなよ!」と背中を押してくれた中邑氏。彼は、「その企業」の4次面接まで進んでいる、まさにレジェンド……。

 なにしろ、並大抵の倍率ではない。100倍とも、200倍とも聞く。いちおう僕も書類選考は通ったけれど、面接となるとまるっきり自信がない。面接で通った記憶があるのは、新卒で学校の教授のコネクションで入った企業と、ファミマのバイトくらいだ。

 でも、それを通すために。やれることはやってきたつもりだっ。

 僕は飲めないアイスコーヒーを飲んで、鼻からスナッフをやって、時間になるのを待って土曜日の午前、センターに足を運んだ。


 土曜日の午前なんて、人も少ないし、気楽なものだ。ときどき、外部講師が来て、「ストレス解消プログラム」だとか、「押し花教室」みたいな暇つぶしみたいなことをやったりするけど、あまり興味を惹くものは少ない。

 朝から来て、ラノベを読んでいる人もいる。気楽なものだ。

 さっそく通所してきた僕の姿を認めると、体格の大きなやつが寄ってくる。


「昨日は、すまなかった」

「僕の方こそ、彼女に失礼なこと言ったと思ってます」

 『彼女に』という言葉が気になったけれど、深く追求することは、はばかられた。

「ちゃんと聞かなかったですけど、実習ってどうでした?」

「うん。天国だった。死んでもいいと思ったよ。僕はあそこに骨を埋める」

「また。ちゃんと言ってくださいよ。ところで、赤木さんがいない間、ここもごちゃごちゃしてましたよ」

「ごちゃごちゃって?」

「前、話したの覚えてますか?赤木が資格とか、態度とか、いい気になってるとか、ガキが、言ってました」

「ガキって……。例の荒川?」

「……さあ。それだけ、恨み買ってるんじゃないですか」

「覚えは……、わからないけれど」

「気をつけた方がいいかもしれないですよ」

 恨みか。

 このとき、丸尾がぼくをアニキと呼ばなかったことも、この日気になっていた。



 ***

 僕はスタッフに実習の報告をした。

 とりあえず、雰囲気はいいかもしれないけど、食っていけない。結果とか、条件によっては考えるかもしれないけど、どちらにしろ月手取り8じゃ、霞を食うしかないから無理でしょう。と。


 いくら障害者雇用と言ったって、霞を食って生きていくわけにはいけない。メシも食えないけれど。読みたい本があれば買いたいし。女神転生の新作が出ればやりたいし。飲み会があれば飲みに行きたい。誕生日には彼女や彼氏を連れてディズニーランドにも行きたいじゃあないか。結局は、生活保護のお世話になるのは、目に見えている。


 今日はみすゞさんの姿はまだ見当たらない。10時過ぎに来たり、するからなあ。


 ま、僕は窓際のデスクについて、突っ伏してしまった。昨日の酔いも多少残ってる。実習5日間頑張ったし、それでも送れずに土曜日来てるし、なんて貢献度の高いことか。誰が僕にけちをつけられようか。僕は堂々と寝る。


「……!!!」

「!!!!」

「……!!」


 個別の面談室で、メンバーの誰かとスタッフが、言い争いをしているようだ。

 よくあることだ。僕の知ったことじゃない。当然に、僕たちは障害者の集まりで、ほとんどが精神障害を持っている。中には、幻覚や妄想を抱いているひとも、いる。その集まりなのだから、感情的になりやすいメンバーもいるし。スタッフにちょっとしたことで食ってかかる人も、いるわけだ。

 ぼくはプログラム中も、1時間ほど突っ伏していた。ありがたいことにスタッフも実習疲れを察してくれていたのだろうか。「センター内では……」というようなお咎めは、なかった。実際は、実習疲れというよりは、……ゆうべの酒が8割のものなのだけれど。

 みすゞさんもいつの間にか、来ていた。わりと僕に近い席に。これなら声も掛けやすい。フリータイムだ。

 そう。土曜日の午後は、自由なカフェタイム。お遊びタイム。僕は通ったことがないのでよくわからないけれど、デイケアとか、ナイトケアとか(歯磨き粉みたいだ)、そういう、人が集まって、めいめい、本を読んだり話したり、ゲームしたり、ウノやったりのフリータイム。

 僕は毎週土曜日のこの午後の時間に、みすゞさんと本や詩の話をするのがとても楽しみで大好きだ。だから、無理をしてでも、たとえみすゞさんが来ないかもしれないとしても、会えないかもしれないとしても、会えるかもしれないから、土曜日には無理に来ることにしている。

 好きとか、嫌いとか、じゃない。だって、僕は彼女のことを何も知らない。そう、昨日トラブってしまった、障害のことも。

 本が好き、詩が好き、文学が好き。それくらいのことしか、知らない。

 知らないから、好きにもなれないし、嫌いにもなれない。

 ただ、少しでも、

 知りたいと思っているだけだ……。


 午後。

 ウノをやる人もいれば、人狼をやってるメンバーもいる。僕とみすゞさんは、金子みすゞの話や、小林秀雄と中原中也、アルチュール・ランボォの関係性について話をして楽しい時間。

 今週は実習で通所できなかったから、みすゞさんに会えるのは久しぶり。なおさら大切な時間に思えた。

 とはいえ、僕も休みなしで、明日、朝から本命の企業に面接に赴かなければならない。早く帰って、少しはイメージトレーニングをしておかなければ……。

 面倒だな、ゴー・フォー・ブローク。あたって砕けるのも、ひとつだな、と思う。面接なんて、意気込めば意気込むほど、空回りするものだったり、する。

 それが終わったら、さすがに少し休みたいものだ。

 月曜から金曜日実習で、土曜日今日も通所して、日曜日も面接では、身がもたない。月曜にみすゞさんが来るならシフトを変えることもやぶさかじゃないけれど……。

 終了時間になり、みすゞさんに「月曜日、来る?」と聞いてみる。

「月曜日は、用事があるので、来ません」と言うので、じゃあ、シフトを変更する必要もないなと思って僕も帰り支度をする。

 もうセンターは閉所時間を過ぎていたので、残っているメンバーはまばらになっていた。金貸しの丸尾や何人かの煙草仲間が僕の帰りを待ってくれているようだった。

 あ。

 そういえば、最近読んだ漫画に、金子みすゞについて詳しく描いている作品があったことを忘れていた。

 僕はみすゞさんの方を向こうとすると、僕の視線の先をさえぎり、体格のいい男が立っていた。

「てめえぶっ殺してやる!」


 と。


 え?

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