ぼくとみすゞと就労支援

赤キトーカ

ロヒプノールの朝に酔いつつ

 朝。

 スズメの鳴き声。

 暖かい掛け布団。

 7時を告げるNHKのアナウンサ。

 国道を走るトラックの怒声。


 ついこの間までは、気付いても、そっと目を閉じて、布団の中にくるまっていればいいはずだった。

 でも僕はそうしなかった。


 けたたましく悲鳴をあげる目覚まし時計。

 これは僕の意思で買ったものだ。


 僕が重度の睡眠障害で、

 いつも血液の中に混じっている。

 睡眠導入剤。

 ロヒプノール。

 レボトミン。

 ネルボン(!)。

 レンドルミンとヒルナミンとハルシオンと。

 ミンザイン(!)とザインバルタ。

 を宿しながら生きている僕が、

 それでもベッドから立ち上がり、毎日、両国へと向かうために、購入したものだ。


 朝。

 ……それは地獄の季節。

「俺の記憶が確かならば」、そのはずだった。

 それでも僕は、目を見開き、立ち上がる。

 最強爆音のする目覚まし時計「ライデン」。

 スイッチを殴りつけてその悲鳴をおし黙らせてやった。

 この心と身体の重さは、「僕たち」にしか、わかるまい。だから、言うまい。寝起きの辛さなど、話のネタとしてもB級だ。


 歯を磨く。

 髭を剃る。150円で2本の使い捨ての青いやつ。

 シャツに着替える。

 碌にドアの鍵も閉めずに、

 優しいドアをこじ開けた。


 エアコンの無機質な風にはない、熱い太陽の光と生ぬるい湿度が、優しく僕を迎えてくれる。

 電車を降り、迷宮のような駅とモンスターハウスのような人混みをくぐり抜け、改札を出る。バッグには、清水の舞台から飛び降りる覚悟と2週間を100円ショップのフランスパンで暮らす覚悟で買った3DSが入っている。



 駅から5分ほど歩く距離の場所に、そのオフィスはある。

 僕はトートバッグの位置を直し、呼吸を整え、心の中で血液の中の眠剤成分を吹き飛ばそうと気合を入れて、意を決して扉を開く。よし!


「おはようございます!」

 礼。


「おはようございます!」「おはようございます!」

「おはようございます!」


 入り口からセンターの中をさっと見やる。決して広くないフロアはいくつかのテーブルで仕切られている。すでに集まっている訓練生は……、10人くらいか。少し早いくらいかもしれない。

 皆、喫煙所にいるのかもしれない。


 入り口から右手には、ロッカールーム。

 壁には、通所者の名前が記してあるマグネットのネームプレートが貼り付けられていて、僕は自分のものを手に取る。まだ名前の貼られていないロッカーを探して、距離をとり、正面に立つ。

 一呼吸。プレートを水平に向けて、構える。

「(やっ!)」

 ぱちいっと音がして、ロッカーの扉の一つに、綺麗にプレートが張り付いた。

(決まった……。まずは、今日の運勢は、吉…とみた)

 僕はその今日のロッカーに、トートバッグを押し込む。

「忍者になる気ですか?」


 声をかけてきたのが、ここのリーダ。

「ど、どうも。おはようございます!佐々木さん。今日もよろしくお願いします!」

「おはようございます、アカキさん」

 笑顔の男性はここの責任者、佐々木センター長。

 この、挨拶。挨拶のとき、「相手の名前を呼ぶ」というのも、かなり強固なルール。


「忍者に就職が決まれば、いいんですけど」

「アカキさんはサムライでしょう? 手裏剣みたいなものがうまくても、平成の時代になかなか忍者の求人は少ないと思いますよ」

「どこかの県では、あるみたいですけどね。忍者見習いの求人」

 と、軽口をきける程度には、スタッフを信頼しているし、ラポールの形成もそこそこだ。

 と僕の方では認識しているが、人の気持ちはわからない。この佐々木さんにしても、裏の顔があることを、僕も知っているし、僕にも裏の顔があることを、彼も、知っている。


 大切なことは、信頼しようとすること。

 ここは、プライドにこだわるような余裕のある人びとの集まりじゃない……。


「ひどく眠そうですね。薬の効きすぎですか?」

「ええ……。主治医が、10種類も薬を出すものですから、調整がホント、難しくて……」

「大変ですね……。それでもよく、遅刻せずに通所されていると思います。この間のスタッフ会議でも、赤木さんはガッツがある人だって皆、言っていましたよ。勤怠は社会人としての基本、大前提ということは赤木さんもよくご存知でしょう。本当に、よく頑張っていると思います」

 悪い気はしない。


「ええ……、頑張ってると思いますよ。実際……」


 謙遜する気にもなれない。


「辛いようでしたら言ってくださいね。なんなら早退してもいいのです。こうして通所しているということだけで価値があることなんです。でも、ここは無理をする場所ではありませんからね」

「ありがとうございます。眠剤は、時間とともに血中濃度が下がりますから時間が経てば目が覚めます。それに、今日は午前で終わりだし……」

 週に数度、午前中のみの日がある。

 僕たちは、少なくとも一部の人にとっては、ここにたどり着くことが、まず一つのチェックポイントであり、ゴールといっても、過言ではない。睡眠導入剤の成分が血管をいまも巡っていることは間違いがなく、それは現実として、心と身体を重くする。それは一言で言えば「眠い」「だるい」としてしか表現できないから、言わないし、言えない。そしてそれは、ここにいる人が共通して抱えているハンディなのだった。そして、それと戦っているであろう、ここにいない人にとっても。


「とにかく、無理はしないように。今日のプログラムは参加されますか?」

「もちろんです。今日はメントレ。面接のトレーニングですから、欠席はできません。よろしくお願いします」

「さすがですね。熱いのに、スーツで参加されるのはアカキさんくらいですよ」


 見ると、訓練生のメンバは皆、Tシャツを着ている。

 僕は気を引き締める意味でも、スーツを着て面接訓練に挑むことにしている。Tシャツで面接を受けるわけではないのだから……。いや、僕の場合はそれ以上の意味もある。大したことではない……。単に、半袖だと自傷行為の傷痕が目につくのがいやだというだけのこと。

 それもスタッフには話したことがあるかないかはわからないけれど、扉を開けて入っただけで、僕の眠剤の血中濃度を見抜ける彼らも、伊達ではない。いつも長袖でいれば、気付く者は気付くだろう。


 適当に席に座り、予定表をチェックしているうちに、人は集まり出し、オフィス内は20人ほどの人でいっぱいになった。


「おはようございます!」

「おはようございます!」


 やはり皆、Tシャツばかり着ている。

 僕がこだわり過ぎなのかもしれないなと、少し不安になってくる。しかし、悪いことではないはずだと、自分に言い聞かせる。


 ここに集まる人々は共通していることがある。

 障害者手帳を持っていること。

 就労の意思があること。

 だいたいこのふたつは、遊びに来ているメンバ以外は抱いている。


 僕が抱えている双極性障害だろうが睡眠障害だろうが不安障害だろうが、隣の席の女性が抱えている発達障害だろうが、正面の席に座る人が統合失調症だろうが、目標とするところは同じだ。


 それがこの就労移行支援事業所「OASYS」の共通目的。

 そして僕の隣の席の女性が、金子みすゞの詩集をいつも携えていることと、それが僕も同じだということが、僕たちの秘密で半ば公然の共通事項。

「おはようございます、彩華さん」

「あ、おはようございます。……赤木さん」

 それ以上の会話は、特にない。

 丸テーブルの、女性とは反対側にやってきて座る、体格のいい男性がいる。 

「おはようございます赤木さん……。ヨッチ集まった?」

「おはようございます、沖田さん。さっき見たら、14匹。やっぱり、この時間は収獲がいい」

「いいなあ、って言ったらあれだけど。俺なんかさ、歩いて10分だからすれ違う機会がほぼ、ないから」

「強いの、入れといたからぜひ使って。」


 さあ、朝礼の時間だ。


 就労移行支援事業所の一日が始まる。


「はい!時間になりましたので、朝礼を始めたいと思います!おはようございます!」

「おはようございます!」「おはようございます!」

「今日の訓練は、面接シミュレーションです。よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」「よろしくお願いします!」

「ではラジオ体操を行います。手の当たらない位置に、皆さん広がってください」

 

 ぞろっと皆立ち上がり、広がる。スクリーンに映像が映し出され、音楽が流れる。

 皆が皆、立ち上がれるわけじゃない。すでに体力を使い果たしたかのように、テーブルに突っ伏したままの人もいる。けれど、それを―ほとんどの―スタッフはとがめたり、無理に立ち上がらせるようなことはしない。そういう場ではないのだから。

 しかし、僕もかなり今日は難しかったので―スーツを着ているということもあるからだ―、身体を動かすスタッフやメンバから離れて、入り口のドアへ向かい、出た。


 のびのびと……、にいに、さんしっ。

 扉越しに聞こえる音楽。僕は給湯室で、ふうっと、ため息を吐いた。

 軽く、手が震えはじめる。

「う……」錠剤のシートを入れたのは、どこのポケットだったか……。

 ―障害者野郎が、―という、声が、聞こえそうになる。最悪なフラッシュバック。パニック発作の、前兆……。


 幸い、誰もいない。

 まさぐる。シャーペン、これじゃない。ジッポー。これじゃない。フリスク。惜しいけど違う。パニック障害の発作が起こりそうになると、あわてるといつもこれだ。どこだ、どこだ……。指がシートに触れ、安心する。こんな時、ドラえもんもパニック持ちなのかもしれない、といつも感じる。

 朝礼なんて、知ったことじゃない……。水を汲む時間も惜しくて、僕は白い錠剤を手早く取り出し、2錠、口に押し込んで飲み込んだ。

 なるべくなら、今日は我慢したかったんだけどな……。

 主治医から処方されるデパスの数には、全く余裕はない。2か月前に、1mg錠から0.5mg錠へと切り替えられ、さらに一日2錠から1錠の服薬に変更されてしまった。依存から断ち切ろうという、思い切った診察によるものだ。

 だから、滅多なことでは飲むことはできない。

 それでも、さすがにあんなフラッシュバックに耐えられるとは、とても思えなかった。


「ちくしょう……」

 いまだに、あんなことが頭をよぎるなんて……。

「くそっ……」


 かつて、自分に向けられた、強い敵意を持った言葉。あれを完全に受け入れ、断ち切り、克服したとは思っちゃいないけれど、自分なりに割り切って生きてきたつもりだった。


 それでも、たまには、こんなことも、ある。


 敵意を、憎んじゃいない。

 憎んでなんか、いない。

 僕が障害があること、

 障害者であることは事実なのだったし、それを明確に指摘されたとしても、文句を言える筋合いの話では、ない。


 僕は僕なりのやり方で、強くなろうとしてきたつもりだった。


「まだまだ……。こんなんじゃ、まだまだだ……」


 声に出した想いではない……。

 けれど、僕はそう強く、想っている。


 デパスのほのかな甘さが、僕を包んでくれる……、

 なんて、ふざけたことは、想っちゃいない。

 発作を止める薬に思い入れなんて、あるわけがない。

 パニック・ディスオーダ、いわゆるパニック障害。

 付き合っていかなければならないものになってしまっているのだから。

 切り替えられぬ気持ちを切り替えたようにつくろい、何もなかったかのようにフロアへと戻る。


  20人も部屋で体を動かしているのだから、その中にそっと紛れ込むことたやすい。

 何事もないような顔で、部屋の隅で、ラジオ体操第二にまぎれる。

 うん、大丈夫だ。

 身体も少しずつ動いてきた。

 心も、

 ……良いとは言えないけれど、最悪じゃあ、ない。


「お疲れ様でした。それではご着席ください。各自、今日の予定を日報に記入してください」


 日直がマニュアルを読み上げる。


 僕は席に着く。


 何食わぬ顔で、強烈ミントガムをふたつ、口に放り込んで、噛んで、一息ついて、ふう、と、溜息もつく。


「だるいなあ。。」

 思わず口から心身の重さがぽつりと溢れる。

「昨夜の酒がまだ、抜けてないんじゃないの?」

 と沖田がからかう。

「アルコールチェック……。ゆうべは500mg缶2本?3本?」と、笑いかけてくる。

「……4本」

 僕も笑い返す。

「マジで?さすが……」と驚き、さらに彼に笑みの表情。

「冗談ですよ……。350を、一本。それっきりですよ、ふふふ」

 嘘じゃない。飲んだのは、ストロングレモン一缶。それっきり。

「眠剤と酒はやめたほうがいいですよって、いってるじゃないですか……」と、にやにやしている。真面目な人なのだ。

 僕はそれに反論する。

「そんなものはね、沖田さん、都市伝説なんですよ……。僕に言わせれば、酒が薬効を強めるなんてね、ないんですって。寝酒ですよ、寝酒」 

 僕は適当なことを言ってはぐらかす。

 本気で言っているわけじゃない。ハルシオンと酒を一緒に飲むとぞっとすることになることくらい、理解している。

 とはいえ、眠剤の話を自然とできる相手がいてくれることは、僕にとってはありがたいことだと想っている。


 かつて存在していた障害者自立支援法はいつの間にか姿を消し、障害者総合支援法の大改正が行なわれたのは、数年前の話だ。


「就労移行支援事業所」

 と呼ばれる通所型サービスが開始されるようになったのも、ここ数年の話。

 A型とか、B型とかいう事業所も存在しているらしいが、僕は詳しいことは知らない。

 就労移行支援事業所は、文字通り、障害を持つ人々が、就労を目指すために設立された事業所であり、そのための様々なプログラムが提供される。

 そもそも、夜眠り、朝起きて、事業所に通所する。そんな目標が出来て、それに向かって自分なりに努力することができる。努力するための場所がある。法整備により、そんなスペースが誕生しつつある。それだけでも、日本は変わりつつあるなと僕は思う。少なくとも僕は、毎日ワイドスクランブルや徹子の部屋を毎日見る生活から脱却することに成功していた。

「アカキさんは、今日はプログラム参加?」

「そうですね。面接トレーニングだけは欠かさないようにしているから……」

「スーツで?」

「もちろん」

「今日32度ですよ?」

「たかが真夏日ですよ」

「暑苦しいですよ……。期待してますよ」


 面接トレーニングは、就労移行支援事業所の提供するプログラムの中でも重要度が高い、と僕は思っている。そう感じない人は少ないだろう。

 職に就くには、面接は避けて通ることはできない。何度訓練しても、し足りないということはないはずだ、と思う。

 「期待している」とは、模擬面接のトレーニングは、ロールプレイとして、複数の訓練生がチームを組んで、メンバやスタッフの前で行うものだからだ。

 自己紹介や自己PRと言った面接の定番を想定して、公開で行うことで力を付けていくのである。

 それを見ている周りからのフィードバックも受けられ、気づきがあれば自分からも提供できる。それを自分の今後に反映させることも、できる。

 恥ずかしがってなどいられない、と思う。

 僕は……、いや、俺はここでいつまでも立ち止まっているわけにはいかないんだ、という想いを抱いている。

 事業所に通所して5か月。受けた面接は、まだ3社。そろそろ結果を出したいという焦りもある。一方で、20社、30社と応募してなかなか結果が出せないでいる人もいれば、驚くべきことであるが、応募件数が3桁を超える人も中にはいる。

 そのくらいのスパンで考えなければいけないか……とも思う。僕はそれだけの努力をしているメンバがいることに衝撃を受けたものだし、率直に、深い尊敬の念を抱いている。 履歴書を100通書けと言われたら、僕にはできるかどうか、わからない。しかし、それをやり続けているのだから、彼らから吸収して、自分もそのくらいのことをしなければいけないと思うのだった。


「千草さん、お手空きできょうか?」

 僕は女性スタッフに声を掛けた。

「おはようございます。体調報告ですか?」

「はい」

「ありがとうございます、眠そう、ですよね……」と笑顔を返してくれる。

「はい。眠剤が抜けていないこともあるのですが、少しパニックの兆候があります……。安定剤を飲むかもしれません。それと、少し、ソウ気味だと思います」

「そうなんですか?」

「ちがいます。そうです」

「躁ですね?」

「そうです」

 適当な会話に、笑えてくる。

「なので、基本、落ち着くように意識していきたいと思います」

「お薬はちゃんと飲まれていますか?」

「うー……、はい……」

「飲み忘れ、ですか?」

「眠剤の種類が多いので、調整がたいへんです。完璧に飲んでるかと言われれば、ちょっと、すみません」

 反省。

「病院で相談した方がいいかもしれませんね、量が多いのであれば……。服薬が自分でできないようであれば、支援機関を通して援助を受けてください。自分のことですから」

 厳しい。

 しかし事実である。

「そうですね、検討します……」

「では今日の帰りまでに対処法を報告してくださいね」

「わかりました」

「体調が悪くなったらまた報告してくださいね」

「了解しました。よろしくお願いします」



「では各テーブルごとに別れてスタッフに今日の予定を発表してください。報告がある方はおっしゃってください」


 各テーブルの島にスタッフが着席し、各自挨拶を始める。プログラムの参加は、メンバ各自の体調や気分の調子に合わせて決めることができる。強制ではない。PCブースでWindowsやMacに触って調べ物をしてもいいし、Officeの練習をしてもいい。履歴書を作成してもいいのだし、タイピングの練習をしたり、Cでプログラムを組むのも許される。

 今日にしても、全員が全員、面接シミュレーションを受けるわけではない。自己紹介など、プライベートに関わることを言える段階ではない人も多いのだし、入所したばかりで、まだ勝手を知らないひともいる。配慮はされるし、考慮もされる。


「私は今日はタイピングの練習をします。よろしくお願いします」

「私はプログラムに、参加します。目標は少しでも場数を踏んで慣れていきたいと思っています。よろしくお願いします」


 と、各々が報告する。

 と……、そこへ

「アカキさん。ちょっと」

「はい?」

 就労支援員の男性が訪れ、声を掛けられた。

「終わったら、面談室まで来てね。話、あるから。業務連絡」

 笑顔だが、目が笑っていないように見えて、少し緊張する。

 僕には、呼び出される心当たりがあった。


「失礼します」

 ノックは3回ルール。

「どうぞ」

 どうぞ、と促され、椅子に座る。

「おはようございます。後藤さん」

「おはようございます赤木さん、ま、座って」

「あ、メモ帳……」

「あ。いいよ、すぐだから」

「はあ」


「えっとね、先日の書類選考の結果が来てるんだけどね」

「え。」

 僕は息を飲んだ。

 第一志望の企業だ。

 ここに来ているメンバ、スタッフなら誰でも知っている企業。ここから距離もとても近い場所。


 それは……。

 その結果は……。

「おめでとうございます、なんと、書類選考通過!」

 僕は言葉を失ってしまった。

「マジですか?」

「マジです」

「オープンですよ?」

「うん、オープンですね」

「倍率100倍って聞いてたのに……。あ、あの、ありがとうございます。何度も職歴書、添削していただいたので……。感謝します。ありがとうございます」

「まあ、まだ書類選考の段階だから……。とはいっても、凄いよ。おめでとうございますだ。じゃあ次は、面接に向けて、頑張っていきましょうというところですか」


 僕たち障害を持つ者は、いざ就職をする、応募すると決めた時に選択しなければいけないことがある。

 すなわち、「オープン」か、「クローズ」でいくか。これは障害者である以上、例外はない。

 障害を相手方企業にカミングアウトして応募するのが、「オープン」。公表せずに、いわば障害を隠して応募することを、「クローズ」と呼ぶ。

 どちらにもメリットがあり、デメリットがある。応募者にとっても、企業側にとっても。

 公開した上で就職できたならば、障害者基本法に基づいて、障害を持つ人は合理的な「配慮」を受けることができる。

 勤務時間を、通勤しやすい時間帯にずらして貰う事が可能になったり、短縮を求めることも認められやすい。

 一方で、公開することで、差別を受ける事があるかもしれないし、「障害がない」人と比べて与えられる仕事や、それにより賃金に差が生じる可能性は高い。


 思えば、「オープン」での応募は、どこか、「オープンリーチ」のようなものだと、感じる。

 麻雀用語だ。麻雀では、あと一つの牌でアガることができる状態になった時、「リーチ」を宣言する。この場合、どの牌でアガることができるかは、普通、隠すものだ。それがばれていては、だれもそのハイを出してはくれない。ババ抜きのババの位置を教えるようなものだ。

 しかし、麻雀では特殊なルールとして、自分の持っている牌をあえて相手に公開してリーチを宣言することもできる。この場合、すでに何を待っているのか知られるのだから、相手からアガることは期待できない。自分が引いてくる牌で、自力でアガることしかできない。

 その代わり、成功すれば得点は大きいものだ。

 「オープン」にする覚悟。それに賭けるメリットは、ある。

 オープンに決めるまでは悩んだけれど、今回はその決意が功を奏したことになる。


「では、次は面接ですね」

「よろしくお願いしますっ!」

「面接の日程はまだ確定じゃないですけど、1週間……いや、2週間のうちにあるだろうから、それまでに少なくとも一回は直接の模擬面接、やりましょう」

「3回くらいは難しいですか?」

「スケジュールがかなりタイトだからな……。でも、なるべく時間は取るようにはしますよ。アカキさんの志望する業界……、には、私たちも尊重しますから」

 ありがたい話だ。

「ありがとうございますっ!」

「ただね」と、後藤支援員は続ける。

「尊重はするけど、個人としては勧められない。正直ね……。就労支援支援の支援を受けているメンバの方が、『就労移行支援員を目指す』なんてね」

 ぼくは答える。

「無職の人間が、ひとを就労に導く仕事をする、ですか。何か……、矛盾というか、パラドクスのようなものでね」

 笑えてくる。

 しかし、本気だった。

「就労移行支援を受けている人間」が、その制度の意義の素晴らしさを実体験として感じ、自分がその立場に立ってみたいという気持ちを抱くこと。それはごく自然なことではないだろうか。ぼくはそう思っていた。

「厳しい業界だよ。現に、ウチから……このセンターじゃないけど、ウチからオープンで採用された人もいるけど、いい結果にはなってない。正直、サービス残業も多いし、持ち帰りの仕事も多い。……って言うのは、応援してるから言うのであってさ。腹割って話すけどね」


 やはり、そう思う、支援を受けているメンバは珍しくないようだ。だから、書類選考でさえ100倍、いや、噂によっては200倍とも言われる倍率になる。考えることは皆、一緒ということ……。

 ともあれ、書類選考は通過した。あとは面接問答集で面接に対する対策を練ること。それに注力することだ……。



 僕が面談室を出ると、既にアイスブレイク・トレーニングが始まっていた。

 この訓練は、大したことではない。その日のメインのプログラムが始まる間に、ちょっとしたコミュニケーションを取ったり、集中力を高めるためにちょっとしたパズルを解いたり、本を読んだりする、休憩時間のようなもの。ジグソーパズルや数独をやっている人もいる。

 思い思いのことをやるのがこの30分分だ。

 そしてそれが終わると、1日のプログラムが始まる。


 僕の隣の席、彩華さんは詩集か何かの本を取り出し、広げている。いつもなら、僕も本を取り出し、お互いの持ち寄った本について話をする時間でもあるのだけれど、今は、緊急。その時間はない。

 ざっとセンターを見渡す。いた。

「中邑さんおはよう」

「おはようございますアカキさん」

 彼こそ、ここのエースといっていいだろう。対人コミュニケーションスキルは、頭ひとつ飛び抜けている存在で、彼に悪い印象を抱いている人は、いないだろうし、そんな話は聞いたことがない。僕よりふたつ、みっつ歳は下だけれど、その積極的なコミュニケーション力だけは勝てないし、頭が上がらない。

「今、ちょっといいですか?」

「OK。吸いますか?」

「いや、簡潔な話。 書類選考、通った……」

「え! ほんとにですか? ……おめでとうございます……、やったじゃないですか!」

「これはほんとに、中邑さんが力になってくれたからだと思ってる。まだ書類選考だけど、まずはお礼をって思って。今、後藤さんから言われて」

「書類選考でも、凄いですよ」

 中邑氏のこの率直な笑顔と喜び。これこそが彼の強みだと僕は思っている。屈託のない、素直な気持ちを表に出す……。裏表がないと、思う。いや、人間もちろん、見える部分がすべてではないことは当たり前のこと。それでも彼は、ライトな部分も、ダークな部分も、表に出してくれる。そこにひとはきっと、惹かれるのだと思う。よくも、悪くも……。

「凄いっていうか……、中邑さん、3次面接まで進んだあなたのほうが、凄い……」

「僕もそれなりにやることはやりましたからね。面接練習とか……。だから、アカキさんもやれば、絶対いけると思いますよ。一緒に、支援員やりましょう」

「うん。きっと。よかったら、また力になってください」

「もちろん!」 






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る