14 模倣
次の日は雪が止み、驚くほど青い空が広がっていた。
灰色の雲が晴れたように、蒼介の頭の中もすっきりと晴れ渡っていた。
どんなに嫌な事があっても、悩んでいても、一晩寝て起きると綺麗にもやが晴れてしまうのが蒼介の最大の長所だった。
朝食が済んだところで、蒼介は突然ひらめいた。
「どうして昨日、気がつかなかったのだろう。
あ、いや、気がついてもそんな空気じゃなかったか」
杏と交わった後は、蒼介は朝まで彼女と一緒にいた。
杏は恐怖から解放されたのか、ぐっすりと眠っていた。
昼近くになってもまだぐっすり寝ていたので、蒼介はそのまま起こさないで学校に帰ったのだった。
さて、杏は小野寺と交際していたわけだから、小野寺の作品も見ているはず。
大学が一緒だったと言うから、小野寺の作品については詳しいはずだ。
ならば、宮河の体に描かれていた血模様を見せたら、描いたのが小野寺かどうか分かるかもしれない。
思い立ったが最後、蒼介は授業が始まる前に学校を抜け出していた。
ただ、今度はちゃんと、体調不良で授業を休むという体裁を作ってから出てきた。
章太郎はそんな蒼介を見て見ぬ振りをしていてくれた。
旅館の大きなガラス窓からは、雪化粧された日本庭園が見渡せた。
日の光が雪に反射して、キラキラと眩しいくらいだった。
蒼介がやってきたとき、杏はルームサービスを頼んで朝食をとっている所だった。
居ても立っても居られずに来てしまったが、蒼介は杏を目の前にして気恥ずかしさ感じずにいられなかった。一昨日の晩、この部屋で行った事を思い出す。
「また来たのね」
杏はティーカップに紅茶を注いだ。
アールグレイの爽やかな香りが部屋に広がった。
「あの、気分はどう?」
「だいぶいいわよ。君のおかげでね」
そう言って杏が微笑んだので、蒼介はホッとした。
「学校はどうしたの?」
「サボりました」
「ふうん、もっと真面目な子なのかと思ったけど」
「真面目ですよ。真面目が短所だと思ってるくらいだから」
杏はふん、と笑って紅茶を飲んだ。
彼女はまだ浴衣と丹前という格好だった。
左目の周りには相変わらず赤い湿疹が広がっていたが、顔色はとてもいいように見えた。
蒼介は窓辺の藤のベンチに腰を下ろして、杏がこんがり焼けたトーストとグリーンサラダとかりかりのベーコンを食べ終わるのを眺めていた。
窓から入り込んでくる暖かい陽の光に包まれて、幸せな気持ちになっていた。
「今日、私、車をレンタルしようと思ってるの」
食事が終わって、着替えながら杏が言った。
布団が敷いてある部屋で着替えていたが、ふすまは開け放したままなので、蒼介はその姿を見る事ができた。蒼介は自分たちが恋人同士であるかのように思えて嬉しくなった。
「いい天気だし、一緒にドライブしない?」
もちろん、断る理由など微塵もなかった。
二人はタクシーで駅前のレンタカーの営業所へ行き、ランドクルーザーを借りた。
そして、山の中の県道を目的もなく走らせた。
「気持ちいいわね。こんな風にドライブするの久しぶり」
杏は大きなサングラスをかけていたが、化粧はしていなかった。
隣で自分に優しく微笑みかける彼女は、テレビなどで見るシュアンとは大きく違った。
テレビや雑誌で見るより小柄だし、メイクをしていない顔はかなり幼く見えた。
「昨日の夜は、眠れた?」
「えぇ、ぐっすり。昼間、あの旅館の近くの散策ルートを歩いてみたの。
山歩きなんて中学校の遠足以来だったわ。
私、ずっと大自然っていうのが苦手で、自然に癒されるっていう感覚が理解できなかったの。
でも、なかなかいいものね。
歩いて、疲れて、温泉につかって、おいしい料理を食べたらぐっすり眠れたわ」
「そっか。よかった」
「君のおかげよ。ありがとう」
「いえ、大自然のおかげです」
小さな道の駅で車を止め、二人は車を降りた。
山間を見下ろせる場所で体をのばした。
空気は冷たかったが、太陽の光は暖かかった。
気持ちよさそうに景色を眺めている杏を見ると、蒼介はなかなか本題を言い出せなかったが、思い切って口を開いた。
「あのさ、実は聞きたい事があるんだ。
小野寺先生の絵の事なんだけど」
「絵?」
「その、絵のタッチとかで小野寺先生が描いたものだって分かる?」
「どうかな。なんでそんな事聞くの」
「実は、小野寺先生が描いたのかどうか知りたいものがあるんだ。
見てくれる?」
「別にいいわよ」
「遺体の写真なんだけど」
「遺体? どういうこと?」
「話すと長くなるんだけど、俺、学校の近くで宮河っていう先生が死んでる所を見つけてしまったんだ。
遺書もあったから自殺みたいなんだけど、その姿が異様だったから、一応記録しておいたんだ」
「記録って」
杏はあからさまに怪訝な顔をした。
「とにかく見てくれる? その、似てるんだ」
蒼介はスマートフォンの画面を杏に見せた。
うつ伏せになった宮河の上半身が写っている。
顔は見えないが、血模様がくっきりと写っていて生々しい。
杏は息を呑んだ。
「ごめんね、こんなの見せたくなかったけど、でも、分かったでしょ。
小野寺先生とあなたの作品に似ている」
「死んでるの、この人。
ってことはこの血は」
「本当の血、だと思う。
血糊の可能性もなくはないけど、この人がこのような状態で死んでいたのは確かなんだ。
ねぇ、この血模様は、小野寺先生が描いたんだと思う?
先生は『吸血鬼の戯式』を作る時、血糊を使ったと言ってた。
でも、本当は本物の血を使いたかったんだよね」
「…そうよ。
でも、まさか殺人まで犯すとは思えない」
「違う、死んでいた先生はたぶん自ら手首を切った。
俺が疑っているのは、すでに死んでいる人間を見つけた小野寺先生は、かつてやりたかったことを思い出したんじゃないかってこと。
本物の血で『吸血鬼の戯式』を作りたくなった。
衝動的に。
遺体ならばいくら血を流してももう死ぬ事はない。
わき上がった『衝動』を押さえられなかった」
「そんなこと……」
「まさかとは思うけど、じゃあこの血模様は何なんだろう。
やったのが先生じゃないとしても、少なくとも、先生の作品は関係している。
どう? 先生が描いたかどうか分かる?」
蒼介は他の部分が写っている写真も見せた。
杏は一枚一枚時間をかけて見ていった。
と、ある写真で杏の表情が変わった。
蒼介は画面を覗きこんだ。
宮河の右肩から腕のアップの写真で、血模様の中に吸血鬼が噛み付いたような穴が二つ並んでいた。
「似たような傷がうなじにもあった。
先生の作品にもあったかな」
「作品にはないわ」
「でも、映像では最初に小野寺先生が噛み付いていたよね」
「あれは形だけね。
こんな吸血鬼みたいな噛み痕はないわ」
では作品じゃなくて……。
と蒼介は思った。
「噛んで」と、吐息まじりに囁いた杏の声が蒼介の頭の中で繰り返される。
「この写真だけじゃ何とも言えないわ。
でも言えるのは、これを描いたのは『吸血鬼の戯式』を知っていて、そこそこ絵が描ける人間よ」
杏の言う通りだった。
でも、小野寺ではないとしたら、誰が何故『吸血鬼の戯式』のまねをしたのだろうか。
「ねえ、『吸血鬼の戯式』ってどんな意味があるの」
杏はハンドルを握りながら答えた。
「意味かどうかはわからないけど『気脈』って言ってたわ」
「気脈?」
「血管のことよ。
血管を体の表に描いてみたいって言われたわ。
僕には君の血液の流れが分かる、その流れを辿っていって。
変える事が出来れば、何かが起こるかもしれないって」
「何かって?」
「それは、現の世界ではない別の次元の何か……」
と言って、杏は肩をすくめた。
「よく分からないでしょ」
「それで、何か変わったの?」
「さあ、どうかしら」
杏はしばらく黙ったまま運転をしていたが、赤信号で止まると口を開いた。
「さっきの人だけど、本当に自殺だったの?」
運転しながら杏は聞いた。
「遺書があったし、自分で手首を切ったのは間違いないと思う。
杏さんは違うと思う?」
「そうじゃなくて。
じゃあ、死んでからあんな姿にされてしまったのね」
「もしかしたら、まだ死んでいなかったかもしれない」
「そうなの?」
「まだ分からない……」
「そう」
「そうだ、いつまでこっちにいるの?」
「治るまで、と言いたいところだけど、一週間が限度かな。
それまでに治らなかったら、それまでね」
「そっか。でも大丈夫だよ、きっと。
何とかなる」
「そうね、何とかなるわね」
車は蒼介の学校へ向かっていた。
蒼介は学校から離れた、松波から教えてもらったガレージのところで止めてもらった。
礼を言って降りようとする蒼介の腕を杏が掴んだ。
「ねぇ、また会いに来てくれる?」
蒼介は思いがけない言葉に驚いた。
言われなくてもまた会いに行くつもりだったが。
「いいの?」
「君が治るって言ってくれると、本当に治る気がするの」
「もちろん、治ります。
でも、呪いの魔法を解くには王子のキスがないと」
「なるほどね」
杏は微笑んでサングラスをはずした。
こっそりと自分の部屋に戻ってきた蒼介は、そこに呉木がいる事が全く理解できなかった。
杏とのキスの余韻に浸っていた蒼介の顔には、病気の『び』の字もなかったに違いない。
蒼介は部屋に入るなり、呉木から強烈なボディブローを食らわされた。
「何すんだよ……」
呉木は崩れ落ちた蒼介の胸ぐらを掴んだ。
「なんてことしてくれた」
蒼介は腹の痛みに呻いた。
「お前があんな馬鹿な事言わなければな」
呉木は必死で怒りを抑えているようだった。
胸元をきりきりと掴み上げられ、蒼介は息が出来なくなっていた。
殺されるんじゃないかと思った時、ようやく呉木は手を緩めた。
蒼介は床に転がって咽せた。
「殺す気かよ」
「お前が殺したんだ」
「何のことだよ」
授業をサボった事で責められているのではなさそうだった。
「ここに来た時、お前は宮河先生を女だと言ったな」
「間違えてな。知ってるだろ」
「俺はな。でも先生は違う。
先生はお前に知られたと思ったんだ。先生は……」
蒼介はピンと来た。
「女だったのか」
呉木はもう一度胸ぐらを掴んだ。
「先生はお前に知られてしまったから自殺したんだ」
蒼介は呉木の手を剥がそうともがいた。
線の細い外見からは想像もつかない力だった。
「馬鹿な……そんなことで死ぬもんか」
「そんなこと?
僕が僕であるために、という先生の遺書。
知られてしまったからには生きていけない、ということだろ」
「……離せよ」
蒼介はやっとのことで呉木の手を剥がしたが、いつもの冷たい目は獣のようにギラギラしていて、抵抗すれば殺すと言っているようだった。
「由井蒼介。
父親は神奈川県警察庁の本部長、兄は東京池袋の探偵社に勤務か」
「なんで知ってるんだよ」
呉木はそれには答えなかった。
答える必要も無いという風に続けた。
「宮河先生が自殺したのはお前のせいじゃないというのなら、真犯人を見つけろ。
警察と探偵、使えるコネは最大限に使ってな。
宮河先生を自殺に追いやった奴は誰なのか。
そうでなければ、お前が殺したと学校中に吹聴してやる。
いや、この先ずっと、死ぬまで言い続けてやる」
やっぱり、自殺の原因は俺のせいじゃないとわかってるんじゃないか、と思ったが、口に出すのは止めた。
言っている事の辻褄が合っていないのは呉木自身が混乱しているに違いない。
彼なりに宮河先生のことでショックを受けているだと思った。
「分かったよ。
でも、宮河先生が女っていうのは本当なのか」
「俺だって信じられない。
でも、健康保険証のコピーを見た。
間違いかと思って他にも調べたら、先生の履歴書があった。
そこには、性同一性障害のことが書いてあった。
つまり先生は、体は女だが、心は男だったってことになる」
そう言って、呉木は蒼介に背を向けた。
蒼介は呉木の肩が不規則に上下しているのを見た。
宮河を慕っていたらしい呉木にとってこの事実は衝撃だったに違いない。
「今まで誰もこの事には気づかなかったんだな」
「……ああ」
「呉木、あんたはそれをどこで調べた?」
「それをお前に言う必要は無い。
ただ、この学校の内部情報ならたいてい調べがつく」
「俺の家族の情報もか」
「お前が前の学校を退学になった理由も知っている」
「マジかよ。なら、宮河先生のこともお前が調べればいいだろう」
「なんだと? お前が宮河先生を殺したんじゃないか。濡れ衣を晴らしたかったらお前自身で調べろ」
「どんな言い分なんだよ」
「しかし、僕も協力できる事はする。
まずはこれを調べろ」
呉木はデスクにおいてあったのノートパソコンを蒼介の目の前に差し出した。
「宮河先生のだ」
「な、なんでもお前が持ってるんだよ」
「そのことはどうでもいい。
このパソコンにはロックが掛かっていて開けない。
まず、このロックを解け。
解けたら真っ先に僕に知らせろ」
「えぇ、俺、コンピューター系得意でも何でも無いんだけど」
「だから、使える奴を使え。お前にはそういう人脈があるだろ。
あと、真田アカリを調べろ。あいつが一番怪しい」
「真田? どうして」
「第一発見者が一番怪しいに決まっている。
それに……」
「なんだよ」
「真田は宮河先生と関係を持っていた」
やはりそうか、と蒼介が思ったところで、突然部屋のドアが開いた。
章太郎が驚くのも無理がない。
呉木がそこにいる事はもちろん、蒼介は床に座り込んで呉木に見下ろされているし、服も乱れている。
「呉木、お前、なにやってんだよ」
呉木は何食わぬ顔で自分の制服の乱れを直した。
「別に、由井と話しをしていただけだ」
「本当か? 蒼介」
「まぁ、そうなるかな」
蒼介はパソコンを抱えて立ち上がった。
「じゃぁ、由井、分かったな」
と、言って立ち去ろうとする呉木を章太郎が呼び止めた。
「おい、呉木。
お前が無断で授業欠席したもんで、先生たち心配してたぞ」
呉木は、そうか、と言っただけで部屋を出て行った。
「蒼介、何があったんだ?
締められたか」
「生まれて始めてボディブローを入れられたよ。
あいつ、授業さぼったのか」
「ああ、槍でも降るんじゃないか」
「呉木のやつ、宮河先生にただならぬ感情を持ってるな。
ところで、誰だ?」
蒼介は章太郎の後ろに突っ立っている男子を指差した。
ジャージ姿でパーカーのフードを被り、マスクをしている。
「あぁ、部屋の前にいたんだ。
蒼介に話しがあるって」
その男子がフードとマスクを外すと、長い髪と端正な顔が現れた。
「真田!」
蒼介も章太郎もアカリの大胆な行動に驚かずにいられなかった。
「なんで?」
「それより、あいつが言っていたこと、本当なの」
アカリの声が震えていた。
蒼介は呉木が言っていたことを思い出した。
アカリと宮河が関係を持っていたということ。
「本当なの? 宮河先生が女だったって」
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