11 密会

 久しぶりの街の喧噪がすでに懐かしかった。

 街と言っても、東京や横浜の繁華街とまではいかないが。

「じゃぁ、楽しんでね」

と、松波は蒼介を鷹山駅付近に置いてバイクでどこかへ行ってしまった。

 下界の空気は、山の中に負けず寒かった。

 夜、雪が降るらしい。

 スマートフォンの電波が入るようになって、アプリの通知が一気に届いた。

 しかし、それらのチェックより先にあの人に電話をしなければならなかった。

 朱藤杏に。

 蒼介はホテルに電話をかけ、杏の部屋につないでもらった。

「もしもし」

低い、ゆっくりとした声が出た。

「あの、俺です。由井蒼介です。電車で会った」

「どうしたの?」

 あまり機嫌が良さそうな声ではなかった。

「あの、俺、今日は外出日で鷹山駅にいるんです。

 だから、一緒にお茶でもどうかなと」

 しばらく無言が続いた。

「どうして私と?」

「俺にチャンスを下さい」

「悪いけど、前のお礼ならしたつもりよ」

「僕があなたに会いたいんです。あなたを、その……」

「…………私の顔、見たでしょ」

「あなたは勘違いしてる。俺は、あなたの顔を見て驚いたけれど、美しいものを見たときだって人は驚く」

 杏のため息だけが聞こえて来た。

「いいわよ。じゃ、私の部屋に来て。

 あまり外に出たくないの」

「ホントに? やったぁ」

 蒼介は人目も気にせずガッツポーズを決めた。           


「どうぞ」

 迎え入れてくれた杏は、ジーンズにニットというラフな格好で、大きな眼鏡をかけていた。

 眼鏡の向こうに湿疹で腫れた左目が見えた。

 部屋に入ると、あのエキゾチックな香りに混じって、アルコールの臭いがした。

 テーブルの上には飲みかけのワイングラスと空になったボトルが三本とまだ入っているものが一本あった。

 杏はドサリとソファに座り込むと、そのグラスを手にとった。

「どお? 学校は」

 かなり飲んでいる様だった。

 蒼介は向いのソファに座った。

「学校は、まだよく分からないです。

 なんか、大変な事が起きちゃって」

「大変なこと」

「そう。実は俺、外出禁止になっちゃって本当は出てこれなかったんだけど、来ちゃいました。

 杏さんに会いたくて」

 杏は、ふふっと笑った。

「私に会いたくて?」

「そうです。あのままさよならするのはどうも。

 たぶん俺たち、もう少し近づけるような気がして」

 まっすぐで嘘のない大きな瞳に見つめられ、杏は思わず顔をそらした。

「確かに、あなたみたいな子がそんな台詞言ったものなら、女の子は喜んで応えるわね」

と言って、杏はグラスのワインを飲み干した。

 蒼介は部屋の空気がアルコールの臭いで淀んでいるように感じた。

 杏はまたグラスにワインを注ごうとしていた。

 蒼介はその手を止めた。

「ねぇ、もしかして、ここに来てからずっと飲んでる?」

「まあね。久しぶりの休養なんだから、飲んだっていいでしょ」

「全然、休養になってないですよ。

 荒れてんじゃないですか」

 蒼介はワインボトルを取り上げて部屋の外へ出してしまった。

「何すんの」

「体を壊します」

「じゃぁ、起こして」

 杏は片手を蒼介に差し伸べた。

 蒼介はその手をつかんで杏を引っ張り上げたが、彼女は力なくふらついていた。

「ベッドまで連れてって」

 蒼介は今にも倒れそうな杏の体を支えながら、隣の部屋のベッドまで連れて行った。

 杏はベッドに倒れ込んだが、蒼介の手を離さなかったので、彼は杏に覆い被さる形になった。

「脱がせて」

「え?」

「そのつもりで来たんでしょ」

「いや、そんなつもりは」

「嫌なの? あのシュアンとやれるのよ」

 蒼介は、やっぱり、という目で眼鏡の奥の杏の瞳を見つめた。

 うっかり口をすべらしたことに気がついた杏は、開き直ったように目をそらした。

 蒼介は体を離した。

「やっぱりそうだったんだ。

 休養ってもしかして」

「そうよ、こんな顔じゃ仕事も出来ない」

と言って、杏は眼鏡を外して壁に投げつけた。

「あなただって気持ち悪いと思うでしょ。

 いいのよ。

 ツイッターにでもなんでもつぶやいたらいいわよ。

 どうせもうおしまいなんだから」

 そう言って杏はベッドに顔を押し付けた。

 蒼介はそんな彼女の髪をそっと撫でた。

 そしてゆっくり顔を近づけ、こめかみに見える湿疹に優しく唇をつけた。

「べつにこんなもの何でもない」

 そう言って、もう一度唇をつけた。

 杏の肩をそっと持ち上げ、横を向かせる。

 杏は両腕で顔を隠したままだ。

 蒼介は指で腫れている部分に触れた。

「あなたのものというだけで、とても愛おしい」

 もう一度、やさしく唇を押し当てる。

 杏はようやく蒼介と目を合わせた。

 蒼介は体を起こして杏に手を差し伸べた。

「さ、起きてください。

 せっかく東京から休養に出て来たのなら、ホテルに缶詰になってないで、温泉とかそういう所に行って、心身ともに癒されましょうよ」

 蒼介が優しい笑顔を向けると、杏は黙って手を伸ばした。

 蒼介はその手を掴んで彼女を引き起こした。

 杏はそのまま蒼介の胸にもたれかかった。

「私、あなたを頼ってもいい?」

 それに応えるように蒼介は彼女を抱きしめた。 

                                    


 アカリは鷹山駅の近くの喫茶店で本を読んでいた。

 いや、本はただ開いているだけで目は宙を見つめていた。

 アカリも本当なら外出禁止のペナルティを受けるはずなのだが、蒼介と違って女子寮の寮長に気に入られている彼女は、病院に行きたいという一言で何のおとがめもなく外に出られるのだった。

 いつもなら私服を持って出て外で着替えるのだが、今日は私服も持たず、制服のまま街をブラブラしていた。

 ウェイトレスがアカリのテーブルにストロベリーティーを運んできた。

 甘い香りがアカリの鼻腔を優しく通り抜けていった。

 そしてふと佐和がよくハーブティをプレゼントしてくれたのを思い出した。

 佐和の親がハーブティの販売をしていて、様々な種類のハーブティを持ってきては飲ませてくれたのだった。

 佐和はアカリにとってただ一人の友達だった。

 アカリは異邦人だったからだ。

 アカリは自分を異邦人だと思っていた。

 周りは言葉も分からない文化も違う人間たち。

 元々ミッション系だった四恩高校には、今でもクリスチャンの生徒が多い。

 大事な娘を汚れさせたくない親たちは、世間から隔離された山奥のこの学校に入学させたがる。

 親たちの多くは、政治家や官僚、大企業の社長といった権力者だった。

 そしてその娘たちは、大抵よく出来た世間知らずのお嬢様か、スポイルされて育った鼻持ちならないお嬢様たちだった。

 あかりはそんなクラスメイトが嫌でたまらなかった。

 クラスメイトも、やはりアカリの事をさけていた。

 そして、何かあると悪い噂をした。

 またそれは、アカリの美貌に嫉妬する者の嫌がらせでもあった。

 しかし、佐和は違った。

 佐和は何にも誰にも平等だった。

 佐和は敬虔なクリスチャンで、いつも笑顔だった。

 思った事ははっきりと言うし、間違いを見つければ指摘もした。

 それはアカリだってそうだったが、それでも、佐和が誰からも好かれていたのは、誰にでも笑顔を向けていたから、だとアカリは思っている。

 そして、佐和は恋する事に憧れていて、部活の顧問である小野寺を好きになっていた。

 「ねぇ、アカリ。私、ものすごく素敵な秘密ができちゃった」

 秋が深まって来たある日の消灯時間の後、ベッドの中から佐和が小さく、でも興奮した声でつぶやいた。

 アカリはまだ机の前で本を広げていた。

 外泊して夕方帰って来た佐和は、今までの佐和とは何処かが違っていた。

 アカリは佐和が何をしてきたのか想像がついた。

「そう」

 アカリは本から目をそらさずに答えた。

「私ね、自分を変えたかった。

 私は知らない事が多すぎる。

 まるでずっと鳥かごの中にいたみたいに。

 アカリはくだらないって言うけど、男の子たちと友だちみたいに遊んだり、携帯電話でおしゃべりしたりメールしたり写真取ったり、そんな事がしてみたいの。

 だから」

「くだらなすぎる。

 そんな事に憧れてどうするの?」

 アカリは思わず声を荒げて言った。

「ごめん、アカリはそう言うと思った。

 でもね、あの人は私のそんな話を聞いて付き合ってくれたの。

 普通の女の子がしてること、私にも経験させてくれた。嬉しかった」

 そう言うと佐和は布団の中に顔を埋めてしまった。


 普通の女の子がしてること。


 アカリはイライラしていた。

 おそらく佐和は小野寺の家で先生とセックスをしてきたのだ。

 教師と生徒が、しかも恋愛禁止の学校でそう言う関係になるのが“普通のこと”なのか。

 それは『特別なこと』ではないのか?

 そんな『特別な事』を手に入れた佐和に、アカリは嫉妬した。

 なぜなら、アカリも教師に恋をしていたから。

 アカリは女の子同士のおしゃべりが嫌いだった。

 いつも変わらない平穏な毎日が嫌いだった。

 必ず同じようにやってくる朝が嫌いだった。

 みんな同じように平凡に生きていく人間が嫌いだった。

 アカリの瞳には、世界は紙に書いた絵のように見えた。

 そんな薄っぺらい絵の中で、もがいている人間がいた。

 その人は楽しそうに話していても、笑っていても、その笑顔という薄いベールが揺れると、隙間から黒い闇が時折見えた。

 闇がなんなのかは知らないが、それを抱えているその人は、絵の中の人間たちと別の方向を向いていて、その横顔がアカリの感情をかき乱した。

 アカリは宮河幸という教師に惹かれていった。

 恋愛禁止の校内で、アカリはかまわず宮河に近づいていった。

 徐々にだが気持ちが近づいた。少しずつ、それでもアカリは嬉しかった。

 それなのに、佐和の方がアカリよりも早く『特別な事』を手に入れてしまった。

 嫉妬の気持ちが全くなかったとは言えない。

 やがて、佐和が何かに悩んでいるのを知っても、気がつかないふりをした。

 話も聞こうとしなかった。

 そして、佐和は、冬休みが終わっても学校へ戻ってこなかった。

「やめたければやめればいい。私には関係ない」

 アカリは心に蓋をしてクールに振る舞おうとした。これまで通り。

 私には関係ない。

 そしてあの日、佐和の母親からアカリに電話がきて、何故佐和が学校に来ないのかが分かった。

 佐和は自宅のベランダから飛び降りて、入院していたのだ。

 佐和の母親は娘が何に追いつめられていたのか知りたがっていたが、アカリには何も答える事が出来なかった。


 私は知らない。本当に、何も。

 だから、関係ない。

 私の問題ではなく、佐和の問題だから。


 そうやって佐和の事を遠ざけた結果、彼女は鉄格子のついた病院に入院する事になってしまった。

 宮河の事もそうだ。アカリは彼からも逃げていた。

 もしかしたら先生も遠くに行ってしまうかもしれない。

 そう思うと彼に会いたかった。

 会って、ちゃんと話しをしたかった。

 アカリはたまらなくなって、あの日の朝、部屋を飛び出した。

 廊下で後輩から挨拶をされても、同級生とぶつかっても、顔も上げなかった。

 そして、制服のままで雪が積もる外へ飛び出して行った。

 ぴりりと外の冷たい空気がアカリの肌を突き刺しても、ローファーの中にパウダーのような雪がさらさらと流れ込んで来ても、アカリは歩き続けた。

 男子寮の裏を通り、山を下りていった。

 どうしてもあの場所に行きたかった。

 あの場所でもう一度先生と、自分の気持ちと向き合いたかった。

 壊れた場所で、やり直したかった。

 でも、それはもう無理だった。

 先生はすでに遠くへ行ってしまっていた。


 アカリはまだ熱いティーカップを両手で握りしめた。

 その時、アカリの向いの席に男が座った。

 アカリは顔を上げた。

 松波虎之介が笑顔を向けていた。

「連絡してくれてありがとう。また会えて嬉しいよ」

 松波はやってきたウェイトレスに紅茶を頼んだ。

 松波が微笑みかけると、ウェイトレスは頬を赤らめてその場を去った。

「それで、用事って何」

 松波は笑顔のまま訊ねた。

 アカリはにこりともせずに口を開いた。

「佐和と会っていたって本当?」

「佐和って若松佐和ちゃん?」

 そうよ、とアカリは冷たい視線で応えた。

「本当だけど」

「あの子に何かした?」

「どうしたの? 人聞きが悪いよ。

 僕はただ、頼まれて佐和ちゃんに会っただけだよ」

「誰に何を頼まれたの?」

「誰かは言えないけど、赤い封筒を渡せって」

「渡したの?」

「うん」

「それが何か知ってて渡したの?」

「知らないけど、君に渡したのと一緒でしょ」

 そう、アカリも半年前くらいに松波から突然渡されたのだ。

「誰に頼まれてるの?」

「それは言えない」

 松波はニコニコと笑っていた。

 その笑顔がアカリをイライラさせた。

「ねぇ、アカリちゃんってさ、宮河先生と付き合ってたんでしょ。

 すぐに別れたみたいだけど」

「なんであなたが知ってるのよ」

「分かるよ。見てれば」

「あなたには関係ないでしょ」

「僕もね、宮河先生の事好きだったんだ」

「冗談でしょ」

「本気だよ。

 僕、別に男とか女とか関係ないから。

 それに……。まぁ、美しければ性別なんて関係ないよ。

 もう会えないなんて残念だな」

 そう言って、松波はおいしそうに紅茶を啜った。

 彼が本気で言ってるのか冗談なのかアカリには分からなかった。

「そうだ、いい事教えてあげる。

 たぶんアカリちゃんは知らないと思うけど、ずっと前から宮河先生はある男の人に自分の血を飲ませてた」

「どういうこと?」

「見たんだ、僕。

 手のひらを切って、その血を飲ませてた」

「何それ……」

「佐和ちゃんもね、手のひらに傷があったの、気がつかなかった?

 僕、気になって聞いてみたの。

 そしたら同じ男にあげてたみたい。

 血を」

「どうしてそんな事知ってるの?

 その男って誰なの?」

「それは言えない」

 アカリはため息をついた。

「あなたの望みは何?」

 松波は嬉しそうに笑った。

「僕、アカリちゃんと仲良くしたいんだ。

 僕といいことしようよ。

 そうしたら何でも教えてあげる」

 アカリは松波に透き通るような瞳を向けられ、背筋がゾクッとなるのを感じた。

 天使のような顔をしてるけど、どこか得体が知れない。

「いいわ。だから教えて」

 迷いのないまっすぐな瞳でアカリは答えた。

 自分の身を犠牲にする事にためらいはなかった。

 すると、松波はふふっと吹き出した。

「ごめん、ごめん、冗談だよ。

 ちょっと君の困った顔が見たくなっただけ。

 だからそんな顔しないで」

 松波はおかしそうに笑っていたが、アカリの背筋はまだ冷たくざわざわしていた。

「ねえアカリちゃん、赤い封筒には何が入っていたの?」

「あなたは知らないの?」

「知らない。

 でも、その男にも渡したよ、これ」

 松波はにやにやと笑いながら一枚の赤い封筒を取り出した。

「あ」

「これはアカリちゃんの分。

 その男はね、赤い仮面だよ」

 アカリは再びそれを受け取った。

 吸血倶楽部の晩餐会への招待状を。

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