12 噛む

 酔っぱらった杏に代わって、蒼介はホテルのインフォメーションで療養に適当な温泉旅館を教えてもらって予約を取った。

 そしてホテルをチェックアウトし、タクシーを呼んだ。

 タクシーの中で杏はずっと寝ていた。

 ぐっと距離が近くなったその寝顔を、蒼介はどこか満足げに見ていた。

 それにしても、何故杏はこの地に来たのだろうか。

 わざわざこの地のホテルに缶詰になる理由があるのだろうか。

 顔の湿疹が何かの病気のせいだとして、静養に来たのなら、それこそもっと環境のいいところを選ぶだろう。

 やはり、小野寺に会いに来たのだろうか。

 二人は恋人同士だったのだろうか。

 ハリウッド映画への出演が決まって、なのになんらかの病気を患って、自暴自棄になって、そんな時に会いたくなるのは、本当に愛した人なんじゃないか。

 少し近くなった杏との距離がまた遠くなってしまったような気がした。


 旅館は山間にひっそりとたたずんでいた。

 外の冷たいピリッとした空気は体を浄化させてくれそうだった。

 二人は落ち着いた和室に通された。ゆとりのある広い空間が気持ちよかった。

 部屋は暖かく、オレンジ色の電球の明かりがほっとさせてくれた。

「素敵なところね」

 杏は窓際にある藤のチェアに座って言った。

 目が覚めた杏は、酔いからも一緒に覚めたようだった。

「部屋に、露天風呂があります。

 ちょっと値段は高めだけど、人と会うのは嫌かなと思って」

「ありがとう。助かったわ」

「食事もすぐ用意してくれるそうです。

 あ、でも、お酒はほどほどに」

 杏は笑って頷いた。

 もう、サングラスも眼鏡もかけていなかった。

「じゃぁ、何かあったら電話くださいね。

 すぐ飛んできますから。

 実は、ここから学校まで、距離的には近いんです。

 じゃぁ、俺はこれで」

「どうして帰るの? 一緒にいてくれるんじゃないの」

「本当に俺でいいんですか?」

「急に弱気じゃない」

「だって、俺じゃなくて、一緒にいてほしい人がいるんじゃないかと。

 小野寺先生とか」

「どうして?」

「だって、会いに来たんじゃないんですか?」

「彼との関係は、もう終わってるのよ。

 考え過ぎ」

「じゃぁ、俺でいいんですね」

 杏は微笑んで頷いた。

 蒼介は彼女の素顔を始めて見た気がした。

「そう言えば、学校の寮の門限は?

 もうこんな時間だけど」

 食事ももう終わる頃になって杏が聞いた。

 蒼介が腕時計に目をやると十時近くになっていた。

「あぁ、もうすぐ消灯時間だ。でも大丈夫です。

 今日は抜け出してきたんで、帰りもこっそり戻れます」

「そうなの?

 そう言えば、校則が厳しいとか言ってなかった」

「厳しいですよ。

 でも今日はミスター校則がいないんで平気なんです。

 なんなら朝帰りでも大丈夫です」

「なら朝まで一緒にいてくれる?」

「えっ、本当に?」

「今一人になったら、またお酒を飲んでしまいそう。

 話し相手が欲しいの」

 ワイングラスを弄びながら杏が言った。

 グラスにはワインの代わりに発砲水が入っていた。

 アルコールは飲んでいなかった。

「話し相手ね……」

「私、すっかり君に頼ってしまってるわね。

 見た目より大人なのね」

「来年には成人です。

 実は、一九歳の高校二年生なんです」

「え、そうなの?」

「いろいろあって、留年とか」

「ふふ、いろいろあるのね」

「いろいろですよ。

 単位とか、出席日数とか。

 知ってます? 停学とか謹慎くらうとあっという間に出席日数が足りなくなるんですよ」

「一体、どんな事で停学になるわけ?」

「まぁ、原因は主に、女の子です」

「へぇ〜、悪い子ね」

「違いますよ。女の子を傷つけることはしてないです。

 ただ、俺、夢中になっちゃうと周りのことが見えなくなるというか。

 それで、トラブルに巻き込まれたりして」

「なるほど、今ここにいるようにね」

 蒼介は少し恥ずかしくなって俯いた。

「ふふ、やっぱり高校生の頃に君に会ってみたかったな」

「悪魔に憧れてた頃、ですか」

「なんていうか、まだ何も知らなかった頃。

 まだ処女だったころ。

 戻れるものなら戻りたいわ」

「そうですか?

 俺は処女にはこだわりはないですよ。むしろ……」

「処女にこだわる人もいるのよ」

「もしかして、小野寺先生のことですか」

「さっきからなんで彼の事を持ち出すの?」

「実は俺、あなたの流出動画を見たんです。

 あれ、先生の卒業制作でしょ。

 小野寺先生から聞きました」

「そうよ。私がモデルになったの」

「好きでもない人のために裸になんてなれないし。

 先生の指、あれは愛撫にしか見えないし。

 かなり親密な関係だなと思いました」

「そうね、確かに親密だったわね。

 私も彼を好きだったからモデルを引き受けたの。

 でも結局、私が望むような恋人同士にはなれなかった。

 彼は私が処女でいることにこだわったから」

「そんな……」

「あの映像を撮っているとき、彼と私は確かに交わっていた。

 彼は指先で私の体の中の何かを一つ一つこじ開けていったわ。

 彼、私の中にあるものを探り当てたいと言ってた。

 よく分からなかったけど、それが彼の何かを揺さぶるんですって。

 とにかく彼は指先から私の中にどんどん入って来たわ。

 彼が恍惚としてるのも分かったし、私も興奮が溢れ出していた。

 彼は作品を完成させることで達したようだったけど、私は、頂点に昇ったフリをしただけ。

 作品のためにね。

 彼の芸術っていうのは、結局マスターベーションみたいなものだったのよ。

 それでも私は彼が好きだったから、提案してみたの。

 本当の血を使おうって」

「血を使う?」

「そう、私は自分の指先を切って血を体になすり付けた」

「そんなこと……。

 それで、先生は」

「後悔してる。

 あの時結ばれなかったら、私は捨てられなかったかも」

「どういうこと?」

「彼は衝動を抑えられなかった。

 彼は血に対して特別な考え方をしていたから」

「衝動? もしかして性癖ってやつ?

 血に興奮するとか」

「性癖ならかわいいもんよ。

 もっと、なんていうか、本人はアイデンティティーだって言ってた」

「まぁ、確かに、血液型は存在を証明するものでもありますけど」

「とにかく、抱いてから彼は後悔していた。

 私は男を知るべきじゃなかったって。

 男を知ってしまった私にはもう魅力を感じなくなってしまったって。

 それで、大学を卒業したら何も言わずに私の前から消えてしまった」

 蒼介は何も言えず、ただグラスを持つ杏の指をじっと見ていた。

「彼は芸術家なのよ。

 いい意味でも悪い意味でも。

 私も女優としてお芝居をするようになって、作品を作るってことを知ってからは、なんとなく彼のことが分かって来た気がする。

 でも当時の私にはキツかった」

「ねぇ、小野寺先生は芸術のためなら犯罪も犯すと思う?

 先生は『衝動』を形にするのが芸術だと言っていたけど」

「さぁ、ただ、芸術の事になると人が変わったようになる事もあったわ」

 そこで食事の後片付けをしに仲居が入って来たので、その話は終わりになってしまった。


 杏が部屋付きの風呂に入っている間、蒼介は旅館の中をあてもなく歩き、少し外に出て冷たい空気を吸い、時間を潰した。

 温泉に入ったらいいのに、と杏は言ったが、ただの付き添いだったし、適当な時間に学校に帰るつもりでもいた。

 部屋に戻ると、奥の部屋に布団が作ってあった。

 もちろん、杏の分の一組だけだったが、それを見るとドキドキしないではいられなかった。

 もう落ち着ける場所はどこにもなくなってしまった。

 気を紛らわせるため、久しぶりにスマートフォンでSNSをチェックした。

 一通り見てしまうと今度はテレビをつけたが、すぐに消してしまった。

 昨日まではスマホもテレビもないと辛かったはずなのに、どれもここでは場違いな気がした。

 今、杏と同じ部屋にいるのは確かに現実なのに、まるで夢の中のようだった。

 この危うくて脆い甘い夢のような時に、他のことを考えずにどっぷりと浸っていたかった。

 しばらくして、杏が風呂から上がってきた。

 蒼介は浴衣姿の彼女をまともに見れなかった。

「雪が降ってきたわ」

 そう言って杏は蒼介のそばの座椅子に座った。

「どうしたの? 黙りこくって」

 杏はテーブルの上にあったお茶のセットを寄せた。

 蒼介はうっすらとピンク色に染まった杏の横顔を見つめた。

 まだ湯気が上がっていた。

 そして、そのつややかな肌に、痛ましい赤黒い湿疹が呪いのように張り付いていた。

「あぁ、気味悪いでしょ、これ」

 蒼介の視線に気づいた杏が言った。

「いや、そう言う風に見てたんじゃなくて」

「いいのよ、別に」

「治るんですか、それ」

「治るって医者は言ったけど、薬を飲んでも塗っても治らない。

 入院までしたのよ。

 でも駄目」

「どうせもう終わり、って言ってたのはそれのせい?」

「私がハリウッド映画に出るって言う事は知ってる?」

 蒼介は頷いた。

「その映画のプロデューサーと監督が私のキャスティングで揉めたの。

 監督は私を気に入ってくれたんだけど、プロデューサーは他の子に決めたがってるみたい。

 たぶん、この湿疹が治らなかったら、それを理由に降板させられる。

 だから、この湿疹の事は極秘なの。

 しばらく仕事を休んで誰にも知られる事なく治さないといけないの。

 でも、何をしても治らない」

 杏は熱い煎茶が入った湯のみを両手でぎゅっと握った。

「私、この映画の仕事は自分で取ったの。

 ずっと好きだった監督が日本人の女の子を捜してるって聞いて、私監督の家まで押し掛けていったのよ。

 やっと掴んだこの役を、絶対に他の人に渡したくない」

 カタカタカタ……。

 杏の湯呑みを包んでいる両手が震えていた。

「杏さん?」

 杏の顔が歪み、引きつけを起こしたように呼吸が乱れ始めた。

「大丈夫ですか」

 その時、杏が急に湯呑みを投げ出し、自分の手首に噛み付いた。

「杏さん!」

 蒼介の呼びかけにも応えず、まるで喰いちぎらんばかりに歯を自分の肉に食い込ませていた。

 蒼介は杏の口から手首を引き離そうとしたが、彼女はまるで何かに取り憑かれたかのように喰らいついていて離れなかった。

 とにかく落ち着かせようと蒼介は杏を抱きしめた。

 力いっぱい。

 それしか出来なかった。

 すると杏は噛むのを止め、すがりつくように両手を蒼介の体に回した。

「呪い、なのよ。呪いなの。呪い。呪い、呪い……」

 もはや正気ではなかった。

 何かが取り憑いたように、呪い、という言葉をつぶやいた。

「大丈夫です。治ります。必ず治ります」

 蒼介の言葉が届かないのか、杏は声を荒げて、呪い、呪い、と呼吸を乱しながら繰り返し、蒼介の背中に爪を立てた。

 このまま杏は死んでしまうんじゃないかと蒼介は思った。

 蒼介は優しく杏の頬に触れ、目を合わせた。

 杏の瞳は小さく震えて焦点が合っていなかった。

 この人は本当に呪われているんじゃないかと一瞬思った。

 そう思ったら口づけをしないではいられなかった。。

 唇を合わせていると、徐々に杏の乱れた呼吸が、蒼介のゆったりとした呼吸に重なるようになった。

 杏の体のこわばりがなくなったことを感じた蒼介は、唇を離し、今度は歯形が赤くついた手首に、そして湿疹のある顔にやさしく唇をつけた。

 大丈夫、大丈夫、と。

 しばらくして杏は、まるで子供のように蒼介の胸に顔を埋めた。

「怖いの。凄く怖くなるの」

 杏が小さな声でつぶやいた。

「それで、お酒を?」

 杏は蒼介の腕の中で小さく頷いた。

 蒼介は彼女に回している腕に力を込めた。

 愛おしい気持ちが溢れ出しそうだった。

「お願い。私から恐怖を追い出して」

「俺に出来るなら」

 杏は蒼介の首に腕を回し、顔を近づけた。

「私の中に入って」

 二人は再び唇を重ねた。

 今度はもっと深く。

 杏との濃厚なキスで、蒼介の思考は完全にオフになってしまった。

 助けたいとか、救いたいとか、そういう考えは、彼女の中へ入りたい欲求の前ではなんの意味も無かったし、杏もそんなものは求めていないということも分かった。

 ただ、セックスと言う行為に夢中になることで、恐怖を遠ざけておきたいだけ。

 酒の代わりとしてのセックスだとしても、蒼介は全然構わなかった。

 何だっていい、彼女の中に入れるなら。

 杏の体は素晴らしかった。

 浴衣を脱いだその姿は、思わず手を合わせて拝みたくなるほどだった。

 大袈裟でも何でもなく、蒼介は観音菩薩に発情した気分だった。

 蒼介は彼女の体のあらゆるところを愛撫した。

 せざる得なかった。

 彼女の肌が指に吸い付いてくるようだった。

 蒼介の指先はいつになく敏感で、まるでペニスが十一本あるような感覚で、夢中になって杏の体に指をはわせた。

 もしかしたら小野寺も同じ感覚を覚えていたのかもしれない。

 やがて、二人が一緒に頂上まで駆け上がろうとしたその時、杏が震える声でささやいた。

「噛んで」

 蒼介は何を言ってるのか理解できなかった。

「噛んで、お願い」

 戸惑いながら蒼介は彼女の肩をそっと噛んだ。

「もっと強く」

「でも……」

 二人とももう達する寸前だった。

「噛んで」

 杏が蒼介の頭を強く自分に押し付けた。

 射精の瞬間、蒼介はおもいっきり噛みついた。

 杏は短い叫び声をあげて身悶えした。

 蒼介は彼女と繋がって一つになったと思った。

 しかし、最後の最後で、杏の心が遠く離れていってしまったように感じた。

 杏が寝てしまってから、蒼介は自分が噛んだところを見てみた。

 くっきりと歯形がつき、うっすら血がにじんでいた。

 杏が望んだことだと分かっていても、蒼介は自分がひどいことをしてしまったと思わないではいられなかった。

 そして、こういうセックスをこれまで誰かとしてきたのかと思うと、嫉妬で胸が締め付けられた。

 だれだ、彼女を噛んでいたのは……。

 蒼介は布団にもぐって目を瞑った。

 すぐ隣で寝ているのに、杏の心はとてつもなく遠くにあるように思えた。

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