10 抜け穴
空は灰色で、突き刺すような寒さが、じきに雪が降り出すことを告げていた。
学習棟から出てきた蒼介は、体を丸めながら中庭を歩いていた。
ふと顔を上げると刑事の富永が一人で講堂に入っていくのが見えた。
蒼介は彼女を追って講堂に入っていった。
中に入ると、奥にある大きなステンドグラスの窓が目に飛び込んできた。
年期の入った木製の床と同じく、年期の入ったベンチが並び、十字架こそなかったがそこが教会として作られたのだと言う事が分かる。富永はベンチに座っていた。
「刑事さん?」
富永は驚いて立ち上がった。小柄で紺色のスーツを着た彼女は、まるで就職活動中の学生に見えた。
「ええと、ここの生徒さんですか」
「あの、どうしたんですか。こんなところで」
「実は、私この学校の卒業生で、なつかしくてつい……」
「そうだったんですか」
「ここは今、教会ではないんですね」
「前はそうだったんですか」
「私がいた頃は教会でした。
元々は教会だけだったそうです。
廃墟になっていたこの教会を、あとから学校にしたらしいです」
「なるほど、そうだったんですね」
富永は懐かしそうに見回していた。
「この学校を出て刑事になる人もいるんですね。
女子はだいたいお嬢様が通ってるって聞きましたけど」
富永はうふふと笑ったが、蒼介にはどういう意味のうふふなのか分からなかった。
「そうだ、刑事さん。
あの、俺、ネットでそっくりなのを見たんです」
「何? 何の事ですか?」
「宮河先生の遺体です」
「え?」
富永は目をパチパチさせて聞いて来た。
「俺、発見者の由井蒼介です」
そうだったんですか、とやはり目をパチパチさせて頷いた。
「ということは君は見たんですね、ご遺体を。
それで、その遺体とそっくりな遺体をネットで見た、ということですか?」
「いえ、遺体ではないです。
その動画は誰かの映像作品で、モデルの身体に血で絵を描くという内容でした。
その血で描いた模様が、宮河先生の身体に描かれていた模様と似ていたんです」
富永は口をぽかんと開けて聞いていた。
「ええと、君はどうしてその動画を見たんですか?」
「有名なモデルの流出動画だったから」
「誰?」
「ほら、赤い髪の」
「シュアンですか」
そうそう、と頷いた。
蒼介は自分からシュアンの名前を言いたくなかった。
あわよくば何か聞き出せるかと思って切り出したものの、彼女のことをぺらぺらと話す気にはなれなかった。
富永は手帳を取り出して何やら書き込み始めた。
「刑事さん。
宮河先生はまだ息があるうちにあんな姿にさせられたんじゃないですか?」
「う〜ん、それは微妙ですね。調査中です。
でも、なんでそう思うのですか」
「勘です」
「は?」
「もちろん根拠もあります。
うつ伏せだったのが気になります。
だって、犯人は苦労して服を脱がせて、苦労してあの血模様を描いた。
いわば作品です。
作品なら、綺麗に見えるように仰向けにしておくんじゃないかな?
でもうつ伏せだった。
手を伸ばした力尽きたような感じだった。
つまり、犯人が立ち去ったあと、本人が自分で寝返って、ベッドの端の方に動いたのかなと」
「ちょっと待って。
宮河先生のご遺体の血模様は作品だったってことですか?」
「例えばですよ」
富永は腕を組んでうんうんと頷いた。
蒼介は一歩近づいて富永の目をじっと見つめていう。
「刑事さん。こういう場合はどんな罪になるの?
宮河先生は自殺しようとして自分で手首を切った。
“まだ生きていた彼をレイプして血を塗りたくってそのまま放置した”
その罪は?」
蒼介にまっすぐ見つめられて、富永は目をパチパチとさせた。
「あ、あくまで仮定の話ということで言いますが、その場合は、強姦罪と遺棄致死罪になります」
「立派な犯罪ですね。
あと、文化祭の頃に宮河先生に何があったんですか?」
蒼介はさらに近く。
「そ、それは、私たちが知りたいです」
「じゃぁ、どうして、文化祭の頃に何かがあったと思うんですか?」
「それは……。言えませんよ」
とその時、富永の携帯電話が鳴った。
「は、はい、今すぐ行きます」
もう一人の刑事からの呼び出しだな、と蒼介は思った。
「あの、由井くん。その動画については確認してみます。
でも捜査は警察がちゃんとやってますから、余計な心配はご無用です。
でも、宮河先生の交遊関係で分かることがあれば連絡を下さい。
学校の中って意外と複雑な関係性があるから」
富永は蒼介に名刺を渡しながら、分かるでしょ、というような笑みを浮かべた。
富永が行ってしまった後、蒼介は改めて講堂の中を見渡した。
大きなステンドグラスの窓の前には、かつて十字架かかってたのだろう。
祭壇もあったに違いない。
無垢材で出来た床やベンチ、壁は黒く光っていて、文化財になってもおかしくない趣きがあった。
「あれ?」
手を置いたベンチの背後面に白い紙が挟まっているのが見えた。
ベンチの背後には、後ろのベンチに座った人のための折りたたみの簡単なテーブルがついていた。
蒼介がテーブルを起こしてみると、紙が床に落ちた。
紙を広げるとそこには、『私の血を差し上げます』と書いてあった。
「血?」
講堂を出ると蒼介は食堂へ向かった。
様々な情報が解け合うことなく頭の中で渦巻いていて、考えようとしても何をどう、どこから何を考えていいのか分からなかった。
頭を振っておでこの栓を抜いたら、うまい具合にほどけた糸がするすると出てこないかな、と思う。
手品みたいに。
刑事の富永と話して分かった事もあった。
宮河先生はまだ息のあるうちにレイプされ、あの姿にされたという考えは警察も同じらしい。
富永に言った「まだ生きていた彼をレイプして血を塗りたくってそのまま放置した」という言葉はハッパをかけたつもりだった。
でも、動画については半信半疑だったな。
なんて思いながら歩いていると、寮の方から松波が歩いてくるのが見えた。
向こうも気がついて手を振ってきた。
「外出しなかったの?」
蒼介のそばまでやってきた松波は、白い息を吐きながら言った。
「出来なかったんです」
「あぁ、禁止令ね」
「えぇ、まぁ」
「ちょうどいい、一緒にお昼食べにいかない?」
蒼介はもうそんな時間かと腕時計を見た。確かに十二時を回っていた。
食堂は案の定誰もいなかった。
女子のスペースには何人かいるような気配があったが、どうせ話したりできないのだから誰がいようと関係なかった。
二人は向かい合ってカレーを食べ始めた。
「あの、松波さん三年でしょ。センター試験は受けないんですか」
「うん。僕、卒業したらアメリカ留学するから」
「そうなんですか」
「そう。親が決めたの」
元総理がか。たぶん、庶民とは違う将来が待っているのだろう。
「本当はさ、日本にいたいんだけど、親の期待に応えられるとは思えないから。
なんていうか、厄介払い?
出来の悪い息子は目の届かない所へ行ってほしいみたい」
蒼介は何て言っていいか分からなかった。
「僕ね、三人兄弟の末っ子なの。
しかも、上の二人とは年が離れててさ。
跡継ぎとかそういうのは上がやるから、俺はなんも期待されてない訳。
自由なのはいいけど、自由すぎるのも辛いもんがあるよね」
松波はそう言って笑ったが、
蒼介はその奥にあるモヤモヤした思いを想像することができた。
「俺も同じだよ。三人兄弟の末っ子で、やっぱり上とは年が離れてる。
だから何となく気持ち分かるかも。
期待されてないって感じ」
「本当?」
「兄貴も姉貴も優秀でさ。
だからもう両親も満足しちゃってて、俺は別に何してもかまわないって感じさ。
落ちこぼれでも問題児でもいいってさ。
そのかわり兄貴と姉貴の方が俺に厳しい」
「分かる分かる。
僕さ、両親に叱られたことないんだ。
何をしたらしかられるかなって試したこともあるよ。
それでわかったんだ。
たぶん俺は一生叱られないって。
人を殺したってね」
そんな親がいるだろうかと蒼介は思った。
本当にそうならそれは、子供にとって悲劇でしかない。
「それは、ちょっと辛いね」
「僕、おかしな女に無理心中させられそうになったことがあるんだ。
もちろん、マスコミには非公開になったけど。
僕は助かったけど、女は死んだ。
その時に親がしたことは、世間にバレないように必死で隠す事だった。
それで僕は、一年間精神病院に入院する事になった。
どこも悪くないのに。
表面上、心を病んだことにしたかっただけ」
「そうなんだ」
「そんな顔しないで。もう過ぎた事だから」
と言って、松波は天使のような笑顔を見せた。
松波の強さに感動した蒼介も、笑顔を返した。
「それより由井くん、もし外に行きたかったら連れてってあげようか」
「え、本当に?」
「僕もちょっと用があって出かける所なんだ」
そう言って松波は素敵なウィンクをした。
蒼介は紺色のジャージ姿からなるべく洒落た服に着替えた。
洒落た、と言ってもその格好は随分とシンプルだった。
ジーパンに白いシャツ、その上にスクール風のグレーのカーディガンを羽織った。
シャツもカーディガンも年の離れた姉の見立てで、白いシャツは誕生日プレゼントにくれた勝負シャツだった。
彼女が言うには白いシャツを着た男は女の神秘の部分をくすぐるのだそうだ。
その自論はよく分からなかったが、着てみると着心地もいいし、女の子からの評判もなかなかいいので、ここぞという時には必ず着ていた。
松波はどこにでもありそうな黒いダウンジャケットを羽織っていたが、まるでファッション誌からそのまま出て来たかのようだった。
正門を堂々と通るのは賢くないということで、校舎の裏を通り、住み込みで寮の管理をしている川田夫婦が住む家の裏山を通って山に入っていった。
少し上っていくとすぐに国道に出ることが出来た。
その国道をしばらく上っていって途中山道に入ったところに、古い納屋があった。
そこに大型バイクが止めてあった。
「これって、ハーレーダビッドソン?」
「そう。知ってる? パパサン」
「いや、バイクはそんなに詳しくないけど、でも、大型だよね。君が運転するの?」
「もちろん僕のバイクだし、僕が運転するよ。あ、もしかして免許のこと?」
「もしかして、松波くん、留年してる?」
「そうだよ。僕、二十歳」
「まじで。
実は、俺も留年してるんだ。
本当なら卒業してる、十九歳」
「ホント? だからか、なんか、特別親近感を感じてたんだよね。
留年組か。ふふ」
蒼介はこの美しい男が愛おしくなった。
もしかして、友達になれるんじゃないかと思うと、目頭が熱くなりかけた。
この納屋は地元の人に借りてガレージとして使っているのだそうだ。
こんな用意周到に抜け出す準備をしているなんて、ちょっと意外だった。
「よく抜け出すの?」
「秘密だよ。
たまに外に出て飛び回らないと、正直気が滅入ってしまうから」
松波は籠の中の小鳥のような悲しげな目で蒼介を見た。
「君が一人で抜け出す時は、ここにタクシーを呼んだらいいよ。
あとは、男子寮の裏の山を下って湖に出て、そこから山道を通ればすぐに国道に出るよ。
まぁ、山道が大変だからここがいいかもね。
帰りは消灯時間過ぎると寮の玄関は閉まっちゃうから、僕の部屋の窓から入っていいよ。
鍵開けてあるから」
と、松波は蒼介にヘルメットを渡した。
「君、なかなかの達人なんだな」
松波はへへっと笑った。
蒼介はヘルメットを被り、松波の後ろにまたがった。
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