7 教師のくせに最低
若松佐和が自殺未遂をし、宮河先生が死んだ。
死なんて自分には全く関係ないものだとアカリは思っていた。
それなのに、親しかった者たちが何だかよくわからない死と言うものに巻き取られて行ってしまった。
宮河の遺体を発見したとき、それが人間の身体だとは思えなかった。
そして、真っ赤に染まった宮河の顔を見たら、その目と目があったら。
アカリは自分が責められているかと思った。
手を伸ばして、自分を捕まえようとしているのかと思った。
そして唐突に自分が殺してしまったような気持ちが沸き起こった。
「わたしのせいだ。わたしがあんな……」
あのとき、由井蒼介が自分の腕を掴んで引っ張り上げてくれなければ、どす黒く暗い異世界へ落ちていたかもしれない。
寮に帰って来て一人で部屋にいると、生きている宮河の姿が次から次へと思い出された。
思い出すのは黒板の前に立って明るく教鞭を揮っている姿ではなかった。
テスト中、じっと窓の外を眺めている横顔や、ミサの最中のうつむいた姿。
どれも寂しそうで孤独な姿。
目を閉じても開けても、宮河の姿が止めどなく頭の中に溢れてくる。
ごまかすことは出来ない。
アカリは宮河に取り返しがつかない事をしまったのだ。
自分に対しても。
消灯時間になって寮全体が暗くなると、一人だけの部屋にいるのが辛くなって、アカリは寮を抜け出した。
足は自然と数学準備室へ向かった。宮河が使っていた部屋だ。
ところが、そこには先客がいた。
数学準備室のドアのガラス窓からそっと中を覗き込むと、チラリと灯りが見えた。
誰かが懐中電灯で部屋の中を照らしていた。
はっきり分からないが、男子生徒のようだった。
何か探してるのだろうか?
懐中電灯の灯りが落ち着きなく動いてる。
ちらっと灯りが反射した。
眼鏡をかけているようだ。
しばらく中の様子を伺っていたアカリだが、結局入るのをあきらめ、そして少し迷ってから、階段を上って美術準備室へ向かった。
昨夜と同じように小野寺がキャンバスに向かって筆を動かしていた。
ただ、アカリが部屋に入ってきても驚かなかった。
「どうした。眠れないのか」
アカリは黙ったままベンチに座った。
「コーヒーでも飲むか。
あ、余計に眠れなくなるか」
小野寺は筆をおいて、棚の中をあさり始めた。
「たしか紅茶かなんかがあったはず……。
お、これはなんだ。ハーブティーか。
これでいいか?」
そう言って小野寺は緑色の箱を見せた。
「それは……」
そのハーブティーには見覚えがあった。
「先生、そのハーブティーって……」
「これ? ハーブティーなのか。
リラックスブレンドって書いてあるな。ちょうどいい。
多分、新沢先生からでももらったんだろう。
あの人やたらとお茶に詳しいからな」
と、小野寺はマグカップにハーブティーのティーバッグを入れた。
「違う」
アカリは思わず立ち上がった。
「違う。
それは佐和が先生にあげたのよ。
忘れたの?」
小野寺は気まずそうに肩をすくめた。
「そうだったか。覚えてないな」
「やっぱり先生が佐和を殺したのよ」
アカリは低い落ち着いた声で言った。
「何を言ってるんだ」
「命は助かったかもしれないけど、佐和の中の大切なものは死んだ。
先生のせいで」
小野寺は電気ポットの湯をマグカップに注いだ。
「君は若松が自殺した原因が僕にあると言いたいんだな。
でも、それが本当だとしても僕にはどうする事も出来ない」
「佐和と付き合っていたんでしょ。
そんな冷たい言い方しないでよ」
小野寺はふふっと笑った。アカリは思わず睨みつけた。
ごめんと言いながら小野寺はティーバッグが入ったままのマグカップをアカリのそばのテーブルに置いた。
「真田は勘違いをしている。
僕は若松に恋愛感情を持っていないし、男女の関係があったわけでもない」
「嘘。だって佐和、外出日には先生の家に行っていたじゃない」
「そう言ったのか? 若松が」
「先生の名前は言わなかったけど、分かるわよ。それくらい」
「そうだな。隠し事は出来ないタイプだったな、若松は。
そう、確かに僕の家に来てもらっていた。
でもそれは絵のモデルを頼んでいたからなんだ」
「モデル?」
「そう。教師が生徒を家に呼んでモデルをさせるのがいい事ではないのは分かってる。
でも、描きたかった。
描きたいと思うものに出会うのはそうある事じゃないんだ。
彼女はなんと言うか、特別だったんだ。だから……」
「だから、一晩中モデルをさせてたっていうの?
家に泊めて、絵を描いてただけなんて」
「泊めた? 僕は泊めたことはない」
「とぼけないで。
佐和は外泊して帰って来て『素敵な秘密が出来た』って言ったのよ」
小野寺の表情が一瞬曇ったように見えた。
が、すぐに唇を歪めて笑い出した。
「何がおかしいの?
先生は佐和の気持ちを弄んだのよ。
罪悪感とかないの?」
「いや、僕に出来る事は何もない。これは若松自身の問題だ」
小野寺はそう言うとマグカップをデスクにおいて、代わりにキャンバスの前の筆を持った。
「教師のくせに。最低」
「教師のくせに、か。お前はその言葉をあいつにも言ったのか?」
アカリは思わず唇を噛んだ。
「悪いが僕は本当に若松の絵を描いてただけだ。
どこの誰と素敵な秘密を作ったのか知らないが、むしろ裏切られたのは僕の方だ。
おかげで作品は未完成のまま……」
小野寺は握りしめていた筆をキャンバスに叩き付けた。
暗い赤の上に朱色が飛び散った。
アカリは驚いた。
小野寺は力強く、何度も何度も筆をキャンバスに叩き付けた。
その形相はいつも穏やかな小野寺の顔ではなかった。
まるで藁人形に釘でも打っているような、怨念さえ感じられる陰湿な顔だった。
アカリは叩き付けられているキャンバスを見て驚いた。
……血?。
前に見たときは炎に見えた。
うねうねと様々な赤色が這うキャンバスは、宮河の遺体を思い出させた。
頭の中で遺体の血模様と小野寺の絵が重なった。
まさか……。
君が僕の支えだった…………ありがとう
「小野寺先生、あの夜、宮河先生が死んだ夜。
私がここを出た後、もしかして宮河先生が来なかった?」
アカリは恐る恐る訊ねた。
小野寺はキャンバスから目をそらさずに答えた。
「いや、誰も来ていない」
小野寺は持っていた筆を乱暴にクリーナーに突っ込んだ。
透明なクリーナーが真っ赤に染まっていった。
十時の消灯時間ぴったりに寝てしまう章太郎に蒼介は関心した。
しかしすぐに、テレビもインターネットもないこの場所では寝るのが一番いい方法かもしれないと思うのだった。
暇を潰そうにも、何をしたらいいのか分からない。
まだ眠るわけにはいかない蒼介は、章太郎の机の上に並んでいる本を物色し、カフカの『変身』を手に取った。
そして、ちょうど読み終わる頃、時間はアカリとの約束の時間の十二時になろうとしていた。
警察署から学校に戻り、校長室へ向かう途中、アカリから話をしたいと言われた。
もちろん、蒼介も聞きたいことはたくさんあった。
校内では自由に話せないので、夜にこっそりと、講堂の用具倉庫で落ち合うことになったのだ。
問題はどうやって寮を抜け出すかだが、蒼介は二階の廊下の突き当たりにある窓から出ることにした。
窓の下には玄関のひさしがあるので、まずそこに下り、ひさしを支えるポールを伝って降りられた。
帰るときは逆に登って行けばいい。
こういう特殊部隊のような身のこなしには小さい頃から自信があった。
よく説教もされたけど。
昼間のうちに下見をしたものの、校内に外灯はほとんどなく、講堂までたどり着くのにかなり手間取った。
講堂は校舎や寮より年期が入った建物だった。
学校のパンフレットによると。昭和初期に作られた教会だそうだ。
今は教会ではなく、講堂として使われているらしい。
蒼介は、アカリに言われた通り、講堂の裏手に回った。
講堂の裏は斜面になっていて、そこに生えた木が行く手を邪魔していた。
ささくれ立った木造の壁に手をついて用具倉庫の入り口というドアを探す。
たまに木の枝が顔を叩く。
やがてそれらしいドアを見つけ、そっと開けてみる。
すると、奥の方にぼんやり灯りが見えた。
少しホッとした蒼介は、訳の分からない用具をかき分けて中に入っていった。
「真田さん?」
ぼんやりとした灯りは、天井からだらりと垂れ下がった裸電球のものだった。
その灯りから少し外れた場所で、真田アカリは木の箱のようなものに腰をかけていた。
用具室は思ったよりも広く、もう少し奥の方に扉のようなものが見えた。
「遅かったのね。別にいいけど」
「ごめん、迷っちゃって。寒いな」
「それで、入院した佐和とは会ったの?」
「今は病院にいる。
飛び降りた時に両足を骨折して。
まぁ、それだけで済んでよかったけど」
「そう」
「ただ、精神的なダメージはかなり大きいと思うな。
簡単には解決しないかもしれない」
アカリは何も言わず俯いた。
「俺と佐和は小学校が一緒だったんだ。
家も近かったし、よく一緒に遊んでたよ。
中学に入学する前に佐和は引っ越してしまったけどね。
その後も母親同士が仲良かったから、俺が前の学校が退学になったとき、佐和の母親が四恩高校を勧めたんだ。
でも……」
蒼介はアカリがちゃんといるかどうか確認をした。
足下を見つめたまま、息をしていないんじゃないかというくらい静かで身動き一つしなかったから。
「佐和は冬休みに帰ってきた時から様子がおかしかったそうだ。
ふさぎ込んでしまって、食事もろくに食べない、部屋から出ようとしない。
話しを聞いてみると、もう学校には戻りたくないと言う。理由は何も言わない。
そして学校に戻る日の前日、家の二階から飛び降りた」
蒼介が病院へ面会に行ったとき、そこにはかつての清楚で明るかった佐和の姿はなかった。
佐和の両親が言うには、たまに幻覚も見えるようで、言葉を口にしても、意味が分からない事が多いらしい。
それでも、蒼介が四恩高校へ入学する事になったと伝えると、
「蒼介くん、あの学校に行くの?」と佐和がつぶやいた。
力のない目は、病室の天井をぼんやりと見ていた。
蒼介は辛くなった。
そして思わず、佐和の白い手を握った。
その冷たさに涙が出そうになった。
「あそこには悪魔がいるの。
いや、もう行きたくない」
「大丈夫だよ。佐和は行かなくていいんだ」
蒼介は佐和の手を優しく撫でた。
そして気づいた。
細い親指の付け根の部分に小さな傷が数個あるのを。
「悪魔は俺が退治してやる。
だから、教えてくれ。
悪魔は誰だ?」
佐和の身体が震えだした。
蒼介は佐和の手をしっかりと握った。
すると佐和は微かな声でつぶやいた
「……アムール……。バラ……が入口…………」
蒼介は監獄のような四恩高校に行くことをずっと拒否していたのだが、そのときに通うことを決心した。必ず悪魔を見つけると。
「佐和はこの学校に悪魔がいるといったのね」
突然アカリが口を開いた。
「ああ。君、心当たりはないかな。
『アムール』と『バラが入口』っていうのも」
アカリは先ほどの美術準備室で小野寺が話したことを思い出していた。
佐和に小野寺とは別に男がいたかもしれないという事に、アカリは動揺していた。
「わからない」
アカリは首を振った。
「ねぇ、佐和は、いじめにあってた?」
アカリはまた首を振った。
「佐和は誰からも好かれてた。
私と違って。
誰にでも公平で、いつでも笑ってた」
その言い方は平坦すぎて褒めているのか羨んでいるのか分からなかった。
「佐和はね、幸せそうだった。
たぶん、好きな人と結ばれて。
でも、どうしよう、って言ってた、佐和。ただただ『どうしよう』って言ってた。
私に聞いてほしかったのに。
相談したかったはずなのに。
私は聞かなかった。無視した」
アカリは寒いのか、自分の腕を抱えてさすっていた。
「あの時、私が聞いてれば。
相談にのってれば佐和は自殺なんてしなかったかもしれない」
アカリの声が震え始めた。
寒さのためか緊張のためか。
蒼介はそんなアカリのすぐ隣に移った。
「真田さん、それはいつ頃のこと?」
「冬休みに入る少し前。日曜日の夜。
真っ青な顔をして帰って来て、休みに入るまで学校は休んでた」
「日曜日に何があったんだろう。佐和が好きだった人って誰?」
「分からない。ずっと小野寺先生だと思ってたの。でも」
「違うの?」
「分からない。佐和だって言わなかったから」
「佐和は聞いてほしかったんだろ?
どうして佐和の話しを聞いてあげなかったの?」
「……くだらないからよ。
あの子世間知らずで、いつもくだらないことで大袈裟に悩んだり喜んだり。
悲しみや喜びは簡単に共有出来ない。
それでも分かったふりして同情ごっこするの、大嫌いなの。
本当に苦しいことは自分でしか解決できないのよ」
「だから放っておいた?」
「聞いたって私には解決できない」
「でも、後悔してるんでしょ」
「……だって、まさか死のうとするなんて」
「佐和の気持ち、聞いてあげたら? 今からでも遅くない」
アカリは俯いたままだった。
「友達だったんだろ。きっと佐和だって君の気持ち、分かってくれるよ」
アカリは体を振るわせて嗚咽を漏らし始めた。
「大丈夫。俺が一緒にいてあげるよ」
アカリは蒼介の肩に頭を預けて泣いた。
アカリが泣き止むまで、蒼介は優しく彼女の頭を撫でつづけた。
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