1 はじまりの夜

 誰も見向きもしない未開の山の中に、

 こっそり姿を隠すようにその学校はあった。

 『私立四恩高等学校』

 もともとミッション系の全寮制女子高校だったが、六年前から宗教色を薄め、男子も募集するようになる。

 現在の生徒数約三百人。

 そのうち女子が三分の二を占める。

 しかし、共学であって共学ではない。

 寮はもちろんだが、教室も授業も男女完全に別。

 食堂内も男子スペースと女子スペースに別れている。

 学校内では男女の会話は禁止。握手など身体が触れる行為も絶対禁止。

 もちろん、恋愛なんてご法度だ。

「盛りのついた雄と雌か、そんな風に見られてるのかね。若人は」

と、由井蒼介は完全にいじけていた。

 蒼介は住み慣れた神奈川県の横浜を後にし、岐阜県の観光地から外れた山の中へ向かっていた。

 文明から隔離されたその場所で、男女の会話さえ禁止され、何を楽しみに学校生活を送ったらいいのか。

 考えると憂鬱になった。

 高校二年の一月という中途半端な時期の転校。

 何故、蒼介が厳格な高校に送られることになったかといえば、だったからと言うべきか。

 学校内で女子生徒とちょっとした騒動を起こして自主退学したのだ。

 一応、反省している蒼介は、親に言われるまま、おとなしく従うしかなかったわけだ。

 自業自得。

 四恩高校の最寄りの駅である鷹山駅へ向かう電車の中に由井蒼介はいた。

 気動車の慣れないエンジンの音を聞きながら暇を持て余していた。

 平日の終電なのに空席が結構あり、一人一ボックス席を占領できている。

 持って来た本も読み終わり、ぼんやりと暗い窓の外を見ていたのだが、思い出したように四恩高校の生徒手帳を開いた。

 最初のページにはこんな言葉が書いてあった。


一、真の愛を知ること

一、真の愛を学ぶこと

一、真に愛すること


「恋愛を禁止されて、どんな愛を知れと言うのか」

 その後には校則が書かれていたが、細かい禁止事項を読んでいると、今乗っている列車が監獄へ向かう護送車のように思えてくるのだった。

 なんでもいい、救いを求めて学校説明のパンフレットなども開いてみたが、たいしたことは何も書かれていなかった。

「まぁいいさ」

と、蒼介は思った。

「禁止というなら、バレないようにすればいいんだし。人間、するなと言われたらよけいにしたくなるものじゃないのか? みんな勉強どころじゃないくらい悶々としているはずさ。きっと抜け道はある」

 前向きに考えることにした蒼介は、パンフレットや生徒手帳をバッグの中に突っ込みながら、さりげなく窓ガラスに目をやった。


 外はもうすっかり暗かったので、窓ガラスには自分の顔がはっきりと写っていた。

 よく出来た鼻と桜色の唇。

 まるで彫刻家が愛でるように掘り上げたような、中性的な弧を描く大きな瞳。

 寝癖のついたぼさぼさ頭さえちゃんとしたら、もっとたくさんの人間の目を引いたに違いない。

 姉には「あなたは自分の事をよく知るべきだ」と口うるさく言われている。

 それは、知ることでもっと魅力的に見せられる、ということなのだが、自分のよく出来た容姿をこれ見よがしに誇張するのは気恥ずかしくて嫌なのだ。

 ようするに蒼介は、自分の容姿が魅力的なことに気がついている。

 小さい頃はよく女の子に間違えられた。

 でも最近じゃ顔つきも男っぽく、大人っぽくなって来たのが自分でも分かった。

 大人になるのは嬉しかったが、どれだけ変わるのだろうと考えると少し不安になった。

 そんな風に思いながら窓に映った自分の顔を見つめていた蒼介は、同じ窓に映っている女に視線を移した。

 通路を挟んで隣の席に座っている女は、蒼介と同じ名古屋駅でこの電車に乗り込んだ。

 こっちをみている。そう蒼介は感じた。でも、女の瞳は大きなサングラスに隠れていて分からなかった。

 女は黒いニットキャップをかぶり、濃いブラウンの大きなサングラスをかけ、深緑色のダウンジャケットを着て、大きなボストンバッグを隣に置いていた。

 腕と足を組んでじっと前を見ているようにも見えたし、寝ているようにも見えた。

 蒼介は視線を窓から天井へと移し、車内をゆっくりと見回した。

 窓の上には『貸し金融』『美容外科』『進学塾』様々な広告が張り巡らされ、天井からは週刊誌やファッション雑誌の中吊り広告が下がっている。

 『ショコラ』という女性ファッション誌の広告では、真っ赤なミディアムボブのヘアスタイルをしたモデルがポーズを決めていた。

 シュアンと言う名前で、朱殷という色の名前から命名したのだとか。

 だから髪の色も朱殷色にしている、と蒼介は何かの雑誌で読んだ事があった。

 また、シュアンと言えば、ハリウッドの有名な監督の作品に出演が決まったばかりの、話題の女優でもある。

 赤い髪の毛と個性的なファッションで、若い女性のファッションリーダー的な存在でもあるが、シリアスな社会派ドラマで地味な役を演じる彼女を見た時、赤いウィッグをかぶっているよりも魅力的だなと思った記憶があった。

 そして、普段のシュアンはもしかしたらこんな感じなのかな、と窓に映る女を見ていた。

 顔も見えないし、ニットキャップから出ている髪の色も違う。

 それでも、どこか似ている気がした。

 鷹山で降りる時、彼女のそばを通るとふんわりと香水の香りがした。

 これまでに嗅いだことがないエキゾチックな香りで、なぜかインドのタージマハールを思い出した。

 別に行ったことなんてなかったけれど。

 けれど、そのエキゾチックな香りが、なんだかシュアンのエキセントリックなキャラクターに似合っているような気がして、もしかしたら彼女がシュアンなのではないかと思ってしまうのだった。


 鷹山駅に着いて早々、蒼介は暗い駅前でがっくりと肩を落とした。

 四恩高校まではバスが出てるはずだった。

 しかし学校行きバスはもう終わってしまっていた。

「まだ八時前じゃないか」

 あとはタクシーで行くしかないのだが、だったらもう少し早めに家を出るんだったとよくよ後悔した。

 でもすぐに、どうせタクシーで行くのなら時間を気にすることはないと、初めて来た鷹山と言う街を少しぶらぶらすることにした。

 観光地らしく、駅前には土産屋が立ち並び、街に明かりを灯している。

 しかし、慣れた地元横浜の繁華街と比べると、高い建物は少なく、人もまばらでなんだか寂しい気がした。

「ちょっとなんなの?」

と言う女性の声が聞こえた。

 声のした方を見ると、道路を挟んだ向かいの歩道に警察官と女性がいた。

 よく見ると電車で一緒だったあのサングラスの女性だった。

 警察官の手元で何かが光った。ナイフのようだった。

 蒼介は急いで二人の元へ走った。

「どうしたんですか」

 突然蒼介が割り込んで来たので女性は驚いたが、少し安堵した様でもあった。

 若い警察官が、

「何だよ。あんたには関係ないだろ」

と、去れと言うように手を振った。

「関係なくないです」

と、蒼介は女性の前に立ち憚った。

「じゃあさ、あんたも交番まで来てくれる?」

「だから、どうしてなのか聞いてるでしょ」

 サングラスの女が言った。

「だからぁ、銃刀法違反になるの。こんな大きなナイフ持ってたら」

 警察官が箱に入ったナイフを見せた。

 十字架の形をした銀製のナイフで、細かい細工が施されたアンティークのようだった。

「あのね、銃刀法違反にならなくても、軽犯罪法違反にはなるんだな。ちょっと取り調べしたらすぐ返してあげるから、交番まで来てよ」

 若い警官はにやにやしながら言った。

 蒼介は警官からナイフを取り上げ、女に返した。

「な、何すんだ」

 蒼介はキッと警官を見据えた。

「職務質問で違反になりそうなものを見つけて、ちょっと話し聞かせて、って交番まで任意で出頭させて、そのまま警察署へ連れて行って逮捕。

 ナイフ取り上げて指紋と写真とって書類送検。よくある点数稼ぎの方法だよね」

 警官の顔色が分かりやすいくらいに変わった。

 蒼介はスマートフォンを取り出した。

「まず、この会話は録音しますね。

 改めて、何が何の違反になるのか説明してもらえませんか?」

「だ、だから、こんな大きなナイフは銃刀法違反なの」

「確か、刃渡り六センチ以上が違反ですよね。でも、このナイフ……」

「ただのペーパーナイフよ」

「そう、このペーパーナイフ、何処までが刃渡りになるのかなぁ」

「あのな、たとえ六センチ以下でも軽犯罪法違反なんだよ。うるせーな」

 警官はあからさまにイライラしていた。

「それにこれはアンティークのペーパーナイフで、ちゃんと箱にいれてありますよね。明らかに観賞用ですよね。お巡りさんには分からないかもしれないけど、純銀製でかなり高価なものですよ。二、三百万円もするものでわざわざ犯罪を犯そうと思いますか?」

「あんたが何を言おうが、これは法律なの。

 人を刺せる形をしてたら違反なの。

 あんまり反抗すると、この場で逮捕する事になっちゃうけど、どうする」

「ならば、母に連絡します。母は法律家なので」

 蒼介は警官の小さな目をじっと見た。

 警官の瞳が揺れているのが分かった。

「多分、この場合、専門家が見れば違反にはならないでしょう。

 とりあえず、母に電話します」

「ちょ、ちょっと待った。もう、めんどくっせ。行っていいぞ」

「じゃぁ、違反じゃないんですね」

「よく見たら、飾りもんじゃぁねぇか。いいよ、もう」

 そう言って、警官は暗がりの方へ消えて行った。

 蒼介は地面に放置されていた、ボストンバッグを持ち上げ、女に渡した。

「ありがとう」

と、女は受け取り、ナイフの入った箱を大事そうにしまうと、蒼介を見て思い出したように言った。

「あなた、もしかして、電車で一緒じゃなかった?」

 蒼介の顔色がパッと明るくなった。

「そうです。通路挟んで隣の席にいました。

 あなたもここで降りたんですね」

 女は肩をすくめた。

「私、ホテルを探してただけなのに。

 いきなり職務質問されて。でも、凄いのね、君」

「実は、俺もやられた事があるんです。

 その時に母親から無茶苦茶説教されて、点数稼ぎの輩にほいほい付いてくなんて馬鹿かと」

「お母さん、法律家って弁護士とか?」

「いえ、それはかなり盛りました。

 ただの生活相談のボランティアとかそういうのをしているだけです」

と言って蒼介は笑った。

 女もふふっと笑った。

「あの、もしかして、モデルのシュアンさんじゃないですか?」

 蒼介は電車の中から気になっていた事をつい口にしてしまった。

 女は首をかしげた。

「違うわ」

「そうですか、すいません。

 その首のほくろが、シュアンと同じところにあるから。てっきり」

 蒼介は自分の右耳の十センチくらい下を指差した。

 黒っぽいほくろのようなものが二つあった。

 女はダウンジャケットの襟を引っ張り上げて隠した。

「本当に違うのよ」

「こっちこそ、すいません。あ、そうだ、ホテルまで送って行きますよ。

 また職質されても面倒でしょ」

「そう? ありがとう。実はちょっと、地図がわかりづらくて」

「見せてください」

 女はポケットからスマホを取り出し、画面を見せる。

 地図を見ながら蒼介は心の中で大きくガッツポーズを取った。

 さりげなく女を送って行く事に成功したのだ。


「とにかく本当に助かったわ。

 二、三百万円もしないけど、本当に大切なものだったから、

 没収されずに済んでよかった」

 ホテルのエントランスにあるカフェで、女はグラスワインを飲みながら礼を言った。

 蒼介は「そんなたいした事じゃないです」と言いながらコーヒーを啜った。

 女がさっきのお礼にと頼んでくれたコーヒーだった。

「素敵なナイフですね。アンティークなんて適当に言ったけど」

「かなり古いものよ。ルーマニアで買ったの。

 魔除けとか、お守りみたいなものらしいわ」

「十字架の銀のナイフ。魔除けかぁ。確かに、効果ありそうな雰囲気だったな」

「まぁ、気休めよ」

 ふうん、と蒼介は女を眺めた。

 ニットキャップを脱ぐと、深い栗色のつややかなショートヘアが現れた。

 キャップを被っていたせいでぺったりとしていたが、あちこちに飛び跳ねている髪も素敵だった。

 大きなサングラスはまだしたままだった。

 電車でも嗅いだ香水の香りがふんわりと鼻腔を刺激した。

「そうだ、あなた四恩高校の学生さん?

 電車の中でパンフレット見てたでしょう」

 やっぱりこっちを見てたんだ、と蒼介は思った。

「これからなるんです。転入生です」

「そうだったの」

「知ってるんですね。四恩高校」

「あぁ、知り合いが先生をやってるから」

「へぇ、誰ですか」

「美術教師の小野寺って人。昔の知り合い」

「会いに来たんですか?」

「え? あぁ、まあ会えたらいいけど」

 女はグラスを口に付けた。

「男女交際禁止なんです。そこ。ただでさえ山に囲まれて何にもないとこらしいのに、話も出来ないなんて、残酷ですよ」

 と、蒼介は肩をすくめた。

 女はクスッと笑って言った。

「いいんじゃない、別に。

 高校は勉強するところでしょ」

「まぁ、そうですけど。

 でも、恋愛なしじゃ寂しくないですか?」

「楽しいことは他にもあるんじゃないかな」

 蒼介はごもっとも、という風にうなずいた。

「でも、高校生の時にしか出来ない恋愛っていうのもあるでしょ。

 あったでしょ?」

「私?」

「もちろん。だって、モテたでしょ。モテそうなオーラが出てるから」

「ありがとう。でも、恋愛なんてしなかったわ」

「うそ」

「ほんと。私、中学、高校と女子校だったの。

 男の兄弟もいなかったから、男の子ってよくわからない生き物だったな。

 それに、女子校の周りをうろついている男の子って、すごく下品に見えて嫌だった」

 蒼介は胸がチクリと痛んだ。

「恋愛の他に楽しみなんてあるんですか?」

「君は恋愛しか楽しみがないの?」

「何を言ってるんですか。世界は愛を中心に回っているんですよ」

 女は、ははっと笑った。蒼介は少し馬鹿にされたように感じた。

「知ってますよ俺。

 そういう男に免疫がない女の子って、恋に恋して、いつか白馬の王子様が現れるって信じてるんでしょ」

「王子様? 君は王子様になりたいの?」

 イラっとさせる言い方だった。

「なれるわよ。その甘いフェイスなら。モテるんでしょ」

「あなたのタイプじゃないみたいだな。俺。

 じゃぁ、どんな男がタイプなんですか」

「そうね。私が高校生の頃は、君とは真逆のタイプが好きだったな」

「真逆って、どんな?」

 女は蒼介に顔を近づけて囁いた。

「悪魔」

 ……悪魔。

 女のその口調に、蒼介はゾクッとする色気を感じて妙な気分になった。

 そんな蒼介を見て、女は吹き出した。

「私はネクラなホラー少女だったの。

 誰からも嫌われている悪魔が魅力的に見えたのね」

と、女は自嘲するような笑い方をした。

 誰かがシュっとマッチを擦ったみたいに、唐突に蒼介の恋の炎が点火した。

 それは衝動的で衝撃的で、理屈でもなく理由もなかった。

 胸が熱く、締め付けられる感覚。

 何度感じても飽きることのない、甘い予感。

「あの……ずばり、悪魔の魅力ってなんですか?」

 蒼介の視線は熱を帯び始めていた。

 女の頬が少し赤くなる。

「タブーなところかな」

「タブー、ですか」

「存在してはいけない存在だから」

「なるほど」

 女はグラスワインを飲干した。

「禁断、って言葉、魅力的じゃない?

 禁断の地、とか、禁断の恋、とか」

「確かに。でも禁断の恋だったら、なにも悪魔じゃなくても、教師と生徒、とかでもいいじゃないですか」

「教師と生徒なんて禁断でも何でもないじゃない」

 女は少し酒が回って来たようだった。

 そのおかげで、まだ話しを続けられそうだった。

 なにせ、この後女性と話しが出来るのはいつになるのか分からないのだから。

「でも、悪魔は恋とかするんですか」

「恋、とは違うかもね。彼らにとって人間の女はただの獲物よ」

「それでも悪魔に恋をするんですか」

「身を滅ぼしても遂げたい愛というのがある、と信じていたのよ。幼かった私は」

「そうか、じゃぁ、今あなたを口説こうと思ったら、別に悪魔のようにならなくてもいいわけですね」

「口説こうとしてるの?」

「まぁ、隙あらば……」

 女は呆れたように笑った。

 そしてウェイターを呼んでワインをもう一つ頼んだ。

「それじゃあ、一つテストしていいかしら。君が私を口説き落とせるか」

「望むところです」

 蒼介は、身を乗り出した。

「君が悪魔だとするわね。

 君の事を愛している人間の少女がいます。

 少女は君のためなら喜んで命を差し出すわ。

 命を奪う行為ははたから見たら残酷よね。

 でも、少女にとっては最高の喜びなの。

 そして君も少女の事を愛している。

 少女を愛すれば愛するほど、彼女のすべてが欲しくなる。

 その肉を、魂を。

 そして悪魔が出来る事は相手の命を、魂を奪う事。

 その欲望を抱えながら少女といつも一緒にいられる?

  抱きしめたりなんかしたら、彼女の体は崩れてしまうの。

 さて、君は彼女の命を奪えるかしら」

 蒼介は、想像する。愛する女を抱けないことを。

「僕は……、彼女の元を去ります。そして、遠くから見守る」

「彼女が他のろくでもない男に抱かれてもいいの?」

「それで彼女が幸せなら」

「幸せじゃなかったら?

 あなたと一緒になれなくてやけっぱちになってるだけだったら?」

「それは……」

「彼女はあなたしか愛していないの。

 あなたと一緒になることだけが彼女の幸せ。

 あなたがいなくなったら人生終わったも同然。

 廃人になるだけ。それでも、彼女を見捨てる?」

「わからない。難しい……でも」

「でも?」

「少女はきっと廃人にはならない。

 彼女のことを思ってくれる人が必ずいるはずだから。

 身を捧げたくなるほどの激しい愛にはかなわないかもしれないけど、周りをよく見れば穏やかで慎ましい愛があると思う。

 見過ごしてしまうぐらい平凡でつまらないものかもしれないけど、

 そういうものに興味がない少女に、俺はあまり興味が持てない」

そう言い切った蒼介の目には力があった。

 若さと情熱と純粋。

「なるほど」

 女はふふふっと笑った。

「君は、悪魔には向いてない」

「たぶん」

「それじゃぁ、高校生の頃の私は落とせないわね」

「それじゃ、今のあなたなら?」

「当然、無理。未成年でしょ、君」

「まあ」

「でも」

 女はサングラスの奥からじっと蒼介を見つめる。

「高校生、にしては落ち着いて見える」

「その見方は、正しいと思います」

 蒼介と女は顔を見合わせてクスクスと笑った。

 女はすっかりリラックスしているようだった。

「それで、命を捧げたくなるほどの悪魔には会えたんですか」

 女はそれには答えず、グラスのワインを再び飲干した。

「それより、学校の方はいいのかしら。

 随分引き止めちゃったけど」

 蒼介は腕時計を見た。九時を過ぎていた。

「あぁ、そうですね、気は進まないけど行かないと。

 でもその前にひとついいですか?」

「何?」

「連絡先、聞いてもいいですか」

「それは、NGね」

「分かりました。じゃぁ、僕の連絡先です」

 蒼介は鞄からペンを取り出し、ペーパーナプキンに名前と自分の電話番号と通話アプリのIDを書いて渡した。

「由井くん、ね。覚えやすいわね」

「本気で口説きたいんで。

 気が向いたら連絡してください」

「気が向いたらね」

と、女はナプキンをジャケットのポケットに突っ込んだ。

「あと……」

「まだ何か?」

「あの、本当にシュアンじゃないんですか」

 まだ疑っていた蒼介は訊ねた。

 すると女はサングラスに手をかけ、はずした。

「あ」

 そこに、マスカラをたっぷりとつけたグラマラスな瞳があることを想像していた蒼介は驚いてしまった。

 女の左のこめかみから左目の上まで、赤い湿疹が広がっていた。

 まぶたは湿疹のせいで腫れ上がり、左目は半分しか開いていなかった。

「わかった? 私はシュアンなんかじゃない」

と言って、サングラスをかけた。

「じゃぁね。楽しかったわ」

「あの……」

 蒼介は女を追おうとしたが、彼女は荷物を持って行ってしまった。

「くそ、彼女きっと勘違いしたぞ。

 別にシュアンじゃなくたっていいんだ、俺は」

 蒼介は腫れ上がった目を見て驚いてしまった自分を悔やんだ。

 でも、また女と会えるような、そんな気がしていた。

 彼女との間に何かが起こりそうだと胸が騒いでいた。

 『カン』

 動物的な勘というのか、第六感というのか。直感とか、そういう『カン』が確かに蒼介にはあった。

 しかし、その『カン』が何を意味しているのか、何に繋がるのか、そこまではわからないのだった。

 そしてこの時、十代の多感な少年は、それを間違いなく『恋』だと思った。

 それは正解かもしれないし、とんだ勘違いかもしれない。

 しかし、勘違いもまた恋のひとつで、いや、恋というものがそもそも勘違いなのかもしれない。

「確かに悪魔には向いてないかもな。

 でも、ただの少年にだって好奇心はあるのだよ」

と、蒼介はペーパーナプキンに『朱藤 杏』と書いた。

 フロントで財布を女が財布を広げている時に、蒼介は抜け目なくカード入れにあった運転免許証を見たのだった。

 一般的な財布のカード入れに免許証が入っている場合、名前と生年月日が見える状態にある。

「しゅとう、あん。やっぱりシュアンだったな」

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