3 宮川先生
蒼介を乗せたタクシーが四恩高校に到着した時、すでに消灯時間の十時をまわっていた。
とはいえ、昨日の十時と言えばまだ蒼介は普通に起きていたし、街だって明るく、眠るには早い時間だ。
でも、今いるのは真っ暗な山の中。
静か過ぎて起きているほうが不自然のような気がしてくる。
タクシーが去ると蒼介は途端に心細くなった。
何故ならそこは、黒い木々と黒い空と黒い地面の境界線がぼやけたただの黒い空間。
ひとつだけしかない入口の外灯が、ひっそりとスポットライトのように蒼介を照らしていた。
蒼介はぶるっと身震いをすると、重そうな黒い門に近づいた。
ぴっちりと閉じた門の脇に、小さな赤い光があった。インターホンだった。
押すと間髪いれずに事務的な声が返って来た。
「由井蒼介さんですね。門を入って道なりに真っ直ぐに来て下さい。
事務室があります」
若い女性の甲高い声はその場所に異様に響いたが、人がいることが分かって蒼介の気持ちは少し軽くなった。
ガチャリと電気錠が開いた。
ぽつぽつと足元を照らすライトを頼りに、言われた通りに道に沿ってしばらく進むと、建物の明かりが見えて来た。
暗くてわからないが、あまり大きくない建物だ。ここが事務室なのだろう。
蒼介は扉のガラスから漏れる蛍光灯の光に思わず懐かしさを感じ、目を細めた。
中に入ると、女性が一人、電話の受話器を耳にあてていた。こじんまりとした部屋で、グレーのデスクやロッカーや棚が所狭しと並んでいた。
「古き良き事務室」
と蒼介はつぶやいた。
電話には誰も出ないらしく、女性は蒼介に気がつくとすぐに受話器を置いた。
「遅かったのね。すぐに寮に行きましょ」
女性は少しイライラしているようだった。先生だろうか。
やや高圧的な態度がそう思わせた。蒼介は遅れた訳を話そうかと思ったが、話したところで彼女のイライラは収まらないだろうと思ってやめた。
「すいませんでした」
「いいよの、別に」
いいのよ、と言いながらもその口調は刺々しく、あからさまに蒼介を非難していた。
彼女は机に置いてあったコートを羽織り、入り口の近くにあるカウンターに置いてあったネームカードを掴んでコートのポケットに押し込んだ。
『宮河』と書かれているのがちらりと見えた。
蒼介は急ぎ足の『宮河』先生? の後を追って外に出た。
外は寒かったが、彼女のスカートは短かった。
ファーのついたコートは暖かそうだったが、ストッキングだけの足は見てるだけでこっちが寒くなる。
ファッションにかける女性の精神力って凄いな、と思いながら、蒼介は暗闇ではぐれないよう、彼女が照らす懐中電灯の明かりに目をこらし、ついていった。
小道は一応舗装されていて、一定の間隔で足下を照らすライトがついていた。
木のトンネルをくぐっているような道をしばらく歩く。やがて突然木々がなくなり、かわりに建物の棟の群が現れた。
控えめな明かりの数々が夜空の星のように見えた。
本物の夜空は雲っていて月明かりも見えなかった。
男子寮は学校の敷地の中の一番奥にあった。
寮に着くと宮河先生はカードキーで鍵を開け、蒼介を中に入れた。
入るとすぐに下駄箱があったが、どこが自分のだか分からないので、靴は下駄箱の上に乗せておいた。
もう一つの扉を開けて中に入ると、古いホテルというか病院のロビーのようになっていた。ビニール素材のベンチが並び、自動販売機とテレビと、公衆電話がある。公衆電話っていつの時代かよ、と驚く。
「ここでまってて」
というと、先生はどこかに消えてしまった。
蒼介がソファに腰をかけようか迷っていると、誰かが階段を降りてきた。
見ると、男子生徒のようだ。
「由井くんだね。遅かったな」
男子生徒は上下紺色のジャージという姿なのに、何故かきちっとしていて、まるで正装をしているかのような雰囲気を漂わせていた。
銀縁の眼鏡の奥にある切れ長の瞳は、蒼介を歓迎しているようには見えなかった。
やはり来る時間が遅すぎたのだ。
「僕は副寮長の呉木だ。
今日はもう遅いから話は明日にしよう。
生徒手帳は読んだか?」
「まぁ、一応」
「ちゃんと読んでおくように。で、先生は?」
「え?」
蒼介は、呉木の偉そうな物言いに面食らっていた。
「まさか、一人できたんじゃないだろ?」
「えっと、宮河……先生かな
ちょっと待ってろって、あっちに……」
「宮河先生か。
じゃぁ、君の荷物を持って来てくれるんだろう。
先生は寮長で、僕らと同じ、ここに住んでいる。
分からないことがあったら僕か先生に聞くといい」
蒼介は適当に相づちを打って偉そうな言葉を聞き流そうとした。
が、ちょっとまて。
さっきの若くて寒い日でもミニスカートを履くような先生が、
「ここに住んでるって、男子寮に?」
オーバー気味のリアクションに呉木は眉をひそめたが、あくまでもクールに答えた。
「そうだ」
「本当に?」
「別におかしくないだろ?」
蒼介は混乱した。
男女交際禁止の学校の男子寮に、若い女教師が寝泊まりしているのはおかしくないだろうか。
ここの男子生徒たちにとっては普通なのか。
風呂上がりの先生とすれ違ってもなんとかって言う気持ちにならないのか。
煩悩を抹殺する術でも心得ているのだろうか。
もしくは煩悩すらない僧侶の集団なのかもしれない。
「俺には、無理だな」
とぼそりとつぶやいた言葉に、呉木が反応した。
「なにが無理だ?」
宮河が一緒の寮に住んでいることを、呉木は全然おかしいと思っていないように見えた。
優等生ぶったこの男なら、本当に女に対して普通の青少年が抱く感情を抹殺できるのかもしれないと蒼介は思った。
「いや、なんていうか。
君には理解できないかもな」
「なんのことだ?
僕が何を理解できないって?」
「悪い、なんでもない」
「僕を馬鹿にしているのか?」
「ムキになるなよ……。
ただ俺は、いくら相手が先生だからって、一つ同じ屋根の下で生活してたら、ムラっ、いや、そういうあらん気持ちが出てくるだろうし、それを我慢するのは精神衛生上どうなのかって……」
蒼介は、また睨みつけられるかと恐る恐る呉木を見たが、呉木はぽかんと蒼介を見つめていた。
「誰にムラムラするって?」
「え? あの、あの先生に。
だって、可愛いじゃないか」
呉木はしばらく何かを考えていたが、
「つまり、君は、宮河先生を可愛いと思う。
そして性的興奮を覚えるってことか?」
「だから、同じ寮に住んでたら、そういう可能性もあるんじゃないかってことだよ」
「では君は、男に性的興奮を覚えるのか?」
呉木は睨みつけるのとは違う、切羽詰まったような真剣なまなざしで蒼介の答えを待っていた。
「ちょっと待って、男って。
宮河先生は女だろ?」
「男だ」
「うそ、どう見ても女だろ」
「君、本当に宮河先生が女に見えたのか?」
「俺が、女に見えるって?」
二人が気がつかないうちに、青ざめた顔の男性が玄関の扉の前に立っていた。
暖かそうなベンチコートを着てニットキャップも被っていたが、寒いのか具合でも悪いのか、端正な作りの顔は蝋人形のように血の気がなかった。
「宮河先生。先生がこいつを連れて来たんじゃないのですか?」
と、呉木は男に向かって尋ねた。
宮河先生? この男が? 蒼介が首を傾げていると、
「いた、宮河先生!」
と、廊下の奥から蒼介をここまでつれて来た『宮河先生』がやってきた。
彼女は、明らかにイライラしていた。
「先生、由井蒼介くんを連れてきました。あと、これ落ちていたそうです」
と、早口で言うと、ポケットからネームカードを取り出し、男に手渡した。
蒼介が見たネームカードだ。蒼介は開けた口の閉じ方を忘れてしまった。
「ありがとうございます。吉田さん」
「吉田さん?」
思わず尋ねた蒼介に、吉田と呼ばれた女性は、
「事務の吉田です。じゃ、失礼します」
と、言うと、あっという間に帰って行った。
「吉田さん?」
蒼介はもう一度呉木に訊ねた。
「そう、事務の吉田さんだ」
蒼介は気まずさを感じないではいられなかった。
宮河はネームカードをポケットに押し込むと、ニットキャップを脱いだ。
柔らかそうな髪の毛がさらりと額に落ちた。
白くて均衡のとれた顔立ちは、何処か博多人形を思い出させた。少し充血した瞳が、蒼介をとらえた。
「ええと君……」
宮河が言い終わらないうちに呉木がピンと張った声で言った。
「由井蒼介です」
「あぁ、由井くん。遅かったな」
宮河は疲れているようだったが、新しい生徒の前で背筋を正した。
端正な顔立ち、すらりとした立ち姿、どこか憂いを帯びた瞳、しかも若い。
女子生徒がほっとかないな。と、蒼介は少し羨ましく思った。
「由井くん、君の荷物を取りに行こう。そこの管理室にあるから」
そう言って、宮河はロビーのすぐそばにあるドアを指して、ジャケットのポケットから鍵の束を取り出した。
「はい」
と、蒼介と呉木が宮河の後に続いた。
宮河が怒っているかどうか確かめたかったが、青白くやつれた表情からはうまく読み取れなかった。むしろ、ひどく体調が悪いように見えた。
管理室の六畳くらいのスペースには、デスク、パソコン、スチールの棚などが置かれていた。壁にはブレーカーやキーボックスの用なものがあり、ほかにはよくわからないものが乱雑に置かれていた。部屋の隅には蒼介が送った見覚えのある大きな段ボールが二つ置いてあった。
「呉木も手伝ってあげて」
と、宮河は段ボールを一つ持ち上げたが、かがんだ姿勢から立ち上がったとたん、体がよろけた。
箱を受け取ろうとそばにいた蒼介はとっさに宮河の体を支えた。
段ボールが大きな音を立てて落ちた。
「先生!」
呉木が驚いて駆け寄った。
蒼介はぐったりした宮河の体に手を回して、しっかりと抱きかかえた。
あれ?
蒼介は不思議な、違和感のようなものを感じた。
「救急車だ」
と呉木がうわずった声で言った。
「いや、呼ぶな。
大したことじゃない」
宮河が蒼介に支えられながら体をゆっくりと起こした。
蒼介は、近くにあった椅子に宮河を座らせた。
「大丈夫ですか? 病院へ行った方がいいんじゃ……」
と蒼介は宮河に尋ねたが、宮河は首を振った。
「すまない。
貧血なんだ。
大丈夫」
そう言って、宮河は立ち上がり、蒼介の世話を呉木に任せると、ふらつく足取りで自分の部屋へ帰って行った。
蒼介は呉木に連れられて二階へ行く途中、階段を上りながら言った。
「宮河先生、いつもああなのか?」
「どっちの宮河先生だ?」
「え?」
「事務の吉田さんを宮河先生だと勘違いしたんだろ?
宮河先生が女に見えるなんてありえない」
呉木は振り返りもせず、嫌みったらしい口調で言った。
それでも蒼介は勘違いが解けてほっとした。
「よかった、分かってくれて。
なんか、話が通じないと思ったんだよね。
宮河先生もわかってくれたかな?」
「さあ、どうかな」
「でもさ、本物の宮河先生も美形だよな。
綺麗な顔だったな……」
呉木がびっくりするくらいの早さで振り返った。
「きさま、言葉を慎め。
教師をそんな目で見るな」
「な、なんだよ。
べつに綺麗とかかっこいいとか言うくらい、いいだろ?
それに、実際モテるんじゃないの? あの先生」
呉木はわざとらしい、長い溜め息をついて、
「由井蒼介、どの教師が恰好いいだの綺麗だの、そんな事議論してどうなる?
しかも教師に恋愛感情を抱くなんて、失礼かつ無意味。
この学校では恋愛は禁止。
男女の会話も禁止。
絶対に許されない」
「でも、片思いくらいはしてもいいでしょ。
思想の自由という権利は法律で守られてるでしょ」
呉木は軽蔑を込めた目で蒼介を睨みつけた。
蒼介は別に悪びれずに続けた。
「それにさ、校則は男女の恋愛を気にしてるようだけど、恋は別に男女のあいだだけに生まれるものじゃないよね。
同性愛ならいいってわけ?
それもダメなら、他人との会話すべてを禁止したほうがいいんじゃない?」
蒼介の言い方は決して攻撃的なものではなかった。
ただ思った事を素直に言っただけだった。だから、呉木としては余計に苛ついているようだったが、次の一言でもう黙っていられなくなった。
「禁止されたって止められないのが恋じゃないか。
君だって恋くらいするだろ」
呉木は蒼介に掴みかかる勢いだった。
あまりに近くに呉木の顔が迫ってくるので、蒼介は壁に背中を押し付けられる格好になった。
「お前、よくそんな恥ずかしい事を平気で言えるな。
愛だの恋だのおまえの浮ついた考えなんか聞きたくない。
いいか? 校則には従ってもらう。
もし、お前が男好きの好色野郎だったら、今すぐ出ていけ。
風紀を乱すような事したら、ただじゃ済まないぞ」
「ただじゃ済まないって、どうするんだよ」
と、聞いてみたかったけど、もう疲れていたし、喧嘩をするのも面倒だったから何も言わなかった。
それに、呉木の目には本当にただじゃ済まさない、というただならぬ気迫があった。
「分かったから、離れろよ」
呉木は目は逸らさずにゆっくり後ろに下がった。
「忠告しておく。
校則違反者には罰を受けてもらう。
よく生徒手帳を読んでおくように」
蒼介は渋々肯いた。
呉木はたっぷりと時間をかけて蒼介から視線を外すと、きびきびと階段を登っていった。
「『
ドアに『橙』と書かれたオレンジ色のプレートがかかっていた。
向かいの部屋には『紺』と書かれた紺色のプレート。
部屋に色の名前がついているんだな、と蒼介は思った。
呉木は部屋の前に荷物を置くと、蒼介に一瞥をくれてから来たほうへ戻っていった。
転入早々、副寮長に嫌われてしまったようだ。
ダンボールを床へ置くと、貰った鍵を出したが、同室の生徒がいることを思い出して、ノックをすることにした。
軽くコンコン。
しかし、中からは何の音もしなかった。
そういえば、他の生徒を見かけない。
確かに消灯の時間は過ぎているが、本当に皆寝てしまっているのだろうか?
少なくとも、同室の生徒は寝ているようだ。
蒼介は鍵を使って、出来るだけ静かにドアを開けた。
部屋の中は暗かった。
薄明りの中で見えたのは、六畳もないくらいの狭い部屋の中に、デスクがロッカーを挟んで並んで二つ。
そして二段ベッド。下のベッドの布団が膨らんでいた。
姿は見えないが、寝息が聞こえた。
プライベートの空間を共有する、というのは、兄弟でも部屋を共有したことがない蒼介にとって未知の経験で、想像出来ない不安がある。
静かな寝息を立てて寝ているこの生徒がどんな相手なのか。
よき友人になるか、はたまた……。
色々考えるには疲れ過ぎていた。
蒼介はコートを脱ぐとダンボールや紙袋と一緒に部屋の隅に置き、そっとドアを閉めた。
そして、手探りで二段ベッドをよじ登り、ごそごそと布団を被ると目を閉じた。
風呂も歯磨きもしていなかったが、もう何もする気が起きなかった。全部、明日でいい。
明日から、ちゃんとやろう。
深い眠りに落ちる前に、シュアンのことを思い出した。
悪魔に魅せられたシュアン。
しんとした寮の外では、誰に知られることもなく細かい雪がうっすらと降り始めていた。
暖かな布団の中で、蒼介は赤い髪の女の夢を見ていた。
降り始めた雪に目もくれず、闇に溶け込むようにして歩いている少女がいた。
彼女は学習棟と呼ばれる校舎に入って行く。
誰もいないはずの、真っ暗な校舎へ。
音も無く階段を上り、二階にやってくると真っ暗な廊下をしばらく見ていた。
いや、見ていたのは廊下ではなく、数学準備室と書かれた部屋だった。
非常灯でぼんやりと浮かび上がる閉まったドアを、まるで凍らせようとしているかのように冷たい視線を送り続けている。
しばらくすると、今度は帰るでもなく階段を登っていった。
最上階の4階には音楽室と美術室があった。
暗い廊下に、美術準備室から黄色い明かりが落ちていた。
真田アカリは眩しい光に向かって歩いて行った。
美術準備室は名前の通り美術の授業で使う工具や画材なども置かれている。
この学校では準備室の半分のスペースは、教師が個人の研究室として使用していた。
美術の教師は小野寺しかいないので、美術準備室の半分は彼のアトリエとなっていた。
小野寺はキャンバスしか見えていないのか、アカリが入ってきてもしばらく気がつかなかった。
キャンバスを覗き込もうと近づいた時、はじめてアカリの姿が目に入ったようだった。
よほど集中していたのか、小野寺は腰を浮かせるほど驚いた。
「幽霊でも見たような驚きかた」
アカリの話し方は平坦で表情がなかった。
作業を中断された小野寺は、再開するのはあきらめて筆とパレットを置いた。
「真田なぁ、幽霊はじわりじわりと気配から来るんだ。
突然現れて驚かしたりはしない。
それで、今は確か消灯時間を過ぎていたな」
アカリは小野寺のキャンバスを覗き込んだ。
一面、赤い色が広がっていた。
一瞬、炎かと思ったが、じっと見ていると炎のような激しい印象ではなく、静かな温もりが感じられた。
アカリはキャンバスの前を離れるとベンチに腰を下ろした。
「佐和が自殺を図った」
「聞いたよ」
小野寺は腕組みをしてアカリの方を見た。
アカリはまっすぐに小野寺の目を見つめていた。
「どうするの?」
「どうにもできないさ」
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