23 遊戯の結末
杏が松波虎之介と出会った時、彼は十七歳とは思えないほど、すでに大人の体を手に入れていた。
背は高く、ハーフのような顔立ちの美青年だった。
彼は小野寺尊の卒制である『吸血鬼の戯式』を気に入って、小野寺につきまとっていた。
自分の作品を好きだと言われて誰も悪い気はしないように、小野寺も松波の事をうっとおしくは思っていなかったようだ。
その時、杏は十九歳で、小野寺を愛していた。
小野寺は卒業後は岐阜県にある私立高校へ就職する事が決まっていた。
杏はまだ学校があったし、モデルの仕事も僅かだがあったので都心からはなれる事が出来なかった。
かといって小野寺と離れるのは何より辛かった。
それでも彼には私が必要だと、信じていたから、離れても大丈夫だという確信があった。
小野寺は『吸血鬼』だったから。
彼には『処女の血』が必要だった。
だから、普通の恋人同士のように愛し合うわけにはいかなかったが、特別な関係を杏は楽しんでいた。
しかし、離れる前に、杏は小野寺と愛し合っていると言う実感が欲しかった。
だから、処女を差し出す事にした。小野寺は嫌がったが、血を見せたら彼は衝動を抑えることができなかった。
身も心も繋がって愛を実感するはずだった。
ところが、逆に小野寺は処女でなくなってしまった杏に興味を失くしてしまった。そうして別れを告げ、杏の元から離れてしまった。
ただただ後悔と傷心の日々を送る杏の救いは、松波虎之介だった。
彼は年下だったけど、杏よりも色々な事を知っていて、自分の気持ちに寄り添ってくれた。小野寺に尽くし疲れた杏は、寄りかかる事が出来る虎之介に徐々に心惹かれていった。
やがて虎之介は、友人を集めて作った秘密サークルへ杏を連れて行くようになった。
そこには虎之介のように暇と金を持て余した学生たちがいた。
虎之介は最年少だったが、サークルのリーダー的存在だった。
一番出資しているからだった。
彼らは大麻やクスリ、瞑想やカルト的な儀式によって精神を覚醒させる、という遊びに興じていた。
大体のメンバーは大麻やクスリ目当てで参加していたが、虎之介は遊びなのか本気なのか、杏には分からなかった。
よく彼は「宇宙と一体になれる」とか「精神が覚醒すると本当の世界が見える」とか「死人を生き返らせる事が出来る」とか、そういう壮大な話しを杏に聞かせたが、どれも突拍子もない事ばかりで本気で話しているとは思えなかった。
小野寺にインスパイアされた虎之介は『吸血倶楽部』という新たな秘密サークルを作った。
吸血鬼と彼らに血を捧げたい処女が集まり、晩餐会を執り行うのだ。
杏は小野寺の事を思い出すから参加したくなかったが、その時はもう身も心も虎之介のものになっていたので付いて行くより他なかった。
虎之介は小野寺と違って吸血鬼ではなかったが『血』が好きだった。
セックスの時に血を流さないと興奮出来なかった。
虎之介は歯科技士に金を積んで自分の牙を作らせた。
皮膚を貫く尖った牙を。
その牙をつけてセックスをするのが彼は好きだった。
杏も、牙をつけた彼の事が好きだった。
血を滴らせたその容貌はかつて憧れた悪魔にそっくりだったから。
冷たい牙が肌に触ると体の芯がゾクゾクとした。
牙が柔らかい皮膚を貫くと、鋭い痛みが首筋に走る。
痛みは内側から体中の性感帯を刺激する。
初めて牙を使う時、虎之介はクスリを使った。
そうすると不思議と痛みを感じなかった。
虎之介は知り合いの医療関係者から様々なクスリを分けてもらっていた。
どんなものか杏には分からなかったが、彼にすべて委ねた。
でも、彼が自分に与えるすべての感覚が欲しかったから、次からはクスリは使わずにするようになった。
痛みは実感だった。悪魔に愛されている実感。
噛まれた首筋が、痛みとともに熱く火照っていく。
杏は見る。
自分の血を、その口元に滴らせた悪魔を。
彼は美しかった。この世の者ではないと思わざるを得なかった。
悪魔の唇が、舌が、杏の理性の鍵をひとつひとつこじ開けていった。
どろんとした甘い鉄の匂いの中で、彼は、悪魔は何度も杏の体に噛み付く。
その度に興奮と気持ちよさが増して行く。
悪魔がもたらす痛みが、すばらしい血みどろの快楽へと導いていく。
血を使ったセックスはそう頻繁には出来ない。
悪魔でもその辺りの気遣いは出来るのか、それともただ飽きっぽいだけなのか、虎之介は一度杏を抱くと期間を空けた。
そして、その間に他の女とも関係を持った。
虎之介のマンションで知らない女と鉢合わせになることもよくあった。
「だって、毎日君を抱いてたら、君の体は傷だらけになってしまうじゃないか。
好きな君を毎日抱けない僕の辛さも分かってよ」
と虎之介は言った。
悪魔を好きになってしまった自分が悪い、そう思って嫉妬も憎悪も愛と言う言葉に変換して飲み込んだ。
そしてその日が訪れた。
その日は満月だったが、どうしても断れない仕事が入っていた。
しかし、夜には必ず部屋に行くと杏は虎之介と約束をした。
満月の日に虎之介は必ず杏を求めたからだ。
その日の夜遅く、杏は急いで虎之介のマンションに行った。
昼間にメールをした時、『待ってるよ』と彼から返事があったから。
だから、仕事が終わるとすぐにタクシー乗ってやって来たのだ。
ところが、玄関の扉を開けた杏は凍り付いた。
見た事がない女の靴があったからだ。
耳を澄ますが、音がしない。二人とも寝ているのだろうか。
杏はそっと上がると、ベッドルームへ行った。
中を覗くと、甘ったるいバラの香りと鉄の匂いがした。血まみれのベッドで虎之介と知らない女が裸で寝ていた。
杏の心臓の鼓動が、早く、強くなっていく。
どうして?
嫉妬が胸の中で渦を作り始める。
その割に頭は冷たく冷静だった。冷静に状況を観察していた。
血の量が多過ぎる……。それに、女の体の血は……。
ただ血まみれになっているのではない。
血で模様が描かれているのだ。
虎之介は小野寺の作品『吸血鬼の戯式』を模倣したのだ。
小野寺のと違うのは、所々牙で噛んだ後があることだった。
女はクスリで眠らされているのだろうか。
仰向けに寝たまま一ミリも動かない。
杏はそっと女に近づく。
呼吸をしていれば上下しているはずの胸がまったく動いていない。
死んでる?
と、突然虎之介がう〜んと起き上がった。
「来てたのか、杏」
虎之介はぶるっと震えた。
「やばい、すごく寒い。お風呂入ろう」
虎之介は女の事には全く興味がない様子だった。
「ちょっと、この人死んでるの?」
虎之介は血まみれの顔で笑った。
「あぁ、その子ね。
ネットで一緒に自殺してくれる人を探してたの。
会ってみたら本当に死んでもいいって言うからさ。
お言葉に甘えて」
杏は背中に冷たいナイフをあてられたような感覚に襲われた。
虎之介は楽しそうな笑顔を浮かべたまま、
「後で手伝ってくれる? その子埋めに行くの。
あ、その前に写真撮っておこう。
中々の出来だと思わない? 僕、芸術の才能あるかもしれないな」
悪魔だ。
そう杏は思った。
体が震え始めた。
吐き気がした。
いつもなら興奮を促す血の鉄っぽい匂いが、赤錆を舐めたような我慢ならない気持ちにさせた。
「ねぇ」
と言って、虎之介が体をくっつけて来てキスをした。
咄嗟に「逃げたい」と思ったが、体が動かなかった。
杏の下腹部に固いモノがあたる。見ると、勃起したペニスだった。
「早く君の血が見たい」
そう言って舌を絡めて来くる虎之介を、ありったけの力で引き離した。
「どうしたの?」
「……嫌に決まってるでしょ」
心臓を誰かに掴まれているかのように息がうまくできなかった。
虎之介は自分の体に付いた血を眺め回して頷いた。
「そうか、わかったよ。今シャワー浴びてくるから」
杏は虎之介に背を向けた。
「待っててね」
と、虎之介はニコニコしながらベッドルームを出て行った。
シャワーの音が聞こえてくると、杏は全速力で部屋を、マンションを出た。そして、携帯電話を取り出すと、震える指で一一〇番を押した。
「代官山の〇〇マンションの四〇九号室から悲鳴が聞こえたの。『殺される』って。悲鳴がたくさん聞こえて、大きな音も」
それだけ言うと携帯電話をコンビニのゴミ箱に捨てた。そして早足で大通りに出るとタクシーを拾って自分のアパートへ帰った。帰るなり旅行用のキャリーバッグを開き、服や化粧品や靴などを手当たり次第詰め込むと、待たせておいたタクシーに乗り込み、適当なビジネスホテルへ行った。
しばらく仕事もキャンセルして学校へも行かなかった。アパートは解約して静岡の実家に帰った。
ただただ、逃げたかった。松波虎之介という男から。
やがて風の便りで虎之介が精神病院に入院した事を聞いた。
警察はあの遺体を見つけたのだろうか。
虎之介を逮捕したのだろうか。
現役大臣の息子を逮捕すれば世の中でも話題になるはずだ。
それがないということは、彼の親がうまく処理したのだろうか。
しかし、彼がどうなったのか知りたいという気持ちより、もう関わりたくないという思いの方が強く、杏はテレビや新聞から遠ざかっていた。
そんな時、事務所から映画出演の話しが舞い込んで来た。
マニラでの撮影で、一度行ったら二ヶ月くらい滞在する事になるという。
ギャラは安かったが、杏は喜んで飛びついた。
虎之介から逃げるために参加した映画撮影だったが、杏はそこで演じる事、作品を作ることの楽しさを知った。
世界の片隅でほそぼそと演じ続けられたらいいな、と漠然と思った。
ところが、その映画が評価され、杏はあれよあれよと有名女優の道を歩くことになった。モデルの仕事も増えた。有名になる事には抵抗があったが、そんな思いとは別に、周りの人間たちがどんどん杏を押し上げて行った。
杏はシュアンという芸名を使い、赤いウィッグを被って派手なメイクをし、強烈なイメージを身に纏う事で、本当の自分を隠した。
本当の自分がバレるの恐怖はあったが、やりたい事をやっていられるのは幸せだった。
その日までは。
そう、恐れていた事が起こってしまったのだ。
まず、『吸血鬼の戯式』の映像がネットに流出した。
それから、ファンレターが届いた。
「君はいつまでも俺のもの。会いに来てくれる事を願ってる」
虎之介からだった。
携帯電話の番号とメールアドレスまで書かれていた。
彼とはもちろん会いたくなかったが、無視すれば過去の事を世間に暴露されるかもしれないと思った。
秘密サークルで大麻やドラッグを使用した事がバレればこの世界から追放される。
会いに行かないわけにはいかなかった。
杏は岐阜県の鷹山市につくと、彼が指定した住所までタクシーで向かった。
着いたのは、木が生い茂った古い民家だった。
日は落ち、朽ちかけた外見の家はお化け屋敷のようなおどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。
誰もいないのではと思うが、玄関にはぼんやりと明かりがついていた。
思い切ってガラガラとうるさい音がする玄関を開けると、暗い廊下の奥から虎之介が現れた。
「久しぶりだな。待ってたよ」
虎之介に案内されたのは、壁にビロードの赤黒いカーテンを張り巡らし、床にもビロード調の絨毯をひきつめた広い部屋だった。
天井からは裸電球がぶら下がっていた。他にはまだ何もない。
「どお? この部屋。思い出さない?」
杏にも見覚えがあった。
かつて虎之介が作った吸血倶楽部のアジトもこんな風だった。
「これからソファやテーブルも用意しないといけない」
「また始めるの?」
「まあね。だって、退屈なんだよ、今の学校。山ん中で何にもなくてさ」
薄明かりの中で見る虎之介は、前に会った時より大人っぽくなったように感じた。
身長もさらに伸びたみたいだし、肩幅も増えた。
しかし、中身は変わっていないようだった。
「ねぇ、僕って捨てられちゃったわけ?」
杏の鼓動が早くなった。
「あの時、帰っちゃったでしょ。
僕、待っててって言ったのに。
しかも、警察呼んだでしょ」
杏は何も言わず、顔をそらした。
「警察はちょっと面倒だったなぁ。
なんか、やたらと張り切ったお巡りさんが来ちゃってさ。
僕がシャワー浴びてる間に勝手に入って来ちゃって。
もちろん女の子も見つけちゃったわけ。
もう、お巡りも殺しちゃおうかと思ったけど、そこは頭を働かせたわけ。
『僕はこの人を生き返らせる儀式をしてました。だから大丈夫です』ってな感じでね。
訳の分からない事を必死に並べて、可哀想な少年のフリをしたんだ。
あとは、弁護士さんが適当な、親父の立場がマイナスにならないストーリーを考えてくれて、それを演じただけ。
僕はわいせつな事を強要され、無理心中に巻き込まれた。っていうストーリー。
死んだ子がたまたま前科のある人だったから説得力も出たな。
そのショックで頭がおかしくなってしまった可哀想な少年は、精神病院に入院して、落ち着いた頃に山の中の学校で療養することになりました」
杏は虎之介の顔を見れなかった。でも、彼の声は穏やかで、杏を責めているようには聞こえなかった。
むしろ、楽しそうに話しているのが気味悪かった。
「ねぇ、僕の事怒ってるの?」
顔をそむけたままなのに気付いたからか、虎之介は急に機嫌を伺う少年のように聞いた。
「僕、病院でずっと杏のこと思ってた」
虎之介は後ろから杏の体に腕を回してきた。そして、耳元で囁いた。
「お願いだから、また僕のパートナーになってよ」
そう言って、耳元にくちづけた。
杏は目をつむって堪えた。
湧き上がってくる懐かしい気持ち。
それに心を動かされては駄目だ。
「ごめん。もう、無理なの」
杏は虎之介から体を離した。
「無理って、何が」
「もうあなたを好きにはなれない」
「え?」
虎之介は杏ににじり寄った。
杏は後ずさりした。
「もうあなたを愛おしいとは思えない」
杏の背中が壁にぶつかった。
「何それ」
虎之介は杏に被さるように両手を壁につけた。
そして、ふふふっと笑った。
「ねぇ、好きとか、愛おしいとか、いるかな」
「え?」
「そういう感情は別にいらないと思うんだけど」
虎之介は、杏の頬を撫でた。
「杏の身体だよ。僕が欲しいのは。
それに、君は僕に逆らえない、でしょ」
「脅迫するの?」
「僕の求めを断れば、君は今の仕事が出来なくなっちゃうだろうね。
もしかしたら、お巡りさんに捕まっちゃうかも。
ハッパとかクスリって、普通の人は捕まっちゃうんだよね」
虎之介はククっと笑いながらポケットからリングケースを取り出してみせた。
杏は逃げようとしたが、虎之介に腕を掴まれ、壁に押し付けられた。
リングケースを開くと、中には牙があった。
その牙をつけると、虎之介は杏の上着をはぎ取った。
杏は目を瞑って顔を背けた。
白い首筋に冷たい牙が食い込んだ。
痛かった。
胸の奥が、痛かった。
愛されていなかったんだ。
服を脱がされながら杏は思った。
私はただの獲物。
悪魔に愛なんて感情はない。
そう、分かってたはず。それでいいと思っていたはず。
そういう残酷な悪魔に惹かれていたのだ。
ならばこの胸の痛みはなんだ。
何故、あの時逃げたのだ。
「もう、俺から逃げる事は出来ない。それを体に刻んでやる」
悪魔は最初に噛み付いた所と同じ場所に噛み付いた。
ドクンドクンと熱い血が流れて行くのが分かった。
私はもう、彼から逃げられない……。
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