24 最後の告白

 蒼介が宿に着いた時、杏はボストンバッグに服を詰め込んでいた。

「帰るんですか」

 杏は、部屋に差し込んでくる朝日のような、明るく柔らかい笑顔で蒼介を見た。

「そう。急に帰ることになったわ」

 蒼介はおもむろに杏を抱きしめた。

「ちょっと」

 戸惑う杏をさらに抱きしめる。

「どうしたの?」

 蒼介は目を瞑り、息を整える。

「震えてない」

「え?」

「ねぇ、松波を殺したの?」

 杏は何も言わなかった。

 蒼介は体を離し、杏を見つめた。

 杏は笑顔だった。

「どうしたの? 怖い顔して」

「昨日の夜、うちの学校の講堂にいたでしょ」

「まさか、どうして私が?

 昨日の夜は、マネージャーが来てるって言ったでしょ。

 それに、松波って誰?」

「松波とはずっと前から知り合いだったんだね」

「いいえ、知らないわ」

 蒼介は短い深呼吸をして、杏と体を離した。

 そして、彼女のボストンバックに近づき、中に手を入れた。

 蒼介は中から黒い布に包まれたものを取り出した。

「じゃぁ、これを警察に調べてもらっていいね」

 杏は、困ったわね、というような顔をした。

「返しなさい。それは大事なものなの」

 蒼介は無視して黒い布を剥いだ。

 続いて、ビロードの紫色の箱。

 そして、銀の十字架のペーパーナイフ。

 蒼介と杏が初めてあった日、杏が警察官に職務質問されて没収されかけたナイフだ。

「綺麗に拭き取っても、血痕は消えない。

 それに、ナイフの形も遺体のものと一致すれば……」

「君は、私を警察に突き出したいの?」

「違う。本当の事が知りたいだけ」

「本当の事ってなに?」

「例えば、あなたがここに来た理由。それから、松波をどうして殺したのか」

「なんで君は私が殺したと思うの?」

「匂いがした。

 昨夜、講堂の前を通ったとき、ほんのりあなたの香水の匂いがした」

「それだけ?」

「一昨日の夜、吸血倶楽部の晩餐会にも来てたよね。

 思い出したんだ。

 バラの匂いの中に、あなたの匂いがした。

 それにランドクルーザーもあった」

「珍しい車でもないでしょ」

「そうかもしれませんね」

 蒼介は窓の外を見た。

 豊かな緑が陽を受けてゆらゆらときらめいていた。

「俺が思うに、あなたと松波は恋人同士だった。

 たぶん、小野寺先生の『吸血鬼の戯式』を見た松波が先生とあなたに近づいたんだ。

 先生と別れて傷ついたあなたを松波が放っておくはずがない。

 だって、松波は小野寺先生がすることに執拗にこだわっていた。

 真似したがっていた。

 あなたはあなたで、悪魔的な要素に惹かれていた。

 松波の悪魔的な魅力にあなたは惹かれた。

 そして二人は恋人同士になった。あるいはパートナーに。

 ところが、松波は精神病院に入院してしまった。

 彼が入院している間に、あなたは女優としてモデルとして有名になった。

 そのせいで彼とはおおっぴらに付き合えなくなった。

 今でも関係が続いているのなら、あなたがここに来る理由も分かるし、晩餐会に居た理由も分かる」

「君の推理通りだと、私は彼と付き合っているにもかかわらず、君と関係を持った、ということになるわね」

「俺の推理だと、松波はあなたを脅迫していた。

 あなたの中にあった恐怖は彼なんでしょ?

 あなたの身体に牙を立てていたのも彼だ。

 でも今、あなたの中から恐怖が消えている。

 それは、あいつが死んだからじゃないの?」

 蒼介の胸中とは反対に、杏の表情は穏やかだった。

「ねぇ、自殺した先生の遺書はどんなふうだった?」

「宮河先生の?」

 杏は頷いた。

「……僕が僕であるためにはこうするしかありませんでした」

 蒼介の言葉を聞いた杏は、手を差し出した。

「もう、チェックアウトの時間だから、ナイフを返して」

「でも」

「外で話しましょう」

 蒼介はナイフを返した。杏がもう覚悟を決めているようだったから。


 


 旅館をチェックアウトした後、杏と蒼介はランドクルーザーで近くの公園にやって来た。

 公園と言っても特に何があるわけでもなく、森を切り開いただけの殺風景な場所だった。

 二人は東屋のベンチに座った。

 そこは展望スポットらしく、山間が見渡せた。

 宮河先生のログハウスがある湖も見えた。

 その上の方には学校の校舎らしき灰色の塊が見えた。

 杏はサングラスをかけたまま、眩しそうにその風景を見ていた。

「虎之介とは、君が言った通り、尊と別れてから付き合いだしたの」

 冷たい風が二人の間をすり抜けて行った。杏はジャケットの襟を引き上げた。

「でも、彼が事件を起こした時、私は逃げた」

「変な女に無理心中させられそうになったって言う事件?」

「そんなんじゃないわ。

 自殺したがっていた女の子を連れて来て殺したのよ。虎之介が。

 『吸血鬼の戯式』を再現したいがために」

 蒼介は顔を歪ませた。

「その事件があって、私は彼から逃げたの。

 そのまま別れられると思った。でも駄目だった。

 彼は、まんまと逮捕されずにすんで、精神科を退院した後、あの学校に入学した。尊がいたからあの学校に入学したんでしょう。

 それで、あまりに退屈だったから私を呼び出した。

 でも私はそれに応じないわけにはいかなかった」

「どうして?」

「脅されたからよ。

 昔、虎之介と一緒にバラされるとまずいような事をしてたから。

 でも……心のどこかで会いたい気持ちがあったのかも。

 駄目だと分かってても、良い方の記憶が会いたい気持ちを起こすの。

 それに、もしかしたらちゃんと話し合えるかもしれない。

 話し合って別れられるかもしれない。

 でも駄目だった。

 君が見つけたこの首筋の傷。これはその時彼が噛み付いた痕。

 彼の獲物だと言う烙印。これだけは消えないの。


 事件は夢から覚めるきっかけになった。

 あの時逃げてなければ、今度は私が血まみれの遺体になっていたかもしれない。

 夢から覚めた私は現実の世界で居場所を見つけた。

 私はもう前に進んでいたの。

 だからもう、虎之介とは関わりたくなかった。

 でも、彼は許さなかった。私を離そうとはしなかった。 

 あくまでも獲物として鎖につなげておくつもりだったのよ。

 私は鎖につながれたまま東京で仕事を続けた。

 彼が呼び出したら鷹山に行く約束で。

 でも、一度行けないことがあった。

 彼が呼び出した時、私はテレビ番組のロケでルーマニアにいたから行けなかった。

 その時彼は怒って、「なら仕事ができないようにしてやる」って言ったわ。

 その言葉が凄く怖くてね。

 そんな時あの十字架のナイフを見つけたの。買わずにいられなかった。

 何をされるのかビクビクしながら日本に帰ったわ。だって、彼は悪魔よ。

 やると言ったらやるのよ。

 その数日後に、彼の言う通り、仕事ができなくなった。

 湿疹が表れたの」

 杏はサングラスを外した。

 赤く腫れた湿疹がまだ瞼を覆っている。

「悪魔の仕業よ。彼は本物の悪魔なのよ」

 蒼介はただの偶然だとは言えなかった。

 杏の目は冗談を言っているようには見えなかったから。

「悪魔の呪いだもの。病院じゃ治らないわよね。

 もうどうしようもなくなって、ここに来てしまった。

 彼に許してもらって呪いを解いてもらいたかった。

 でも、来た所でどうしたらいいか分からなかった。

 会うのが怖かった。途方に暮れていた時、君が助けてくれた」

 杏は蒼介の手を優しく握った。

「感謝してる」

「俺は……」

「ごめんね」

「え?」

「君が見せてくれた自殺したっていう先生の写真ね。

 見た瞬間にわかったわ。虎之介がやったんだって。

 信じられないと思うけど、その時私が感じたのは嫉妬だった。

 前の知らない女の遺体を見たときも、最初に感じたのは嫉妬だった。

 死は悪魔の最高の愛情表現だから。

 私は虎之介に一番愛されている女だと思ってたの。

 そんな訳ないのに。でも、今でもそうだと思いたいみたい。

 馬鹿みたいでしょ。

 でもね、君といると、不思議と悪魔の姿が消えるの。

 一時でも、悪魔を忘れられた」

「魔除けですね」

「君とずっと一緒にいればもしかして……とも思ったわ。

 でも、すぐに見つかってしまった。

 君を学校へ送って行った時、あの納屋に虎之介がいたの。

 私たちがキスをしているのも見ていた。

 そのことで責められるかと思ったけど、「あいつとはやっぱり気が合いそうだ」って君の事を言っただけだった。

 それから、満月の晩にあのボロ屋敷で晩餐会をやるから来いって言われて。

 迷ったけど結局行ったわ。

 彼は以前と全く変わっていなかった。晩餐会も楽しそうに演出していたわ。

 まさか、尊が来るなんて驚いたけど。

 多分彼は尊が参加している姿を私に見せたかったんだわ。

 リスペクトしていた尊を、自分の世界に引きずり込んだことを自慢したかったのね。

 底なし沼に落ちて行くような錯覚を覚えたわ。

 気分が悪くなって別の部屋で眠り込んでしまったの。

 気がついたら晩餐会は終わっていた。

 私も帰ろうと思って部屋を出たら、女の子を抱えた虎之介がいた。

 彼女には悪いけど、見なかった事にしてあの家を出たわ。

 そうしたら、君が尊と何か言い合っていた。

 君は尊が宮河先生を見殺しにした犯人だと思ったのね。

 いいえ、犯人は虎之介よ。

 ここにいる悪魔よ。

 私はまた一一〇番を押していた。

 また警察沙汰になれば、今度こそ悪魔も自由を失うかもしれない。

 前は私一人だったけど、今回は君たちもいたから」

「やっぱり、杏さんだったんですね。通報したの」

「四恩高校の事件の犯人がここで暴行している、とそう言って、君たちと入れ替わりであの家を出て、離れた所から見てた。

 前は通報してすぐに逃げてしまったから、今度はちゃんと見届けようと思ったの。

 パトカーが来て、虎之介を乗せて帰って行ったのを見て、ようやく自由になったと思った。

 鎖から解き放たれたと思った。

 ところが、彼は逮捕されなかったのね。

 君と電話してたとき、彼は寮に戻って来た」

 蒼介は頷いた。

「松波は俺が杏さんと話してるって分かったんだね。

 それであなたを呼び出すような事を言った」

「私が行かなければ、君を獲物にする。って意味だったのよ。

 だから急いで学校に行ったわ。

 車を停める農家の納屋から男子寮まで行く道は、以前来た時に教えられてた。

 それで、男子寮の裏に回ろうとしたら、ちょうど彼が寮から出て来た。

 声を掛けようと思ったけど、まだまわりに人もいたし、他の人たちに見つからないように彼の後を付いて行ったわ。

 彼は古そうな建物に入って行った。

 彼と話せるチャンスかもと思って私も中に入ったわ。

 そうしたら、もう一人男の子がいた。

 彼は虎之介に言ってた。

 警察がお前に対して無力なら、代わりに僕が制裁を与える。

 そう言って虎之介を殴った。ふたりは殴り合いになった。

 そのうち、ゴンって凄い音がして、相手の男の子が慌てて出て行った。

 虎之介は床に転がったまま動かなかった。

 死んでいるのか確認しようと喉元に触れた時、彼は声を出した。

 死んでなかった。

 彼は呻きながら身体を起こした。それで、私に気がついた。

 彼は『君、杏なの?』って聞いたわ。

 その時、私はサングラスをしていなかった。

 彼は初めて間近で私の湿疹を見たの。

 見られたくなくてずっと隠してたから。

『なんだよその気味悪い顔』って、彼そう言ったわ。

 あなたが、私に仕事をさせないためにかけた呪いでしょ、と言ったけど、彼は、知らない、と言った。

『僕はそういう醜いモノが世界で一番嫌いなんだ。

 完全に治るまで会いにくるな』そう言って、私から顔を背けた。

 私は、バッグからあのナイフを取り出した。

 気休めの魔除けのつもりで持っていたあのナイフを。

 彼は私に背を向けたままその場を離れようとしていた。

 彼の名前を呼んだけど振り返りもしなかった。

 だから、何度も呼んだ。

 やっと彼が振り返った時、その時、思い切り彼の胸にナイフを刺した」

 杏は遠くの景色を見ていた。

「あなたは、今でも松波のことを愛しているんですね」

 杏は何も言わず下を向いた。

「あなたの中にあった恐怖は、松波の存在なのかと思ったけど。違うんですか」

「悪魔は人に恐怖を与えない。

 与えるのは人が欲しがっているものよ。

 与えて、その代償に魂を奪って行く。

 私が怖かったのは、自分が自分でなくなる事よ。

 悪魔は理性の扉をこじ開けてその中に隠れている欲望を取り出し、充たしていく。私は、そんな悪魔を愛している自分が怖かったの。

 同じ場所に落ちていけると思ってしまう自分が怖かったの」

 そう言って杏は深いため息をついた。

 気のせいか、杏の身体が小さくなったように感じた。

 まるで、ため息と一緒に大事な物まで抜け出ていってしまったような。

 蒼介は思わず手を伸ばしたが、彼女に触れる前に止めた。

 きっとどんなに手を伸ばしても、今の彼女には届かないだろうから。


 蒼介は鷹山駅まで杏を見送った。

 レンタカー店につくまでの車の中で、杏は「警察に突き出してもいいのよ」と言った。

「でも、あなたが殺したのは悪魔だ。人間じゃない。

 警察に何て言うんです? 

 それに、俺はあなたの事を愛してる。それには気付いてました?」

 杏はうふふと笑っただけだった。

「俺は何があってもあなたの味方です」

「ありがとう」と言って杏は微笑んだ。

 車を店に返し、駅についてから、蒼介は思い切って聞いた。

「また会えますか?」

 杏は微笑んで首を振った。

「君は、もっと若くて素敵な女の子と恋をしなさい」

 蒼介はもっと何か言いたかったが、黙って持っていた彼女のボストンバッグを渡した。

 と、その時、原付バイクを押して歩いていた警官が二人を見て立ち止まった。

「あっ」

 杏に職務質問をした警官だった。

「なんだよ、おめぇたちかよ」

 警官はバツが悪そうに二人から目をそらし、通り過ぎようとした。

「待って、お巡りさん」

 杏が止めた。

「今もあのナイフ持ってるわよ。銃刀法違反になるんじゃない?」

 警官は訝しげに杏を見た。

「なんなんだよ、おめぇ」

「お願い、警察署まで連れて行って」

「ちょっと、杏さん」

「いいの。いろいろ本当にありがとう」

 杏はそう言って、警官にボストンバッグを預けた。

 熱いものがこみあげて来た。涙だった。

 蒼介は杏に見られないように背を向け、走り出した。

 振り返らず、涙が涸れるまで、走り続けた。


 


 杏と別れてから二日後の土曜日。

 本来は外出日ではなかったが、松波が殺された事件で心配する親たちのために特別に外出が許可され、ほとんどの生徒が家に帰っていった。

 そんな中蒼介は、外出禁止で学校にとどまっていた。

 章太郎は大学の入試で前の日から出かけていた。

 生徒の代わりに警官が数人うろうろしていたが、宮河先生の自殺の件も、松波殺害の事件もすでに事後処理の段階だった。大変なのは学校側のこれからの対応だった。

 松波が死んだ講堂も、老朽化という理由もあって取り壊しが決まった。

 小野寺先生も、辞表を出し、一月いっぱいで教師を辞めるそうだ。

 呉木の手首の傷はたいした事はなく、前の日も憎々しい態度で蒼介の外出届を突き返してきた。

 パソコンルームでネットをチェックすると、世間はシュアンが起こした殺人事件で大騒ぎになっているようだった。

 蒼介はすぐにパソコンの電源を切った。

 中庭に出て、空を仰ぐ。

 青い空が広がっていた。静かだった。

 湖が見たい。ふと思いついて、山の中を下っていった。

 息を切らしながら広い湖畔に出ると、開放感が蒼介の心を満たした。

 キラキラきらめく水面が気持ちを弾ませた。

「あれ」

 湖畔にうずくまっている人影を見つけた。

 アカリだった。


「来てたのか」

 急に声をかけられてアカリは驚いたようだった。

「なんだ、由井か」

「ねぇ、蒼介って呼んでよ」

 蒼介はアカリの隣に腰を下ろした。

 宮河が住んでいたログハウスには立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。

 蒼介は何か話そうとしたが、適当な言葉が何も出てこなかった。

 しばらく二人は黙って水面を見つめていた。

「松波が死んだ事、佐和に話した?」

 アカリが先に口を開いた。

 蒼介は首を横に振った。

「まだ。佐和の状態がよくなったら話そうと思う」

 アカリは足下の砂利を一つ手に取って握りしめた。

「宮河先生の事、大丈夫?」

 蒼介も砂利をいじりながら何気なく聞いてみた。

「いい事だけ思い出すようにしてる。

 考えれば考えるほど頭の中がぐちゃぐちゃになるから。

 先生は私の初めての男の人。私はその思い出だけ大事にする。

 それが、私にとって一番大事なものだから」

「凄いな真田は」

「私じゃないわ。里見くんがそう言ってくれたの」

「里見? 章太郎が?」

「そう、私がいい思い出を大事にしていくことが、宮河先生が救われることにもなるって」

「へぇ、そんなことを」

「いい人ね、里見くんって」

「見かけによらず大人なんだ、あいつ」

 そう言って二人は笑った。


 月曜日の朝会は、講堂ではなく、体育館で行われた。

 様々な事件の後だったが、校長はさらりと触れただけだった。

 宮河先生の葬儀が無事に終わった事。

 松波の葬儀も東京で家族だけで行われる事。

 外部の人間が入れないよう、防犯を強化すること。

 小野寺先生が一身上の都合で退職する事が伝えられた。

 ちなみに、松波の悪行の数々は隠蔽され、校内はもちろん、世間にも伝わっていなかった。

 宮河の死も結局自殺として処理されたが、学校では自殺のことには触れなかった。キリスト教で自殺は大罪だからだ。

 当然ながら、松波を殺した杏のことは全く触れられなかった。

 

 そして、朝会の最後は、生徒のスピーチ発表があった。

 蒼介は初めて知ったのだが、朝会では生徒が必ず一分程度のスピーチする事になっているのだそうだ。

 当番制で、男子からは知らない一年生が壇上に上がって声を裏返しながら受験の事に関して話していた。

 男子が終わると、次に女子の当番が壇上に上がった。

 アカリだった。

 アカリがマイクの前に立つと、どこからか大きな咳払いが聞こえた。

 それを合図に、女子の囁き声が響き始めた。

「この数日、私は自分について考えました。

 何故なら『自分が自分であるために』という思いを貫いた人がいたからです。

 私は色々な物が嫌いでした。色々な人が嫌いでした。

 でも、一番嫌いだったのは自分の事かもしれません。

 周りの人や物を受け入れる事が出来ない自分が、傷つくのが嫌で壁を作っている自分が、一番嫌いだったのかもしれません。

 今でもこんな自分を好きになるのは難しい。

 でも、こんな自分を好きになってくれた友達のために、その友達の思いを大事にしたいから、その友達の事を好きだから、私は自分を好きになってみようと思います。

 『自分が自分で居られる』という当たり前の幸せに気付かせてくれた友達に、心から感謝します。以上です」

 まばらな拍手が上がった。

「人殺し」

と、誰かが言った。

 宮河の死が自殺と言う事実はすぐに広まり、自殺の本当の理由を知らない生徒たちの間では、アカリとの恋愛関係に悩んだ末に命を絶った、という説が最もメジャーになっていた。

「人殺しのくせに」

 ざわざわと陰湿な言葉が飛びかいはじめた。

 教師たちが「静かに!」と叱咤しても治まらない。

 アカリは堂々としたいつものクールな態度で壇上から下り、女子と男子の間に出来た通路を歩いた。

 誰かが足を出し、それにつまずいてアカリが転ぶと一斉に笑い声が広がった。

 通路側にいて見ていた蒼介は、頭に血が上るのを感じた。

 アカリは何でもないような表情で起き上がり、笑い声と中傷の声が飛び交う中、通路を歩いた。

 中傷の声はどんどん大きくなっていった。

「静かにしないか!」

 その一言で場内のざわめきが止まった。

 呉木の声だった。

 静まり返ったところで、何を思ったのか、蒼介はアカリの前に立ちふさがった。

 そして、驚いているアカリを抱きしめ……

 キスをした。

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