5 悪魔がいる

「校長先生」

 呉木はノックもせずに校長室に飛び込んだ。

 ちょうど刑事が二人、部屋から出ようとしていたところだった。

 髪が薄くなりかけた、じき定年を迎える田畑。

 その後ろにまだ二十代の幼さが残る女の刑事富永。

 まるで親子で三者面談を受けていたかのようだ。

 二人は校長に頭を下げてから出て行った。

「呉木くん、どうしましたか……」

 校長は七十才の老婦人で、いつも紺色のシンプルで上品なワンピースを着ていた。

 六年前、学校が別の法人に買収された時に、前校長に代わってこの藤村小百合老婦人が学校を取り仕切ることになったのだ。

 いつも威厳と気品を纏っている藤村だが、ハンカチを握りしめている手が震えていて、今はかろうじて冷静を保っているかのように見えた。

「先生。宮河先生が死んだって本当ですか」

「呉木くん、それは……」

 藤村は応接用のソファに腰を下ろした。

「宮河先生の部屋を警察官たちが引っ掻き回していました。

 何故ですか。どうしてですか」

「それは……」

「教えて下さい」

「呉木くん」

 藤村は首を横に振ってハンカチで口元を押さえた。そして小さく鼻を啜った。

「朝から宮河先生がいなくて、どこを探してもいなくて、何があったんですか。

 宮河先生になにがあったんですか」

「遺書があったそうです」

「え?」

「睡眠薬とカッターナイフがあったそうです。

 薬を飲んで手首を切ったそうです」

「まさか、自殺なんて、そんな」

「まだ分からないそうです。自殺かどうかは。

 湖のほとりの小屋で、体が、血まみれで、裸だったそうです。

 一体何が……どうして。私にも分からないんです。

 まさか自殺だとしたら。

 彼の悩みに気づけなかった。

 情けない。

 息子のように思っていたのに……」

 堰を切ったように藤村の涙が溢れ出した。

 そばにいた呉木は、泣き崩れる老婦人をいたわりもせず、ただ拳を握りしめ、息子のように、と繰り返す藤村の言葉を聞き流していた。

 僕にとって、先生は……

 かつて呉木は宮河を兄のように慕っていた。

 しかし、ここ数ヶ月、宮河は変だった。

 兄のように信頼出来なくなっていた。

 彼が遠くへ行ってしまったのか、呉木が自ら離れてしまったのか。

 変わったのは宮河ではなく呉木の方なのか。

「僕にとっても先生は、……大切な人です」

 そう言って呉木は藤村に背を向けた。

「待ってください、呉木くん」

 藤村は身を起こして落ち着こうとしているところだった。

「今私が言ったことは誰にも言わないでください。

 生徒たちには調査中とだけ伝えます。混乱させたくありませんから」

「分かっています」

 そう言って呉木は部屋を出た。

「一体どうして。どうして……」

 呉木は叫び出したい衝動を抑えるのがやっとだった。


「知り合いが先生をやっているから。

 美術教師の小野寺って人」

 そう、シュアン(だと蒼介は確信していた)は言った。

 そして今、蒼介の前に小野寺がいた。

 ログハウスで宮河先生の遺体を発見した蒼介とアカリは、事情聴取のために警察署に連れて来られた。

 蒼介は一一〇番通報しただけだったが、警察が学校に連絡を入れ、生徒の引き取りを頼んでいた。

 アカリはショックで何も話が出来なかったため、女性警官と医務室へ行った。

 蒼介は、警官がバタバタと出入りするタバコ臭い事務室の隅っこで、冴えない感じの警官から色々と聞かれたが、これが本当に冴えない警官だった。

 ウッドデッキを通って窓を開けて入った、と言うと、ウッドデッキは湖側か山側かとか、デッキの色と朽ち具合はどうだとか、窓には雨戸はあったかとか大きさはどのくらいだとか、とにかく的を得ないことを聞いてくる。

 蒼介もちゃんと説明しようという気が失せてしまい、「現場に行って見てくださいよ」と言ってやると「最近の若者は……」と逆切れする始末だった。

 無駄に長い蒼介の聴取がようやく終わり、警察官に連れられて警察署のロビーにやってくると、それでもまだアカリの姿はなかった。

 代わりに一人の男が近づいてきた。

 背はあまり高くなく、黒々とした髪はあっちこっちに跳ね上がり、手入れをしているようには見えない。

 無精髭が相まって、とても清潔さが感じられない。

 表情もなんだかぼさっとしていて、生気のようなものが感じられない。

 あと、右頬から首にかけて、赤い痣が広がっていた。

 その男が警察官に言った。

「四恩高校の小野寺です。生徒を迎えにきました」

 警察官は「ご苦労さまです」と、蒼介を小野寺に引き渡した。

 こいつが小野寺か。

「君が由井君か。転入早々、大変な目にあったな」

 小野寺は蒼介の肩に手をかけるとベンチに座るよう促した。

「真田がまだなんだ」

 そう言って小野寺は自動販売機のある方へ行った。

 蒼介は小野寺のやぼったい姿を少しがっかりしながら眺めた。

 てっきりシュアンと小野寺は過去に恋人同士だったか、恋愛が絡んでいる関係だと想像していたのだが、彼の風貌からはそのような関係を考える事が難しくなってしまった。

 申し訳ないが、あのシュアンの興味を引くような魅力は感じられない。

 悪魔的魅力も。

 小野寺はホットココアの缶を買って蒼介に渡した。

「ありがとうございます」

 蒼介は缶の温かさにホッとした。

「警察署なんて、免許の更新以来だ。

 いつ来ても嫌なところだな。タバコ臭いし」

「そうですね」

 喫煙所もあり、分煙されているにもかかわらず、署内全体がタバコ臭い。

 さっき話をした警官もタバコ臭かったな、と蒼介はヤニできばんだ壁を眺めた。

「染み付いているんですかね。

 昭和のヤニが。

 先生は吸わないんですか」

「体に悪いからな。

 血が汚れるだろ」

「血が?」

「ドロドロになる」

「そうなんですね」

 蒼介は少し違和感を感じた。

 髪型とか髭とか外見はあまり気にしないのに、健康は気にするのか。

「真田が来たぞ」

 女性の警察官に連れられ、アカリがやって来た。

 宮河を見つけた直後から比べて、少し落ち着いたようだ。

 うんざりしたような疲れたような顔をしている。


「君たちはなんであそこに行ったんだ」

 刑事に聞かれたことと同じことを小野寺は訊ねた。

 蒼介とアカリは小野寺が運転するパジェロの後部座席に座っていた。

 アカリはじっと窓の外を見ている。

 アカリが黙っているので、蒼介は彼女を追いかけて行ったとは言えなかった。

 でも何故アカリがログハウスに行ったのか、蒼介も知りたかった。

 宮河の死体を見て「自分のせいだ」と言ったのはどういうことなのか。

 アカリがあの場所に行って宮河の遺体をみつけたのは偶然ではない。

 アカリは大事なことを知っているはずだ。

 警察で彼女が何を話したのか、蒼介は気になって仕方がなかった。

 小野寺は深いため息をついた。

「一体、どうしたっていうんだ」

 車の中の空気は重く沈んでいた。

 蒼介はふとアカリに佐和のことを聞いてみようかと思った。

 アカリは佐和のルームメイトだ。

 しかし人形のように動かない彼女の姿を見て今はあきらめる事にした。

 また、小野寺にも聞いてみたい事があった。

 しかし、今は興味本位の話をする空気ではなかった。

 小野寺も転入生の蒼介に気を使ってくれてはいるが、同僚の死のショックは決して小さくないはずだ。

 蒼介は黙って重い空気に耐えようと思った。

 しかし、いけないと思うと聞きたくなる。

 蒼介の中で小さな戦いが繰り広げられ、結局好奇心が勝利を収めた。

「あの、先生。こんな時に申し訳ないんですが、ちょっと聞いてもいいですか?」

「何だ」

「シュアンってモデル知ってますよね」

「えっ?」

 小野寺は一瞬戸惑った。

 そして、しばらくしてから「あぁ、知ってるよ」と、答えた。

「僕、ここへ来る電車の中で彼女と一緒になったんです」

 小野寺は、へぇ、そう、と相づちをうった。

「彼女、先生のこと話してました」

「彼女が? 僕の事を?」

「聞きました。付き合っていたんですか?」

 蒼介は気になっていた事を思い切って聞いてみた。

 アカリの視線が蒼介へ移った。

 小野寺は咳払いをした。

 話すかどうか迷っているようだった。

「大学が同じだったんだ。

 ほら、彼女綺麗だろ。

 だからモデルを頼んだ事がある。

 それだけだよ」

「じゃぁ、付き合ってたんじゃないんですか」

「まさか」

「今でも連絡し合ってるんですか」

「いや」

「すごいな。あのシュアンをモデルに絵を描いたなんて。

 その絵、見てみたいな」

 小野寺は赤信号を確認してブレーキを踏んだ。

 そして言った。

「大した絵じゃない。もうその話はいいだろ」

「そうですか。すいません色々聞いちゃって」

 でも、これで確かになった。

 あの女はシュアンだということ。

 蒼介の『カン』は当たっていたのだ。

 学校に近づいてきたとき、小野寺が再び口を開いた。

「これから一緒に校長の所へ行く。

 真田も参ったろ。これからは少し行動を慎むんだな」

「先生に言われたくないけど」

 小野寺はもさったい頭を掻いた。

 真田の口調、それを受けた時の小野寺の様子。

 それらから蒼介は特別な繋がりを二人の間に感じた。

 それも『カン』だけれど。


 学校に到着して、駐車場から校長室へ向かう途中、早足で歩くアカリの隣に蒼介がそっと並んだ。

 小野寺はひとり前の方を歩いていた。

 アカリは「何?」という顔で蒼介を見た。

「あのさ、聞きたいんだけど、君、若松佐和って知ってるでしょ」

と、小さな声で聞いた。

 アカリは驚いて思わず立ち止まった。

「知ってるの? 佐和を」

「あぁ。あいつ学校来てないだろ。

 理由、知らない?」

「理由? そんなの私だって知りたいわ」

「君、友達だったの? 佐和と」

「あんたこそ佐和とどういう関係?」

「おい、どうした」

 ふたりがもめだしたのを見て小野寺が声をかけた。

 蒼介は「何でもないです」と言って、再び歩き始めた。

 アカリも蒼介の後についた。

 蒼介は足を緩めてアカリとの距離を縮め、ささやいた。

「佐和が言ってたんだ」

「なんて?」

「学校に悪魔がいるって」

 その言葉に、アカリは足を止めた。

 突然吹いた風が、アカリの黒い髪を巻き上げる。

 蒼介はアカリのガラスのような冷たい瞳をまっすぐに見つめた。

「まさか、君じゃないよね」

 アカリの桜色の唇がわずかに歪んだように見えた。

「その話、聞かせて欲しいんだけど……」


 校長は蒼介とアカリに何も尋ねなかった。

 ただ、大変でしたね、と優しく微笑んだだけだった。

「もし、食べられるようなら昼食を取ってください。

 あなたたちの分を取っておくように川田さんには伝えてあります。

 授業には出なくて良いですから、ゆっくり休んでください。

 それから、宮川先生が亡くなったことは、放課後生徒たちに伝えます。

 生徒たちを混乱させたくないので、どうか、あなたたちが見たことは伏せておいて下さい。

 まだ、私にも何がなんだか分からないのです。

 お願いします」

 校長室を出ると、アカリは何も言わず女子寮へ戻っていった。

 蒼介はすごく腹減っている事に気付き、食堂へ向かった。

 もちろん生徒は誰もいなかった。

 他の生徒は授業中だ。五時間目が既に始まっている。

 生徒たちはまだ何も知らされていない。

 先生たちもまだ多くは知らないのかも知れない。

 学校の中はとても静かだった。

 嵐の前の静けさ。

 宮河の死が知らされたら、やはり嵐がやってくるのだろうか。


 食堂には気の良さそうなおばさんがひとり待っていた。

 川田さんだ。

 校長に言われて蒼介とアカリを待っていたのだ。

 川田さんは、ゆっくり食べな、と温かい昼食を出してくれた。

 ミネストローネとエビピラフ、それにサラダ。

 ミネストローネの赤い色が血まみれの宮川の姿を思い出させる。

 しかし、立ち上がる湯気とトマトの香りが蒼介の空きっ腹をおおいに刺激した。

「いただきます」

 蒼介は真っ先にミネストローネにスプーンを突っ込んだ。

 赤いトロリとした熱い液体がのどを通って胃袋に染み渡る。

 すると、こわばっていた手と足の指先がほんのり温かくなったように感じるのだった。

 俺は鈍感なのか、それとも切り替えが早いのか、心臓が鉄で出来ているのか。

 きっと真田アカリは何も喉を通らないに違いない。

 蒼介はミネストローネをすすりながら考えた。

「もう一人、女の子が来るって聞いてるんだけど。知らないかしら?」

と、厨房からおばさんが声をかけた。

「あぁ、多分、食べられないんじゃないかな。

 体調が、アレで」

「そう。まぁいいけどね。

 ところであんたたち、授業さぼって何をやらかしたのかい?

 って、聞くだけ野暮か。アハハ」

 あはは、と蒼介も一緒に笑っておいた。

 まだ宮河先生が血まみれで死んでいたということは知らないのだ。

「あれあれ、違う子が来たよ」

と、おばさんが入り口を指差した。

 見ると、男子生徒が一人、食堂に入って来たところだった。

 背が高く、一八〇センチ以上はありそうだ。

 しかし、威圧的な雰囲気はなく、むしろふんわりとした柔らかなオーラを出していた。

 制服を着崩していてもだらしなく見えない。

 むしろ緩んだネクタイが色っぽさを出している。

 彼は蒼介がいる事に気がつくと、曇りの日に思いがけず日だまりを見つけたような笑顔になった。

 そんな笑顔を見せられて蒼介も悪い気はしない。

「あんた、大丈夫?

 また調子悪いのかい?」

と、おばさんはその生徒に心配そうに声を掛けた。

「ちょっと今朝はめまいが酷くて。

 あ、ミネストローネか。

 これだけ下さい」

 彼は蒼介にもおばさんにもにっこり笑って見せた。

「もっと食べた方がいいわよ」

「でも、あんまり食欲がなくて」

 おばさんは「分かったわよ」と言いながらも、ミネストローネが入った皿を彼に渡した。

「いつもありがとうございます」

 おばさんは恥ずかしそうに「残さず食べるのよ」と言って厨房の奥へ行ってしまった。

 彼は改めてにっこりと笑うと、蒼介の隣の椅子を引いてふわりと座った。

 堀が深くてハーフみたいな顔立ちに、色素の薄い瞳が神秘的な印象を与える。

「君、見かけない顔だけど、転入生?」

「そう実は今日が初日」

「そうなんだ。

 名前は? 僕は松波虎之介。

 一応三年」

「由井蒼介。二年です」

「由井くんかぁ。

 由井くんは初日から寝坊でもしたの」

 そう言って松波は、ふふっといたずらっぽく微笑んだ。

 高校生にしては大人っぽい出来上がった顔をしているのに、笑うと少年のように可愛らしい。

 蒼介は口いっぱいのピラフを咀嚼しながら何て言ったらいいものか考えた。

「まぁ、俺も体調不良です。もう平気だけど。

 松波さんは大丈夫ですか」

「今日は一日寝てようかと思ったんだけど、なんか寮の中で誰かがバタバタしててさ。

 気になって来てみたんだ。

 何かあったのかな。由井君知らない?」

「放課後、臨時集会があるって。

 何かあったみたいですね」

 別に隠すこともないのだろうが、全部話すには蒼介は少し疲れていた。

 だから、適当にごまかした。

 松波虎之介は「ふうん、そうか」と蒼介を眺めた。

 その吸い込まれそうな透明な瞳に見つめられ、蒼介は妙に気恥ずかしくなった。

「由井くんは、この学校に来たくて来たの?」

「え? いや、違うけど」

「そっか。僕も同じだよ。

 僕は身体があまり丈夫じゃないから、環境のいい所にって、親が。

 でも、とてもいい先生もいるし、きっと楽しくなるよ」

「そうかな。恋愛禁止でも?」

「君、恋愛がしたいの!」

 松波の驚きようが想像より大きかったので、蒼介はとんでもないことを言ってしまったように思った。

「いや、ほら、普通にしたいでしょ。普通の男子なら」

「前の学校では恋愛してた?」

「してたよ。あまりうまくはいかなかったけど」

「へぇ、素敵だね」

 君の微笑みの方が素敵だよ、と蒼介は心の中でつぶやく。

「じゃぁさ、応援してあげる」

「え?」

「君が恋愛したいなら、手伝ってあげるよ」

「手伝うって、どうやって?」

「例えば……、お祈りするよ」

 お祈りって……。幼さを感じる言い方に一瞬戸惑ったが、ここがミッション系の学校であることを思い出す。

「あぁ、そう。ありがとう」

 いいえ、というように松波はにっこり笑った。

「あぁ、いい匂い、トマトって大好き」

 松波はミネストローネをスプーンで掬って口に運ぶ。

 その横顔をみて蒼介は思う。

 天使みたいだな。

 天使の唇が赤いスープをすする姿に、何故かときめいてしまう蒼介だった。

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