16 まるで天使が悪魔になったように
宮河を『送る会』の当日は朝から曇っていた。
朝起きてカーテンを開けたアカリは、見事なグレーの景色に、まるで夕暮れに起きてしまったかのような錯覚を覚えた。
その灰色の空気を吸うまでもなく、アカリの胸の中はどんよりと曇っていた。
アカリは朝会には出なかった。
『送る会』なんて出たくなかった。
それよりも、もう一度あの場所に行かなくてはならなかった。
あのログハウスへ。
他の生徒たちが『送る会』で賛美歌三一二番を歌っている時、アカリは山の中を降りて行った。
ログハウスには立ち入り禁止のテープが貼ってあった。
先生が死んでいたあの日は窓の鍵が開いていたが、今日も開いたままだった。
この窓の鍵は壊れているのだ。
この場所を宮河から教えてもらったのは、夏休みが終わる頃だった。
夏休みの間、アカリは自分の家には帰らなかった。帰る気にならなかったから。
その代わり、宮河にはほぼ毎日会いに行った。
うざいと思われるかもしれなかったが、夏の間に教師と生徒の壁を乗り越えるつもりでいた。
先生は明るく誰にでも公平にスマートに接していた。
でも心には壁を作っている、そうアカリは感じていた。
その壁を乗り越えたい。
その先に、自分と共鳴するモノが必ずあるのだと信じていた。
そうでなければ、こんなに惹かれたりしない。
最初は適当にあしらわれていたが、少しづつでも会話を交わすうち、距離が縮まっていった。
先生の部屋に乗り込んでキスをした。
先生は戸惑っていたけど拒否はしなかった。
その時から、わずかだけど心を開いてくれるようになった。
自分からは積極的には言わないが、聞けば生い立ちのようなものを話してくれた。
家庭や学校になじめず、登校拒否や家出を繰り返していたこと。
大学を卒業してすぐに親との縁を切ったこと。
何かの保険のために教員免許は取ったが、実際に教師になる自信はなく、日雇いのバイトや夜のいかがわしい仕事をして生計を立てていたこと。
そんな時に藤村校長に出会って救われたこと。
そして夏休みの最後の日。
アカリは宮河に誘われて朝早くから山の中へ入った。
急勾配を降りていって湖に出ると、あのログハウスがあった。
宮河はそこで手料理を作ってごちそうしてくれた。
デッキに出て湖を眺めながらの昼食は、まるで世界に二人しかいないような贅沢で豪華な気分にさせてくれた。
「一昨年にここを見つけて、すぐに賃貸契約をしたんだ。
ここにくればどんなに落ち込んでいても、嫌な気分も吹き飛んでしまう。
秘密の隠れ家だよ」
そう宮河は言った。
それから二人は湖畔を散歩して、流木を拾ったり、変な形の松ぼっくりを拾ったりした。
「それはリスが齧ったんだ」
と、教えてくれた。
アカリはリスが齧ってない大きな松ぼっくりを四つほど持って帰って、部屋の棚の上にピラミッドのように重ねて置いておいた。
今日と言う日の記念に、何かを残したかったのかもしれない。
その日、二人はキスもしなかったし、手も握らなかった。
キスをしたのも、アカリが宮河の部屋へ押し掛けたあの日の一度だけ。
それでも、アカリは幸せな気分で満ち足りているのを感じた。
だって、自分だけに秘密の場所を教えてくれた。
体に触れなくても、手を握らなくても、十分に宮河の愛情に触れられた。
壁はもう見えなくなっていた。
夏休みが終わっても、週末になると秘密の場所に行って宮河と穏やかなひとときを過ごした。
二人で料理をしたり、散歩をしたり。
それだけで十分に幸せだった。
ログハウスの中は、血なまぐさい空気が淀んでいるようだった。
ベッドのシーツはなかったが、マットレスにしみ込んだ血はそのままだった。
アカリはデッキ側の窓を全開にした。
冷たい空気を吸い込むと、少し気分が落ち着いた。
部屋は片付けられ、床の血も拭き取られていた。
宮河の私物もまとめられ、部屋の隅にある大きな段ボールに突っ込まれているようだった。
アカリは段ボールの中をなんとなく覗いてみた。
調理器具や缶詰などの保存食、タオルや着替えなどが乱雑に入っていた。
「あ」
アカリは段ボールに手を入れ、松ぼっくりを取り出した。
とたんに、熱い塊のようなものが体の中を駆け上がってきた。
十月の始め。
文化祭が終わってから宮河の様子が違った。
文化祭の翌日は土曜日で外出日だった。
アカリはログハウスに行くつもりだったが、宮河は彼女に何も言わずどこかへ出かけてしまった。
月曜日から普通に学校に現れたが、妙な違和感があった。
何かを聞いても、当たり障りのない返事しか帰ってこなかった。
なんだか、無理に普通を装っているように見えた。
でも、避けられているわけではない。
それだけで少しホッとした。
次の土曜日、アカリはログハウスに行ってみた。
誰もいないのでウッドデッキに座ってぼんやりしていると古いジムニーが山道を通って入って来た。
いつも学校の駐車場に止めっぱなしになっている宮河の青いジムニーだ。
宮河は灯油の缶をかかえて降りて来た。
「そろそろ冬支度をしないとね」
宮河はいつものように昼食を作り、アカリにごちそうしてくれた。
いつものように優しかった。
宮河はやらなきゃならない仕事があるから、とノートパソコンに向かって作業を始めたので、アカリはひとりで湖畔を散歩したり、飽きると部屋にあった本を読んだ。
時間が経ち、やがて日が暮れてきた。
いつもなら暗くなる前にと、三時くらいには山道を通って、もしくは青いジムニーで寮へ送って行ってくれた。
しかしその日宮河は何も言わなかった。
日が落ち、本が読みづらくなったので電気をつけると、
「あぁ、もうこんな時間か」
と、ようやく顔をあげた。
アカリはやかんで湯を沸かしてインスタントコーヒーを作り、宮河のパソコンの隣にマグカップを置いた。そのとき、宮河がアカリの腕を掴んだ。
「なに?」
宮河はパソコン画面に顔を向けたまま黙っていた。
「どうしたの」
「いや、何でもない、ごめん」
そう言って宮河は手を離した。
「遅くなってしまった。車で送って行こう」
立ち上がった宮河をアカリは後ろから抱きしめた。
アカリには分かった。宮河が自分を求めていることを。
「一緒にいるから。ずっと」
アカリは宮河に抱かれた。
月明かりだけのほの暗い青い部屋の中で。
アカリにとって初めての経験だったが、宮河の行為はゆっくりと優しく、わずかな痛みはあったが不安はなかった。
最初から最後まで愛情に溢れていた。
終わった後の気怠い心地よさの中で、アカリは宮河の整った顔を眺めた。
「何」
アカリの視線に気づいた宮河が言った。
「安心した」
「何が」
「先生って空想の世界の王子様なのかなって思ってた。
おならもうんちもしない。
もちろんセックスも」
「ええ?」
「でも、普通の男の人だった。おじさんになりかけの」
宮河はアカリを抱きしめた。
「まだ、おじさんじゃないだろ」
そう言って二人はクスクス笑った。
「ここ、傷の跡?」
手探りで脇の下にあるケロイドのような跡に触れる。
「そう。手術の跡」
「痛そう」
普通の縫い跡よりひどい傷跡。
優しく撫でるアカリの手を取り、宮川はその手にキスをする。
そしてもう一度強く抱きしめる。
「君は僕の天使だ」
「おじさんくさいよ、そういうセリフ」
「愛してる」
それに応えるように、アカリは宮川を抱きしめ返した。
ところが次の日の朝。
風呂場へ入ったアカリは、ここにあるべきではないものを見つけた。
風呂場と言ってもそこには取って付けたようなシャワーしかなく、無駄に広いスペースには棚が置いてあり、シャワーカーテンで目隠ししてあった。
タオルを探そうとカーテンを開けると、棚の隅に生理用品が置いてあった。
タオルを持ってやって来た宮河は慌ててカーテンを引いて隠したが、同時に二人の仕合せな時間の幕も引かれてしまった。
今思えば……。
宮河が女の身体のままだったということを知った今思えば、あの生理用品は彼が使っていたものなのだろう。
しかしそのときは、他の女のものだと思い込んでしまった。
私だけに教えてくれた秘密の場所だと思っていたのに、すでに違う女が来ていた。
しかも、生理用品を置きっぱなしにするような間柄だったと。
それ以来アカリは宮河と口をきかなかった。
目も合わせなかった。
まるで、天使が悪魔になったように。
徹底的に無関心な態度を取った。
アカリは持っていた松ぼっくりを握りしめた。
どんなに冷たい態度を取っただろう。
それなのに、松ぼっくりはまだこの部屋にあった。
先生の遺体を見つけたとき、ベッドから垂れ下がった先生の腕の下には松ぼっくりが転がっていた。
先生は、松ぼっくりを掴もうと手を伸ばしたのかもしれない。
息絶える直前に。
アカリはそのまま床に崩れ落ちた。
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