18 吸血倶楽部の晩餐会

 鷹山駅からバスで三十分くらい。

 繁華街を過ぎて、住宅街から少し離れた山の麓。

 田園風景と雑木林の間に、かつては立派だったであろう日本家屋があった。

 もう誰も住まなくなってから十年以上は経っている。

 立派な門構えも朽ち掛け、アカマツやツバキが真っ黒になった石造の塀の上から伸び放題に枝を伸ばしていた。

 そんな誰も寄り付かない空き家の玄関に、この日の夜は薄暗い灯りが灯っていた。

 しかし、空き家に電気が着いていることなど気づく人間は近所にはいない。

 そもそもこのあたりに住んでいる人間はもういない。

 空き家が点々と残っているだけだ。

 それなのに、たまにタクシーが着てはその家に人を降ろしていく。

 または、家の隣の空き地に車を止め、彼らはこっそりと門をくぐって木々の影に消えていった。

 そこへまた、一人の男が到着した。

 男は暗い廃墟のような古民家を訝しげに見渡し、あまり気が進まない様子で門をくぐって行った。

 立て付けの悪い玄関の戸を開けると、白い仮面を着け、執事のような黒い服を着た背の高い男が「お待ちしておりました」と仰々しく出迎えた。

 男は仮面男から彼がつけているような仮面を渡された。

 色は白でなく赤だった。

 顔の上半分だけ隠れるもので、男は渋々それを着けた。

「まったく、よくやるよ」

「恐れ入ります。レッド氏」

「レッド氏?」

「ここではそうお呼びいたします」

 そう言って仮面の男はレッド氏を奥の間に連れて行った。

 仮面の男が持つ蝋燭の灯りだけをたよりに暗い廊下をしばらく歩くと、ひとつの襖の前で止まった。

 仮面の男が襖を開けるとビロードのカーテンが現れた。

「皆様、お待ちかねです」

と、仮面の男はカーテンを開き、レッド氏を中に入れた。

 日本家屋の和室だったはずの部屋は、すっかり洋風のサロンのようになっていた。

 壁や床はビロードのカーテンや絨毯で覆われ、アンティークのソファやテーブルが並んでいた。

 そして仮面をつけた男女二十人くらいがソファに座って談笑をしていた。

 灯りはそれぞれのテーブルにあるだけで、部屋全体は暗かった。

 ゴシックな空間には不釣り合いなトランス系の音楽が重低音を効かせて鳴り響いていた。

 仮面の男はレッド氏を空いていたソファに座らせると、部屋の真ん中に立った。

「皆様、お待たせしました。

 わが一族と、うら若き処女の皆さんが揃いましたので、これより血のパーティを始めます。

 今宵、素晴らしい血みどろの時をお過ごし下さい」

大きな拍手湧き起こり、仮面の男は一礼をした。

レッド氏は部屋から出ようとする仮面の男を捕まえた。

「なんなんだ、この茶番は」

「まあまあ。結構いい雰囲気でしょ?

  吸血鬼と処女との合コン、てくらいに思って気楽に。ね」

 気楽に、と言われてもレッド氏は腑に落ちない様子だった。

「大丈夫ですよ。

 ちょっと血を舐めたらさっさと帰ればいいんです。

 ほら、処女が来た」

 仮面の男はやって来た女にソファに座るよう促すと、部屋から出て行った。

 黒い仮面を付けた女はにっこりと笑うとレッド氏の隣に座った。


 そう、私は、確かめに来たのだ。




 赤い仮面の男、この男が探している男なのだろうか。

 黒い仮面をつけたアカリの隣で、レッド氏は首を振ってため息をついた。

 アカリは紺色のシルクのようなロリータ調のワンピースを着ていた。

 漆黒の髪を結い上げ、白い首元を露わにしている。

 アカリはどうしていいか分からず違和感のある笑顔を作って黙っていた。

 二人のそばにあるテーブルの上には、消毒用エタノールと脱脂綿、清潔そうな白いタオルが数枚、そして細長い小箱が置かれていた。

 沈黙を保っている二人のところへ、一人の小柄の男がやってきた。

「どうも。実は私、歯科技師をしております。

 希望の方にこんなものを作って差し上げております」

 そう言って、掌くらいのケースを取り出し、中を見せた。

 小さな歯が二つ並んでいるが、ただの歯ではない。鋭く尖った牙だ。

 小男はその牙を自分の歯の上に被せて見せた。その姿はそう、吸血鬼だ。

「これは、見た目はあまり精巧ではないですが、使用感はとてもいいです」

と話しづらそうに言うと牙を外した。

「失礼。牙の先をかなり鋭利にしてるので、これをつけている時はあまりしゃべらない方がいいです。

 誤って自分の舌を傷つけてしまいますから。

 パートナーの肌にスルッと突き刺さる感覚、自画自賛ですがなかなかの傑作です。

 もちろん、見た目重視のものも作れます。

 ご希望でしたら今日歯型をらせていただいて、次回の晩餐会にお持ちいたしますが」

 レッド氏は黙ったまま首を横に振った。

 小男は口元の笑みを崩さずに、牙をしまった。

「では、気が変わりましたら、こちらにご連絡を下さい」

 そう言って名刺を置くと、小男は別のテーブルへ移っていった。

 牙。

 宮河先生の体にあった二つの穴。牙の痕。

 アカリは思い切って口を開いた。

「あなたは牙を使わないの?」

 レッド氏は怪訝そうに首を横に振った。

「それより、君。本当にいいのか?」

 アカリは小さく頷いた。

 

 そうだ、思い出した。


 レッド氏はアカリの左手を指差した。アカリは恐る恐る左手をレッド氏に差し出した。


 そう、左手だった。

 左手に大きな絆創膏。


 レッド氏はテーブルの上の小箱を開けた。

 中にはパックされたカミソリが入っていた。

 レッド氏はアカリの手を取り、エタノールを含ませた脱脂綿で手のひらの親指の下の部分を丁寧に拭いた。

「自分で切れるか」

 レッド氏がアカリにカミソリを差し出した。

 アカリは仮面の下からじっとレッド氏を見つめた。

「あなたがやって」

 レッド氏はカミソリを袋から出し、なれた手つきで消毒した部分に刃をあてた。

 痛みは一瞬だった。

 痛みから少し間を置いて白い肌に赤い一線が現れた。

 レッド氏はアカリの手のひらを上にしたままにした。

 やがて血液が肌を伝って手のひらのくぼみに集まり始めた。

 レッド氏はアカリの柔らかい手に口を付けると、まるで盃の酒をなめるかのように大事に啜った。

 もう痛みは不思議と感じなかった。

 ただ、ただ背中がぞわぞわと冷たくて、ただただ不快だった。

 自分の体から流れ出る血を好きでもない男が啜っている。

 男の生暖かい体温から今すぐ逃れたかった。

 でも、私は確かめにきたのだ。

 アカリは目を開けてすぐ近くにある彼の頭を見た。

 あまり清潔感の感じられないクセ毛の髪。大きめの耳。

 そして、頬から首に張り付いている痣。


 佐和はたまに左手に大きめの絆創膏を貼っていた。

 宮河先生も左手に絆創膏を貼っている事があった。

 まさか、いままで気がつかなかったなんて。

 

 我に返るととレッド氏は血を啜るのを止め、唇についた血を舐めとりながらアカリの傷口と手のひらを消毒していた。

 そして、小箱にあった軟膏を塗り、大きめの絆創膏を貼った。

 アカリは自分の手に貼られた絆創膏を眺めた。

「ここにいる女は皆処女と聞いたけど」

 レッド氏はアカリを見た。

 アカリは背筋を伸ばし、堂々と言った。

「そうよ」

「いや、君は男を知っているな。処女じゃない。

 そこらへんの輩は騙せても、僕には分かる」

 レッド氏は仮面の向こうからじっとアカリを見ていた。

 彼の口調から苛立ちを感じる。

 急に恐怖がわき上がってきた。

 佐和も、宮河先生も、彼が自殺に追いやったのだろうか。

「正直なところ処女じゃなくても構わないんだよ。ただ」

 アカリは血まみれの宮河先生の姿を思い出した。

 それから、美術準備室で見た小野寺の描いた絵。

 キャンバスの赤い絵の具をなぞる指。

 レッド氏はアカリの白いうなじに指を這わせた。

 アカリは全身に鳥肌が立つのを感じた。

「ただ、どうせバレないだろうという小賢しいまねが大嫌いなんだ」

 レッド氏の親指がアカリの喉を捕らえた。

「なぁ、真田」

 アカリの細い首にレッド氏の指が食い込んだ。



 アカリは最後に見た、生きている宮河の姿を思い出した。

 あれはログハウスで死んでいる宮河を発見する前の晩。

 その日は佐和の母親から電話で、佐和の自殺未遂を聞かされた。

 佐和に対して冷たい態度を取ったことを後悔してもいまさらどうにもならなかった。

 それでも後悔せずにいられない。

 そして佐和と特別な関係にあった小野寺を責めた。

 でも小野寺を責めたところで何も変わらなかった。

 ひどい気持ちのまま学習棟を出て、雪がちらつく中を歩いていて突然宮河に呼び止められたのだった。

 暗闇の中、お互い顔もよく見えなかった。

 アカリは宮河の腕の中に飛び込みたい衝動に駆られた。

 しかし、今、宮河とはそんな関係ではなかった。

 アカリが一方的に壊したのだからそれは貫かなくてはならなかった。

 アカリは何も言わずに立ち去ろうとした。

「待ってくれ」

 宮河はアカリの腕を掴んだ。

「君が僕をどう思っているかわからないけど、

 君は僕の支えだった。

 君がいたから僕は僕で居る事が出来た。

 ……ありがとう」

 そう言って宮河は手を離した。

 待って

 しかし気持ちは言葉にはならず、宮河は振り返る事なく学習棟の中へ消えていった。

 

 今思えばその時、宮河は既に死ぬつもりだったのだ。

 もしかしたら止められたかもしれない。

 いや、止められたのだ。

 先生、何処へいくの。

 そっちには、小野寺先生がいる。

 そっちにいるのは吸血鬼よ。

 血を捧げに行くの?

 何のために?

 もういい。

 私も行く。

 私も、宮河先生のところへ…………。



 気が付くとアカリは甘ったるい香りに包まれていた。

 脳味噌が液体にでもなったかのように、意識がゆらりゆらりと定まらない。

 思い瞼をどうにか押し上げる。見えるのはオレンジ色の薄暗い灯り。


 誰? そこにいるのは


 そう言おうとしても声にならない。舌が回らない。

「気がついた? 大丈夫。今君が寝ているのはふかふかのベッドだ。

 暖かくて気持ちがいい。

 でも、今からもっと気持ちがよくなる」


 小野寺先生?

 私はどうなっているの?


 男が言う通り、息を吸うたびにアカリの中の不安や恐怖がなくなり、代わりに幸福感が広がっていく。


「今から君はとっても素敵な世界へ行ける。

 いいかい、僕が君の体をなぞると、たまらないほど快感が溢れ出す」

 男はそう言うとアカリの首筋をなぞった。

 とたんに快感が体中を駆け巡る。


「僕が愛撫すればするほど、快感が倍増していく。

 君はただ快感に身を任せる。

 そうすればとても素敵な世界へ行ける。

 新たな世界へ行ける」

 そう言いながら男はアカリの首筋を撫で回した。

 アカリは「やめて」と言いたかった。

 でも、体が動かない。

 男はそんなアカリに顔を近づけると、大きく口を開けた。

 そこにはキラリと光る牙が。

 牙はアカリのうなじにするりと入っていった。



 不思議と痛みはなかった。

 ただ、どくんどくんと鼓動に合わせて首筋が熱く火照っていくのが感じられた。

 アカリはゆっくりと目を開け、見た。

 自分の血を、その口元に滴らせた悪魔を。

 悪魔は傷口から溢れ出す血に唇をはわせた。

 悪魔の唇が、舌が、アカリの理性の鍵をひとつひとつこじ開けていった。


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