第19話「漂白されてゆく空」

 妄念もうねんを乗せた翼が今、静かに舞い上がる。

 瞬間、戦場を支配する空気は戦慄せんりつに凍り付いた。

 全速力で逃げるヘリが、まるで牛歩ぎゅうほごとき遅さに感じる。ユアンはただ、その中で揺られるしかない。ストレッチャーへ横たわるムツミの手を握ってやりながらも、震える彼女に自分の震えが重なった。

 ――"白亜の復讐姫ネメシスブライド"

 五十年戦争末期の混沌が生んだ、凄絶なまでに美しい死神。

 その血に濡れた大鎌デスサイズが、ユアンの喉へとすでに触れていた。

 エルベリーデの白い"レプンカムイ"は、強烈な殺気をユアンへ向けてくる。

 圧倒的に不利な状況でも取り乱さず、神業かみわざにも等しい戦技で離陸した彼女は……あっという間にヘリへと肉薄してきた。

 無線を通じて話す仲間たちの声が、一気に緊迫感を帯びる。


『各機、ヘリを護衛して! イーニィ、後続の追撃を警戒しつつ牽制! ラステルは好きに動いてよし! さて……わたくしも久々に運動させてもらいましてよ』


 おっとりと優しかったナリアの声が、不意にすごみを増した。

 同時に、背後に迫る白い影が翼をひるがえす。

 ラーズグリーズ小隊は三人、数の上での優位は明らかだ。

 だが、ユアンは知っている……吸血部隊と恐れられた、第666戦技教導団だいロクロクロクせんぎきょうどうだんのパイロットにとっては、多対一など初めから想定された前提条件に過ぎない。

 あらゆる状況で劣勢をひっくり返す、圧倒的戦技の一騎当千集団。

 その猛者もさたちをひきいる人間として、ユアンが育てた美貌のエースがエルベリーデだ。

 ノイズが交じる無線へ、彼女の凍れる声が入り交じる。


『……アン……ユアン、聴こえてるでしょう? ……まだ、間に合うわ……投降し――』

『クソッタレが! イーニィ、あの白い奴を黙らせろっ!』

『やってます、ラステルさん! 喰らいついてくので、精一杯ですよ!』


 鈍足のヘリを見下ろす中空に、巨大な闘技場が出現していた。

 三人の戦乙女ワルキューレが連携し合って挑むは、巨大な白竜ファフニール……見る者全てを魅了し、その瞬間に惨たらしくほふる魔物だ。白い翼は空気を引き裂き、音の速さで敵意をにじませている。

 行き交うナリアたちの声の中で、エルベリーデはユアンにだけ語りかけていた。


『殺すなら……パイロットの貴方がいいわ……ユアン。貴方の空飛ぶ棺桶かんおけは、そんなトンボじゃないでしょう? ……ねえ、ユアン……飛んでる貴方を、殺したいの』


 たまらずユアンは、窓へ張り付き外を見やる。

 特務艦ヴァルハラ所属、ラーズグリーズ小隊の"シャドウシャーク"……カナード翼とエンジンチューンを得た改修機は、善戦していた。やはりあの三人は並の腕じゃない。ラステルとは模擬戦の経験もあったし、イーニィも小さな少女とは思えぬ働きだ。

 そしてなにより、隊長機のナリアはエルベリーデに匹敵する腕を見せ付けてくる。

 牽制に徹するイーニィと、喰らいついてゆくラステルとを俯瞰ふかんしながら……常にエルベリーデの二手三手先にナリアは回り込む。

 だが、実力伯仲だからこそ、馬の差は如実に現れる。

 ほんの僅かな機体性能の差は、生死の狭間で勝敗を決定的に分かつのだ。


『ッ! 今のを避けやがるかっ! こちとら緊急発進スクランブルで駆けつけてんだ、ミサイルなんじゃ積んでねえしよっ!』

『条件は撃ち終えたあちらも同じ筈です。でも、このままじゃ――』

『はいはい、無駄口が多くてよ? 勝てないまでも負けないようになさい? わたくしのかわいい貴女あなたたち。ヘリの離脱まで抑えるのよ。よくて?』


 海が見え始めて来たが、特殊部隊を満載しているヘリの動きはいかにも鈍重だ。そして、ノロノロと飛ぶユアンたちの頭上で死と死が行き交い擦れ違う。

 狭い窓の視界で、ユアンは必死に味方の動きを目で追った。

 否……エルベリーデの動きをこそ、目を見開いて探した。


「相当に腕をあげたな、エルベリーデッ! やはりあの時も、俺の"レプンカムイ"が不調だっただけではない。奴は……あの女は、俺が知る頃より強い!」


 機銃の火線が空を裂いて、何度も宙に光の線を引く。

 直線的に三方向から注がれる敵意の中で、エルベリーデは踊っていた。

 狂い咲く徒花あだばなのように舞い、翻弄ほんろうしてあざ笑うように咲き誇る。

 極限までドッグファイトのための性能を追求した機体、Fv-67"レブンカムイ"……その動きは抜き身の刃のように鋭く、舞い散る花びらよりも軽やかだ。

 エルベリーデは間違いなく、自分専用機を完全に乗りこなしていた。

 そして、堂々と三機を交互に背後へ連れては翻弄する。

 ようやくラステルの"シャドウシャーク"が張り付いて、ロックオンの距離へと加速してゆく。あくまで優雅に飛ぶエルベリーデの動きに、思わずユアンは窓を叩いて叫んだ。


「ラステルッ! 挑発に乗せられるなっ! その動き、あの女の術中におちいるぞ!」


 "レプンカムイ"の方が、"シャドウシャーク"よりエンジン出力で勝る。スペックで優位にある機体は、上昇での回避機動を選択するのがセオリーだ。

 だが、エルベリーデは急降下で地面へと吸い込まれてゆく。

 ジリジリ距離を詰めるラステルを、奈落アビス深淵しんえんへ引きずり込むように誘う。

 ユアンはこの数秒後の光景を知っている。

 自分が教えたマニューバで、自分と仲間たちの十八番おはこだ。定められた結末へと今、ラステルは自分でも気付かぬ内に取り込まれようとしていた。

 目を凝らすユアンの叫びが、ナリアの声に重なる。


「追うな、ラステル! 罠なんだ、追い詰められているのは奴じゃない、むしろ――」

「ヴァルキリー2、ラステルさん。仕掛けてきます、気をつけて……"白亜の復讐姫"の、その動きは!」


 大地を舐めるような低空で、ラステルがエルベリーデに最接近する。

 ヘリから見下ろせばもう、点にも等しい大きさの二機は重なりそうだ。だが、さらなる降下を続けるエルベリーデの"レプンカムイ"がバレルロールで一回転。失速スレスレの中で速度を殺した。

 やり過ごされたラステルの背後に、純白の殺意が張り付く。


『なんだありゃっ、クソがっ! オレのケツを舐める距離だぜ、畜生ちくしょうッ!』

『ラステルさん! 今、援護に向かいます!』

『待って、ヴァルキリー3! 落ち着いて、イーニィさん! ラステルさんも!』


 そこから先は、ユアンの中の記憶をリフレインさせる一人舞台だった。

 エルベリーデはなぶるようにラステルに機銃を浴びせつつ、決して当てようとしない。しかし、必殺の距離で命を握られた方はもう、冷静さを維持することが難しかった。

 そして、助けに入ろうとしたイーニィの安直な動きがあっさり避けられる。

 死を運ぶ白鳥は今、追いすがる全てを嘲笑あざわらいつつトドメの牙を剥く。

 急いでユアンは再びヘリのコクピットへ飛び込んだ。

 パイロットのインカムを通して、ラステルへと声を張り上げる。


「ラステル、タイミングを合わせてダイブしろ! 奴は確実で堅実な撃墜のために、銃爪ひきがねを引く前に少しだけ距離を取る! その隙に合わせて離脱するんだ!」


 叫びつつ、ユアンもわかっている。

 言うはやすしだが、エルベリーデはそこまで甘くない。そして、彼女の声が入り交じる回線の向こうで、彼女自身が聞き耳を立てているのだ。

 だが、癖というのはなかなか抜けることがないものだ。

 昔は常日頃から、ユアンはエルベリーデに釘を刺していた。ロックオンしたら迷わず撃て、戦闘機はどこに銃弾が当たっても撃墜はまぬがれない、と。御丁寧ごていねいにエンジンへの確実な直撃を狙う、その僅か数秒の間に攻守が入れ替わることだってあるのだ。

 その隙に漬け込むことができる人間を、ユアンは自分以外に知らない。

 豹変とさえ言える成長を遂げた今のエルベリーデでは、自分でも自信がなかった。

 そして、運命が交錯こうさくする。


『見ていて、ユアン……貴方の技の全てを使って……殺すわ。殺し続ける、撃墜マークを稼ぎ続けるの……まず、一つ』

『ラステルさん! ダイブしてください! ……わたくしの部下は、もう誰も、誰一人として!』


 ラステルが上昇と同時に翼を翻した。

 可能性を削ぎ落とされた先の、唯一の逃げ場へと飛ぶ。その先へ既に照準を合わせていたエルベリーデもまた、射撃ポジションを失い距離を取る。

 ギリギリで滑り込んだナリアの一撃が、エルベリーデの演出した狩場を破壊した。

 そう、狩りだ。

 戦いを楽しみ、楽しんでいる自分を無邪気にユアンへと見せつけてくる。彼女はまさしく、ユアンという狩人が育てた猟犬だ。そして、野蛮な狩猟の時代が終わっても狩りを忘れられず、狩りが手段である前に目的な狼へと変わってしまったのだ。


『あら、残念……でも、本当なら確実に……撃墜してたわ。それは感じてもらえたかしら? ユアン……楽しめてもらえてる? ……私を殺さない限り、ずっと続くわ。ずっと、ずっとよ』


 ナリアの機転でラーズグリーズ小隊は危機を脱した。

 しかし、その時にはもう……ユアンの乗るヘリにエルベリーデは迫っていた。ジェットの轟音が近付くのが、ユアンにもはっきりと感じられる。

 だが、現世への別れをもたらす鉛の礫は飛んでこなかった。

 そして、ヘリは港の上空へと到達する。

 既に臨戦態勢のヴァルハラは、停泊したまま対空火器で空を照らし始めていた。濃密な弾幕の中で、舌打ちをこぼしてエルベリーデが去る。

 実質的に、ラーズグリーズ小隊の惨敗ざんぱいだった。


「俺は……なんてものを育ててしまったんだ。クッ……もう、俺でしか奴は止められない。俺があの女を殺すしかない」


 ドン! とヘリの内壁を拳で叩く。握り締めた内側へと、己の激昂げきこうが圧縮されてゆく。手の平へと食い込む爪の痛みさえも、今日の悔しさを忘れさせてはくれない。迂闊うかつにもエルベリーデを街で見かけて追い、とらわれた。そのせいでムツミに単独での危険な救出ミッションを選ばせた。その上、危うく新しい仲間を失うところだったのだ。

 ヘリはヴァルハラの飛行甲板へと降り始めた。

 自分の引き起こした惨事の結果に、ユアンの忸怩じくじたる想いだけが胸の奥に広がっていくのだった。

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