第10話「ヴァルハラという艦」
ユアンが
ユアンの身分は公的には、協約軍の脱走兵である。
だが、不思議と懲罰や軍法会議はなかった。
この
その空気の中で、ユアンは通常の軍隊とは大きく異る任務に
「くっ、どうして俺がこんな……俺はパイロットじゃないのか? そもそも、なんだこの内装は。軍艦だぞ、ここは」
ユアンは今、はしごの上で天井へと手を伸ばしていた。
波間を走る
まるで一流ホテルのような艦内には、理由がある。
ユアンが切れた電球を交換している、この場所は……主に女性の士官室へとあてがわれていた。場所は左舷部前方、航空甲板の下である。
双胴型の
「ええい、中途半端な改装をしている! この区画も潰せば、もっと
そして、腰のベルトに挟めた
この数日、ずっとこうした雑務に追われている。
ヴァルハラでは男手は数えるほどしかいないため、自然とこうした仕事は溜まりがちだという。それを艦長のムツミは、全部ユアンに丸投げしたのだ。
どうにか電球を交換し、はしごに座って一息つく。
ユアンが今いる左舷側は、それ自体が巨大な航空母艦である。だが、元は金持ちが好むような豪華客船で、長引く五十年戦争で
一方で、艦首側はまだ航空甲板の下に客船時代の優雅な内装を残していた。
「……五十年戦争が生み出した負の遺産、か。さて、次の仕事はなんだ? ……ええい、これだから機械は嫌なんだ」
一息ついたのも束の間、次の仕事にとりかかるべくユアンは
ユアンは戦闘機のパイロットで、戦闘機とは精密機械の
だが、戦闘機はユアンにとって翼、自分の肉体の一部にも等しい。
戦闘機は常に、最も柔らかな金属であり、
自分の延長線上にある、自己を拡張した形……それが戦闘機だ。
だが、目の前の携帯端末はそうではない。
ユアンは昔から、機械が死ぬほど苦手だった。
戦闘機なら自在に操り、多少なりとも整備ができる男でもだ。
「ええと、ここか? これを……よしよし、表示されたぞ。残り49件か……もう、すぐ取り掛かれる左舷の作業はないな? 次は……右舷側に行くか」
携帯端末が中空に浮かべる、光の文字列。それを指でなぞりながら、はしごの上でユアンは脚を組み替えた。
不思議とこんな時、あの女のことが思い出される。
嫌でも思い出してしまう。
エルベリーデ・ドゥリンダナ……協約軍最強のエース、"
こうして緊張感のない場所にいると、自然と勝手に記憶が浮かび上がってくる。
既に吹っ切れているとは言え、まだ胸の奥に
そして、その気持にセンチメンタリズムを引きずることを、ユアンは自分に許さない。
許される筈がない。
無残に死んでいった仲間たちのために、復讐を
そうしなければ、自分さえも許せなくなってしまう気がした。
「さて、じゃあ右舷側に……あっちもあっちで、相当に奇妙な構造だが」
電球を口に咥えたまま、ユアンは表示される内容を目で追う。
特務艦ヴァルハラの右舷側、右半分は
ずらり並んだ
「ふむ、じゃあこの……対空レーザー発射口のレンズ磨きからいくか。……なに? 対空レーザーの発射口!? な、なんだそれは!? こっちは……
これではまるで、SFか家架空戦記物だ。
しかも、インチキまみれの三文小説である。
驚きにユアンが
「なにっ、処理案件が増えただと!? クッ、これでは終わらないっ! どうなって、あっ!? し、しまっ――」
思わず携帯端末に怒鳴ってしまったユアンは、はたと気付く。
今しがた取り替えたばかりの電球が、口から零れ落ちた。
それはまっすぐ、重力に引かれて自由落下。
床にはカーペットが敷き詰められているとは言え、この高さでは割れてしまう。散らばるガラス片を掃除するのも、
思わず手を伸ばそうとして、グラリと揺れたはしごの上でバランスを取る。
無情にも
そして、自分を見上げる
「ど、どうも、ムツミ艦長……た、助かりました」
「はいっ! ユアンさんもお疲れ様です!」
そこには、ムツミが立っていた。
彼女の手に、無事に電球は収まっている。
ホッとしたユアンは、次の瞬間には表情を引き締めた。それは、ムツミの笑顔が緊張感を帯びたから。彼女は
こうして見ると、まだまだ遊びたいざかりのティーンエイジャーにしか見えない。
同時に、端正な表情は才気に満ちて、大佐にして艦長という地位に恥じぬ能力を見せつけてくるのだ。
「ユアンさん。先日の空戦時の、エルベリーデ大尉の行方ですが」
「なにかわかったのか!?」
「はい。予想通り、彼女は秘密結社フェンリルの潜水空母に着艦、姿をくらましました」
「せっ、
「秘密結社フェンリルの科学技術は、協約軍や協商軍の十年先を行ってます。そして、豊かな資金力で超兵器を開発し、再び世界大戦を起こそうとしてるんです! だから!」
何故か、ガシリ! とムツミははしごを
そして、細い足でよじ登ってくる。
「な、なあ、ちょっと……なんで昇ってくる!」
「ユアンさんのお陰で、先日わたしは命拾いしました。わたしがヴァルハラに着任する情報が、フェンリルに
「あ、ああ。わかった、わかったから」
だが、ムツミはとうとうユアンの目の前まで上がってきてしまった。そして、可憐ながらも生真面目に引き締まった顔を近付けてくる。
エメラルドのように輝く大きな瞳は、強い意志が真っ直ぐな光を揺らしていた。
「ユアンさんが助けてくれなければ、わたしもどうなっていたか……でも、ユアンさんのお陰で助かったばかりか、フェンリルに対してもこちらの意思を示すことができました」
「それは……! ああ、そうか! あの、一見無意味に思えた大音量の外部マイクで」
「はい。エルベリーデ大尉を回収したフェンリルの潜水空母は、報告するでしょう……エインヘリアル旅団と特務艦ヴァルハラの存在を。これで連中の注意をわたしの艦に引きつけられます。ようやく平和になった世界に、これ以上戦争の火種はばら
ユアンは素直に驚いた。
てっきりムツミも、長い大戦の中で生み出された
だが、違った。
彼女は
ユアンへヴァルハラへの着艦を
それは、ユアンを通してフェンリルへと叫んでいたのだ。
自分たちの存在、そして敵対する意思を。
明確に伝えることを彼女は選び、同時に……自分が無事、エルベリーデの率いる編隊の暗殺を逃れ、着任したことを知らしめたのである。
そう知ってユアンは、間近に迫る少女の顔に思わず笑みが零れた。
「なるほど、大した大佐さんだ。いや、失礼……ムツミ艦長」
「いえいえっ! これからもよろしくお願いします、ユアンさん。近日中に"レプンカムイ"の整備用パーツや予備エンジンが届きますので」
「それは助かるな。そうだ、助かるついでに……この携帯端末なんだが、どうもよくない。ちょっと、使い方を俺に――」
ますますムツミが顔を近付けてきた、その時だった。
突如
突然のアラートと同時に、周囲でも慌ただしくドアが開かれた。幾つかの個室から士官たちが飛び出て、急いで駆け抜けてゆく。勿論、皆が皆そろって女性だ。
肌も
そして、艦内放送が響き渡る。
酷く冷たい声の主は、オペレーターのリンルだ。
『ブリッジより各員へ。至急、第一種戦闘態勢へ移行せよ。あと、艦長はブリッジへお戻りください。繰り返します――』
突然の戦闘配置。
コンシェルジュの真似事をやらされていたユアンも、思わず表情が引き締まる。
そして、彼は見た。
目の前でムツミの顔が、あっという間に幼い少女のあどけなさを脱ぎ捨てるのを。はしごから飛び降り振り返った彼女は、無邪気な笑顔を怜悧な仮面で隠していた。
可憐な健康美とは真逆の、冴え冴えと研ぎ澄まされた美貌が覇気を帯びる。
「見つけましたね、目標を。では……ユアンさん! わたしとブリッジに上がってください。お見せします……わたしたちの敵、秘密結社フェンリルの正体を」
真っ直ぐな眼差しのムツミは、既にこのヴァルハラの艦長の顔をしていた。
黙ってはしごを降りたユアンは、大きく
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