第5話「追憶の終戦」

 ユアンは夢を見ていた。

 過去の記憶で、それはまだ遠い昔ではない。

 色あせてゆくには、あまりにも鮮明な追憶……それは今も、意識を失いまどろむユアンの脳裏に幻影を浮かび上がらせる。

 ユアンが思い出す空は、いつも青い。

 蒼天そうてんの中を血に染めて、ユアンは飛び続けていた。


「エルベリーデッ! 振り切れ、ケツに張り付かれているっ!」


 ビリビリと震える機体の中央で、ユアンは必死に叫ぶ。

 限界ギリギリの機動で追いかける先に、銃弾を浴びながら逃げる白い鳥が飛んでいた。美しき純白の機体は、返り血を浴びることなく無数の生命いのちを吸ってきた。

 エルベリーデの乗るFv-67"レブンカムイ"が舞い踊る。

 翼の両端から雲を引いて、危うい機動はまるで綱渡りタイトロープだ。

 彼女の背後へ張り付く亡霊のような敵機は、協商軍である。

 僅か数分前まで、協約軍と世界を二分していた。

 終戦へ向けての停戦発表が両軍から通達された、ここはその数分後の世界。

 まだユアンは、戦争の真っ只中にいた。

 そして、戦争に大事なものを奪われようとしていたのだ。


「くそっ、戦争は終わった! 終わったんだよ! それをわかれっ!」


 懸命に食らいついてゆくユアンを嘲笑あざわらうように、エルベリーデの機体が火線によって切り裂かれる。かすっただけだが、小さな炎がぜて彼女はバランスを失った。

 終戦の歓喜に沸き立つ世界から、この空は完全に切り離されていた。

 失速するエルベリーデの声を、敵パイロットの叫びが塗り潰す。


『ッ! ユアン、これ以上は……ベイルアウトするしか』

『死ね……死ねええええっ! 協約軍の魔女め! 同胞の、戦友のかたき!』


 今、手を伸べるユアンの指の隙間から、大切なものが逃げてゆく。

 無慈悲にも奪われてゆく。

 エルベリーデに呼びかける以上に、ユアンは自分に言い聞かせた。冷静さを呼び起こして自分を律し、恋人の生命を脅かす影へと真っ直ぐに飛ぶ。

 もはや言葉は必要ない。

 鉄火の銃声でしか呼びかけられない。

 そのためにも、必殺必中の距離へとユアンは己を押し出した。

 この状況下でエルベリーデは、まだ落ち着いている。被弾した機体を立て直して、現時点で考えうる最善の手を尽くしていた。ベイルアウトを口にしていたが、ここは協商軍……元協商軍の勢力圏内だ。

 地上部隊へ回収されて、どのような扱いを受けるかはわからない。

 なにより、美しい女性が戦争の中でどうなるか、それをユアンは嫌という程知っていた。エルベリーデは玲瓏れいろうなる美しさに飾られた、まだ十八の少女なのだ。


「諦めるな、エルベリーデ! 機体を捨てるな、今……今、俺が助けるっ!」


 既に戦争は終わった。

 二つの軍事勢力は、雌雄しゆうを決する愚挙をようやく諦められたのだ。

 決着をつけぬままに終わった戦いは、これからどうにか調和と融和の方向を探り出すだろう。その時、ユアンの隣にはエルベリーデが必要だった。それ以上に、エルベリーデが自分を必要としてくれているのを知っていた。

 エルベリーデは、僅か数年で驚くべき成長を遂げた。

 垢抜あかぬけない新兵だった少女は今、美貌の女エースとして空をんでいる。

 協約軍の反抗のシンボル、プロパガンダと言うにはあまりに華美で流麗なる少女。敵味方両軍が"白亜の復讐姫ネメシスブライド"と恐れ、あらゆる危険なミッションを生き抜いた一流のパイロット。

 そういう風に育てたのは、ユアンだ。

 右も左もわからぬ志願兵だった彼女を、ユアンが厳しく徹底的に鍛えたのだ。

 そして、守った。

 常に優しく見守り、彼女が背負わされた運命に寄り添った。

 ユアンは"白亜の復讐姫"と呼ばれる伝説の、影の演出家だったのだ。

 そして今、初めて自分の意思で愛機を駆る。

 エルベリーデの影に徹してた男は、真紅に燃える翼を加速させた。


『もういいわ、いいの。ユアン、どのみち私は……戦争が終わってしまったら、私は』

「喋るな、エルベリーデ! 助けると言った……お前を救うと!」

『ユアン、本当? 本当に私を救ってくれるの? なら、私――』

「黙ってろ、俺は……俺はっ!」


 回線を介して行き交う言葉が、二人の意思を重ねた。

 その狭間で危険を振りまく死神に、ユアンは躊躇ちゅうちょなく襲いかかる。

 それは、エルベリーデが意図的な失速状態へと機体を放り出すのと同時だった。

 まるで抵抗をやめたかのように、C型の白い"レプンカムイ"が落ちてゆく。それは、生還を諦めた飛び方ではなかった。飛んですらいない、自由落下の状態へと自らを導き……エルベリーデの声なき叫びがユアンを呼ぶ。

 理解ではなく直感が、ユアンを咆哮させた。


『へっ、諦めやがったな! 待ってろ、今こそ――』

「オオオオオオオッ! そこをっ! 動くなああああああっ!」

『なにっ!? いつのまに背後に』


 敵は、観念した獲物を前に舌なめずりしているかのような、緩慢な動きだった。その背にユアンは、一直線に突っ込む。見る間に迫る敵機の中で、振り向いたパイロットが見えた。

 その刹那、赤い翼は戦後の空を朱に染める。

 20mmの弾頭が殺到して、敵機を蜂の巣にする。

 ありったけの弾薬を吐き出した"レプンカムイ"は、振り返ることなく急降下に転じた。背後で爆発を聴きながら、機体をフルブーストさせる。

 エルベリーデが作ったすきを、ユアンは見逃さずに活かした。

 阿吽あうんの呼吸、死線を潜り抜けた仲間同士の連携だった。

 そうである以上に、かれ合う男女の想いとしか形容できぬ意思疎通があった。それがユアンには、普段以上にはっきりと感じられた。だから今、半世紀もの大戦が終わった空に、エルベリーデを死なせる訳にはいかない。


「敵は片付けた、エルベリーデ! 機体を起こせ!」

『やってるわ、でも』

「つべこべ言うな、新兵時代を思い出せ! 俺がいつ、口答えを許した? そういうことを教える男だったか、俺は!」


 翼の各所を揺らして振りながら、白い機体が失われたバランスを取り戻そうと藻掻もがく。

 そうだ、それでいい。

 必死に足掻あがいてくれ。

 そう念じて、落下する恋人にユアンは寄り添った。

 一緒にならちてもいい、そうも思える。

 だが、その瞬間までユアンは、エルベリーデと生きることを望んでいた。

 やがて、息を吹き返したように白い"レプンカムイ"が安定感を取り戻す。被弾した箇所からは燃料が漏れ出ていたが、どうにか水平飛行へと機体が持ち上がった。

 ユアンは無線に聴かれぬように、無音で安堵の溜息を零す。


「よし、いい子だエルベリーデ。基地へ戻るぞ」

『燃料はギリギリね……さっきので無駄に燃やしてしまったわ。それより、いい子ですって? また子供扱いして。五つしか違わないわ』

「不満か?」

『ええ、とても。でも、嫌じゃないわ。嫌いじゃないの』


 紅白の翼が横に並んで、自然とユアンは僚機に目を細めた。

 空を挟んだ向こうに、エルベリーデが自分を見詰めている。

 高速で空気を切り裂く速度の中、ようやく二人に戦後が訪れた。

 ユアンが恋人を救うために演じた戦いは、戦争ですらなかったのだ。

 そして、二人だけの空が静寂を取り戻す。


「……終わった、な」

『ええ、そうね』

「今頃は本隊も作戦を完了したか、途中で撤退したか……無事だといいが」

『ねえ、ユアン。……どうしてついて来たの? 陽動任務なら、私一人で十分だった筈だわ。目立つために私は作られ、飛んでいるんですもの』

「お前は今さっき、十二分に死ねる状況だったが……そんなことを言ってくれるな。立つ瀬がない」

『ご、ごめんなさい』


 戦慄の空に"白亜の復讐姫"の名をとどろかせた少女が、口ごもる。

 彼女が一人前のエース、優れたパイロットであることをユアンは認めていた。育てた自分が知る以上に、エルベリーデは瞬く間に成長したのだ。一を知れば十を得る、驚くべきスピードで彼女はエースへ成長したのだ。

 それを誰よりも近くで見て、触れて、感じてきた。

 だからこそユアンは、絶対に彼女を一人にしたくなかったのだ。

 それが私情だということは、理解している。

 そして今、そのことに素直になっていい時代が訪れようとしているのだ。


「エルベリーデ、基地に戻ればお祭り騒ぎだ。そのあとは……俺たちの部隊は解体されるだろう。もろもろの手続きが終わって、少し落ち着いたら……お前はどうするつもりだ?」

『……ほかのみんなは?』

「基地司令は退役して、店を開くんだそうだ。傑作さ、あの人の料理が金を取れるなんて、それこそ戦争の火種になりかねないからな」

『同意ね。お金をもらっても食べたくないもの』

「お前のものだって、相当ひどいぞ」

『そんなこと! ……ある、かも、しれないわ。ユアンが器用過ぎるのよ。私、あれが好きだわ。二人の朝にいつも作ってくれる、分厚いフレンチトースト』


 エルベリーデはようやく、戦士の仮面を脱ぎ去った。

 そこには、愛しい少女が笑っている。

 それはいつしか、ユアンが戦う理由で、戦い抜くための目的になっていた。そして、その手段は戦闘機のパイロットである以上、戦うことしかなかった。

 だが、それももう終わりだ。

 多くの仲間がそうであるように、ユアンにも新しい日々が訪れる。

 そして、未来へ繋がる明日へと、共に歩いて欲しい女性がいた。


「ケルヴィンは実家を継ぐとか言ってたな。奴はいいとこのボンボンだ、羨ましい限りだよ。セルゲイは故郷で恋人が待ってるそうだ。それから――」

『ユアンは? そういう、いい人とかいないの?』

「俺か? ……いるさ」

『そ、そう! やっぱりそうなのね』

「ああ、そうだ。すぐ横、今も隣にいる。そうだろ? エルベリーデ」

『……嬉しい。本当に。この空をずっと、このまま飛んでいられたら……それだけで私は幸せなのに。そういう幸せなら、求めてもいい気がするのに』

「それは無理だな。エルベリーデ、燃料計に注意しろ。基地までまだかなりある」

『ユアン! 貴方、どうしていつもそうなの……バカ』


 二機の"レプンカムイ"が帰路を飛ぶ。

 まるでつがいの雄と雌のように、空を優雅に泳ぐシャチ

 だが、この瞬間がユアンにとって運命の分かれ道だった。

 否、すでにその前から二人の道は分かれていたのだ。

 そして、二人を繋ぐきずなが宿命へと変わる。


「エルベリーデ、俺と来て欲しい。俺は飛ぶしか能のない人間だ。でも、お前となら新しいこともできる筈なんだ。だから――」

『私こそ、飛ぶだけの人間よ。戦闘機の最も高価で美しい部品……そういう風に貴方に作り変えられる日々は、辛いこともあったけど……とても、充実してた』

「美しい? 自分で言うのか?」

『……なに? 不満かしら?』

「いいや、ちっとも。エルベリーデ、これからも一緒に飛んでくれ。お前に飛ぶことしかないなら、俺が共に飛ぼう。どこまでも、いつまでも」


 照れたようにエルベリーデは、機体を加速させた。

 迷わずユアンはそのあとを追う。

 二人は互いに競うように、青空へと長い長い飛行機雲を刻んでゆく。

 それが、エルベリーデとの最後の記憶だ。

 

 交わした約束が最後になった。

 忙しい中、新たな門出を祝い合う場所にエルベリーデは現れなかった。

 彼女が指定したレストランで、ユアンは知ることになる。

 仲間たちと後処理に追われていた基地が……謎の勢力に爆撃されたことを。徹底的に破壊された基地で、迎撃に飛ぶことさえ許されず仲間たちは死んだ。

 新たに踏み出そうとしていた未来が、奪われた。

 自分からも、仲間からも。

 そして知る……爆撃機を守るように飛んでいたのは、白い"レプンカムイ"だったと。

 戦後の混乱の中、誰もが知らぬ虐殺があった。

 それは、一人の男を復讐へと駆り立てるには十分だった。

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