最終話「エピローグ」
夕焼けの赤が、水平線を燃やして落ちてゆく。
ゆっくりと入水する太陽は、最後の
飛行甲板ではまだ、多くのクルーが修復作業にかかりきりだ。応急処置で辛うじて艦載機を収容したものの、激しい攻撃に
そんな中、ユアンは甲板の
先程までの激戦が嘘のように、静かに
「……酒を教えてやることはできなかったな。俺は……少し、楽しみにしていたんだが」
ユアンは手にしたボトルを開封し、水面へと傾ける。
半分ほど
"
「眠れ、エルベリーデ……"
亡き戦友であり教え子、そして恋人だった少女に語りかける。
発した言葉に倍する想い、そのさらに何倍もの気持ちが膨れ上がる。だが、頬を
今、一つの戦いが終わった。
ユアンは仲間たちの復讐を果たし、全てを裏切った少女の狂気を撃墜した。
戦争の中でどこまでも狂っていった恋人は、最後の瞬間に穏やかな日々を取り戻した……ユアンにはそう思えた。協約軍が
それでも、まだユアンは望んでいる。
痛みを感じるからこそ、繰り返される戦いの先に希望を見出している。
それは、エインヘリアル旅団で彼が見付けた、この戦いで唯一得たものだ。
「お前は強かったよ、エルベリーデ……だが、強いだけの
それだけ言って、ユアンは笑いかける。
自分でも不思議な程に、自然な微笑みが
その笑みに笑みを返してくれる者は、もういない。
自分の笑顔の寂しさにも気付かず、ユアンは再度酒瓶を傾け、残りを瓶ごと放り投げる。
戦いの去った波間に、小さく水柱があがった。
背後に人の気配が立ったのは、そんな時だった。
立ち上がって振り向くと、意外な人物が近付いてくる。
「ムツミ艦長……」
「お疲れ様でした、ユアンさん!」
「あ、ああ」
そこには、軍服姿のムツミが立っていた。
協約軍の礼服姿は、
軍帽を脱いで、ムツミは手にした花束の片方をユアンに向けてくる。
受け取るユアンは、
ムツミはもう一つの花束を抱いたまま、身を正して敬礼する。
「この海に散った勇者たちに、魂の安息がもたらされんことを……それと、ユアンさん。これもです!」
「まだあるのか? これは?」
しばしの沈黙のあとで、ムツミは花束をもう一つ差し出してくる。
先程放ったものより小さくささやかで、白い花が数輪咲いていた。
それを受け取るユアンに、ムツミは大きく頷く。
「これは、ユアンさんに」
「俺に? ……そうか、俺は……"吸血騎士"は、死んだんだな」
「はい。その魂を宿していた翼もまた、この海に。……変ですか?」
「いいや、ちっとも」
「……あの子に、祈ってあげて下さい。公式撃墜スコア、427機。未確認も合わせて600機以上を撃墜してきた流血の翼……五十年戦争の影のエース、"吸血騎士"。ユアンさんを乗せて数多の戦場を駆け抜けた、あの子に」
ユアンは少しのあいだ、じっと白い花を見詰めて想いを巡らせた。
この
彼女に変わって返り血を浴びたかのように、鮮やかな赤い血の色の翼で。
己の分身であり、半身であり、その全て……相棒。
力尽きて海へと消えた愛機に、ユアンは白い花を
ムツミは静かに手を合わせると、長い
さざなみを掻き分け進む
「艦長、ありがとう。俺の翼に祈ってくれて」
「いいえっ! どういたしました! ふふ……わたしも、一緒ですから。おんなじです!」
「ムツミ艦長……」
「わたしにとっては、全ての兵器は兄弟、姉妹みたいなものです。だから、わたしがいつか壊れて動かなくなったら……やっぱり、誰かに祈ってもらいたいから」
それだけ言うと、ムツミは軍帽を被り直す。肩に留めていたベレー帽が、たなびく蒼い長髪の上に載った。その時にはもう、ムツミはいつもの
彼女は、ムツミ・サカキは、
ユアンは改めてムツミに向き直ると、その
「艦長、確かに君は作為的に造られた人間かもしれないし、高価で高性能な兵器かもしれない。そう思っている連中には、好きに言わせておけばいいんだ」
「あ、あのっ! ……ユアン、さん?」
「ただ、君は……君だけは、自分で自分をそんな風に思わないでくれ」
キョトンとしたままムツミは、黙ってユアンを見上げてくる。
そのあどけない表情に重なる
そして、前だけしか見えていない少女に伝えねばならないことがあった。
「ムツミ艦長、みんなが君を心配している。俺もだ。どうか……自分を大事にして欲しいんだ。君は、常人を
「ユアンさん……えっ! そ、それって、あの! こ、困ります!」
突然、ボンッ! とムツミが真っ赤になった。
あわあわと珍しく口ごもりながらも、背伸びして彼女は顔を近付けてくる。興奮すると喋る相手に密着してしまうのは、やっぱり彼女の癖のようだ。
「わたし、そんなこと教えられなかったです! 自分ではちゃんと大事にしてるんです、本当です! だって、わたしがちゃんとしてないと、で、でも! ええと、その、ユアンさん!」
「あ、ああ。その、なにも難しく考えることは――」
「ちゃんと考えてるんです! その、えと、うんっ! わたし、そゆの習ったことがないんです。わたしにあるのは、戦術理論や艦隊運用学、サバイバルと対人戦闘術、それくらいで。だから!」
どんどんムツミは顔を近付けてくる。
彼女の言葉が熱い吐息となって、ユアンの顔をくすぐってくる。
ぐいぐい前に出てくるムツミは、耳まで赤くなりながらしどろもどろに喋り続けていた。
「ユアンさん、めっ、命令します! わたしにっ、その……わたしに、大事にしかたを教えて、ください。わたしをっ! 大事にしてみてくださいっ!」
「……え、あ、ああ」
「わたし、大事にされてみないとわからないです! 教えてください! いいですね!」
「了解した、艦長」
「あっ……はいっ! この命令はわたしが生きてる限り有効です! ガンガン励んで下さい。戦果を期待していますっ!」
ようやく笑顔になったムツミは、もう鼻と鼻とが触れ合う距離だった。海風に髪を遊ばせ、彼女は年頃の少女のように笑う。
そして、そっと瞳を閉じる。
世界で一番強くて高価な、あらゆる兵器に
ユアンには、かつてそういう少女が隣にいてくれた。
いつも後ろをついてきた。
だから、そっと唇を重ねて伝えたい。
何度もキスして肌を重ねながら、教えられなかったことを伝えたい。
そう思った瞬間だった。
不意にユアンのポケットで着信音が鳴り響く。
「す、すまない、艦長!」
「……いーです、出て下さい。いーんです……空気、読めてないです……ならっ! こぉですっ!」
気付けばユアンも、上気する顔が
ムツミの唇が触れた場所が、熱い。
無性に気恥ずかしくて、慌ててユアンはわたわたと携帯端末を取り出した。いつにもまして手と指がもどかしく、普段から難儀する機械の
見かねたムツミが白い指を走らせ、光学映像が浮かぶ中で通話を
すぐに
『お忙しいところすみません、艦長。それと、ユアン中尉も』
「リンル軍曹か!? いや、これは……忙しくはない。そ、そう、艦長と一緒に戦死した者たちを
『ブリッジから丸見えですから、お気になさらずに』
「……ハ、ハイ」
『艦長もそこにいますね?
一方的に通信が切れて、ユアンはムツミと一緒にブリッジを見上げた。日の落ちた海は今、星明かりの下でヴァルハラを次なる戦いへと運んでゆく。
無数の視線を感じたが、構わずユアンはムツミの細い腰を抱き寄せた。
ムツミは「ひあっ!?」と素っ頓狂な声をあげたが、いつもの強気が嘘のようにユアンの胸に頬を寄せる。彼女を見下ろし、ユアンははっきりと告げた。
「ムツミ艦長……戦う君を俺が守る。終わりの見えぬ旅路で、戦い続ける君を支える。だから――」
「だから?」
「俺に、俺たちに大事にされてくれ。そして、俺と一緒に自分を大事にしてくれ。俺には君が、とても大切に思えてきたから」
「……はいっ! 了解ですっ!」
夜の大洋から見上げる
抱き締めたムツミの柔らかさと温かさが、ユアンに思い出させてくれる。忘れてはならぬ少女に注ぐべきだった、それができなくて凍っていた感情を。黒い憎悪に冷たく尖った気持ちが、氷解する中で……本当に戦う理由、戦い抜くための決意が姿を現す。
それを言葉にするには、まだユアンの胸は白い影の傷が深く深く痛む。
今はなにも語らず、彼は唇に言葉を並べる以上の想いを乗せた。それはムツミの唇を伝って、彼女の中に自分の価値以上のものを宿らせるのだった。
朱き空の戦後闘争《Ordinary War》 ながやん @nagamono
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