第15話「差し込まれた白い罠」

 ユアンの中でまだ、先程の遭遇が尾を引いていた。

 同じ大陸に、同じ街に……あのエルベリーデは来ているかもしれない。だとしたら、何故? どうして? その答が血と硝煙の臭いを想起させる。

 "白亜の復讐姫ネメシスブライド"と呼ばれた女はすでに、黒くただれた闇にしていた。

 その翼が向かう先々で、破壊と殺戮さつりくを振りくつもりである。

 戦争のための戦争を目論もくろむ、秘密結社フェンリルの名のもとに。

 だが、今のユアンにできることは少ない。

 そして、先程ムツミの言ったことは正論で、常識論で、その上に優しかった。


「……小娘一人に言いくるめられて、それで収まる話でもないが。だが、なんだ? 何故、俺はあの時、振り払えなかった……どうして、あの女を殺しに飛び出さない」


 ユアンは今、百貨店で長椅子にくつろいでいた。

 足元には沢山の紙袋が並んでいて、どれもムツミが買ったものだ。昔から不思議に思っていたが、女という生き物は買い物が好きで、そのことに時間も金も惜しまない。そして、買い物は何かを得るための手段である以上に、男に見せるのが目的のエンターティメントなのだ。

 付き合わされる方はたまったものじゃない。

 だが、いつもユアンはそういう時間が嫌いではなかった。

 今も試着室の中では、ムツミが水着を選んでいる。


「こんなに服もかばんも買って、そもそもほとんど着る機会がないだろうに。今度は水着? どういうことなんだ……」


 思えば、エルベリーデもそういう女だった。

 そういう時だけは、どこにでもいる普通の女の子だった。

 それを思い出して、やはり彼女のことが気になる。

 既にもう、殺すことしか考えられない。あんなに愛し合った、自分の手で育てた最強のパイロットを、今は撃墜することしか頭にない。そして、そのことをむなしいともかなしいとも思わない。

 やはりユアンも、自分が壊れていると感じずにはいられない。

 戦争は常に、人間性のあらゆる可能性を閉ざしてつぶす。

 そういう意味では、ユアンの戦争はまだ終わってはいなかった。

 だが、彼をさらなる戦場へいざなうワルキューレは、御機嫌ごきげんだった。

 カーテンレールを走る音が、目の前に白い肌を押し出す。


「ユアンさん! どうですか、こっちの方がやっぱりかわいくないですかっ!」


 満面の笑みで、ムツミはユアンを見て一回転。その場でモデルのようにポーズを決めれば、腰のパレオがふわりと舞い上がった。先程から彼女は、店員が言うままに試着室とユアンの前を行ったり来たりしている。

 ユアンからすれば、女性用の水着などどれも同じだ。

 だが、均整の取れた肉体美を女性的な丸みと膨らみで武装したムツミは、一人でファッションショーを続行中である。とりあえずユアンは、先程から繰り返し「おおー」とか「ああ」とか言うしかない。

 無関心が露骨ろこつに浮き出た声でも、ムツミは満足げにうなずいてくれた。


「やっぱりビキニにしますねっ! ね、ユアンさん!」

「あー、うん。それがいい。そうしたらいい」

「はいっ! でも、どうせビキニにするなら……もっと大胆なの、どうですか?」

「どうですか、って」


 言われるままにユアンは、ようやくまじまじとムツミを見る。

 発育著しい肢体は完璧なウェルバランスで、少女を脱し始めた姿が目にまぶしい。軍艦住まいなのに不思議と白い肌のムツミには、パステルカラーのオレンジがとてもよく似合った。

 十分大胆なビキニに見えるが、ムツミは腰のパレオをほどいてみせる。

 予想以上に鋭角的な食い込みの三角地帯に、慌ててユアンは目をそらした。


「ああもう、わかった! わかりましたから! ……そっ、それにしちゃいなさいよ。そうしてくださいよ!」

「なんで敬語なんですか? どうして目を逸らすんですか!」

「そ、それはだな、ええと……とにかく、若いうちから変に色気付いた水着なんて、その……ゴニョゴニョ」

「ユアンさん?」

「だいたい、水着なんてなにに使うんだ?」

「あ、ほら、うちはメリハリがモットーで緊急時以外は軍規を緩めてるんです。普通に泳いだりとかしません? 補給に寄った先でとか、でとか!」

「秘密基地だぁ!?」

「ヴァルハラは特殊な艦ですし、専用のメンテドックがあるんです。ふっふっふー、驚きますよぉ! 男の子って大好きなんですから、秘密基地! グイーン、ゴゴゴゴー! ってやつです!」

「……男の子って年じゃない。いいから早く決めてくれ。……ん?」


 半ばあきれたように、ユアンは椅子の上にずるずる崩れる。

 そのまま壁に寄りかかっていると、上着のポケットで携帯端末が鳴り出した。慌てて取り出すと、着信のメロディは通話を求めてボリュームを増す。

 わたわたといじっていると、ふいにムツミが近付き身を乗り出してきた。

 携帯端末を取り上げる彼女の胸が、ユアンの目の前でたわわに揺れていた。

 ムツミは浮かぶ立体映像に指を走らせ、水着のまま話し出す。


「もしもし、ムツミです。え? ああ、ユアンさんから取り上げました。だってほら、ええ、ええ。そうなんです、でもユアンさんって、そういうとこが……え? それはいい? はい、はいはい」


 どうやら通話の相手は母艦のヴァルハラのようだ。

 じっと見ていると、ムツミは視線に気付いてユアンの隣に座る。

 二人で挟んで耳を寄せる携帯端末からは、オペレーターのリンルの声がした。相変わらず冷たく凍てついた声で、全く感情の起伏がない平坦な響きだ。


『補給作業、進捗しんちょくは予定通りです。それと、報告が一つ。先程、市内の協商軍基地に着陸機。協力者からの信頼できる情報筋では、白い"レプンカムイ"だそうです』

「あ、それ知ってます! さっき見ました! ねっ、ユアンさん」

「あ、ああ……っていうか、なあ。また、顔が近いんだが」


 回線の向こうで、リンルが黙る気配があった。

 多分、凄く嫌な顔をされている。

 だが、彼女は表面上はそれをユアンの想像力に押し込めたまま、冷静極まりない声で事務的に続けた。


『かなり高い確率で、エルベリーデ・ドゥリンダナ大尉の機体かと思われます。彼女は先日の襲撃以来、フェンリル所属の危険度SSSパイロットとして認定されてますが』

「まだ泳がせておいてください。それより、協商軍の基地でなにがあるのかが気になります。艦の警戒レベルを一つ上げておいてください。お借りしてる軍港も一応、協商軍の管轄になってますから」

『アイ・マム。それと……あの、は。ユアンさんがいるのでちょっと、でも……のことはくれぐれも――』

「あっ、月刊ボーイズ・エデンの今月号ですね! 今から本屋も回るので、大丈夫です! 忘れず買って帰りますので安心してくださいっ!」

『声が大きいです、艦長! おおう……終わった。絶対これ、聞かれてますよね……艦長』

「リンルさんは気にしすぎですよ、ユアンさんだって男同士の恋愛感情には理解をしめしてくれると思います! それに、女の子ってそういうの好きじゃないですか」

『……と、とにかく、無事に帰ってきてください。あと、副長からお話があるとのことで、わりますね』

「はいっ! お願いします!」


 ムツミはようやくユアンから離れると、水着姿のままで副長のロンと話し出した。

 やはり、軍務に関して話す時の横顔は凛々りりしい。

 奇妙でアンバランスなムツミのメンタリティも、不思議とユアンには面白かった。この娘は、人に全く警戒心を持たせない。それでいて、自分からはラジカルに人のテリトリーに踏み込んできて、一番やわらかい場所に触れてくる。

 デリカシーがないとも思えるが、不思議と不快感は感じないのだ。

 それは多分、触れてくる彼女もまた、相手以上に自分をさらけ出しているからだろう。

 気付けば笑みが浮かんでいて、奇妙な安堵感にユアンは溜息をこぼした。

 そんな時、ふと視界に白い影が揺れた。

 金髪に白いスーツの女が、目の前を通り過ぎた。

 そして、水着売り場の向こうで肩越しに振り返り……そっとサングラスを下ろす。

 次の瞬間、ユアンは思考が弾け飛んだ。


「ッ! お前は……エルベリーデッ!」


 返事はない。

 だが、確かに生身のエルベリーデが目の前にいた。距離にして僅か10m前後、走れば数秒で手が届く距離だ。

 ユアンの声に振り向くムツミが、慌てて手を伸ばす。


「ユアンさん? あっ……駄目です! 待ってください!」

「俺の前に……よく、出てこれたな。どのつら下げてというやつだっ! エルベリーデ、お前はあ!」


 制止するムツミの手を振り払って、ユアンは立ち上がるや走り出す。

 突き飛ばされてへたり込んだ小さな悲鳴も、今はただユアンの中を通り過ぎる。彼は全力疾走で、エルベリーデへと走った。

 エルベリーデは口元に小さな笑みを浮かべて、身をひるがえす。

 ヒールの音を響かせる彼女のあとを、ユアンは必死で追った。

 多くの疑問符が、脳裏に浮かんでは消える。

 熱く燃えてゆく全身から、殺意がみなぎりユアンを駆り立てる。

 だが……非常階段へと出たユアンは、踊り場で振り向くエルベリーデを見上げて、そこで全てを止めてしまった。不意に後頭部を痛打され、その場に崩れ落ちる。

 薄れ行く意識の中で、ユアンは遠くに声を聴いていた。

 それは百貨店の店員が、服を着るように叫ぶ声と……それを振り切り、こちらへ向かってくるムツミの声。だが、そこでユアンは気絶して深い闇に落ちてゆくのだった。

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