第13話「朝霧の中の入港」

 海のふねから見る都市は、不思議と平和を感じる。

 ここは南半球、アウストラリス大陸。南極大陸の玄関口であったこの土地は、協約軍と協商軍が奪い合った激戦地だ。国土のほぼ大半を占める砂漠と荒野は、両軍の死体と残骸で毎日満たされていた。

 それがユアンには、まるで昨日のことのように思い出せる。

 制空権を確保し、奪われて、奪い返して、また奪われた。

 そんな中でも、眼下の大地は無数の血を吸い上げていった。

 だが、こうして戦後に訪れる港町は、朝の活気に満ちていた。


「メルドリン市か……空襲の被害は少ないみたいだな」


 特務艦ヴァルハラの左舷、飛行甲板に立ってユアンは遠景に目を細める。

 朝霧あさぎりに陰る空気はひんやりとして、遠くに屹立きつりつするビル群を幻想的に飾っていた。ここからではよく見えないが、戦災の傷跡はまだ実感できない。それでも、この距離からでも街が目覚め始めた音が聞こえる。

 行き交う車の音に、鉄道のベルの音。港湾施設のクレーンや警笛の音。

 薄靄うすもやの中でも、ユアンははっきりと人々の営みを感じ取れる。

 今日、これから上陸する街には平和が満ちていた。

 そんなことを考えていると、不意に背後に気配が立つ。


「ユアンさんっ! 準備できましたか? ……できて、ないですね」

「ん? ああ、ムツミ艦長。……な、なんだ、その格好は」


 振り返るとそこには、あおい髪の少女が微笑ほほえんでいた。

 真っ白なワンピースは華奢きゃしゃな肩も顕で、豊かな胸の膨らみが強調されるようなデザインだ。そして、足元は素足すあしにサンダルで、白い帽子を被っている。

 軍服姿しか見たことがなかったので、改めてユアンは思い知らされた。

 この絶世の美少女は、まだ十代の女の子なのだ。

 天真爛漫てんしんらんまんを絵に描いたような笑顔が、それを思い出させてくれる。

 同時に、あの時見た光景がより鮮明に思い出された。

 ブリッジで指揮をとるムツミは、まるで凍れる氷河のように冷たかった。冴え冴えとした笑みにみどりの瞳を輝かせ、躊躇なく任務を遂行する女艦長……その姿は、研ぎ澄まされた刃のようにユアンを魅了した。

 どこにでもいる普通の女の子の、ムツミ。

 エインヘリアル旅団を率いる天才艦長、ムツミ。

 どちらも同じ人物だが、あまりに違う二面性には驚くばかりだ。

 そんなユアンをじーっと見詰めて、ムムムとムツミはうなる。


「ユアンさん、着替えてくださいっ! その格好ではダメです!」

「いけないのか? なにも、ドレスコードがある訳じゃないだろう」


 今のユアンは、タンクトップにカーゴパンツだ。上陸といっても、せいぜいムツミの運転手くらいだろうと思っていたので、ラフな格好である。勿論、護衛役として最低限の用意はしているつもりだが。


「わたしをエスコートするんですよ? もっと用意というものがあると思います!」

「……38口径を携帯したが、他には……そうだな、隠しナイフが一本あると便利か」

「そーゆーんじゃないんです! まったくもぉ!」


 ぷぅ、と頬を膨らませ、ムツミはユアンを見上げて指差した。

 年相応か、それ以上に幼く見えるあどけなさがまぶしい。


「これ、命令ですっ! 着替えてください! ユアンさんはエースかもしれませんが、この艦の艦長はわたしなんですから! 指揮官の命令には従ってくださーいっ!」


 思わずあきけたように、ユアンは自分を指差した。

 人差し指を鼻先に突きつけたまま、ムツミは大きく何度もうなずく。

 その姿は、全く似てないのに……不思議と過去を思い出させる。

 すでに捨てた、振り切った追憶が蘇る。

 それをユアンは拒絶できず、拒否することができない。

 それほどまでに、あの女との時間は濃密なものだったのだ。

 脳裏をよぎる、声。


『これは命令なのだから! 着替えて頂戴、ユアン。貴方は私の教官だったかもしれないけど、この部隊の隊長は私なの。指揮官の命令には従うこと、いい?』


 なつかしさに思わず、ふと笑ってしまった。

 こんなにも自分がセンチメンタルな男だとは、思わなかった。

 ユアン・マルグスはパイロット、戦闘機の部品だ。自分という装置を搭載することで、戦闘機に生命が吹き込まれる。自分は翼で、銃で、そして死神だった。彼が所属していた第666戦技教導団だいロクロクロクせんぎきょうどうだんは、軍の仮想敵部隊アグレッサーとしてよりも、吸血部隊として有名になっていった。エースを育てる仕事もままならず、育てるそばから新兵は死んでゆく。そして、飛ぶことを教えるより殺すことが上手くなる。

 そんな時に出会った少女が、エルベリーデ・ドゥリンダナだった。

 彼女の素性はよく知らないし、語ってくれなかった。

 だが、身よりもなく軍にしか居場所がないと言っていたのを覚えている。

 そして、ユアンは少女を最強のキリングマシーンへと作り変えたのだ。

 "白亜の復讐姫ネメシスブライド"……ユアンの最高傑作、そして最強の相棒。

 劣勢だった協約軍を盛り立て、形勢を互角へと押し返した英雄。

 今はもう、昔の話……そして、今この瞬間も彼女は血を呼ぶ戦いの中にいる。エルベリーデは純白の翼を汚すことなく、どこかで誰かに流血を強いているのだ。


「あのー、ユアンさん?」

「ん、ああ……わかった、着替えてこよう」

「やったあ! うーんとオシャレしてくださいねっ! ほら、ナリアさんたちが手伝ってくれます。お待ちかねですよ? ふふ、同じラーズグリーズ小隊の仲間同士、仲良くです!」

「……参ったな」


 ムツミが指差す先を振り返れば、三人の女性が手を振っている。

 フライトジャケットに眼鏡の美女はナリアで、その横で大きく頭を下げる律儀な少女がイーニィ。ショート丈のヘソ出しランニングがラステルだ。

 ユアンを含め四人が、この艦のエースたち……ラーズグリーズ小隊だ。

 ラーズグリーズとはワルキューレの名で、いにしえの言葉で『計画を破壊する者』という意味だ。秘密結社フェンリルを追うこの艦にぴったりだとも言える。

 軽く目礼もくれいして挨拶を交わすと、早速ラステルが怒鳴どなってきた。


「クソみてぇな朝だな、おい! さっさと来やがれ、服を選んでやる! 軍人丸出しな格好で行ったら、色々と動きにくいこともあんだろうが、クソボケッ!」

「……」

「おうこら、なに見てんだ? なんだよ、クソかわいそうなもんを見る目は」

「いや、なんでもない。ではムツミ艦長、上陸時に同行させてもらう。ちょっと着替えてくるので、あとで――」


 その時だった。

 ゆっくり波間を進むヴァルハラの行く先に、巨大な影が浮かび上がった。

 そしてそれは、すぐに薄荷はっかのような空気の中から姿を現す。

 黒くそびえる威容は、大きく傾き半分ほど水没していた。

 驚くユアンとは裏腹に、隣のムツミは不意に表情を引き締める。


「こ、これは……」

「協商軍の巡洋艦、ガトゥイーン級です。これは三番艦、ミステラルダ」


 艦尾側に沈んだ反動で艦首を持ち上げたまま、巨大な軍艦が眠っていた。既に放置されて長いのか、そこかしこが赤錆びて人の気配はない。

 ヴァルハラのすぐ横を、ゆっくりと巨体が通り過ぎてゆく。

 そして気付けば、隣のムツミは身を正して敬礼していた。

 直ぐにユアンも、彼女に倣って敬礼に身を強張こわばらせる。

 物言わぬ戦争の犠牲者は、静かにヴァルハラを見送り消えていった。


「ミステラルダが湾内の空襲で撃沈されたのは、今から十年以上も前です。引き上げる余裕がないのは、戦時中も今も一緒なんですね」

「そうか……物知りだな、艦長は」


 感心してしまったユアンだが、彼を見てグイとムツミか顔を近付けてくる。

 彼女の形良い胸の膨らみが触れてきそうな距離に、躊躇なく踏み込んでくるのだ。


「ユアンさん、わたしのことひょっとして……おばかさんだと思ってませんか? むーっ、そういうのダメですよ? わたし、こう見えても凄いんですから!」

「それは、知ってる。凄いよ君は……失礼、艦長は」

「ですですっ! だから、早く着替えてください。ほら、早くっ! 駆け足っ!」


 グイグイとムツミが前に出てくるので、数歩下がって慌ててユアンは走り出す。その先ではもう、同じチームの三人娘が待ち受けていた。

 短気なラステルなどはもう、朝から怒り心頭である。

 なにを着せられるやら、どうにも不安だが……ユアンには選択肢など存在しない。

 とりあえず、一度だけ振り返って、笑顔で手を振るムツミに小さく手を振り返す。

 ナリアとイーニィ、そしてラステルは、待ってましたとばかりにガシリとユアンの両腕を拘束した。そしてそのまま、飛行甲板から彼を艦内へと連れて歩く。


「っしゃあ、覚悟しろよ。クソ格好良くしてやんぜ!」

「ユアンさん、僭越せんえつながら自分たちがお手伝いさせて頂きます」

「さぁ、ラステルさん? イーニィさんも。行きましょう……ふふ、わたくしすごーく楽しみになってきましたわ。この艦、男の子が少ないんですもの。たーっぷり可愛がってあげなきゃ……うふふふふ」


 こうしてヴァルハラは、メルドリン市の軍港に入った。

 多くの乗組員が交代で上陸する中、ムツミと共にユアンもおかを踏むことになる。だが、その先に……数奇な運命がもたらす邂逅かいこうが待ち受けてるとは、この時は思いもしないのだった。

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