徒花(3)
「青浪は出てゆきます」
妹の声が繰り返される。すっと背筋を伸ばした彼女の決断を、春峰はずっと昔から知っていた気がする。父と母と丹、そして己と青浪の四人での暮らしがあった頃から、母の愛を一身に受ける妹の、底知れない眸はいつでも、窓の外や森の木々や、天瀑のほうへと向けられていた。
しゅるりと髪紐を解く。戦役にゆくと決めたことを、真っ先にあの子へと話した。
すぐに妹は紐を編んだ。もとは若竹色をした、上品な髪紐だった。御守りのようにそれを身に着けて、春峰は幾度も行軍し死線をくぐり、縛り付けられていた。血を浴びるたび紐を洗った。小川で、或は泥水の溜まりでも。時には乏しい飲み水を使ってでも洗った……他人の血と己の血で穢れた紐を。
(お前は出てゆき……おれのように、無様に帰りついたりはしないのだろう)
三年前……いまでは四年前になろうとしている。この家に帰りついた日の深い絶望と、全身を包み込んだ安堵、その温もりを思い出す。同じ髪紐を使い続けけていたのは、何故だろう。かつての己といまの己、大きく隔たり、もはや同じ人物とも思えぬ己自身をどうにか結び付けたかったのかもしれない。それは紐であり、青浪だった。片方が去るというのなら、もう片方も手放すが道理と思えた。己の翳む片目ほど、みじめなものはない。残された片方は欠けてしまったという事実をただ伝えるだけのものになり果てるだろう。
悪んでしまうよりは、手放したほうがいい。もはや誰も悪みたくはない。春峰はただこの家で……ほんのひと時だけ存在した情の破片を踏みながら、暮らし、そして死にたかった。戦場で死ななかった理由を、ようやく理解した気がする。深玉が川に飛び込んでこの髪紐を掬い上げ、そして母が死に、青浪が彼に打たせ、ようやく――春峰は春峰というひとりの人物でしかないことを、知ったのだ。
(むかしからおれは、こんな人間だったじゃないか……臆病で、卑屈で、無様な……おとことも思えぬような、おとこだっただろう……?)
外に水を得たと思った。だがそれは錯覚だったのだ。
春峰の居場所はここにしかない。醜く変わり果て尚更、強く感じる。誰が訪れることもない、堅牢なこの家で朽ち果てるが相応しい。父と同じ場所で眠るのが、母と同じ場所で眠るのが、春峰の最後の責であり唯一の役だった。
青浪はここを、嫌っていた。
「お義兄さん」
入り口から声がかかり、春峰ははっとした。髪紐を握り締めたまま顔を上げると、深玉がこの部屋へと入ってくるところだった。朝の白い光が入り口から射し込み、義弟のすがたは影となる。
「深玉か。ともにゆくのだろう? おれのことは気にせずに……」
一歩、じり、と深玉が踏み出す。
その顔を見て、春峰は言葉を失った。
「ゆきません。どこへもゆきません。僕はこの家に残ります」
綺麗な面持ちのおとこだと思ったものだ。まるで貴公子のような、繊細でおんな好きのする面だと。いまの深玉の、顔の造作が変わったとは思わない。だが何かを違えてしまった。春峰は、弱弱しく笑うしか出来なかった。
「そうか……そうか。あなたは……」
「愉快ですか」
深玉の強張った声に、春峰はゆるく首を振る。
「いいざまだとお思いですか? 僕が、青浪に、選ばれなかったことを」
「違うだろう」
目を上げて、深玉を見る。いつもは翳み欠ける視界が、何の気まぐれが明瞭な像を結ぶ。深玉の秀麗な顔はひどく歪んでいた。眸には涙の膜が張り、目許はぼんやりと赤い。恥辱に塗れた表情に、(そんな顔も出来たのか)、と思う。取り澄ました顔をした深玉が見せる、剥き出しの感情――春峰はもう一度、首を左右に振る。
「選んだのは、あなただ」
「馬鹿なことを!! お義兄さんまでそんなことを言う……!」
深玉の悲痛な叫びがこだまする。
「あなたは度々、青浪を叱りつけていたじゃありませんか! 妻らしくしろ、夫たる僕に従えと……青浪はそのたび僕に話してくれましたよ、あなたが何を言ったのか、何を教え諭したのか! それはすべて嘘だったのですか!? 僕が選んだなどと、心底からそう思っているのですか!? この結末が、正しいとあなたは――」
「思っていないよ。だが、深玉。青浪はお前に聞いただろう? 一緒にゆくか、ゆかないか。その時にあなたは何と答えたんだ? あなたがここへ残ると決めたのなら、それはあなたの決断だろう。そういうものだろう」
「お義兄さん……あなたは……」
結局青浪の味方をするのですか。
子供のような言い草に、春峰は苦笑した。常の深玉からは想像もつかないような言葉だった。だが彼が仮面を取り去ってしまうほど、取り乱すほどのものが、きっと青浪にはあったのだろう。……ともにゆきたかったのだろう。
「……ならば、今からでもともにゆくと言えばいいだけの話だ。青浪とて、すぐに出発するといううわけじゃない。支度にだって時間がかかるだろうし、母上の財産だって……」
「そうではないと、何故わかってくださらないのです!」
深玉の手が伸ばされ、春峰は咄嗟にそれを払いのけていた。
ぱしりと乾いた音が房に転げ、深玉がこぼれそうなほど目を見開く。彼ははくはくと何かを言いかけて、払われた手を呆然と見つめた。
「……悪いな、深玉」
「どういう……意味です」
「おれは誰の味方でもない。誰が出てゆこうと、残ろうと、もう……どうだっていいんだ」
義弟の顔に浮かぶのは、失望と傷心、そして怒り……烈しい感情が浮かんでは殺されて、最後に残ったのはやはり、ゆくあてのない幼子のようなそれだった。春峰はもう手を伸ばさないと決めていた。己の手が誰の助けにもならないと知っていたから。すべては時間が解決する。青浪がここを出てゆくことを決めたように、変化はいつも彼の外で起こる。ひとがひとに与えられるものなど、ほんの些細なものでしかない。その夜をしのぐための、小さなものでしかないのだ……。
(或は死は、そうではないかもしれないが。母上ほど大きなひとであったら、おれの死でも何かが、贖えたのだろうか……)
「お義兄さん……でも、僕はここで暮らすのですよ。丹が出てゆくのなら、あなたと僕の、ふたりで、ここへ」
「ああ、そうなるな。だがあなたはあちらに暮らすだろう? おれはこの離れにいる。今まで通りだ。同じ家にありながら他人のように……暮らすのだろうな」
頷くと、深玉は浅い息を吐いた。ずっと駆けていたかのように、ずっと何かに追われていたかのように、逃げ、惑っていたかのように、彼の肩は弾んでいた。ぎゅっと胸を抑える手が切ないが、やはり春峰は椅子に腰かけたまま動かなかった。
「さあ、話は終わりか?」
「……はい」
春峰が促すと、深玉は彼に背を向ける。その時、何か光る粒が散った気がした。床に目を凝らしても、何も見えない。深玉がすっかり出て行ってしまってから春峰は、それが涙であったのかもしれないと、ふと思った。
(おれは深玉に、残酷をしたのだろうか)
己の胸に問うてみても、わかりはしない。義弟とふたりで暮らす奇妙について考えてみても、春峰はただそれを受け入れ……今までと変わりなく、金が尽き暮らしが立ち行かなくなるまで、茫洋と暮らすのだろうという程度の予測しか、できなかった。
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