うつくしい花婿(2)

 叫びとともに目を覚まし、ぐっしょりと汗で湿った背にぞっとした。顔中に手を這わせて、いびつな感触が返ることにもう一度叫びかけ、正気に戻った。大きく息を吐いて、春峰は袖で額の汗をぬぐう。水を一杯飲んでから、寝衣を脱ぎ捨てた。からだの感覚からすれば、まだ陽がのぼる前だろうと思われる。着替えると離れを出て、厨房をのぞく。丹が立ち働いており、食べ物はあるかと問うと、餅を渡された。そのとき、大きな声でひょーい、ひーよひーよ、と何かが鳴いて、あやうく春峰は餅を取り落としそうになった。

「なんだ、これは。画眉鳥じゃないか」

 そういうと、丹が細い眼をさらに細めて、手を振った。目線をやるとそこには春峰が抱えるほど大きい籠があった。中ではおとこの片手ほどの鳥が、ぴょんぴょんと不格好に跳んでいる。

「深玉さんが持ってきたんですよ、お嬢さまにって。画眉鳥というんですか? 飼い鳥なんて……」

 丹の表情はわかりにくいが、語調には嫌そうな気配がにじんでいた。梔子が長じてからは鶏の世話をすべてやらせているところ、彼女はあまり鳥が好きではないのだろう。たしかに深玉が持ってきたという鳥も、鳴き声はうつくしいのだが、その音量はやたらと大きく、ずっと聞いていれば頭痛がしそうだ。ぐっと顔を近づけてみれば、土色のその鳥は、目のまわりだけ白く囲われており、奇妙に愛嬌がある。だが、厨房におかれているところ、この鳥は青浪の気に入るものではなかったのだろう。

「春峰さま、鳥がお好きですか。お嬢さまはいらないとおっしゃって、丹にくださったのですが……わたしも仕事場でこうもうるさくされてはかないませんから、春峰さまがお好きならば、離れへもっていらっしゃったらどうでしょう。深玉さんもまさか文句はつけないと思いますよ」

「それは、そうだろうが……しかし、この鳥を? いったい何を食べるんだ?」

「さぁ……深玉さんに聞いてみませんことには、わかりませんねぇ」

 要領を得ない丹の返事に、春峰はしばし考えた。寒々しい部屋だ、人恋しいこともある。だが、この鳥をそばに置くのは、はたしてどうだろう。用事がなければ常に房にいる春峰からすれば、この騒々しい鳥が四六時中いると思うと、ぞっとしない。しかし丹は困っているし、みやげにと携えてきた深玉の立場もあるだろう。それに、いつまでもこちらの棟にとどめ置けば、いずれ玉蘭が殺してしまうかもしれなかった。

 よその街では鳥の鳴き声を愛でるのは当たり前のことだった。この画眉鳥もよく見かけたものだったが……その当然がこの家でも通用するかと問われれば、答えは否だ。

「……では、まずおれが深玉に聞いてこよう。彼がよいといえば、おれの離れへ引き取るよ」

「まぁ、それは嬉しい」

 対してうれしくもなさそうに丹が言う。春峰は手にした餅のひとかけらを籠の隙間から落としてみる。しかし鳥はその餅に気がつかず、ぴょんぴょんと跳んではひょろろ、ひょーろろろと鳴いていた。鳴き声は上ずった呼吸の音のようにも感ぜられて、どこかしら滑稽だが、知らず春峰は鳥に惹かれている。

(間抜けな鳥だ)

 餅を齧ったとき、「春峰さま、お嬢さまが呼んでいますよ!」鳥を眺めていた春峰に、梔子の声がかかった。腰を上げて少年を見ると、彼はわずかに顔を逸らした。胸の前で小さく手を振った。

「お嬢さまは、そのう……深玉さまと同衾なさったでしょう? だから、動けないとおっしゃって。下まで運んでほしいんだそうです」

「……それこそ、深玉がいるだろう。若夫婦の閨房へのこのこ踏み込めるものか」

「ぼくもそう思ったんですが、お嬢さまは春峰さまがよいとおっしゃるんです。だからどうか……あの、お願いします」

 梔子が弱ったように言って、春峰は大きなため息を吐いた。青浪のわがままが止むかと思えば、そんなことはないらしい。あるいは深玉と顔を合わせるのが恥ずかしいのかもしれない。ともかく、春峰の唯一の仕事がなくなるということは、すぐではなさそうだということだけわかる。

「わかった、いま行こう。深玉はどこへ?」

「夜明け前……玉蘭さまが街へと戻られるので、その供をと言いつかって、山を下りました」

「なんだと? ふたりは共寝をしたんじゃないのか?」

 あけすけな物言いだったが、梔子はあっと口を覆って、目を泳がせる。つまり、青浪は嘘をついていたらしい。玉蘭の横暴に深玉を奪われて、拗ねているのだろう。深玉にもあわれなことだ。麓の集落を捨てて山へと来たというのに、昨日の今日で同じ酷な道を歩かされるらしい。娘夫婦にいったいどんな仕打ちだ、と思わないでもなかったが、玉蘭は春峰の理解の及ぶ人物ではない。

(娘をおとこにくれるのが、惜しくなったか。母上)

「春峰さまぁ……」

 梔子が狼狽えて涙ぐむ。そんな息子の様子に、丹はまったくの無関心だ。あらためてため息を吐き、春峰は青浪の房へと足を向けた。後ろからちょこちょことついてくる梔子は、春峰が黙って来てくれればそれでいいとでも言いたげに、あっという間に機嫌を直している。子どもの見せる悪辣さが嫌いで、春峰は梔子を愛するような気持にはなれたためしがない。

「青浪、入るぞ」

「おにいさま、おはよう」

 そこにはすでに身づくろいを終えた青浪があった。

 彼女は鏡台の前の小さな椅子に座って、春峰のほうを向いていた。どうしても落ち着かない気持になって、春峰はそっと部屋を見渡した。この部屋は昨日から青浪だけの部屋ではなくなったはずだ。寝台はいつも通りに整然としていて、そのさまになにか動揺がはしり、春峰は不自然に顔を逸らした。睡床の脇には、昨日まではなかった万年青の鉢が置かれている。

「どうしたんだ、朝から」

「花苑にゆきたいの」

「それくらい、ひとりでゆけるだろう。それにおまえは結婚したのだから、おれではなく深玉を頼りなさい。いつまでもおれを呼びつけていては、深玉もきっとおもしろく思わないだろう。おまえにとってはただ都合のよい足かもしれないが、外ではこんなことはおかしいんだ」

 きつい口調になったのが気に入らなかったか、青浪がふと顔を曇らせた気がした。

「深玉さまはいないもの。どうしていないかたに頼れるの?」

「そのまえに、おれはひとりでゆけるだろうと言った」

「……もういいわ。おにいさまなんて大嫌いよ。梔子、丹にお膳を運んでもらって」

「はい、お嬢さま!」

 梔子が明るい声で返事をして、房の入り口に立つ春峰をちらと見上げた。

(邪魔だと言いたいのだろう)

 そう察して、春峰もその場を去ろうと背を向ける。しかし、青浪は「出てゆけなんて言ってないじゃない。青浪のことがお嫌いになったの?」とつんけんと言うものだから、春峰はのろのろと振り向いた。

「ではどうしろと? おれに」

「おにいさまはもう食事を召し上がったの? 青浪と一緒に食べてくださらないの?」

「あいにくもう済ませた。これからすることもある。どうせ梔子がいるだろう、ひとりで食べるわけでもあるまい」

(なにを甘えているんだ)

 結婚したといって、青浪がすぐに変わるとは思っていなかった。だが、相変わらず子どものようで、春峰はすこし不愉快だった。昨夜会った深玉のことを思えば、己から身を引くのがいちばんよいだろう。青浪を突き放していれば、いずれ彼女も兄のことなど忘れよう。

(齢の離れた妹だからと、今までさんざんに甘やかしてきたおれも悪い)

 幼いころからそれこそ公主さまとばかりにちやほやとしてきた。こうも変貌する前までは、玉蘭に反発すれども、青浪に対しては心から慈しんできたのだ。実際彼女は愛らしく、この家で虐げられてきた春峰のただひとつの救いだった。

「ひどいわ。おにいさまは、昨日の晩だっていらしてくれなかったのに」

 恨みがましい声に、春峰はぎくりとした。

 誰にも呼ばれない、と言いながら、春峰は房にこもっていた。それは己の無様さを灯明のもとで見られたくなかったからだ。そして玉蘭に会いたくなかったから。ささやかながらも祝いの席に、参加する資格がなかったわけではない。自ら選んで、ゆかなかった。それを責められては、さすがに後ろめたさが勝つ。

「……おれの顔が、深玉を驚かせては宴も台無しになったろう。母上も、おれの同席など望んではいない」

「けれど、青浪は待っていましたのに。青浪の結婚でしたのに。そうやっていろいろにわけを並べて、おにいさまは結局、妹が結婚するのがおもしろくないんでしょう」

 そんなことはない、と言おうとしたが、それは何故か喉に詰まって、うまく声にならなかった。けん、とひとつ咳き込んでから、かすれた声でようやく、「そんなことはない」と言えた。誰が聞いても明らかに、春峰の動揺や、含羞を悟ったろうと思われた。

「ばかなことを言うな。おれがおまえの結婚を祝わないとでも思っているのか。おれは、おれはただ……おまえと深玉との、邪魔になりたくないだけだ。……ばかなことを言うな。はやく子をもうけるがいい。母上だって喜ぶだろう!」

 言い捨てると、青浪が奇妙なほど静かになった。呼吸は一度浅く吸ったきり殺され、表情の変化や身じろぎさえしなかった。春稲は途端おそろしくなり、背中が総毛だつのを感じた。

「おにいさまは、嫉んでいらっしゃる」

 どんな感情も伺わせない短い言葉に、あまりにもいたたまれず、春峰は急いて階段を下りた。階上から、何かものを投げる音が聞こえた。春峰はぞっと背を震わせながらも、

(きっとあの万年青の鉢だろう)

 と、奇妙なほど冷静に考えていた。

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