うつくしい花婿(1)
春峰は、方楼の二階の窓枠に腰かけていた。青浪が彼を引っ張り、ここで見ていて、と言ったのだった。つまりここは青浪の居室で……山の景色をもっともうつくしく臨むことのできる、もっともよい場所だ。
(あぁ……娘に化けた鬼が、やってきた……)
麓へつづく山道から、ただひとりこの家を目指してやってくる人影が見える。布団の包みのようなものを行李の両脇に括り付けて背負っている。手にはなにか、大きな荷物を吊り下げていた。つぶさに観察することはかなわず、そのおとこの造作も、服装も、春峰からは見通せない。赤い服を着ていないことだけはわかる。それは青浪があらかじめ伝えたことだったのか、それともやってくるこのおとこ自ら、婚礼衣裳を選ばなかったのか。当たり前に考えれば、家同士の話は済んでいるはずだった。だが、こんなまともな儀礼もしないような家へと、しかも婿になどやってくるのだから、やはり彼には事情があることは察するに余りある。
(いったい何をして……どんなわけがあって、ここへやってきた。後ろ暗いことがあるのだろうか。それとも都合の悪い血でも通っているのか、病もちなのか)
子を成せぬ男かもしれない――。
暗い心が嗤う。春峰は即座にその考えを打ち消して、思考したという事実を抹消した。
青浪は家の前に床几を出して、ちまりと座っている。そのうしろには梔子が控えていて、彼女に傘を差しだしていた。青浪は赤い衣裳を着ておらず、すっきりとした白布に様々な濃淡の藍色で吉祥図を刺した、見事な上着を着ているのだった。彼女の趣味は刺繍と繕い物で、その腕前は見事なものだ。いま着ているのは、幾度も幾度も春峰に見せては、ここがちがうの、ここはどうかしら、とひとりごちてゆくほど悩んで作り上げたものだ。そのたび春峰は複雑な心持になりながらも、己のもてるわずかな知識で、青浪に助言を与えてやった。外で見知ってきた被服についてのおぼろな記憶は、もはやこの三年で青浪にすべて吸い尽くされたといってもいい。
古めかしく青い領巾を取り巻かせて、青浪はあまり見ないような独特の佇まいを見せていた。
(どんなおとこが、青浪の婿となるのだろう。娘に化けた鬼を……啄み殺す雄鶏は、誰だろうか?)
比喩でもなく、春峰はそう思った。なにもこの家に奇妙な祭祀があるわけではない。ただ玉蘭という女帝もかくやの女主人がいる限り、いくら青浪の婿であろうと、これから来たる青年は贄であろうと思われるのだった。青浪が春峰にするように、婿に恭順を強いるのか、それとも彼女は花嫁らしく、貞淑に尽くすのか……春峰のもの思いは、かすかな嫉妬とともに在った。
(おれも、嫁がもらえたら。子をもうけることができたなら)
「おにいさま、見てらっしゃる?」
青浪が振り返り、笑う。春峰はひとつ頷いて、いよいよ近づいてきた青年を指さす。
「おれのことなどいいから、彼を迎えなさい」
そういうと、青浪はゆっくりともとの向きに戻り、細い背をしゃんなりと伸ばした。すっきりとにおい立つような瑞々しい気配を纏い、座っている青浪は、きっとこの秋晴れの日、すばらしくうつくしく映えることだろう。どこからともなくかおる桂花、その花が小さな金色の吹雪となってぱらぱらと舞い、小さく清らな花嫁に戯れかけていた。
中秋節もほど近く、花婿が《家》に入る。
◆
はじめて春峰と深玉が顔を合わせたのは、その日の夕食後となった。春峰は宴――とはいうが、参加するのは夫婦となるふたりと、玉蘭だけだ――には参加せず、ただひとり離れに戻ってぼんやりとしていた。誰も呼びには来なかった。そして寝る前に、水を汲み置こうと立ったときに……彼は花婿たる深玉と、偶然にも井戸端で居合わせてしまったのだった。
「あ……」
青浪の婿――深玉は、うつくしく若いおとこだった。青浪より二つか三つかは上だろう。目に快いすんなりとした体躯を、清潔な袍に包み、真っ黒い髪を束ねている。むさくるしいところなどひとつも見えず、瞳は理知的な光を湛えていた。
反射的に俯いた春峰に、深玉は名を名乗り、礼をとった。
「お義兄さん。これからは身内として、どうぞお願いします」
「……おれに対して、かしこまることはない」
何とかそういって、春峰は顔を見られまいとした。釣瓶にかけた手が震え、とっさに桶を滑らせてしまう。そんな様子を見て、深玉はごく自然に春峰に代わって水を汲み上げた。溌剌とした動きが、春峰の心になにか不穏な感情を呼ぶ。深玉の肉体は、きっとその端正な面貌と同じように、うつくしいのだろう。
(なにが、贄だ……おれはばかだった)
彼を迎えたときのように、皮肉ることなど出来ようもない。
青浪が、この深玉を気に入らぬはずはないと思った。彼女は若い娘らしく、きっとこの若者を愛するだろうと。
「お義兄さん?」
深玉の声が、いぶかしげに春峰を呼ぶ。思わず顔を上げてしまってから、春峰はぎくりと身を強張らせた。いくらこの暗闇の中だとて、翳まぬ深玉の瞳は、彼の醜い面を暴くだろう。青浪はなにか話したろうか、己の兄は怪物のようななりをしたおとこだと……。そんな邪推とは裏腹に、深玉は静かに「水を房まで運びましょうか?」と言った。
春峰はその言葉を無視して桶を奪い取ると、急いで井戸端を離れようとした。その拍子にいくらか水が零れ、春峰の衣は濡れる。ぱしゃ、ぱしゃ、と地に落ちる水音に、春峰は死にたいような心地だった。
(この音を、無様に背を向けて逃げるおれを、義弟はきっと笑うだろう)
空を見上げても、月の形もわからぬ春峰は、くやしさと羞恥とで斑に染まった顔のまま、離れの房へと駆けこんだ。
「藍深玉……」
よい面をしたおとこだった、とあらためて思う。麓の集落にいるのはみな、むさくるしいおとこばかりだと思っていた。この家に婿に入るのも、たといそれが青浪の婿だとしても……そんなおとこたちのうちのひとりだと思っていたのだ。予想は大きく裏切られ、春峰はいま、おそらく、打ちのめされていた。
春峰の顔を見たはずの深玉が、ただ静かに言葉を返したこと。親切そうな言葉をかけてくれたこと……彼は春峰を「お義兄さん」と呼んだ。たったすこしのふれあいで、彼は絆されそうになっていた。深玉の心遣いが、たとい哀れみだとしても、久方ぶりに人間らしい情に触れた気がしたのだった。それは病人や、怪我人や、天涯孤独のものにかけるような、ほんのひと時のものかもしれない。だとしても春峰は、己があのおとこを悪むことは出来ないだろうと思ってしまったのだった。
(おれはばかだ)
青浪の婿ということは、春峰の義弟ということだったのだ。あれほど失うことを恐れていた「縁者」を、新たにひとり得るということは、春峰には思ってもみなかった衝撃だった。しかも深玉はおとこであり……この家でおとこであるというそれだけでも、春峰はきっと奇妙な親近感を抱いてしまうに違いないのだが、身内となればそれはなおさらのことだろう。
春峰の仕事が奪われるかもしれないだとか、そういったことを考えないではない。だが、それ以上に得るものがある。そう思うと、春峰は数年ぶりに笑いたいような気持ちになった。つい先ほど、彼への劣等心から縮こまり、怯えたことなど嘘のように、ひとりの房で思う。何と都合のよい心だと、かすかな嫌悪を自己に覚えつつも。
(おれは深玉と、兄弟になったのだ)
つぎに顔を合わせたときに、同じ気持ちでいられるかはわからない。だが耐え難い空漠の時間である夜に、己を慰めることができるのは、春峰にとって救いだ。牀に横たわり、目を閉じる。悪夢が遠ざかった気がしていた。夜気はこころよく、やわらかく己を抱く。春峰はかすかな希望を胸に隠した。目覚めのときを、わずかだけ待つのだ。
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