潰れた石榴(2)
青浪を腕に抱き歩くのは、春峰の唯一といっていい仕事だった。男手のないこの家では、野山で遊びたいと言う彼女を運ぶことができるものは少ない。丹にたびたび頼むわけにもゆかなかったのだろう。よほど鬱屈していたのか、春峰が帰還してからというもの、青浪はなにかあるたびに彼を呼びつけてはその腕に己を抱かせて、自らの足に代えた。
ぎしぎしと痛むからだを叱咤して、春峰は足元に気を配りながら歩いた。痛みに背を丸めると、青浪から不満そうな声が漏れる。「おにいさま」。それを聞くだにびくりとしては、無理に背筋を伸ばすのだった。こと小さな娘とはいえ、ひとひとり抱えて山を下りるのは容易なことではなく、家に帰り着くころには春峰は汗みずくだ。からだは鈍く痛むが、その痛みはもはや散漫としてどこがどう、と説明することができなかった。とにかく全身が痛むのだ。
青浪を房まで送り、椅子に座らせてやる。春峰はその房内にとどまらずに、すぐに出て行った。入れ替わるように、梔子が房へと駆けていく。ちょこまかとはしこく動く少年は、春峰が戦に出る前はまだ物心もついていなかった。だが今では青浪に可愛がられて、こうして小姓の真似事をしているらしい。小さな背中を見送ると、壁に手をつき背を丸めながら、春峰は自らの居室へと帰った。
(あぁ……水を浴びたい。軟膏はどこへやったか……傷を洗わねば……)
ろくに手当もできず、膿にぐずぐずと蛆が涌いているのを見るのはおぞましいものだ。こんな容貌で、さらに爛れた傷から黄色い膿を流し、においを放ち、そこをよく見れば白く小さな蛆がうごめいている……それではまるで怪物ではないか。春峰はそっと長袍を脱いだ。すでに血や土や石榴の汁で湿っている。汗もかいた。背に張り付いた服を思い切って引っ張ると、皮膚が引き攣れて鋭い痛みがはしった。途端にからだじゅうに散らばっていた痛みが背中に集中したような気がして、身震いすると春峰は手巾を水に浸した。
拭き清めてゆくうちに、桶の水はあっという間に濁る。
水を変えようか、と鉤状の手に持ち手を引っかけたとき、揺れ濁る水面に、なにか黒っぽいものが映り込み、思わず春峰は手を上げていた。
汚れた水が房に巻き散らかされ、桶はからんと苛立たせるような音を立てて落ちた。
(……おれだ)
黒い髪、黒い眼、黒い皮膚……傷痕。
この家に帰還して三年が経つ。
青浪は春峰が以前まったく変わらないとでもいうように、彼の容貌を気にかけていないふうだった。母・玉蘭はただ「見苦しい」と言い捨て、以来同じ家で過ごしながら顔を合わせることはない。もともと多忙な人間だったし、春峰は彼女にそう言われるであろうことは知っていた。下女の丹はたまに無礼なほどまじまじと春峰を見ては、ため息をつくのだった。そしてあの梔子――丹の名無しの息子は、青浪によって梔子と呼ばれるようになった――は、今より幼かったこともあってか、しばらくのあいだ春峰と顔を合わせるたびに泣き叫び……「いったい何がおそろしいの?」と青浪に懇々と言い含められていた。
いったい何がおそろしいの?
その言葉は、なにも青浪が兄を庇って言ったわけではなかった。彼女には実際に、見えていないのだろう。関心の外にあるのだろう。それならばいっそ玉蘭のように罵ってくれたほうがましだと、春峰は時折狂おしいほど思うのだった。
床を清めて、桶を拾い上げる。新たな水を汲んできて、あらためてからだを拭く。
そうしてやることがなくなり、春峰は牀にうつぶせになった。背中が熱を持っていた。服のうえから叩かれたせいか、裂けたりはしていないが、打撲がじんじんと熱く、服の下で膚が剥けているのだ。濡らした手巾を背に置こうと試みたが、不自由な手で絞るのにずいぶん苦闘してしまい、結局濡れた手巾をそのまま下着のうえに乗せた。
そっと目蓋を下すと、青浪が細くしなやかな竹を握りしめ、小さなこぶしを赤くさせている光景が頭に浮かんだ。娘の力で精いっぱいに振り下ろされる竹の、若々しく優雅でさえある感触。それは戦で与えられた野蛮な傷よりも苦しく、同時に甘美なものだった。そう感じる己を冷静に見るもうひとりの春峰は、ひたすらに情けないと自らを呪っている。
不在の年月か、あるいは醜く変わり果てた容貌のためか。そしていったいなにが変わってしまったのか、春峰自身も把握できぬまま……青浪の遊びに、彼はつきあっている。
「青い竹がいいわ。しなやかな竹。若くて細い子どもの竹がいい」
はしゃいだように言って、青浪は春峰に竹を伐らせた。鉈を振るって竹を伐るのは、帰還したばかりの春峰にはなかなか困難な仕事だった。そのうえ青浪は気まぐれで、やはりあちらの竹がよい、こちらの竹がよい、と春峰を連れまわすのだ。そうして選び抜かれた竹を握って、青浪は春峰の背に振り下ろす。
どんな感情も、意図も、彼女が愉しいかさえもわからぬまま。ただ春峰は打たれ、呻き、愉楽を味わっていた。きっとかつては、青浪が感じていたのであろう愉楽……きっとかつては、春峰が与えていたであろう愉楽を。
「青浪……」
いつまでも童女のように前髪を垂らして、小さな頭飾りをつけて。衣裳には春峰が理解しがたいほどのこだわりを見せるのに、彼女は髪に関してはとんと無神経だった。春峰はそれが我慢ならず、幾度となく丹や梔子に彼女の髪を気に掛けるように言い聞かせてはいるのだが。――婚礼となってもなお、彼女は髪を上げるつもりはないらしい。
(おまえに赤は似合わないと、おれはむかし言ったな)
青浪が婿を取る。
明日、麓の集落からやってくるという。婚礼をするとは思えなかった。祖先を祀りもしなければ、新年も祝うことのない家だ。春峰が半ば家を捨てるようにして戦役に出たのだって、そこに玉蘭の命令などはない。むしろ彼女であれば、皇帝のためでなく己のために働けと言うだろう。青浪が赤い衣裳を着るところも、どこの馬の骨とも知れぬおとこが彼女の紗を上げるところも、春峰は見たくはなかった。
同時に、はやく青浪がひとのものになればいい、と投げやりに思ってもいる。兄として、妹がはやく落ち着いてほしい。婚礼を控えて相当鬱憤を溜めているらしい青浪は、ここ数日常よりひどく春峰を扱った。もしもそれが止むのなら、と春峰は願わずにはおられないのだ。
(あの遊びがどれほど愉しくとも、おれはもう、嫌なのだ)
そう、暗示するように言い聞かせる。青浪を恋うてはいない。彼女は歴とした春峰の妹であり、その小さな足と小さな体と、童女のごとき無垢で愛らしい面貌は、春峰の誇りだ。もはや英俊だったかつての面影を失った春峰は、うつくしいかんばせの妹に、己に有り得たはずの先を託していた。
(おれは子を成せない。それに、この醜悪な面をしたおとこに嫁いでくるおんななどいない)
春峰の面貌に、毛ほどの関心も寄せない青浪を思う。
彼女の表情を汲みとる視力はもうない。よほど近くに顔を寄せれば話は違うだろうが、春峰は彼女を抱き上げる時でさえ、常に目を逸らした。間近で彼女を見、その表情にわずかの嫌悪でも見つけられたら、まだよい。
(だが、何も見つけられなかったら?)
(青浪が、おれにどんな価値も見出していないと知ったら? おれはすべての縁者を失う)
激しく動悸がして、春峰はぐっと歯を噛み締めた。
桂花の薄い香りが鼻先に漂い、彼は首を振った。夜が来る。背が熱い。
(きっと悪夢を見るだろう)
帰還してから、ろくに眠れたためしがなかった。薄い眠りと強烈な悪夢との繰り返しで、目覚めれば喉が涸れていることもままある。だがこの離れまで足を向けてくれるような優しさや慈しみといったものは、それが春峰に対してのものであるかぎり、この家には存在しなかった。
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